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20/4/19 2020春アニメ感想(1/2) かくしごと/遊戯王セブンス/シャドウバース/球詠

2020春アニメ感想

今期は精神的に余裕があり視聴アニメが多い。1話を見たアニメは

  1. かくしごと
  2. 遊戯王セブンス』
  3. 『シャドウバース』
  4. 『球詠』
  5. 『プリンセスコネクト!Re:Dive』
  6. かぐや様は告らせたい?』
  7. 『ギャルと恐竜』
  8. 乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』
  9. 『放課後ていぼう日誌』

の9本あり、簡単にファーストインプレッションを前後に分けて書こうと思う。ちなみにどれもまだ1話か2話までしか見てない(基本的にニコニコ視聴なので少し遅い)。

かくしごと

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かなり面白い。多分全話見ると思う。

単体の作品としてどうかというよりは、久米田康治が今更こういうベタな親子愛を描くことに関心がある。『絶望先生』までと比較して、全体的に『かくしごと』ではメタ意識が退潮してベタな感情模様が強調されている。

元々、久米田は『行け!!南国アイスホッケー部』後半から始まり『かってに改蔵』を経て『絶望先生』まで、自分の掲載誌やオタクジャンル、果ては自分の作品そのものまでも自己反省するメタポジションを描き続けてきた。
しかし、『せっかち伯爵と時間どろぼう』では「一年しか生きられないので時間を大切にする」という割とシリアスな基本設定が登場する。それは『かくしごと』における「娘を溺愛する父親」と同じだ。ここで言う「割とシリアス」というのは「茶化されない」という意味で、絶望先生は自分の自殺願望を茶化せたが、カクシ先生は自分の娘への愛を茶化せない(俺が見てないところでしてたらごめん)。キャラクターの設定がベタに真剣なもの、メタな嘲笑を許さないものに変わりつつある。
また、精神的に未熟な女子小学生キャラクターが集団で登場してくることにも同じ流れを見る。今までの久米田作品なら女子小学生は却って現実味の無いニヒルな態度を取る方が自然なように思うのだが、『かくしごと』では純粋に幼いキャラクターとして短絡的な行動を取っている。見た目通りの直截なキャラクターを描くことに対する「気恥ずかしさ」が無くなっているという印象を受ける(「気恥ずかしさ」とは、自分の行動のベタさを相対化して一歩メタな立場から見たときに生じる感情である)。

こうしたポジションの変化は、『スタジオパルプ』でメタ視点がその極致にまで達してしまったことを踏まえているのかもしれない。
『スタジオパルプ』はマイナー誌掲載で知名度もあまり高くないが、「今までの久米田作品のキャラクターは全て役者だった」という衝撃的なメタフィクションコメディだ。絶望先生も生徒たちも改造も羽美ちゃんもそういうキャラクターを演じていた別名の役者に過ぎず、本当はそんなキャラクターはいなかったのだ。もともと『改蔵』や『絶望先生』の最終話では夢オチ的なちゃぶ台返しを好んでいたが、それを徹底的に推し進めたものがキャラクター自体の否定である。

『スタジオパルプ』がメタ設定を限界まで加速させて一度全てを御破算にしたあと、今度は更地に改めてベタなものを再建してきているのが『かくしごと』なのかもしれない。

遊戯王セブンス

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かなり面白い。多分全話見ると思う。

カードゲーム史に残る新たな挑戦としてラッシュデュエルの立ち位置を定位しようとする強い意志が伝わってくる。
周知のように、ラッシュデュエルは決して新興カードゲームではなく遊戯王コンテンツが時代に即したルールを改めて創造したものだ。購買が分散するリスクを負ってまで「互換性のない類似カードゲームを作る」という商業的にもチャレンジングな試みの下、ルールを再創造する遊我とKONAMIカードゲーム事業がパラレルであることは言うまでもない。
また、ラッシュデュエルは直接的には旧遊戯王の乗り越えだが、実際の射程はもっと広い。実際、ラッシュデュエルが提示するラディカルなゲームルールにはMtGからシャドウバースに至るまで古今の人気カードゲームに対する問題意識を読み込める。デジタルカードゲームの普及・それに伴うプレイ感覚の変化・競技シーンのe-sports興行化など、カードゲーム界に激動が起きている中で覇権ポジションにいる遊戯王がアニメとカードの両面から革新を試みる極めて同時代的な作品として理解すべきだ。

遊我やKONAMIが強調するラッシュデュエルの特長は以下の二点に集約される。

・大量召喚:早い段階から一気に盛り上がれる
・大量ドロー:どこからでも逆転できる

いずれもカードゲームの基本理念に含まれる特徴ではあるが(盛り上がらないし逆転できないカードゲームなんて存在しない)、これらはプレイヤー目線というよりは興行化目線で強化されたコンセプトという印象を受ける。
つまり、早い段階から一気に盛り上がったり逆転があったりすると嬉しいのは、「カードゲームをプレイしているプレイヤーにとって」というよりは「興行として観戦している観客にとって」だろうということだ。例えば、「どこからでも逆転できる」というのはプレイヤーにとっては必ずしも嬉しいわけではない(いつでも逆転されてしまうことはプレイヤーが優勢を取るモチベーションの低下に繋がりかねない)。しかし、どちらのプレイヤーでもない観客にとっては、盤面は目まぐるしく動いた方がエキサイティングに決まっている。
このように見れば、ArcVが盛大に失敗した「興行化」というモチーフについてルールのバックアップを備えてリベンジしている作品と取ることもできる。

とりわけこのアニメが優れているのは、ゲーム展開の中で実際にラッシュデュエルが掲げる特長の必要性を描いていることだ。具体的に言えば、例えば「5枚ドロー」とは「逆転要素に欠ける」という既存カードゲームが持つ問題点の改善なのだった。それに対応して、アニメ内では「1枚ドローではとても足りず5枚引かなければ逆転できない」という描写をきちんとやっているのだ。
例えば、第1話では遊我が2回目のドローフェイズで解決策を求めて初めて5枚ドローを披露する。しかし、このドローではキーカードであるセブンスロード・マジシャンを引けない。引いたモンスターのうちからモンスター効果を用いて、手札コストを支払ってから追加ドローすることで初めてセブンスロード・マジシャンを引くことに成功する。
「通常ドローではキーカードを引かず、手札コストを要求するカード効果でようやく引く」という描写により、通常ドローのウェイトを下げて大量の手札を上手く扱う必要を描いている(質より量、5枚ドローの合理性)。
ただ、第1話で唯一不満だったのは、結局セブンスロード・マジシャンによる墓地送り効果で勝負が決したことだ。「デッキトップを墓地に送る」という効果でランダムに落ちたカードによって勝利が確定する展開は、デッキトップに全てを賭けるトップドローと大差がない。

しかし、この難点も第2話で明確に解決された。
第2話のデュエルでは、遊我はまたしてもセブンスロード・マジシャンの墓地送りに勝敗を賭けるも、それに失敗し、返しのターンできっちり咎められて捲られる。これがデッキトップに頼ったものの末路であり、やはりデッキトップは機能しないことがきちんと描かれているのだ。
更に凄いのは、デュエル展開をよく見ると、セブンスロード・マジシャンの効果に頼らずに確実に勝利する手段があったことだ。つまり、遊我はトップ墓地落としに頼らなければ勝っていたにも関わらず、カードゲームアニメの主人公として劇的な勝利を演出しようとしたが故に失敗して負けたのだ。この展開が従来のカードゲームアニメのトップ信仰に対するアンチテーゼでなくて何だろうか。

以上のように、遊戯王セブンスではラッシュデュエルの思想が明確化される共に、ゲーム展開を通じてカードゲームのシステムやカードゲームアニメにまでラディカルな問題提起を突き付けてきている。続きが楽しみだ。

シャドウバース

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面白くはなかった。二話以降も見るが、最終話まで見るかはわからない。

全体的に既存カードゲームアニメへのリスペクトが非常に強く、どこかで見たようなキャラクター・言動・バトルシステムで構成されている。低年齢ホビーアニメ路線そのものを含め、最大公約数的なアニメを作ろうという判断があったのかもしれない。

しかし、俺はシャドウバースには「デジタルカードゲームの王者」としてのアニメを期待していた。物理カードが存在しないカードゲームの日本サブカルチャーでの先駆者のアニメとして、既存カードゲームアニメと差別化したカードバトルをどのように描くのかが楽しみだった。
が、このアニメでは全体的に物理カードが存在するかのような描写が押し出されており、モンスターのソリッドビジョンや手札の配置を含めて何も新しいところがない。特に、物理的には何も引いていないのにドローの動作をするのはやりすぎだ。他のカードゲームアニメも近未来感を押し出すにあたり描写上は既に物理カードから離れつつあるのも逆風である。

また、ちょうど遊戯王セブンスと同じ時期に開始したというポジションが非常にまずい。
シャドウバースは既存カードゲームアニメの最大公約数的文法にこだわったため、(上で述べたように)既存カードゲームへの問題提起を行う立ち位置にある遊戯王セブンスが問題点として指摘した部分が全て直撃してしまっている。対立煽りをする気はないのだが、どうしてもシャドウバースと比較すると遊戯王セブンスの優位点がわかりやすくなってしまう(遊戯王セブンスが「王道へのアンチテーゼ」であり、シャドウバースが「王道」であるため)。

例えば、シャドウバースはマナコスト制でゲームの初速が遅い。遊戯王セブンスが特徴として掲げる「最初から盛り上がれる」に該当せず、もっとはっきり言えば「最初からは盛り上がれない」という反省が直撃する。
シャドウバースはカードゲーム全体の中では比較的ゲーム展開が早い方だが、それでもラッシュデュエルと比べるとかなり遅いのだ。実際、遊戯王セブンスでは僅か3ターン程度で決着するために省略無しで全てを描き切れた一方、シャドウバースでは放送時間枠に収まらない中盤戦はダイジェストで省略することになってしまった。

更に言えば、1ドローしかないシャドウバースのバトル展開がトップドロー頼りになっていることも遊戯王セブンスと比べるとどうしても見劣りしてしまう。
既に述べたように遊戯王セブンスではトップドローを否定する周到な描写を施しているのだが、逆にシャドウバースでは主人公のヒイロがフィニッシャーのなんとかドラゴンを引いてくるシーンは常にトップドローだ。そういうトップドローのご都合展開感とリアリティの無さをまさに指摘したのが遊戯王セブンスなわけで、シャドウバースの立つ瀬がない。

球詠

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面白くなかった。二話以降は見ない。
萌えオタクなので女の子が可愛ければ内容問わず見ていた可能性が高いが、キャラデザもそんなに好みではない。

競技系作品の冒頭にありがちな「ガチ勢とエンジョイ勢がどうやって折り合いを付けるのか」というモチーフには個人的に興味があり、何か新しい提案がないかどうか注目していることが多い。
しかし、球詠のように葛藤なく素朴なガチ勢側の論理が勝利しがちだ(「真剣であることは素晴らしい!」)。それは多様な利害を無視した閉鎖的で一面的な称揚に他ならず、そういう自明視される自己目的性にこそ問題意識を持ちたいと思っている。