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19/10/10 初代遊戯王と不良文化

・お題箱56

102.先日のGXについての記事、とても興味深く読ませて頂きました。もし宜しければ、他の遊戯王アニメシリーズについての総評(感想)も書いて頂きたいです。

ありがとうございます。遊戯王GXについての記事はこれ→ですね。
アニメシリーズについては、ArcVまでは全部見ているんですがVRAINSは見ていません。EMEmくらいを最後にリアルで遊戯王を引退して、デュエルパートが理解できなくなってしまったからです。話としては結構面白いことをやっていると思うので全部見てから回答しようと思ったんですが、視聴が進む気配がなくて諦めました。
GX以外に思うところがあるアニメということで、初代とArcVについて書こうと思います。長くなるので二回に分割します。

・初代遊戯王と不良文化 ←今回
・ArcVとデュエルの相対化 ←次回

初代遊戯王はシリーズのスタート地点として発明したものがあまりにも多すぎて語られるべきことは恐らく無限にあるんですが、あえて他であまり言われなさそうなことを選べば、「不良文化」との融合として遊戯王がスタートしたことについては元プレイヤーとしてかなり興味があります。
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元々原作ってTRPG編やカードバトル編(原作的にはM&W)が始まるまではほとんどチンピラ・犯罪者・不良の漫画でしたよね。近所にはびこる悪者たちを悪者の闇遊戯が成敗するという、『バットマン』のような悪vs悪という基本フォーマットを持っていました。そういう反社会的なイメージ、いかにも20世紀らしい反抗心に溢れた学生たちが登場するのって恐らく純粋に高橋和希の趣味も大きいんでしょうけど、「ゲームセンター」のイメージを引き継いでいたのかなとも思います。当時はネット対戦が普及していなかったですし、少なくとも遊戯王普及以後と比べてカードショップ文化も貧弱だったので、「若者同士の対人ゲームプレイ」というイメージの源泉がゲームセンターに求められ、当時不良の溜まり場だったゲームセンターのチンピラ的な雰囲気が遊戯王原作に流入したのではないでしょうか。
その後、遊戯王が子供向けホビーアニメとしての立場を狙うにあたって、チンピラ的なイメージとは真逆の道徳的イメージが押し出されるようになっていきます。GXはあからさまにクリーンで爽やかな子供向けアニメとしてスタートし、シャドウバースではないですが、GX開始当初には「遊戯王がコロコロ化した」という声を聞いた記憶があります。現在のカードゲームとしての遊戯王が持つ最も一般的なイメージは「小学生たちが公園でワチャワチャ遊ぶ子供向けゲーム」と断言してもいいでしょう(本当はe-sports化するちょっと前かも)。高校生にもなって遊戯王を遊ぶ息子に「そろそろ卒業しないとバカにされるわよ」と怒る親はいても、「煙草を吸う不良になるわよ」と怒る親はいません。遊戯王をプレイしている大人も、いい年をしてアニメを見ているような子供っぽいオタク層がメインです。

つまり遊戯王の持つイメージって二極化していて、一つは原作に由来する「アングラ的・チンピラ的・反社会的」というネガティブな闇のイメージ、もう一つはホビーアニメとしての側面に由来する「子供向け・道徳的・娯楽的」というポジティブな光のイメージです。
アニメ内容的にも受容的にも現在は明確に後者が優勢だと思います。5D'sのサテライト、ArcVのコモンズ、ZEXALのハッキングなどでアングラ的・スラム街的なイメージがたまに復活してくるものの、基本的には遊戯王は子供向けホビーアニメで異論は無いでしょう。

ただ、元々プレイヤーをやっていた印象として、いわゆる「ガチ勢」の世界ではチンピラ上がりみたいなやつが結構多かったというのも事実です。
カードって非常に換金性が高いという特徴があり、転売して儲けたり、シャークトレードで得したり、結構金の臭いがする世界なんですよね。特にまだ就職しておらず正規の収入が存在しない学生には、そういう不労所得が極めて魅力的に見えるところもあるかもしれません(当時の僕のことです)。貶めるつもりはありませんが、カード界隈はあらゆる意味でお金に厳しく、盗難が起きたり治安が悪かったり騙し騙されたりというところがかなりありました。プレイヤーにおいても、小学生たちが公園で遊ぶような光の側面と、金臭く治安の悪い闇の側面があったわけです。
もちろん、一部で観測できる治安の悪さを安易に原作の雰囲気と結び付けるのは早計ではあります。ただ単に社会的に未発達な人間=子供がモラルに欠けた行動を取るというだけの話で、そういう意味では、実は「不良っぽい」と「子供向け」というのは全く相反するのではなく、いずれも社会的に幼いだけなのかもしれません。あるいは、原作の雰囲気を規定した20世紀ゲームセンターを構成する不良人種と、現在の治安の悪い遊戯王プレイヤーを構成する不良人種は、同根の理由で生じて常に一定数いる層というだけなのかもしれません。もしくはもっと単純に、どこの世界にも半グレ野郎はいるというだけかもしれません。

それでも僕が「初代遊戯王と不良文化」について注目する理由は二つあります。
一つは、「ホビーアニメ・子供向け」イメージにおいてはあからさまにアニメからの影響を受けている人たちがいて、その現象が非常に興味深いからです。例えば、「カードを捨てると怒る人」っていうのがTwitterにはかなりいます。これって不動遊星とかが言ってた「カードはゴミじゃない」っていう発言を真に受けているんですが、ホビーアニメの倫理観が現実でも流通しているというのはかなりの異常事態です。似たような事例として、海外でも『スタートレック』の世界観を愛する「トレッキー」と呼ばれるファンダムがあったりはするんですが、彼らだって「なりきりごっこ」であるという自覚はあるので、『スタートレック』の倫理観を現実に持ち込むことはありません。それと比べても、ホビーアニメ界隈において架空の規範が実際に通用している状態は極めて異様で、僕は宗教学のゼミで疑似宗教のテーマとして提案したこともあるくらいです。
それと同じように、一部のYPたちが持つ不良的な雰囲気は実は原作によって与えられたところがあるんじゃないかということが気になっています。

例えばこういう原作で垣間見える反社会性って、元プレイヤーの視点から見て、かつて遊戯王界隈にあったような気がする反モラル的な雰囲気を過剰でも過少でもなく厳密に再現していてなんだかすごくビックリするんですよね。時系列的には高橋和希がこれを描いたあとに遊戯王プレイヤーが発生したので、こういう描写が文化の進行を規定したのではないかとつい考えてしまいます。といっても、それを証明するのには恐らく大掛かりな社会調査か何かが必要になるので、イエスともノーとも言える日は永遠に来ないと思いますが。

もう一つは、e-sportsの発展に伴うゲームシーン全般のクリーン化に対するバックラッシュとして、あえてダーティな側面を記憶しておきたいからです。
2019年9月20日、シャドウバースが「プレイヤーリスペクト宣言」→を発行しました。これは遊戯王が持っていた二つの側面で言うと、チンピラ的な側面から道徳的な側面への転向を意味します(小学校で教育されるレベルの規範性への回帰という点では、「子供向け」への転向でもあります)。こうした立場の正当化は、メインカルチャーとしての地位を獲得したいe-sportsの興行化に伴って要請される自然な流れです。シャドウバースはそれを明確に言語化しただけで、他の興行ゲームも多かれ少なかれ同じことは考えていることでしょう。
しかし、こうした「ゲームの道徳化」に伴って放棄されようとしている「不良文化」としての側面は、葬るべきだけの汚点ではなく、確かに一定の役割を担っていたと思います。「汚いゲーム環境の役割」については、格闘ゲームでゲームセンターに出自を持ちSNS普及以前の2ch時代から名を上げてきた古参プレイヤーが明確に言及しています。


これはアンチe-sports派の咆哮で、ゲームシーンのクリーン化によって消え去るダークサイドがもたらす価値が凝縮されています。e-sports時代だからこそ共有されるべきテキストだと思います。
正直言って僕は彼らほどゲームに入れ込んでいたわけではないので、「カードショップが無ければ死んでいた」プレイヤーは思い浮かびませんが、カードショップが正規の学校教育ではカバーできない教育の受け皿を担ってきたというのはかなりの実感を伴います。今にして思えば、カードショップの不良的側面から学んできたことは多く、例えば確率という概念の限界、期待値の無意味さ、ニーチェ的反道徳、倫理の環境依存性など、そういうものをもたらす価値が確かにあったこと、それは元々は初代遊戯王と結合した不良文化だったことはあまり忘れたくないと思います。

なんかアニメの話あんまり関係なかったですね。次回のArcV編ではもうちょっとアニメと関係のある話をします。