LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

23/9/18 『死亡遊戯で飯を食う。』が面白い 令和のデスゲームコンテンツ

死亡遊戯で飯を食う。』が面白い

フォロワーのふぁぼん氏からお題箱でオススメされた『死亡遊戯で飯を食う。』が面白すぎたので最近ラノベ熱が再燃している。

目を覚ますと、私は見知らぬ洋館にいた。
メイド服を着せられて、豪華なベッドに寝かされていた。

寝室を出て、廊下を歩いた。
食堂の扉を開けると、そこには五人の人間がいた。
みな一様に、私と同じくメイド服を着せられていて、少女だった。

〈ゲーム〉の始まりだった。
吹き矢、丸鋸、密室に手錠、そして凶器の数々。人間をあの世にいざなうもので満ち満ちている、そこは〈ゴーストハウス〉。
館に仕掛けられたトラップのすべてをくぐり抜けて脱出するしか、私たちの生き残る道はなかった。絶望的な現実に、少女たちは顔色を悪くする――

――ただ一人、私だけを除いて。

なぜかって? そりゃあ――私はこれが初めてじゃないから。

プレイヤーネーム、幽鬼【ユウキ】。十七歳。
自分で言うのもなんだけど、殺人ゲームのプロフェッショナル。メイド服を着て死の館から脱出を図ったり、バニーガール姿でほかのプレイヤーと殺し合ったり、そんなことをして得た賞金で生活している人間。

どうかしてるとお思いですか?
私もそう思います。
だけど、そういう人間がこの世にはいるんですよ。
おととい励まし合った仲間が、今日は敵になる。
油断すれば後ろから刺され、万全を尽くしたとしても命を落とすことがある――
そんな、死亡遊戯で飯を食う、少女が。

とりあえずまず何よりも第一に、主人公が萌え(死語)なのがとても良かった(あと男が出ない)。白髪、クール、オッドアイ、殺人職、ティーンエイジャー、絵柄もめちゃめちゃイイネ! 俺はライトノベルはキャラクター小説だと思っている派閥なので、キャラを好きになるのが一番話が早い。

補足476:昨今用いられる「キャラクター小説」というワードは、もともと大塚英志私小説の延長として定義した本来の意味を著しく逸脱している……というような指摘を最近Twitterで見た。確かにそれには同意するが、「キャラクターの魅力が牽引する小説」という誤用の方の意味にも大きな需要があり、それを示す単語として「キャラクター小説」なるワードが一番しっくり来てしまう事情には酌量の余地がある。そういう使い方をするときに「大塚英志によれば、」という誤った引用さえ行わなければ、語源が異なる意味を二つ持った単語として扱うことに大きな問題はないと考える。

 

マネタイズされるデスゲーム

死亡遊戯』はタイトル通りのデスゲーム作品だが、最大の特徴は主人公を含むプレイヤーたちが仕事としてデスゲームに参加しているところだ。

ふつうデスゲームの参加動機と言えば「すごい優勝賞品を手に入れるため(主催者が超常的な存在がち)」か「無理やり参加させられて生き残るため(主催者が邪悪な存在がち)」のどちらかと相場が決まっているが、『死亡遊戯』はどちらでもない。

クリア報酬として三百万円くらいの、大金ではあるが命を懸けるにしては微妙な額が提示されており、参加は自由。普通に働くより死亡遊戯で食っていく方が向いていると思った人たちがフリーランスのプレイヤーとして継続的に参加することになる。

補足477:なお作中では「デスゲーム」という単語は一度も使われておらず、一貫して「殺人ゲーム」か単に「ゲーム」の表記になっている。ただ内容的には必ずしも殺人するゲームというわけでもなく、脱出や対戦や協力も含んでいるため、実態としてはやはり「デスゲーム」がしっくり来る。

デスゲームを主催している「運営」も、単にデスゲームをマネタイズする営利組織に過ぎないらしい。デスゲームを見世物の興行として得る収入から、運営費用とプレイヤーへの賞金を引いた収支がプラスというだけだ。

プレイヤーと運営は共生関係にあり、運営側はプレイヤーにゲームに参加し続けてもらうために治療やサポートを手厚く行うし、プレイヤー側も生計を立てるためのゲームを提供してくれる運営を信頼している。YoutubeとYoutuberの関係に近い、「好きなことで生きていく」を実現する令和らしいプラットフォームとしてデスゲームがあるのだ。

デスゲームはマネタイズ目的の興行でしかないことをプレイヤーも最初から了解しているため、ゲーム中の戦略もその前提で立てられるのが面白いところだ。つまり、デスゲームの最中にも経験豊富なプレイヤーによる「メタ読み」が横行している。カメラに映したときに面白くなりそうなポイントが警戒されたり、ゲーム間で使い回されているギミックへの知見や経験があったりする。

ここで、ある見方をすれば主人公たちプレイヤーは賞金で釣られて見世物として殺しあわされている哀れな被害者でもあり得るが、『死亡遊戯』にその手の悲壮感はあまりない(たまに若干ある)。「デスゲームを見世物として消費する側の存在」はよく語られる割には描写としては完全にオミットされており、作中に描かれるのはデスゲームに参加している多くのプレイヤーだけだ。

主人公を含むプレイヤーは、自発的にデスゲームに参加している時点でだいたい「自分はデスゲームに向いている」「デスゲームで食っていきたい」「デスゲームを頑張りたい」と思っている人たちだから、むしろ地に足の付いたポジティブさが通底している。クリア回数を重ねることを人生の目標としたり、ゲームの中での自己実現を目指して頑張ったりする様子はスポ根に近いものすらある。そういうキャラクターの描き方は、一つのゲームではなく複数回のゲームを跨いで展開することを前提としたものだ。

ちなみに、悲壮感が出過ぎないように管理するためか、デスゲームものでありながら直接的なゴア描写が意図して強く抑えられているのはかなり特徴的なポイントだ。プレイヤーは人体改造によって出血すらしない身体になっているし、人体を切断することが多い割には切断描写自体はスキップされる傾向がある。

 

デスゲームの黒幕って必要?

デスゲームの一つ一つをドラマチックな悲劇として描くのではなく、むしろデスゲームの繰り返しをシステマチックなライフワークとして描く目線。少し主語が大きくなるが、こういう描き方は「無駄に劇的な結末を追い求めず、もっと素朴な意味で一番楽しい過程を描く」という合目的的な流れの中にあると感じるものだ。

例えば、デジタルゲームで覚えは無いだろうか。序盤から中盤にかけて装備を色々試したりアイテムをやりくりしたりしてゲームシステムを把握しているときが一番面白くて、いざラスボスに辿り着いて何か劇的なムービーが流れている頃にはもうあまり関心が無くなっているということは。ゲームが終わったときに覚えているのは世界の真相でなく、色々考えながらアイテムを錬成したことばかりだ(ちなみに俺はいまティアキンでそんな感じになっている)。

最近の異世界系作品でも同じように感じることがある。つまり、異世界系作品は「序~中盤の楽しさ」に特化しているように感じることがある。追放系でも一芸系でもいいが、プロローグに身一つで放り出されたところから色々なものを回復していく地に足の付いた過程が面白いのであって、その先にある世界の敵がどうとかいう話は実はあまり興味がない。大きな目的がある大冒険を紡ぐのではなく、むしろその過程にある何となく楽しいところをつまみ食いしようとするから、一つの作品を深追いするのではなく無限に供給される似たようなコンテンツを並列的に摂取するのが最適な消費行動になる。

もともと、デスゲームものはそういう態度と親和性の高いジャンルではあった。デスゲームは道中で誰がどう戦うのかわからないところ、誰が死ぬのか予想も付かないところ、誰かが誰かを裏切る思惑が面白いのであって、「最終的なデスゲームの真相」はどちらかと言えばウェイトが軽い。デスゲームで一番面白いのは殺し合う道中で色々起こる過程であり、黒幕の目的とか最終的に生き残ったのは誰かみたいなことだけを聞いても全然面白くない。

「じゃあもうデスゲームの黒幕なんかいなくても、営利組織の運営で別にいいんじゃない?」と気付いてしまったのが『死亡遊戯』なのだと思う。プレイヤーの目的は賞金、運営側の陰謀は特になし。壮大な黒幕という無駄なノイズをオミットすることによって、主人公を含むプレイヤーたちは黒幕を追うことから解放される。そうやって余ったエネルギーはもっと素朴にデスゲームを頑張ることに回して、卑近で共感しやすいクリア回数の目標を持つようになる。デスゲームもそういう楽しみ方でいいのだ。

 

二次創作適性が高い

死亡遊戯』に激ハマりすぎて数年ぶりに二次創作を書いた。気が向いたら読んでほしい。

www.pixiv.net

〈スクラップビル〉をクリアした数週間後。
深い夜の森で目覚めた私・幽鬼の目の前にはドッペルゲンガーの幽鬼がいた。
容姿も言動も同じ偽幽鬼に困惑する死装束の私。何だこいつ、どうして私を真似るんだ。運営が仕込んだNPCか、それともプレイヤーか。
謎は解けぬうちに肝試しゲームがスタートし、私はドッペルゲンガーと二人ペアを組んで協力することになる。闇に隠された本当のルールとは、それで割と優秀なこいつの正体は……?
私たちは今日も――死亡遊戯で飯を食う。

補足478:原作2巻前半のちょっと後の話なので、原作を2巻までは読んでから読んだ方がいい。ちなみにいま期間限定キャンペーンをやっていて、電子書籍版は3巻まで半額で買える(いつまでやっているかは不明)。

補足479:一応MF文庫Jの二次創作ガイドラインを確認しようとしたが特に存在していなかった。収入も発生していないし、公式アカウントからもファボされたため、Twitterに上がるイラストと同じくらいの温度感で極めてホワイト寄りという認識ではある。

書きながら思ったが、『死亡遊戯』は二次創作が異様にやりやすい。主人公は職業プレイヤーとして大量のデスゲームに参加しているが、作中で描かれていないデスゲーム参加回の方が圧倒的に多いからだ。うっすら示唆されるだけの回や何も触れられない回が大量に余っているため、原作で飛ばされた回のデスゲームを勝手に書ける(俺は15回目のデスゲームを勝手に書いた)。しかもデスゲームという性質上、登場したキャラがその回限りで死ぬことが非常に多いため、オリキャラを投入しても全く違和感がない。

あまりにも二次創作しやすいのでそういうファン活動を念頭に入れているのかもしれないとも思ったが、俺が思っているだけかもしれない。いま二次創作テキストを投稿できる大手プラットフォームはpixivくらいしかないはずだが(最近は本格的な商業化に伴って色々厳しくなっているところが多い)、言うて俺一人しか書いていない。イラストの方も1桁しかない上に半分以上は公式イラストの掲載で、もう少し盛り上がってほしいところだ。

コミック化はもうしているので(作画がかなり良い→)、このままアニメ化まで走ってくれると嬉しい。MF文庫J側としても作者アカウントとは別に公式Twitterが存在したり、文庫全体のキャンペーンにも顔を出したりするなど、看板候補の一つくらいの感じでそこそこ推しているようではある。

 

余波でラノベ熱が再燃して20冊くらい読んだ話とか、他のラノベの感想も書こうと思っていたが、気付けば『死亡遊戯』の話だけでもうだいぶ書いたのでそれはまた別の機会に……