LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

20/7/12 『プリコネ Re:Dive』の感想 結局、誰が何を忘れて誰に救われた?

 ・『プリコネ Re:Dive』の感想

147.プリコネアニメにおける主人公の扱い方について(あるいはプリコネアニメ全般でも)、何か感想 があればお聞きしたいです

プリコネR面白かったですが、これだけバチバチ萌えアニメで好きなキャラが特にいないのは結構珍しいです。強いて言えばエリコですが、ヤンデレなところはあまり好きではありません。

主人公(騎士くん)の根底に明らかな反マチズモがあるよねということはファーストインプレッションでも書きました。

saize-lw.hatenablog.com

記憶障害(≒知的障害)が騎士くんから男らしさを抜き取って、フェミニンな(という表現には問題がありますが……)萌えキャラたらしめているのが見事だということは既に書いた通りです。

補足307:内容や世界設定がよく似ていて何かと引き合いに出される『このすば』のカズマと騎士くんの比較は興味深いところです。一見するとカズマと騎士くんは性欲の持ち方に関して真逆のキャラクターですが、それでも彼らが共通しているのは「ハーレム状態であるにも関わらず恋愛関係から一定の距離を置いていること」です。仲間たちから男だと認識されていなさそうな騎士くんは言わずもがなですが、カズマの方は逆に女性ヒロインのことを男友達だと思っている節があります。カズマは騎士くんと違って少年らしい性欲をきちんと持っていてそれが友人であるはずの仲間たちに発動してしまうことに対して一定の葛藤があるのですが、いずれにせよそれは純粋な肉欲であって恋愛にかかる承認欲求や所有欲ではありません。カズマはダクネスでオナニーはするけどキスはしないという一線があります。欲望自体が不在である状態と、自覚された欲望を抑え込むべく奮闘している状態ってどっちが倫理的だと思いますか?

ただ、最終話では騎士くんが(部分的に?)記憶を取り戻し、「仲間は僕が守る」という非常に男らしい台詞を発するようになります。また、プリンセスナイトとしてバフをかけつつも、コッコロがバッファーに回って騎士くんがラスボスを斬るという形で最終戦が決着しました。

f:id:saize_lw:20200712111823j:plain

僕はプリコネのユニークな点の一つは男性がバッファーに回ってヒロインが戦うという転倒的な構図だと感じていたので、正直なところ最終話のこの流れはあまり評価できません。
ただ、かといって騎士くんの記憶回復によってヒロインとの関係が男女関係として再定義されたのかというとそういうわけでもなく、むしろそれを避ける仕掛けが慎重に施されています。

まず終盤で初めて提示されるのは、騎士くんが「忘れてしまった」人間であるのに対し、ペコリーヌが「忘れられてしまった」人間であることです。「忘却」というキーモチーフに対して象徴的に加害者サイドにいるのが騎士くん、被害者サイドにいるのがペコリーヌという鏡写しの構図が伺えます。
既に述べた通り騎士くんが「思い出す」ことによって最終戦は決着するわけですが、それによって騎士くんとペコリーヌの間の加害-被害関係が解決するのかと言うと、そういうわけでもないんですよね。最終話を最も綺麗に収拾する教科書的な脚本は騎士くんがペコリーヌに「今まで忘れててごめん」的なことを言って、ペコリーヌが「思い出してくれて嬉しい」的なことを言うハッピーエンドだと思うのですが、そういう話ではない。
少なくとも設定上でそうならなかった理由は単純で、単に忘却にかかる問題はそれぞれ独立に発生しているからです。騎士くんが忘れていたのはペコリーヌではないし(彼が主に忘れていたのはアニメでは登場しなかったユイ)、ペコリーヌが忘れないでほしかったのは騎士くんではありません(彼女が忘れないでほしかったのは両親)。更に言えば騎士くんとペコリーヌは問題の解決方法も真逆です。それぞれが欠落を補完する方法は、騎士くんは過去を思い出すこと、ペコリーヌは未来を充実させることでした。
実際、騎士くんの記憶回復という非常に重要なはずのイベントは美食殿から隔離された空間で名前もよくわからないぽっと出のお姉さんと行われました。合流後も騎士くんが美食殿の仲間たちに何を思い出して何を伝えたのかはあまり描写されていませんし、視聴者にも判然としません。

象徴的には主人公とヒロインの記憶問題を対として提示しておきながら、回復過程を切断する捻れた構図は、僕の素朴な印象では、やっぱり非常に倫理的だなと思います。主人公とヒロインの、まあはっきり言えば、男と女の力関係が共犯的に補完し合うのではなく、そもそもそれらは独立だよねという切り分けを感じるからです。
そもそも伝統的なゼロ年代批評(笑)を引けば、エロゲー主人公の記憶が曖昧であることはエロゲーマーが複数のルートを辿ることと対応しています。エロゲーマーは色々な女性キャラクターと次々に疑似的な恋愛関係を結んでいくわけですが、その過程で各キャラと誠実に向き合っていると「さっきあのキャラと永遠の愛を誓ったのに、いま他のキャラに愛を囁いているのはどうなんだ」ということになってしまいます。だからこそ、ゲームをリスタートして別のルートを始めるたびにプレイヤーと主人公は記憶をリセットするわけです。
プリコネRはコンテンツの成り立ち上、そういう文脈での現実とゲームでの記憶フォーマットのリンクが明確に背景にあります。プリコネRの前身であるプリコネ(無印)は現実世界で実際にサービスが終了した=プレイヤーがヒロインたちのことを忘れてしまったという事実が、ゲーム内では騎士くんの記憶を失わせているわけですから。現実世界では「サービスを終わらせた消費者」と「サービスを終わらせられたキャラクターたち」の間に加害と被害の関係があって、それが設定上は「忘れてしまった騎士くん」と「忘れられてしまったヒロインたち」として変奏されている基本線があります。
では、「騎士くん=我々は彼女たちを思い出してあげることで彼女らに贖罪する」ということで一件落着かというと、それもそんなに好ましくありません。そもそも、思い出して「あげる」という表現はこちらにプライオリティがある前提を含意しています。思い出して「あげた」ところでまた忘れる権利がこちらにあるならばそれは問題の解決になっていませんし、加害者の贖罪は被害者に寛恕を強いることと裏表です。そういう贖罪-寛恕関係の寄る辺なさを踏まえると、忘れられてしまったペコリーヌが「騎士くんに思い出されること(贖罪を寛恕すること)」によってではなく、「自ら旅して仲間を得ること(贖罪も寛恕も忘れること)」で自主的に回復したのは非常に倫理的だなと思うわけです。

とはいえ、それなりに引っかかるのは最終話で騎士くんがペコリーヌを抱きしめなかった代わりに、コッコロがペコリーヌを抱きしめたことです。

f:id:saize_lw:20200712113443j:plain

コッコロは「忘却」という問題からは一定の距離を取っています。少なくとも、コッコロは忘却の贖罪を寛恕するという立場ではありません。むしろ「都合の良い女の究極」として美食殿を円滑に回すことにより、そういった問題を緩和する緩衝材の役割がありました。具体的に言えば、騎士くんの忘却問題がそこまでシリアスな問題を招来せずに一貫してコメディとして処理できたのはコッコロの献身のおかげということです。
つまり、忘却問題が贖罪や寛恕というフェイズに至る前に、騎士くんとペコリーヌを救ったストッパー的な救済装置がコッコロです。これは見方を変えれば、独立されて扱われていたはずの騎士くんとペコリーヌの問題を統合し(てしまっ)たのがコッコロの「母性」であるとも言えます。
となれば、「母性」とは「寛恕」の強化版に過ぎないのだから、コッコロの存在によって贖罪-寛恕という対は温存されたのではないかという見方が最も穏当ではあるとは思います。結局、脱マチズモが母性のディストピアに回収されるというありきたりな構図を逃れられなかった?

とはいえ、その指摘はいつでもできるので、今はあえて「コッコロが寛恕側であるはずのペコリーヌをも救済した」という事実と、騎士くんの問題とペコリーヌの問題が慎重に切り分けられていたことに注目しておきたい気持ちがあります。つまりコッコロの母性は贖罪-寛恕の対を一つ上のレイヤーで止揚するものであり、それ故に騎士くんとペコリーヌを同じやり方で救えたのではないかということです。騎士くんを救ったことはたかだか特殊例の一つに過ぎず、もっと一般化可能で広範な能力が現代オタク文化的な母性の中にあるのではないかという方向で擁護を試みることはできるかもしれません。

まあ、僕はこの「バブみ文化」は全く好きではないのでそんなにコミットする意欲はないですが、この文化がまだもう少し続きそうなことと、後から振り返ってもコッコロというキャラクターが一つのメルクマールになりそうなことを考えれば、そうやって無理筋な擁護の可能性を残しておくのは無駄なことではないでしょう。