メディア別リスト
書籍(4冊)
筑駒の研究
分析美学入門
新版 論理トレーニング
作り方を作る
映画(2本)
エコール
エリジウム
資格(1個)
情報処理安全確保支援士(未登録)
良かった順リスト
人生に残るコンテンツ
(特になし)
消費して良かったコンテンツ
新版 論理トレーニング
分析美学入門
作り方を作る
情報処理安全確保支援士(未登録)
消費して損はなかったコンテンツ
筑駒の研究
エコール
たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ
エリジウム
以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ
(特になし)
ピックアップ
情報処理安全確保支援士(未登録)
使う予定は特にないが取得。合格体験記は以下。
saize-lw.hatenablog.com士業と同じで「情報処理安全確保支援士」を名乗るためには試験合格後に大金を支払って公的な登録手続きを行う必要があり(でも士業と違って独占業務はない)、登録なしで肩書きを騙ると厳密には違法なのでそのケアで一応(未登録)とわざわざ付している。
つい先日、情報処理安全確保支援士を含めたIPA全資格試験がPBTからCBTに移行することが発表された。
これは理系資格界隈における最大のフェスが消滅したようなもので、試験自体が好きな層としてはけっこう悲しい歴史の転換点ではある。あと高度資格全般の価値が若干下がるのもやや萎えている。\ 💻来年度からCBT方式に移行予定 /
— IPA(情報処理推進機構) (@IPAjp) 2025年8月12日
ペーパー方式で実施していた応用情報技術者試験、高度試験、 #情報処理安全確保支援士試験 を来年度(2026年度)からCBT方式での実施に移行予定です。
👉https://t.co/BekTbxAeY1#情報処理技術者試験
新版 論理トレーニング
良かったので単独記事を書いたら若干伸びた。
saize-lw.hatenablog.comblog.hatenablog.com他人にオススメする本としては人生に残り得るコンテンツだが、自分自身としては概ね既知の確認ではあって、人生を変えるレベルの学びがあったというほどでもなかったので消費して良かった程度にしている。
筑駒の研究
単独記事を書いた。俺はOBなのでそこそこ面白かったが、一般的な学びはそんなにないので志望者とか強い関心がある人以外は読まなくていい本ではある。
saize-lw.hatenablog.com
作り方を作る
横浜美術館でやっていた佐藤雅彦展の図録というか本人解説。展示がかなり面白かったのでその場で買って帰った。yokohama.art.museum無駄に有給を取って暇だったので「なんかピタゴラスイッチの人が個展やってるらしい」くらいの認識で見に行ったのだが、人生でなんとなく印象に残っている様々なコンテンツが佐藤雅彦の手によることを初めて知ってかなり驚いた。ここどこ!? pic.twitter.com/VJIHncg7p6
— LW (@lw_ru) 2025年7月7日
具体的には「バザールでござーる」とか「だんご3兄弟」がそれで、どれも時代に依存しない堅牢さを持っているので一過性にならずにやたら頭に残る。実際、佐藤が30年以上も前に作った作品をいま見ても全く見劣りせず、例えばこのCMが1989年というのは俄かには信じがたい。
www.youtube.com
「作り方を作る」というタイトルでまさに示されている、「クリエイティブの内容を捨象して一般化した形式を抽出する」というスタイルが東大to電通というキャリアから生じてきたことはかなり腑に落ちる。
一般化とは科学における最大の前提にして奥義であり、例えば古典物理はこの世のあらゆる物体から色や大きさを捨てて質点とみなすことで発展した。そういう学術的に培った土壌があった上で、電通の広告制作としてスポンサーからの要求に答えるためのクリエイティブを遂行することによって、自意識のこだわりを組み込むことなく形式に特化したスタイルを洗練できたのだろう。
電通の仕事は心から望んだわけでもなかったことは本の中でも語られているが、たまたまクリエイティビティの領域にクリエイティビティを排除した考え方を持ち込むという矛盾したキャリアパスが一人の天才を覚醒させたのかもしれない。
補足595:芸術に詳しくない俺が知る限り、フロクロさんが佐藤雅彦に似た創作スタイルをやっている唯一の人間なので「似てるな~」と思いながら展示を見ていたのだが(そこでしばらくフロクロさんのことを考えた時間があったのでちょっと前の記事の補足で例として名前が出てきた→■)、もともと人生で最大の影響を受けたと断言するほどの佐藤雅彦フォロワーだったらしい。それはそうか。 7月26日発売の『ユリイカ2025年8月号 特集=佐藤雅彦』にて、エッセイを寄稿させていただきました。 佐藤雅彦は私の人生の中でもっとも影響を受けた人物と断言できるので、今回の寄稿も大変に光栄な仕事でした……。
思い切って私の個人史に引き付けつつ、私が幼少から現在までに佐藤雅彦から受けた影響と、佐藤雅彦の持つ教育的な伝え方の手つきについて書きました。ぜひどうぞ。https://t.co/s1rwESS9pD pic.twitter.com/U5MxyVgStK
佐藤雅彦について書くとなると必然的に人生を振り返ることにもなり、私の制作の姿勢を整理する機会ともなりました。
表紙もとてもかっこいい……ぜひお近くの書店でお買い求めください。
この本のタイトルが「作り方を作る」であって「作り方の作り方」ではないことは注目に値する。
つまり展示も含めて彼が一般化して提供しているのは彼が発見した「作り方」に過ぎず、「作り方の作り方」という一段上のレイヤーについて語っているわけではない。彼が作ったCMの作り方を真似て過去の佐藤雅彦っぽい作品を作ることは可能だが、彼が作るだろうCMの作り方自体を作って未来の佐藤雅彦っぽい作品を作ることは依然としてできない。
やや言葉遊びっぽくてわかりにくいので別の比喩を持ち込むと、これは自然科学で言う発見に似ている。
林檎が木から落ちる様子を見たニュートンが重力を発見してからはそこで考案された重力を用いて誰もが落下運動について語れるようになった。しかし最初の木から落ちる林檎を見て重力を着想するステップ、つまり重力のような一般法則を発見する閃きは決して誰にでもできることではない。だから単純な法則でもそれを発見した者の名前は歴史に残るのだ。
誰かが発見した方法論を後追いのフォロワーが真似ることは容易である一方(そもそもそれが一般化された方法論の意義でもある)、最初の方法論自体を作る部分はシステム化されないし極めて難しい。後者こそがニュートンによる重力の発見であり、佐藤雅彦によるルールやトーンの発見でもある。
実際、「作り方」が極めてシステマチックに説明されるのに対して、「作り方の作り方」は天啓のように降りてくることが多いようだ(一応、良いと思った作品を収集して共通点を見出すというやり方も紹介されてはいるが)。
とはいえ、現在は研究室を持っているということはそれこそ学問に近い形で本質的な知見を一般化しているのではないかと思うし、もし次があるとしたらそういうレイヤーがもう一つ上の作り方について是非知りたいところだ。
分析美学入門
久々に分析哲学の本を読んでぼちぼち面白かった。タイトルこそ『分析美学入門』だが、内容は美学と芸術学の二本立てになっている(つまり芸術学は美学に還元されないという立場を取っている)。
美学と芸術学は字面の雰囲気こそ似ているがはっきり別物として分けられる、というのがまず最初の学びではある。確かに芸術以外にも美しいものは色々あるし、芸術だからといって美しいとは限らない。それはそう。
その区別に最適な事例として自然鑑賞が取り上げられるのはわかりやすい。我々は自然を見て美しいと感じることが多いが、自然には作者とか文脈とかいう芸術絡みの論点が基本ない。だから芸術を一旦度外視して美に絞って議論するための題材として扱いやすいのだ。
美学パートでは主に「美的なものとは何か」という根本的な議論が展開される。
メタ倫理学と同様に実在を巡る不毛な議論が色々ありつつも、最終的には「美的経験をベースにする」という違和感のない方向性に落ち着いていて安心した。常識的に考えて、美的なものとは主観的な経験によるものであって人間がいないところに存在できる概念ではないだろう。
とはいえ、具体的な美的経験の定義として提出される「最小説」なる結論はやや醜い。一応丸写ししておくと、最小説によれば美的経験とは「対象の形式、質、意味ある特徴などに、それらを識別するような態度で、そして、それら自体のために、もしくはまさにその経験に内在的な報酬のために、注意を向けることによって、もたらされる経験」のことらしい。
こういう様々な反論に完全対応するために増築を繰り返して九龍城みたいになった定義は稀によくあるもので、分析哲学の悪いところが存分に出ているように見える。コントロールデッキを握るカードゲーマーが全対面に対して勝ち筋を残すためにシルバーバレット用の変なピンポイント対策カードを大量搭載して平均勝率が下がっていく現象に似ている。
普遍的に正しい理論を打ち立てたい学者としては様々な説を織り込んだ選言的な定義を採用しなければならない事情はわかるが、学者ではない一個人としては選言の中から一部を抜き出したもので差し支えない。一旦ショーケースを提示しておいて状況に応じてどれかを利用すればよいという汲み取り方でよければ実用的には適切であるとも言える。
個人的にはここまでキメラ化した定義を持ち出さなくても「対象志向の快」というアイデアだけで十分に納得できるが、いずれにせよ、美的経験というものがよく考えると色々なパターンがあって複合的な総称なのかもしれないというのは一つ学びではあった。
芸術学パートも「芸術とはなにか」という議論からスタートするが、そのモチベーションは外野からすると鼻白むものであることは否めない。
というのも、芸術の定義が難しい理由として「最近はデュシャンを筆頭に訳わかんねえ現代アートがたくさん登場しているから再現や美による直感的な定義が通用しなくなっているのだ」というようなことが説明されるが、そもそも訳わかんねえ営みを勝手に芸術扱いして勝手に自爆しているのは現代芸術界隈の楽屋事情に過ぎないように感じるからだ。
しかしその「身内ネタが暴走しすぎて訳わかんなくなってます」という状況説明をそのまま最有力な芸術の本性として採用していることには感動した。要するに芸術という営みは芸術界隈内での制度や歴史によってなんとなく括られているに過ぎず、具体的な内実は変化し続けていて定義できない、という説明は非常に腑に落ちるし誤魔化しがなくて好感度が高い。「アートワールド」とかいう身も蓋もなさすぎて自然科学では有り得ないアイデアを自覚的に持ち込めるのは決して人文学の限界ではなく勝利であると見做したい。
それはまともな定義を諦めることでもあるのだが、それでしか説明できないことはそれで説明するしかない。実際、逆張りを含む無目的な運動を捉える考え方としては応用の幅も広そうだ。たぶん子供たちによる公園での遊びなどもそうやって継承されているのだろう。
そのような芸術の本性に関する考え方を含めて、芸術の価値に関してもはっきり決まった結論を求める本質主義的なやり方は近年では減退しているらしい。特有で唯一の価値があるのではなく、十分でも必要でもない色々な価値があるという考え方はやはり門外漢にとっては都合が良くて理解しやすい。
とりわけ俺が芸術に求めているものに最も近いのは認識的価値という考え方だ。俺は芸術の鑑賞を通じて知的・知覚的・想像的能力を向上させたいと思っているし、工学部出身なので現実的な効用があることは単純に好ましい。
芸術学については他にも地に足のついた細かいトピックが色々触れられていてぼちぼち楽しめた。
例えば「解釈と意図の関係」「フィクションとは何か」「芸術とはどのような種類の対象か」といった議論はその辺のオタクでも一度くらいは考えるような話題だし、今後AIを扱う際に活用できそうな論点も多い(例:AIで制作された作品を解釈するにあたって素朴な意図主義と仮説的意図主義のどちらを採用するのが適切だろう?)。
結論まで含めて全て納得できて持ち帰るものがあったとまでは言い難いトピックも多いが、タイトル通りの入門書としては各論点をざっとさらうくらいで御の字だ。
エコール
ラストシーン以外は全然記憶に残らないが、ラストシーンだけは鮮烈な映画だった。というのも、昔この映画を見たことがある、ということにラストシーンでようやく気付いたので。閉鎖的で陰鬱な森にある寮の中で何らかの目的のために育成されている少女たち。その目的がダンサーなのか養女なのか娼婦なのかはイマイチ判然としないまま、何となく不穏さを漂わせる曖昧なエピソードがいくつも提示されていく。
結局その真相は最後まで明かされず、育成から外れたと思しき少女が森から都会に出ていくラストシーンが素晴らしい。
陰鬱な森とは対極にある爽やかな都会の噴水で少年と出会うことで初恋が示唆されて物語は幕を閉じ、伴って映画の大部分を占めていた寮の話が完全に放棄される。子供時代の薄暗い世界は一瞬で忘れ去られて放棄される記憶にすぎず、初恋を知った少女がそんな些事を思い出すことはきっと二度とないのだろう。意味深に配置されていた謎も闇も観客ごと捨て去っていく手つきが最後に最大のカタルシスを生んでいる。
補足596:明らかに一桁歳の女児の乳首が出まくっているのは令和ではセーフなのか?(特に始まってすぐの水浴びシーン) 普通に児童ポルノのような気がするし然るべき機関に気付かれたら永久に消え去りそうな気もするので、性的な目的ではなく芸術鑑賞目的で関心がある人は今のうちに見ておいた方がいい。
エリジウム
清々しいB級洋画。ツッコミどころが多すぎるし話も陳腐だが、基本設定と画作りはかなり頑張っていて、気楽に見るエンタメとしてはちょうどいいとも言える。
被差別民のおっさん主人公が色々あって自己犠牲によって救世主になるというアメ公らしいヒロイックストーリーだが、なんかもう全てがガバガバすぎる。
スーパーテクノロジーと見せかけて一瞬で破壊できる意味不明なセキュリティばかりだし、特にラストシーンで主人公の自己犠牲を描くためだけに作られた「死による暗号化プロテクション(脳内にインストールしたあと解凍するには死ぬ必要がある)」とかいう設定がクソすぎる。通常の暗号は死んでも別にアンロックできないからそっちを使った方がいいぞ。
「主人公に傷を負わされて逆恨みで執着して追ってくるキチガイ男」とかいう五十年前の西部劇みたいなヴィランもチープすぎる。このヴィランは建設的に見ればかなりのトリックスターではあって、ヴィランも主人公も出自は被差別民なのでヴィランのクーデターに乗じて主人公がハッキングを試みたりと部分的には一致した利害を用いて複雑な関係を描けそうな気配もあったのだが、最終的には最も安直な造形に回収されてしまった。
ラストシーンも何も解決していなさすぎる。主人公が下層民全員に上級国民のIDを与えて革命達成みたいな雰囲気を出しているが、そもそも人口問題で上下を分けたんだからそこを混ぜ直したところでまた地獄になるだけじゃない?
とはいえ、やりたいことに対してどんなにガバガバでもいいから設定をちゃんと配置してやりたいことをやり切っている潔さはある(つまり駄作にありがちな「何がしたかったのかすらわからないガジェット」は基本ない)。特に設定の適当ぶりと最大瞬間風速重視を象徴するラスボス戦は一周してかなり好感度が高い。
最終決戦ではSFによくあるテクノロジー中枢みたいなところで主人公とヴィランが一騎打ちするのだが、何故か盆栽みたいなちゃちい桜が端っこにチマチマっと生えていて、ここから出たと思しき桜吹雪がず~っと画面内を舞い続けている(この桜に関する伏線や設定などは一切なく本当に唐突に出てきた)。

たぶん最近キルビルとかを見た監督が「桜吹雪の中での最終決戦」という画を作りたくなっただけなのだろうが、「機械とかたくさんある場所にこんなゴミを撒き散らすもの置くなよ」というツッコミを真正面からシカトする開き直りが清々しくて好き。実際、画としてはそれなりに映えてるしね。
生産コンテンツ
長編ラノベを一旦全部書き終わったので頭から読み直す推敲作業をやっていた。分量が20万字くらいあるので1日1万字推敲しても20日かかってしまう。
あと表紙とキャラクターを作ったらいつものようにアルファポリスに投稿しようと思っているが、キャラシートまでは今回は作らなくてもいいかな~と思っている。表紙用のタイトルロゴだけココナラとかで発注する作業が必要になるかもしれない。
前回(→■)はキャラの話しかしなかったけど、ストーリーを一行で書くと「デスゲームに巻き込まれた参加者八人が全員不死者だった回」みたいな話です。
『死亡遊戯で飯を食う。』が面白かったので俺もデスゲームものを書きたくなったのだが、バトルロイヤルみたいにスタンダードに殺し合う話は二つ前の『にはりが』でやってしまったので根本から捻った設定を考える必要があり、「一番引きが強いデスゲームの設定は何だろう」と考えた結果、「デスゲームの参加者が全員不死者だった回」が捻り出された。
でも全員が不死者だとデスゲームの参加モチベーションとかゲーム戦略が滅茶苦茶になってくる。まずデスゲームを続行するかしないかで一悶着あったり、デスゲームに参加したらしたでルールを逆手に取って謎の戦略を立てたり、そもそも不死者を集めてデスゲームを開いている運営は何がしたいのとか色々なレイヤーで揉め続けることになる。
あと登場人物が揃って不死者であるからには、全員に大なり小なりラスボス寄りの異常なパーソナリティをしていてほしい。皆が「命より軽いものはない」という価値観を共有していて、人生や世界に対する考え方やこだわりが定命の者たちとは全然違っている。不死者同士で考え方が対立するところもあればシンパシーを持てるところもあって、殺し合いまくってもどうせ死なないしそこで仲良くなったりならなかったりもする。
そういう奇妙な不死者たちの異常なデスゲームが大量の歪みを抱えながらなんとか進行していくが……みたいな話を遅くとも来月には投稿したい。