Vtuberオワコン論はオワコンか?
https://t.co/V49R6fAEj1
— LW (@lw_ru) 2020年6月3日
"はっきり言うと、VTuberは、『馬鹿な女をおもちゃにして楽しむコンテンツ』になりつつある。自由に茶化せる配信者。何を言ってもいい女。英語ができない女に単語テストをやらせて、馬鹿な回答をしたら「草」と書くコンテンツになっている。"
『リアリティーショーを批判しているオタクもVTuber見てんじゃん』(以下『リアV』)が面白かったので、適当な一節を引用してシェアしたらそれがやたら伸びた。このブログを読むような人はもう既に目を通しているだろうと言ってしまってもいいくらい伸びた。
俺はこの記事を書いた本人ではないが、そんなことは気にしないリプライや引用RTが怒涛のように押し寄せてくる(引用主=俺を名指しで攻撃するものも稀にある)。Twitterはそういうものなのでそれ自体は全く構わないが、本来は記事のauthorである「みそ氏」に浴びせられるべきだった称賛や批難を横から奪い取っていることに対しては罪悪感を感じないこともない。
補足301:『リアV』のauthorは「いけすかないオタク」としか書かれておらず、名前がよくわからないので暫定的に「みそ氏」と呼ぶことにする。
補足302:みそ氏はSNSのシェア文化に抵抗する姿勢を見せており、俺が感じている罪悪感には勝手にシェアを伸ばしてしまったことに対するものも含まれる。とはいえ、ネットに公開された文書とはそういうものなので、その申し訳なさは心の底から感じているものではない。真に申し訳ないのはみそ氏がネットから賛否を直接受け取る機会を奪ったことであり、この記事はそれに対する贖罪でもある。
そもそも俺は『リアV』に共感して同意した上で引用文を付帯したシェアを行ったので、『リアV』への批判は俺自身の身に刺さるところも多い。微妙なポジションを清算する意味も込めて、俺自身もVtuber文化に対するポジションをきちんと取り直そうと思う。
なお、以上のような経緯で考えたことを書くのでどうしても(俺が掠め取った)批判に応えるレスポンス形式のようになってしまうが、俺は決して『リアV』筆者の「みそ氏」ではなく、これは「作者からの再反論」ではないことは改めて明記しておく。
1.「ネットってそんなもんでしょ?」
受け取った反応のうち、最も多いのは「ネットってそんなもんでしょ」「何を今更」「最初からそうだった」系だ。
曰く、そもそもネットコンテンツや大衆娯楽は「馬鹿を笑いものにするコンテンツ」に収束するものであって、Vtuberもそれを逃れられなかったということに過ぎない。むしろ相互交流をベースに置いている以上は全く自然な経緯であるし、「電脳そぼろ丼」にだってその予兆はあった。「何か大変な失望をしているようだが、いったい何を期待していたんだね?」と肩をすくめてみせるのだ。
確かに、リアリティーショー化したVtuberの現状を見る限り、テレビやSNSやまとめブログと比べて何ら特別に悪辣なところはないというのは事実だ。しかし『リアV』は静態論ではなく動態論であり、問題は状態ではなく変化にある。つまり、いったいどうしてVtuberに限ってリアリティーショー化が失望されるのかは、「2018年頃までにVtuberにアニメキャラとしての期待を抱いていた人々」という文脈がわからなければ理解するのは難しいだろう。終わったコンテンツを語るオワコン論は、「始まっていた」時代の理想と不可分だ。
『リアV』にも詳細に書かれているので改めてまとめる必要はないと思うが、大雑把にVtuberの「アニメキャラ」的な側面と「生主」的な側面のうちで、「アニメキャラ」の側面を認識のスタートに据えていたのがリアリティーショー化に幻滅する層である。リアリティーショー的なものに収束するのは「生主」にとっては当たり前かもしれないが、「アニメキャラ」にとっては決してそうではないということは誰もが認めるだろう(「馬鹿を笑いものにするアニメ」はあまり思い浮かばない……いや、本当はそこそこ思い浮かぶ)。
なお、『リアV』は
「スカして身体性がどうのと言いそうに見えてしまうだろうから」
「これらの特徴が哲学的にどう、みたいなのはどうでもいい」
と述べ、いわゆるサブカル批評からは距離を取っている。
補足303:サブカル批評とは、哲学や思想のボキャブラリーを用いてアニメなどを語る謎のオタクカルチャーくらいの意。「身体性」はそこで好まれるワードの一つ。
補足304:とはいえ、ナンバユウキやユリイカを適切に引用してくる人間が本当にサブカル批評をどうでもいいと思っているわけはなく、そういう身振りを取っているに過ぎないのは明らかだが。
というのは、Vtuberは当初サブカルオタクに補足され、やたら小難しいボキャブラリーで色々なことが語られた側面がある。それが「2018年頃までにVtuberにアニメキャラとしての期待を抱いていた人々」とも深く関連する節はあるのだが、みそ氏はそのことは問題にせず、あくまでもVtuberをエンタメとして評価したい旨を注記する。
とはいえ、俺は「スカして身体性がどうの」とか言うタイプの人間だったので、個人的にはそれを黒歴史として埋却するのはあまり気が進まない。このブログを漁ればそんなスカした記事が山のように出てくるし、何より、エンタメ的評価とサブカル的評価は断絶しているわけではない。実際、『リアV』も評価の核心では哲学的ボキャブラリーを密輸入せざるを得ない。
これらの特徴が哲学的にどう、みたいなのはどうでもいい。重要なことは、この特徴は演者に綿密さを要求することだ。彼らはどうにかして整合的なキャラクターを演じなければならず、(中略)それらを適切に守らなければ、キャラクターの完全性(インテグリティ)が担保されない。
「哲学的にどう、みたいなのはどうでもいい」と言ったまさにその段落で使用される「完全性」というワードこそ、分析哲学がフィクションについて論じる際のボキャブラリーだ。よって「完全性の担保」という論点で「哲学的にどう」というスタンスを取るのはむしろ自然の成り行きで、実際にそれをやるとこういう記事になる(別に真面目に読まなくていい、なんかこういう雰囲気のカルチャーがあったんだなとだけ思ってもらえればいい)。
何にせよ、『リアV』が距離を取ろうとするところの衒学的言説が、リアリティーショー化への失望の背景にあることも俺は当事者として付記しておきたい。
少し脱線した。勘違いしないでほしいが、俺が言いたいのは「昔Vtuberにかけられていた期待を知らない癖にオワコン論を否定するな」ということではない。
むしろ全く逆で、「オワコン論は昔Vtuberに対して持った期待を更新できない老害がそれに執着して嘆いているだけの内輪の懐古に過ぎない」ということだ。「当初の期待」を共有していない層がオワコン論者の失望を理解できないのは自然なことだし、それを理解しようとする必要は全くない。
大抵のオワコン論は限られた興味しか持てない層の限定的な失望に過ぎないということは認識しておくべきだし、無駄に主語をデカくしてもお互いに良いことがない。「Vtuber終わったな」ではなく、「(2018年頃にアニメキャラとして俺が期待していたタイプの)Vtuber終わったな」と正確に書いた方がベターではある。
2.「リアリティーショーではないVtuberもいますが?」
VTuber界隈、「バーチャルっていう新しいテクノロジーや領域でできる面白さを追求してる層」と「ある種の壮大な敗者復活戦をやってる層」があると思ってて、杞憂民や物申し勢の餌になってんのは後者なんだけど、前者で面白いことやってる人はいっぱいいるよ。お前が見てないだけだよ、とは言いたい。
— にせもの@えり天 (@PerfectNISEMONO) 2020年6月3日
このツイートに代表される、「視野が狭いだけだろ」「森を見て木を見ず」系の批判も多く受け取る。これらは『リアV』の生産性の無さを批判する声にも繋がり、「リアリティーショーを否定したいのはわかったが、じゃあどうなるべきだったと思うのか?」「お前が対案を出せ」という反応も多い(俺!?)。
まず、リアリティーショーで売るVtuberもいるが、そうではないVtuberもいるというのは端的に事実だ(上の「にせもの」氏はVtuberすらも「V界隈」の部分集合としているが、そこまで話を広げると収拾が付かなくなるのでVtuberに絞るのを許してほしい)。むしろリアリティーショーは比較的新しい世代のVtuberが途中から創始したもので、古参のVtuberがリアリティーショーに転向したことはほぼない。「リアリティーショーを批判しているオタクもVtuber見てんじゃん」というタイトルは確かに目的語がややでかく、「リアリティーショーを批判しているオタクもホロライブ見てんじゃん」くらいにしておいた方が妥当ではある(リアホロ!)。
とはいえ、食い下がりはしておきたい。
まずただちに可能なのは、さっきと同じ主語のスケーリング修正対応だ。「Vtuber」というでかすぎる主語で語ってしまったのが誤りで、「~~なVtuber」という限定を付ければリアリティーショー化の批判は妥当しうる。とはいえ、その手の境界画定作業を今やる必要はないだろう。
もっと重要なのは、Vtuberが双方向性を持つコンテンツである以上、その評価は制作側だけではなく消費側にも依存することだ。
例えば、俺は昔Vtuberの発話についてハイコンテクストなニ重解釈を常に押し付けるパフォーマティビティに興味があった。具体的に言うと、あるVtuberが「洗濯機の上で配信している」という発言をしたとする。これは実際に演者が洗濯機の上で配信をしているという意味と、そのキャラクターが洗濯機の上で配信しているという設定であるという意味の二重に理解できる。この異様なハイコンテクスト化を被るのは演者の全ての発言だけではなく、視聴者のレスポンスも同様だ。異様な発話環境が成立し、それが非常に「面白い」。
ただ、この楽しみ方は適度なリテラシーを持つ観客がそれなりの数いなければ成立しない。様々な解釈をする多様な視聴者がいて初めて面白みが出てくる。Vtuberの発言を誰も聞いていなかったり、「あ、そういう設定なのね」とただちに理解してしまうエリートしかいなかったりするシーンではもう成り立たない。
更にもう一つ挙げるなら、「2018年頃までにVtuberにアニメキャラとしての期待を抱いていた人々」からの要求もある。当時、Vtuberには(自分で書いていてバカみたいな表現だが)「『オタク界』を改革する」という期待がかかっていた節がある。
彼らが当初持っていた「アニメキャラクターが交流に参加する」というビジョンのうちには、それを享受するアニメファンコミュニティの存在が暗に含意されている。Vtuberがアニメキャラ概念そのものを変質させるということは、Vtuberはオタク皆の共通認識をハックする転覆者だという期待。だからこそ、『serial experiments lain』のように特定のオタクしか見られない作品ではなく、「誰でも楽しめる」というキズナアイの大衆エンタメぶりは重要だったのだ。
ところが、実際には現在のVtuberコンテンツの享受には明確なリテラシー格差が生じている。Vtuberの高いポテンシャルを授かれるのは自らTwitchやSHOWROOMを探索できるエリートだけで、いわゆるアニメオタクが所属する通俗的な領域ではリアリティーショーしか展開されていない。優れたコンテンツベースで発掘作業を行える「エリートのコンテンツ視点」と、タイムラインに流れてきたものをボンヤリ消費する「凡人のコミュニティ視点」の違いは大きい。
とはいえ、それもまたやはり「限られた興味しか持てない層の限定的な失望」の域を出ないことは明らかだ。全面的な反論としては全く機能しておらず、「俺はそうは思わないけどね」と嘯くのが精々である。
それに、スケールが問題だと思うなら、むしろだからこそ優れたコンテンツの啓蒙に努めることが直接的に問題の解決に繋がる。全てのテクストが生産性を持つべきだとは全く思わないが、「もっと生産性のあることをしろ」という批判は明確に検討する価値があるものだ。
3.「テラスハウスで何が悪い?」
実は、俺が最も応答が難しいと思っているのはこの批判だ。
「リアリティーショーであることはわかった、それが少し下品なことも認める、しかしだからといってそこまで批難される筋合いはない」「確かにVtuberはテラスハウスだ、それがどうした? テラスハウスは人気番組だ」「リアリティーショーが好きだからVtuberを見ています……何か問題が?」、これである。
一見、こうした「開き直り」に反撃することは非常に簡単なようにも思える。何せ、テラスハウスの出演者が自殺したことは現在進行形でTwitter上で盛り上がっている真っ最中だ(一月も経つ頃には誰もが忘れているだろうが)。一般論として、リアリティーショーにおける演者の精神的健康状態の悪化を問題視することはあまりにも妥当な展開である。『リアV』でも演者の負担についてはそれなりに分量を割いて言及されている。
だが、配信している彼/彼女らにかなりの重荷を背負わせていることは理解しなければいけない。自分の身の周りで起きたことを、絶え間なく話さないといけないのは、私見では相当に厳しい。もっとはっきり言えば、我々は彼/彼女らのエゴを食い物にしている。そして、そのうち我々は彼女たちに飽きて――ヒメヒナに飽きたように、我々はすぐに飽きるものだ――彼女たちをポイ捨てする。
この点について、みそ氏はこれが個人的な感覚に過ぎないことを強調し、ソーシャル・ジャスティス的な言説に陥ることを慎重に回避している。よって、『リアV』の落ち度ではないことは前提として、しかし、Vtuberが日常の切り売りすると演者に負担がかかるというのは事実なのだろうか?
少なくとも、「テラスハウス」や「逃走中」で炎上した芸能人へのレスポンスと、Vtuberの日常の切り売りへのレスポンスは全く異なっているように思われる。Vtuber視聴者の民度は概ね高く、自浄作用もあり、「叩き」の様相を呈することは滅多にない。『リアV』では商業戦略として数量的な「囲い」が行われていることが言及されているが、精神的な意味でも視聴者は「囲い」に近い。Vtuberを守り、祭り上げるオタク騎士。それが外部からどう見えるかはともかくとして、「演者の負担」という論点には慎重になる必要がある。
それについても『リアV』はやはり慎重な手つきで再反論を試みてはいるが、これも私見の域を出ないものだ。
もし、ここには善意があるから大丈夫だ、というなら、それは間違えている。視聴者は暗に陽にキャラクターを勝手にインポーズして、再解釈して、生身の人間に押しつける。「デビューから一年たってついに同期のことを呼び捨てになるのが尊いんだよな」。「XXに告白され限界オタクになってしまうYYYの絵です」。1000人以上の人から、週三回、「エッチだ……」とリアルタイムで言われて、精神的に健全でいられるというなら、あなたはおそらくすでに狂っている。
俺の感性でも平常ではないとは思う。しかしフーコーを引くまでもなく、狂気の定義は相対的なものに過ぎない。数千人に「エッチだ……」と言われて喜ぶことが狂気だった時代があったとして、SNS時代においてはむしろ正気ではないか? この手の「狂った」承認欲求がむしろありふれていることはTwitterの普及によって既に明らかになっているはずだ。
上の引用において、いみじくも「精神的に狂気に陥る」ではなく「精神的に健全でいられるなら狂っている」という二階の狂気を描写していることもそれを裏付ける。狂気は直接には目視できず、正常性の裏返しという遠回しなステップでしか診断できない。部外者が判定する「健全さ」と、演者自身が保有する「精神的な健全性」を区別するならば、やはりVtuberを木村花と同一視することは難しいように思われてならない。
それでもそこにこだわりたいのであれば、「演者は望んでいない切り売りを強制されている」という論法を使うことはできる。企業Vなら契約によって、個人Vなら貧困によって無理矢理日常を切り売りさせられているのであって、いずれにせよ不健全な状態なのだと。あるいは、「彼女たち自身は問題に思っていないが本当は問題だ」という論法も可能かもしれない。
どちらも通俗化したポップなフェミニズムにありがちな論法ではある。ことジェンダーロールが絡む状況において「共犯関係だからOK」という主張に慎重にならなければならないことは周知の事実だが、しかしそうだとしても問題意識はそこではない。規模に鑑みて、Vtuberを社会問題化するリターンは薄い。
よって、この手の論法に対しては、Vtuberは相対的に低リスクであることを挙げておけば当面は十分だろう。少なくともAV女優や風俗嬢と比べて、Vtuberの演者が引退後にVtuberという「黒歴史」を引きずる可能性は低い。それは単純に顔を出さないからで、離脱は比較的容易だ。Twitter上での告発もかなりしやすく、実際にそうする例は枚挙に暇がない(しかし告発が多いということは「演者の精神的な苦痛」を支持する傍証になるのでは?)。
俺がとりわけVtuberのリアリティーショーに関して「演者の負担」を外野が推測することを警戒するのは、それが自己実現である可能性がそれなりにあるからだ。ニコ生主で承認欲求を満たす人が精神的に異常だという主張には流石に無理があるし、良くも悪くも生主化したVtuberもその延長線上にいるというだけのことではないのか。『リアV』でも、冒頭で当初にVtuberに感じていた魅力として、確かに以下のように述べている。
うまく社会に適応できない人を救済しているように見えた
Vtuberの演者は異常な環境で狂人になってしまったのか? それとも元から狂人だから異常な環境に適応できたのか? わからない。きっとどちらもいるというのが真相だろうし、判別しようというのもナンセンスなんだろう。
補足305:(少なくとも俺の目から見て)楽しくポケモンを遊んでいるように見えたVtuberが強烈な告発の末に去った一件は、オタクの素朴な対人能力で精神的な健康状態を放送から推し量ることは危険だという教訓を与えた。Vtuberもプロの演者なのだ。
結局はバランスの問題で、『リアV』のような謙虚な退却を避け、大枠での倫理を求めるならば、「演者の精神的な健全性が破綻しないよう配慮できる制度があるのが望ましい」程度のことしか言えない。
あるいは、演者に注目するのが間違っていて、問題意識はコミュニティと視聴者の方に向けるべきなのかもしれない。
リアリティーショー化したVtuber界隈において性的な・下品な言説があまりにも容易に出回りすぎているのは本当に「良くない」。俺は最近の百合文化を「周到な性欲の粉飾文化」だとかなり思っているし、「てぇてぇ」の下にはかなりの量の性欲が隠れている。しかしそんな偏見を認めてもなお、「それに何の問題が?」という開き直りに対抗することは難しい。
上野千鶴子がいみじくも言うように「オタクは隔離部屋でマスかいてる分には無害だ」という見解に俺は同意する。Vtuber生放送とそのコミュニティは現状で明らかに隔離されている。良くも悪くもYoutubeというメディアが優れているのは、住み分けに長けることだ。さだまさしでも聞こうと思った一般ユーザーがブラウザでYoutubeを開いた瞬間、Vtuber生放送が自動再生されて「えっちだ……」というコメントが目に入ることはない。
つまり、演者からコミュニティに視線を移すと、今度はオタク界隈くらいでしか影響力を持たないことがその下品さへの批判を難しくする。鍵をかけた部屋でマスかいてるときに引っ張り出されて攻撃されたら俺だって困る。どこまでが「鍵をかけた部屋」なのかは難しいラインだが、「#えっちだ……に抗議します」的なタグがTwitterでトレンド入りするまでは安泰としていいだろう。
精々言えるのは、「下品な文化は衆目に晒されない程度の規模に留めておいた方がよい」というやはりありふれたことくらいだ。
最後に、『リアV』の以下の記述は(誤ってはいないものの)恐らく表記ミスだろう。
正確に言えば、すべての固有値が1より大きい行列を持つような力学系は収束せず、どこかとんでもないところに我々を連れて行く。おそらく、それはひどい結末をもたらすはずだ。
力学系が収束しない条件は「行列の全ての固有値が1より大きい」ではなく「行列の少なくとも一つの固有値が1より大きい」である。確かに全ての固有値が1より大きい行列を持つ力学系も収束しないが、そこまでの条件は必要ない。
全てが狂っている必要はないのだ。ただ一つでも狂っていれば、系全体はポジティブフィードバックで暴走できる。