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20/6/1 ハッシュタグの氾濫、メタ政治性を巡る闘争

メタ政治性を巡る闘争

最近、「#抗議します」系タグを筆頭にしたハッシュタグ運動が活発になるのを見るにつけ、Twitter上での闘争の在り方が大きく様変わりしたのを感じるようになった。宇野常寛が『遅いインターネット』で指摘したような「大衆」と「市民」の形式的な闘争がいよいよ前景化してきている。

現在進行形でタグ付けを中心にTwitter上で行われている闘争の特徴は、決して意見そのものが対立しているわけではないところだ。検察庁法改正案にしても、「賛成派」と「反対派」が争っているわけではない。信条や思想をぶつけ合うベタレベルの戦場は放棄地となり、意思決定そのものの正統性について論じるメタレベルの空中戦が行われている。そこで対立しているのは「強く意見を持つ層=議論参与派」と、「安易に意見を持つことに反感を示す層=議論静観派」だ。

補足298:良く言えば「積極派」と「慎重派」、悪く言えば「愚民派」と「冷笑派」。

この指原評とこれに続くリプライが対立の様相をはっきりと示している。指原は芸能人にしては珍しく「静観派」にポジションを取ったことが注目されているわけだが、これに続くリプライはどちらかと言うと指原を攻撃する「参与派」が多い。いずれにせよ、どちらの見解もこのリプライツリーから拾い出せる。

まず静観派が参与派を攻撃して言うには、参与派は自分の意見を持たずにアジテーターに動員されているにすぎず、安易に乗せられない静観派の方がよほどよく物を考えていると言う。一方、参与派が静観派を攻撃して言うには、参与派はきちんと考えた結果として自分の意見を主張しているのであり、主張を放棄する静観派に比べればよほどまともな政治的な態度を持っていると言う。どちらにも一理ある。

まず静観派に関して言えば、彼らが優れるのは「完全に正しい回答に辿り着くことは現実的ではない」と知っていることだ。素人がちょっと考えただけで本当に正しい見解にアクセスできるのであれば、この世に専門家など要らないはずだ。「正解」に辿り着けない=誤った意見を発信するくらいならば、黙っていた方がマイナスではなくプラマイゼロだからまだマシなのかもしれない。

一方、参与派に関して言えば、彼らが優れるのは「それでもできる範囲で回答を深化するしかない」と知っていることだ。正解に辿り着くのが事実上不可能であることは、正解に辿り着こうとする試み自体が無意味になることを意味しない。決して専門家として振る舞うことが要求されているわけではなく、それでもわかる範囲で意見を持つことが重要なのだ。自分で判断することが難しいのであれば、適宜他人に判断を委ねるべきことだってある。

総じて、静観派からは「最も正しい判断には辿り着けない」ということ、参与派からは「判断を途中で停止してもよい」ということが学べる。この二つは矛盾しないどころかむしろ補完し合う関係にある。最深部には辿り着けないからこそ、どこかで止まることが正当化されるのだから。

そしてそんなスタンスの素人にとって、議論の結論など「たまたまどこで止まったか」という偶然の問題に過ぎない。どうせそこは最深部ではないからだ。色々な見解が入り混じり、複雑な模様になっている地層をどこまで掘ったのかという程度問題でしかない。
ではその探索は全く無意味だったかというと、そういうわけでもない。ベストには至れなくても、ベターを求めてきた過程は間違いなく意義あるものだ。すなわち、本当に有意味なのは、今いる地層の情報ではなく、そこまで掘ってきた穿孔の過程である。
そもそも、「どこかで止まってもよい」ということは「どこで止まってもよい」ことを意味しない。最も賢い芸能人よりは最も愚かな学者の方がまだ信頼できるだろうし、学者の間でも業績によって可視化される優劣はある。そうやって可能な範囲で適宜改善してきた過程だけは、常にベターな方向に進んできた歴史を表示する(そして、それを表示するのは決して結論ではない)。

よって、Twitter上でのメタ政治性を巡る不毛な闘争を止揚し、素人の議論を辛うじて有益にでき得るとすれば、結論ではなくそこに至る過程を競うことでしか有り得ない。どうせベストには辿り着けないのだから、結論ではなく過程を求めて走り続けること。

だから宇野が『遅いインターネット』で提出した発案のうちで最も有益なのは「結論に飛びつかずに走り続ける」という部分だったと思う。はっきり言えば、彼がソリューションとする新しいメディアたるオンラインサロンはあまり重要には思えない(その問題は以前にも書いた→)。それよりも有益なのは「はじめに」から一貫している「走り続ける」というスタンスにある。最終回答を持たず暫定回答を更新し続ける、そういう使い方ができるのであればオンラインサロンもきっと有効なのだろう。

補足299:それとは全く別の話題として、「芸能人が政治的な主張をすべきか否か」という話には少し思うところがある。俺の見る限り、どちらかと言えば「芸能人も一人の政治主体であり、政治的な意思表明を止められるべき理由は何もない」という見解の方が「まともで良識的」だと見做されている節はある。しかし、タイムラインに流れてきた「楽しくアニメを見てたのにいきなりニュースが始まったら文句の一つも言いたくなる」という見解にも納得できる。娯楽とは広義の政治性(=利害の衝突)をオミットした地点で成立するというのは正しいと思うし、取り去ったはずのものが再介入する自己撞着にはもっと注意を払ってもいい。日常に密着したブログやインタビューやラジオを通じて明らかに芸能人や声優の私生活までも娯楽コンテンツとして扱ってきたマネジメント手法に問題の根があることは明らかで、彼らが政治主体であることを認めるのであれば、そういう売り出し方にも反対しなければ筋が通らない。ちなみに、以前俺が「アニメや漫画だって政治的な文脈からは逃れられない」と言ったことと自己矛盾を起こしているのではないかと突っ込まれそうだが、それは「アニメや漫画は全く政治的なものではない」と積極的に主張する意見に対する反論であって、普段から政治性を意識しない層に対して啓蒙する意図は全く無い。

補足300:珍しく狭義の政治について俺が書いたのは、これはハッシュタグに限ったことではなく、意見を発信すること全般に対しても言えるからだ。例えば、俺はそれなりに誠実な感想を持ちたいと思っているし、新海誠の話をしたければとりあえず新海誠の映画を全部見るようにはしている。しかし、それでもエロゲーマーの友人からは新海誠が映像を担当したエロゲーをプレイせずに新海誠を語ることを責められる。だがそこで俺は開き直り、「知識を更新し続ける意志はある」ということで手打ちにしてほしいと言う。いつか気が向いたらminori作品をプレイする気持ちはあるし、そこで致命的な誤りが分かったら謝罪する用意がある。しかし、それはそのときに改めて謝れば良いのであって、いま誤解している可能性を含む感想を述べるのを止めるつもりはない。無限の精度を担保できない素人の主張ラインは、謝罪の可能性とトレードオフで手打ちにするのが現実的な落としどころだと思う。