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21/9/5 白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか:Vtuberの存在論と意味論

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前置き

これはもともとVtuber批評同人誌への寄稿を依頼されて書いたのですが、ちょうど書き上げたあたりで主催者と連絡が取れなくなって死蔵されていた文章です。音信不通から半年経ったので「まあもういいか」ということでブログにそのまま掲載します。

4万字以上あってクソ長いですが、要するに「Vtuberから演者を取り払って自律した美少女キャラクターとして見る可能性」について分析哲学の知見を援用して延々と語っています。僕はVtuberの演者にはほとんど興味が無くてVtuber批評で主流(?)の「ペルソナ」「魂とガワ」「ロールプレイ」みたいな演者を前提としたジャーゴンにあまりノれず、むしろそういうものを完全にオミットしたキャラクター論を立てたかったというモチベーションがあります。

内容はそこそこ哲学的ですが知らない人でも読めるように結構丁寧に解説を書いているので普通に読めると思います。白上フブキについても特に何も知らなくて大丈夫ですが、ビジュアルと簡単な設定くらいは知っておいた方がスムーズに読めるので、一応参考用に公式HPから引っ張ってきたプロフィールを貼り付けておきます。

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(公式HPより:https://hololive.hololivepro.com/talents/shirakami-fubuki/)

白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか

1.「白上フブキとはどのような存在か」とはどのようなことか:虚構的な存在と虚構的な命題

Vtuberとはどのような存在か。

この問いへの答え方は一様ではない。技術的な見地からVtuberを実現するテクノロジーを語るかもしれないし、文化批評的な見地からVtuberに類似するカルチャーとの差異を語るかもしれないし、美学的な見地からVtuberを鑑賞する際の態度を語るかもしれない。抽象的な質問の多くがそうであるように、この問いへの答え方自体がその人の思う最大の関心を提示するだろう。そしてそれは個々人の多様な興味に相対的であり、Vtuberという存在については今までにも多くのことが語られてきた。

しかし、わたくしにとってのこの問いの核心は「Vtuberを名乗る美少女その人はどのような存在であるのか」であり、意外にもこのタイプの答え方はあまり顧みられることなく放置されてきたように思えてならない。紋切型の表現が若干の誤解と反発を生むことを警戒しつつも、読者の円滑な理解のためにまずは断言しよう。わたくしの言う「Vtuberを名乗る美少女その人」とは「演者ではなく美少女キャラクターの方」という意味であり、わたくしは演者の振る舞いを徹底的に取り除いた上でVtuberを語ることを志向していると。わたくしは「演者がどうやってVtuberを生み出しているのか」とか「演者のステータスがVtuberにどう反映されているのか」とか「演者がVtuberを通じてどのような試みを行っているのか」とかいうような話題にはもううんざりしてしまっているのだ。わたくしが語ろうとするのは常にあの美少女だけであって、それを動かしている人間には深く感謝しこそすれ、その者について何事かを語ろうとしているのではない。語るべき対象を取り違えることはもうやめようとあなたにも同意して頂けるのであれば、わたくしは心強い味方を一人増やしたことになる。

とはいえ、演者を失ったとき、「純粋なVtuber」なる存在は最大の拠り所を失うことは紛れもない事実である。そうやって寄る辺なき暗黒の宇宙に宙吊りになった彼女をどう救い出せばよいか。その救出は彼女の名前が紡ぐ糸を手繰って彼女の存在を見つけ出し、虚構世界という足場に着地させる作業であることをわたくしはこれからの議論で示すことになるだろう。しかしさしあたり「演者を完全にパージした文脈においてVtuberはどのような存在なのか」という問いの立て方が見た目よりも遥かに厄介であるということは、Vtuberに関する非常に簡単な命題を一つ取り上げるだけで明らかになる。

命題F:「白上フブキは狐である」

さて、この命題Fは真か偽か? それを考えるところから始めよう。

補足1:以下、具体的なVtuberの固有名を使用したい場合は常に「白上フブキ」を用いることにする。「白上フブキ」というワードが出てきたら、それは白上フブキに固有の特殊な性質について語っているのではなく、「Vtuberの適当な名前を一つ挙げている」というニュアンスであることを了解して頂きたい。伴ってVtuber一般を「彼女」という代名詞で受けることがあるが、それは本稿の議論が女性に限ることを意味しない。また、「現実に存在する人物」の代表としては「ソクラテス」を、「(Vtuber以外の)フィクション一般の登場人物」の代表としては「シャーロック・ホームズ」を用いることをここで予告しておく。なお、知名度を考慮すればチャンネル登録者数が最も多い「キズナアイ」をVtuberの代表に用いるべきだが、いまやキズナアイ存在論的に極めて特殊な挙動をするVtuberであるため、代表として取り上げるのは適切ではない。また、現時点でキズナアイの次に登録者数が多いのは「Gawr Gura」だが、彼女は英語話者であるために統語論的な文脈で彼女の発言を取り上げる際に厄介になりそうなので見送り、消去法で登録者数三位の「白上フブキ」を用いることに決めた。ところで、ここまで述べた理由は後付けで捻り出したものであり、本当の理由はわたくしが白上フブキのファンだからということは言うまでもない。

まず最初にはっきり言っておかなければならないのは、命題Fが端的に「真である」と結論することは、不可能とは言わないまでも極めてラディカルな立場を受け入れざるを得ないということである。何故なら、生物学的な常識としては狐は人語を喋らないからだ。もし白上フブキが狐であることをあなたが認めるのであれば、あなたは人語を介して二足歩行する狐を発見したことになる。次にあなたがやるべきことは、今すぐに全世界で出版されている生物学の文献全てに異議を申し立てる論文を執筆することだ。言語が人間だけのものでないことを証明したあなたの発見は言語学のみならず精神分析脳科学にまで多大な影響を及ぼすに違いない。人類知を大きく前進させた二十一世紀最大の偉人の一人として、あなたの名前は十世紀くらいは語り継がれることになるだろう。

あなたがその輝かしい栄光を手に入れるために行動を開始することなく、愚かにもまだこの文章を読み進めているのであれば、あなたは少なくともその手の狂人ではないということだ。実を言えばわたくしもまた底抜けの常識人であるから、先ほどは軽い冗談を披露したに過ぎない。要するにわたくしの言わんとすることは、命題Fを端的に真であるとするのはかくも難しいということだ。

加えて、我々のように全く常識的な立場から考えれば、そもそも命題Fが何を意味しているかも判然としないことに気付く。何故なら、命題Fに含まれている「白上フブキ」という固有名が示す対象はこの世界のどこにも存在していないからだ。もしあなたが「白上フブキ」という固有名を用いる際にあの白髪で狐耳の生えた女の子の実在を主張しているなら、それはそれであなたは生物学を大きく更新してしまうように思われる。常識的に考えれば「白上フブキ」なる固有名にはそれが指す対応先が存在しない。よって、「白上フブキ」という単語及び「白上フブキ」を用いた文が何を意味しているかは不明ということになる。

補足2:ただし、もし白上フブキが端的に存在しないという立場を取るとしても、「白上フブキ」という単語を含む命題の全てが真ではないとは限らない。例えば、「『白上フブキ』の二文字目は『上』である」や「白上フブキは存在しない」といった命題は、白上フブキが存在しないとしても真であるように思われる。

さて、ここまで述べたことによれば、あなたがかなり気合いの入った狂人でない限り、命題Fは良くて真ではなく、悪ければ意味不明であるようだ。

だが、わたくしが自信ありげに述べているところに反して、あなたの常識はむしろ声高に否と叫ぶ頃合いであるに違いない。というのも、「命題Fは意味不明だ」という主張は明らかに直観と合致しないからだ。ここまで上記の通り語ってきたわたくしであろうとも、日常的な会話では命題Fが真であると述べることは否定できない。このことは「白上フブキは女性である」と「白上フブキは男性である」という二つの命題を比べることでよりはっきりする。我々は明らかに前者の方が後者よりも何らかの意味で真であるという確信を持っているし、どちらも同じくらい意味不明だと言って並べて棄却する振る舞いはそれはそれで狂人じみていると言わざるを得ない。そして、こうして現に性別についての言説を診断できる以上、白上フブキもまた何らかの意味で存在すると言わざるを得なくなってくる。

ああ、わたくしはもう全くわからなくなってしまった! 白上フブキは存在するのか、そして命題Fは真なのか?

だが幸いにも、わたくしの残してきた記述にはそれを解決するヒントが眠っているようだ。注意深い読者がわたくしよりも先に勘付いていたと期待したいのは、ここまで命題Fの真理値について、わたくしは一貫して「真ではない」という表現しか与えていないことだ。わたくしは「真ではない」とは言ったが「偽である」とは言っていない。というのも、その二つが同値であるとは限らないからだ。確かに標準的な二値論理においては「真ではない」は「偽である」を意味するが、三つ以上の真理値が可能な場合はその限りではない。

命題Fが言葉通りの意味で真ではないのは明らかだが、かといって端的に偽であるとすることにも大きな抵抗があり、むしろ何らかの意味では真なのだ。こうした曖昧な立場を調停するために、ここで第三の真理値としてわたくしは「命題Fは虚構的に真である」という回答を認めることにしよう。命題Fは何らかの虚構においては真である。すなわち、確かに現実世界には白上フブキは存在しないが、ある虚構世界においては白上フブキが存在し、かつ、その世界において白上フブキは狐である。命題Fはこの現実世界では偽かもしれないが、その虚構世界においては真なのだ。

もし我々が命題Fを「虚構的に真である」と胸を張って言えるようになるのであれば、もう少し都合よく拡大解釈すれば、「ある虚構世界において」を意味する句として「虚構的に」を用いることもできるだろう。例えば、「虚構的に白上フブキは存在する」「虚構的に白上フブキは女性である」「虚構的に白上フブキは綾鷹を好む」は端的に真であるとして良いように思われる。これらは現実世界の話ではなく、虚構世界の話として提示されているからだ。

補足3:以下、「虚構的に真である」「虚構において真である」「虚構世界で真である」といった表現を全く同じ意味で用いる。

さて、我々は「虚構的な」という句を発見することによって、白上フブキの虚構的な存在と虚構的な命題の真理値を得ることに成功したことにしよう。そろそろ種明かしをすると、ここまでの話はVtuberに限ったことでもなく、一般的なフィクション全般に関しても同じことが言える。すなわち、「白上フブキ」ではなく「シャーロック・ホームズ」についても全く同様の議論が展開できる。例えば命題「シャーロック・ホームズは名探偵である」は『シャーロック・ホームズ』の世界で虚構的に真だと言えよう。念のために繰り返すと、それは「『シャーロック・ホームズ』の世界にはシャーロック・ホームズが存在し、その世界においてシャーロック・ホームズは名探偵である」を意味するのだった。

しかし、わたくしが関心があるのはフィクション一般についてではなく、あくまでもVtuberについてである。よって、フィクション一般とVtuberの共通点を見つけて喜んでいるわけにはいかないのだ。わたくしが真に発見しなければならないのはVtuberの独自性であり、それはフィクション一般とVtuberのむしろ相違点であることをここではっきり述べておきたい。わたくしの大きな目的の一つとして、ここまでに述べてきたような「虚構世界の存在者」及び「虚構的な命題の真理値」の二点について、フィクション一般から区別されるVtuberに特有の事柄を発見し、その背景や帰結について論じることがある。それは現実世界にいる演者の手が届かない虚構世界において、Vtuberが小説やアニメのキャラクターとはどのように異なる存在なのかを探ることでもある。

だが、わたくしは少し先走りすぎてしまったようだ。わたくしが本論に入る前に語るべきことは山積みになっており、それらは主として以下の二点に集約される。

まず第一には、Vtuberを論じる言説の中でのわたくしの立ち位置を固めなければならないことがある。これはわたくし個人の狭い観測範囲に依存した偏狭な見解であることは前置きしておかなければならないにせよ、今ここでわたくしが扱おうとしている「Vtuberの固有名」だとか「Vtuberに関する命題の真理値」だとかいう話題は、よくVtuberについて論じられているような事柄とは大きくかけ離れているように思われてならない。冒頭でも軽く触れたように、「Vtuberのガワと魂」がどうとか、「Vtuberのペルソナ」がどうとか、「Vtuberのロールプレイ」がどうとかいう、もっとそれらしい話題は山のようにあり、どちらかと言えば読者はそちらへの関心が高い傾向にあるはずだ。もしそうならば、わたくしが卑怯にも脇道から行おうとしている哲学めいた話はメインストリームの話題に対してどういったポジションに置かれるのかを詳しく説明する義務があるだろう。ついでに言えばわたくしはあまり哲学的な話題に馴染みのない読者にも容易に理解できる文章を書きたいと思っているし、そのために前提を明記しない飛躍や無駄に権威的な引用を避けた記述を心掛けたいと思っている。その際に捨象されざるをえない正確さや誠実さについては、ある程度は補足や参考文献で弁明するが、生け贄に供されるものが少なくないことを許して頂きたい。 

そして第二に、哲学的な議論の基盤をもう少し真面目に固めなければならないことがある。今まで当たり前のように書いてきた「白上フブキは虚構世界に実在する」という理屈は、人生でフィクションに慣れ親しんできたオタクたちにとっては直感的に理解できるものだと信じたい一方、それ以外の人々にとっては全くそうではない。というのも、それは「別世界の存在」などという明らかに形而上学的で疑わしい主張を含むからだ。これは命題Fを真であると主張するのと同じかそれ以上に了解し難いと糾弾されることは容易に想像できる。その完全なる解決は望むべくもないとしても、わたくしの主張にはどういった背景や代替案があるのかくらいは提示する義務があるだろう。幸いにも、その作業もまたフィクション一般に関する分析をベースにして行うことで、Vtuberだけの際立った特徴の発見に繋がることをわたくしは最大の自信を携えて予告しておこう。

プロローグの最後に、わたくしは「Vtuberの定義」なるものを行わないし行う気も無いということを述べておきたい。強いて言えば、「わたくしがVtuberとして思い浮かべているキャラクター」という主観的にして個別的な定義を挙げるしかない。わたくしが頑なにVtuberの定義を避ける理由は、定義自体が不毛であることと、定義を固く定めて論じる営みが不毛であることの二点ある。

まず第一に定義が不毛であるというのは、Vtuberという言葉の定義は内包と外延のいずれもが主に拡張される方向で日々目まぐるしく変化し続けていることを念頭に置いている。無理にVtuberの定義を設けようとしたところで、あまりにも自明な条件によってVtuberの豊潤な特徴を捉え損なうか、あまりにも厳しい条件によって限られたVtuberの先鋭化した特徴しか論じられないかで終わるだろう。その暗澹たる末路よりは、必要でも十分でもないことを自覚した定義もどきで満足することの方が、最終的には優れた結論を導くとわたくしは信じる。

そして第二に定義を固く定めて論じる営みが不毛であるというのは、枠組みの硬直した議論を展開するよりも、Vtuberの定義が更新されることに併走して更新していけるような柔軟な議論の枠組みを用意する方が有益であるということだ。今いるVtuberの定義に対してのみ適用できる一過性の議論を繰り広げることの生産性の低さはそろそろ周知されていると信じたい。わたくしが妄想するVtuberの定義もどきが変化して時代遅れになるようであれば、新しい定義もどきに沿うように議論を組み立て直せばいいだけなのだ。その再建に必要なパーツは用意するつもりである。そしてそれは将来的な広がりだけではなく、今ある広がりに対しても言える。すなわち、今いるVtuberの中でもわたくしの定義もどきにそぐわないVtuberがいるならば、その暫定的例外に合わせて議論の細部を改訂する仕事はあなたにお願いしたい。その改修に必要なツールを用意するのもやはりわたくしの仕事である。これは甚だ傲慢な意欲ではあることは承知しているが、わたくしは場当たり的な各論ではなく頑強な原論を志向しているのである。

さて、これで準備は整った。本稿の構成は以下の通りである。第二節ではVtuberに対する言語的な関心の水準を整理することで、既存の言説に対する本論の位置付けと、本論が持つ関心を明確化する。第三節と第四節では哲学的な基盤を固める作業を行う。第三節では固有名について記述説と因果説を対立させた上でVtuberの固有名に関しては後者が親和的であることを示す。第四節ではフィクション一般における世界の不完全性について論じた上で、Vtuberがそれを受け入れたり克服したりする可能性を示唆する。第五節では虚構的な命題の真理値を決定する方法について論じ、Vtuberに特有のロールプレイを演者をオミットした意味論的観点から解釈する。第六節では本稿のまとめに加えて参考書籍を紹介するという体裁で本稿の不備に関する言い訳を一通り並べて結びとする。

2.白上フブキを語るとはどのようなことか:言語的フィクションを語る三つの水準

既に察しが付いているように、わたくしが行うVtuberの探求は言語的な戦略を取る。すなわち、Vtuber自身が行う営み及び、我々がVtuberに対して行う営みが言語によることを前提する。

わたくしが不誠実にもわたくしの論が取り落とすものに関して黙秘していると思われないためにここで言わなければならないことは、言語的な側面はVtuberが持つ様々な側面のごく一部に過ぎないということだ。よってわたくしが言語的な戦略を取ると宣言することは、ただちにそれに沿わない要素を少なからず捨象することを意味する。例えばVtuberが喋ったり歌ったりするときの聴覚的な音階や声色、指のトラッキング等の微細な視覚的効果、Vtuberとコミュニティの間で取り交わされる金銭的な交換など。

だが、幸いにも我々の言語はVtuberの営みを記述するのに十分すぎるほどの表現力を持っている。先ほど除外したような言葉を伴わない活動が副次的なものに過ぎないと言うつもりはないが、Vtuberの主な活動の一つは言語的なそれであるということくらいは試しに主張してみたところで完全に反駁されるものではないように思われる。実際、Vtuberからの発信にはトークやツイートがあり、コミュニティからのレスポンスにも配信へのコメントなり同人誌なりブログなりがあり、そうした言葉を介して行う活動が最大派閥の一つを占めるという見解は最大まで譲歩してもまだ正当でいられるだろう。

さて、Vtuberを言語的な側面から語るという試みが最も親和的なのは配信型のVtuberであることは間違いない(この鍵括弧内ではVtuberの代表としてではなく固有の性質を持つものとして言及するのだが、例えば白上フブキがそうだ)。配信型のVtuber、すなわちほとんど編集動画の投稿をせずに生配信で雑談やゲーム実況をするようなVtuberにおいては、動的には表情や口パクを示す程度の3DモデルやLive2Dが画面の一部を占めるに過ぎず、視覚的効果への関心が明らかに低下している。そこでは主に本人の声と視聴者のコメントによる言語的な応酬によってVtuberという営みが駆動する。とはいえ、わたくしは本稿の関心が配信型のVtuberにしかないと誤解されることを大いに警戒している。わたくしの前置きが言わんとすることはあくまでも「配信型のVtuberを思い浮かべると理解が容易であるかもしれない」という程度のことでしかなく、実際にはもっと幅広い適用先を持つ論となることを意図している。

補足4:わたくしはVtuberに関わるパロールエクリチュールの違いについて掘り下げるつもりはないし、それらはむしろ言語的な営みであるという点で同一項として括るだろう。

補足5:むろん主として言語を用いないVtuberもいるし、例外は常にある。だが、例外に対して敏感に言及することが不毛であるのは既に述べた通りであり、例外だと感じるものは適宜議論から除外するなり、議論を変形させるなりの対応を読者側に求めたい。

わたくしが言語的な側面への注目を宣言したことにより、分析に際してVtuberとの比較の足場とするフィクション一般についても、主として言語的フィクションを扱うことになる。さしあたって、最も典型的には小説を、近縁のバリエーションとしては演劇の台本や設定資料集や言語化されたあらすじなどを想定して頂ければよい。なお、漫画やアニメのようなかなり視覚寄りの媒体であっても、Wikipediaに記載される情報のようにテクストへと加工したものであれば言語的フィクションの一例として考えることもできるだろう。

補足6:以下、単に「フィクション」とだけ書いたときは言語的フィクションを想定していると考えてよい(彫刻や絵画を想定しなくてもよい)。

さて、これからやりたいことはフィクション一般と比べてVtuberがどのような顕著な特徴を示すかの分析である。ただし、フィクションの特徴と言ってもそれには様々なものがある。例えば、「~ぺこ」というような妙な語尾の使用だったり、「狐が人語を解する」というような現実とは異なる事態だったり、演者が日常会話と違って演技をしているというような言葉の使い方の違いだったりする。これらを一緒くたにして扱うことには無理があるので、まず最初の仕事として、フィクションがその特徴を示す水準について三つの区別を確認しておきたい。すなわち、統語論・意味論・語用論という三つのレベルについて、それぞれの水準で語るということがどのような論点を含むのかをはっきりさせておこう。最初に前置きしておけば、わたくしの関心があるのは主に意味論の水準であり、他の二つは関心を正確に峻別するためのガイドとして敷設していくに過ぎない。

まず第一に、統語論の水準について。統語論とは語彙の選択や語を繋げる文法の選択のように、言葉の形式的な使われ方を論じることを指す。例えば、「今日は寒いな」と「寒いな、今日は」を比べたとき、語順の形式的な逆転について関心を向けるのであれば、統語論的な関心が作用していると言える。

フィクション一般における統語論的な効果としては、独特の語彙や文法が用いられることがよく知られている。例えばフィクション特有の語彙としては、「どんぶらこ」という擬音語が挙げられる。「どんぶらこ」という語は日常生活ではまず使用しないものであるから、それが登場した瞬間に「これは恐らくフィクションの一節だな」と考えるのは自然な推測であろう。また、フィクション特有の文法としては、「過去を示さない過去形」が挙げられる。例えば「明日は誕生日だった。」という文は小説の一節として読めば明日が誕生日であることを示すものとして自然に読めるが、会話で使用した途端に過去形で未来を示すという時制的に奇妙なものになってしまう。

補足7:一応、「明日が誕生日であることを今思い出した」という状況で「明日は誕生日だった!」と叫ぶことは日常的にも自然である。ただし、その際の「だった」は「思い出した」の流れを汲む過去形ないし完了形であり、単に「誕生日である」と言うときの「である」を過去形にしたものではない。正直に言えば、わたくしは日本語には詳しくないのでこの文法分析にはあまり自信がないのだが、ともかく今わたくしが認めて頂きたいのは以下のことである。通常の会話で「明日は誕生日だった」の使用が自然であるケースは「明日が誕生日であることを今思い出した」というような特殊なシチュエーションに限られる一方、フィクションにおいては「ずっと前から明日が誕生日であることを知っていた」というシチュエーションを含め、特に含意の無いフラットな記述として読めるだろうということだ。

他にもフィクション特有の特殊な語法としては奇妙な人称があるだろう。例えば、小説においては「ホームズはとても不安になった」のように、誰が語っているのか明確に特定できないような、いわゆる三人称視点が用いられることが珍しくない。この一節をホームズが語っていることは有り得ないし、かといって他の誰かが語っているとも考え難い。というのも、ホームズはぶりっ子のOLのように自分のことを自分の名前で呼ぶわけではないし、他の誰かであれば何故彼の心情をはっきり確信して語れるのかが不明だからである。

総じて、統語論的な水準においては、フィクション一般に独特なしるしが見られると言えよう。

補足8:こうしたフィクション一般に見られる奇妙な統語論的性質が何に由来して何を示すのかは本稿の関心外なので一旦脇に置いておく。そうした特徴が観測されるということだけとりあえず把握して頂ければ十分である。

補足9:ただし、フィクションにおいても統語論的なしるしは何ら存在しないという立場もある。わたくしはさしあたり統語論的なしるしの存在を肯定するが、正直に言えばその方が論の展開に都合が良いというだけなので、否定派から議論を再構成して頂いても構わない。

ところが、統語論の水準においてVtuberは奇妙な挙動をほとんど示さない。キャラ付けのための独特な一人称や語尾の使用は見られるが、それを除けばVtuberが発する言葉は我々が日常的な会話で発する文と完全に同じであると言ってもよいように思われる。白上フブキが「明日は誕生日だった」と述べたとして、その言い回しは少なからず独特なものか、補足で述べたように余計な含意を含むものと感じられるだろう。そして我々がVtuberを語る際に用いる文章からも異常な過去形や三人称視点は放逐されている。

補足10:ただし、Vtuberに関連する営みでありながら、Vtuberをキャラクターとして用いた創作ではこの限りではない。例えば、わたくしが白上フブキの穏やかな一日を綴る小説を執筆したとして、そこで「明日は白上フブキの誕生日だった」という文を用いることは適切である。ただし、それはVtuberというよりはVtuberをダシにしたフィクション一般であると考えても問題ないように思われる。よって、わたくしはこれ以降「Vtuberをキャラクターとして用いた創作」は必ずしもVtuber固有の特徴を示すものには含まれないとして、フィクション一般とVtuber固有の特徴を比較する文脈では原則として考慮しないことにする。それに不満がある方は自ら論を補正すること。

よって、Vtuberは「一般的にフィクションに見られる性質を示さない」という消極的な意味で統語論的に顕著な性質を持っていると考えられる(もちろん、わたくしが些末な事柄であるとして棄却した「独特な一人称や語尾」に注目し、それだけが残っていると表現して頂いても構わない)。この取っ掛かりから、その消極的性質が会話劇や演劇における発話と全く同様の事情で発生しているのかなどの議論を更に掘り下げていくことは有効であろう。だが我々の関心はこの水準にはないため、その捜索はひとまずここで打ち切ってしまおう。

続いて第二に、意味論の水準について。これは文字通り言葉の意味を巡る水準、すなわち文の命題としての真偽であるとか、固有名の指示について論じるレベルであると考えて頂いてよい。既に述べた通り、この水準こそわたくしの関心先として後節でよく掘り下げるものであるので、今は簡単に意味論と存在論の関係について紹介するだけに留めておこう。

補足11:ところで「命題」をきちんと定義するのは実はかなり厄介なのだが、差し当たっては「表現のバリエーションに依存しない判断の中身」くらいの理解で良い。「白上フブキは女だぜ」と「白上フブキちゃんは女だよ」と"Shirakami fubuki is a woman."の三つは統語論的な表現としては明らかに異なっているが、それが言わんとする内容が全く同一であることはわかるだろう。つまり、命題としては「白上フブキは女性である」なのだ。説明を少し先取りするが、命題を巡る意味論は統語論的な語彙の違いや語用論的な状況の違いには原則として関心を持たないと考えて頂いてよい(ただし厳密に言えば意味論も完全に状況から逃れられるわけではないということは、「私は男性である」という命題の真偽がその話者の性別に依存することからわかる)。

わたくしが関心を持つのは「白上フブキ」のような虚構的な固有名の指示と、命題F「白上フブキは狐である」のような虚構的な命題の真偽の二点であることは既に述べた。これが虚構的でない場合、つまり「実在の固有名」を用いた「実在的な命題の真偽」なら話は簡単だ。例えば「ソクラテスは狐である」は端的に偽である。というのも、「ソクラテス」という固有名に対応するおじさんが確かに存在し、かつ彼は人間であって狐ではなかったからだ。一方、「白上フブキは狐である」においては、白上フブキが狐であるか否かを判定するに際して「白上フブキ」という固有名に対応する少女が存在するか否かがまず問題となる。よって、意味論的な問題意識においても、「白上フブキ」という固有名が指す先としての存在を考える議論が必要になってくるということだ。

補足12:念のため書いておくが、「ソクラテスが本当に存在していたかどうかはわからない、そしてそもそもこの世界に私の認識を離れて独立に存在しているものなどあるのか?」などという懐疑論は積極的に棄却する。哲学的な議論だからといって常にそのレベルで疑う必要は無い。わたくしは常識的な存在論的感性を信じているので「常識的に考えて存在すると思われるものは存在する」とだけ述べてこの話を終わらせる。ただし心の底から「今目に見える富士山が本当に存在しているかどうかわからない」と不安に思っている人も稀にいるようではあり、あなたがその手の例外者でないことを祈るしかない。

最後に、第三の語用論の水準について。これは言葉が使われる状況や話者の意図について論じる水準である。語用論的に異なる言葉の使い方とは、例えば教育勅語復活を目指す極右のコミュニティで「天皇万歳!」と叫ぶことと、天皇制打倒を目指す極左のコミュニティで「天皇万歳!」と叫ぶことを比べれば良い。前者ではこの言葉は文字通り「天皇は素晴らしい」というメッセージになるが、後者ではそれは真逆の意味を持つ皮肉となるだろう。このように発する言葉が全く同じでも、話し手や受け手の持つ意図や文脈によって言葉が持つ内容は変化しうる。

フィクション一般においては、話者とは作者に相当するので、語用論的には作者がどのような意図や状況でフィクションを語っているかを考えることになる。その問いには無数の回答があり得るが、典型的なアンサーとして「フィクションの文面は本物の主張ではない」という考え方は直感的に最も理解しやすいように思われる。というのも、日常会話で「東京に震度3の地震が発生した」と述べることは現に東京に震度3の地震が発生したと話者が主張していることを意味するが、フィクションの文中に「東京に震度3の地震が発生した」と書くことは現に地震が発生したと作者が主張していることを意味しない。この例を以て今ここでわたくしが言わんとしていることは、語用論的な関心の下ではフィクションにおける記述は作者の言語使用として、作者と結びついて捉えられる傾向にあるということである。

さて、Vtuberにおいて、言葉を使う話者=フィクションを語る作者は明らかにVtuberの演者であろう。冒頭にも挙げたような「演者がどうやってVtuberを生み出しているのか」といった演者の言葉の使い方や意図を問題にするタイプの議論は語用論の水準にある。また、ここで詳しい解説をするつもりはないが、「魂とガワ」「転生」「ペルソナ」「ロールプレイ」あたりのジャーゴンも主にはこの水準で開発され、大きな関心が向けられてきたように思われる。

補足13:正確に言えば、語用論とは必ずしも作者や演者のような現実に存在する言語使用者にのみ紐付くものではない。もっと緩く「言葉の使われ方」の問題であると考えるならば、とりあえず言語を使用していると措定できる主体や、言語が機能していると思われる環境さえあれば、語用論的な議論を開始することはできる。例えば「小説内部におけるキャラクターの語り方」や「看板に書かれた文字が解釈される様子」を論じることがそれに相当する。そしてわたくしのモチベーションはあくまでも演者という視点をパージすることにあるので、必ずしもVtuber自身の語用論までも排斥する必要はない(とはいえ積極的に言及する予定もないが)。つまり、わたくしが誠実であるために密輸入してはならないのは語用論の中でも特に「演者の語用論」に限られる。

わたくしが語用論の水準を紹介することで読者と認識を共有しておきたいのは、「演者の言語使用という視点を持ち出さずに議論を行いたい」ということに尽きる。冒頭でも宣言したように、わたくしの最大の目標は演者をパージした限りにおいてのVtuberの存在を捉えることにある。しかし、演者の言語使用にその存在や命題真理値の根拠を帰すような実に人間的な分析は極めて魅力的であり、少しでも気を抜けばそのようなやり方で問題を収拾したくなる。だが、今仮に白上フブキの演者をMさんとすれば、白上フブキではなくMさんに関心を向ける道はキャラクターそれ自体に達する道ではない。まさしく白上フブキとして名指される美少女その人に出会う唯一の道は、演者の意図や発話の水準を自覚的に退け、時には形而上学的胡散臭さを纏うとしても、ただひたすらに存在論を切り詰めることであると信じる。わたくしの持つモチベーションと演者の言語使用という局面の噛み合わなさは、わたくしが固執する存在についての議論が、演者を持ち出した途端に「まるで白上フブキというキャラクターであるかのように言葉を用いるMさんが『存在する』」と述べるだけで店仕舞いとなる不毛さからも理解して頂けよう。

補足14:語用論の水準での議論を正確に行うためには、Vtuber自体の固有名と演者の固有名を厳密に切り分ける必要がある。演者の固有名としては、Googleの検索窓に「白上フブキ 前世」と打ち込むと一番上に出てくる「も」で始まる女性のハンドルネームを使いたい誘惑には抗しがたいものがある。しかし必要以上の解像度で演者に言及することを蛇蝎の如く嫌う人間が相当数いることをわたくしは大いに承知している。わたくしはそうしたマナーを遵守することが有意義だとは決して思わないのだが、本筋を外れたところでヘイトを集めるのは本意ではないことと、正確なハンドルネームを用いなくても議論には何ら支障はないことから、演者の固有名を用いる必要があるときはそれを「Mさん」と書くことにしたい。

補足15:なお、語用論の水準でVtuberを語る際に最強の切り札になるのは間違いなくケンダル・ウォルトンのメイクビリーブ理論であるように思われる。実際のところ、わたくしがその魅力に抗うのが最も難しい道具立てだと感じているのもそれなのだ。極めて広範な射程を持ち、かつ、フィクションの本質をごっこ遊びと見做すウォルトンの理論はVtuberとの相性が良すぎる。それはあまりにもVtuberに対して強力すぎるが故に、それを用いてVtuberの分析することが、ただひたすらに理論の正しさを追認する当てはめゲームに終始してしまうのではないかと心配になるほどだ。

さて、ここまでVtuberを含むフィクションの特徴を語る水準を統語論・意味論・語用論の三つに区別してきた。こうした水準の違いは発言自体を分類するものではなく、個々の発言を様々なアスペクトから見るものであることに注意されたい。例えば、白上フブキによる「今日はマインクラフトを実況しまーす」という発言について、それぞれの水準で関心があり得る論点としては、具体的には以下のようなものが挙げられよう。統語論的には、彼女が「実況するぜ!」でも「遊びます」でもなく「実況しまーす」という言い回しを使っていることに関心があるかもしれない。意味論的には、この発言を受けて「白上フブキがマインクラフトを実況する」という命題にどのような真理値が与えられるかに関心があるかもしれない。語用論的には、Mさんが実際にマインクラフトを遊ぶという行為の遂行を意図した発言であるのかどうかに関心があるかもしれない。

しつこいようだが、わたくしは意味論の水準で「白上フブキ」というような固有名の指示と、「白上フブキは狐である」というような命題の真偽の二つに関心があるということは述べてきた通りである。他の水準に浮気することのないように細心の注意を払いつつ、次節から本来の関心がある議論へと歩を進めよう。

3.白上フブキを指示するとはどのようなことか:直接指示と因果説

「虚構的な固有名の指示」と「虚構的な命題の真偽」の二点について関心があることは既に何度も述べてきたが、本節で扱うのは前者についてである。

わたくしが当初に命題F「白上フブキは狐である」のソリューションとした「虚構的に真」という真理値は、虚構世界に存在する虚構的存在者の指示に成功することを前提としていた。既に注意した通りこれはある種の異世界を認めるという点で、かなり強力な形而上学的主張を含んでいる。とりわけ、「白上フブキ」という固有名について、現実世界と虚構世界を越境して指示に成功しているという貫世界的な能力が認められることがその最たるものだ。「白上フブキ」という固有名が世界の内実に依らずにただ一つの白上フブキという対象への指示を行えることを、「直接指示」と呼ぶことにしよう。むろん直接指示があるからには、やや不正確な表現ではあるが、「間接指示」をそれに対置するのがわかりやすかろう。

ここで本節でのわたくしの目的を少々先取りして言えば、直接指示である因果説と、間接指示である記述説とを対比させ、Vtuberについては前者に軍配が上がると主張することにある。以後、まずは記述説についてしばらく説明を行い、その難点を解決する別案として因果説を取り上げ、フィクション一般及びVtuberでの適用を比較するという手順で着実に議論を進めていこう。

ということで、まずは記述説について。「記述説」などと言うと堅苦しい学説のようだが、その内実は「固有名を記述の束と同一視する」ということに過ぎず、それは我々が日常あまりにも当たり前のように行っていることであるから、逆にわざわざ説の名を冠させることに読者が困惑するのではないかとわたくしは心配になってしまうくらいだ。

固有名を記述の束と同一視するということを具体的にやってみよう。例えば固有名「ソクラテス」には「古代ギリシャ時代の人物である」「哲学に強い」「毒杯で死んだ」などの様々な性質が付随していると思われるので、命題「ソクラテスは男性である」は以下のように書き換えることができる。

「あるものがただ一つ存在し、それは古代ギリシャ時代の人物であり、哲学に強く、毒杯で死に、そしてそのようなものは男性である」

補足16:∃x(古代ギリシャ(x)∧哲学(x)∧毒杯(x)∧∀y(古代ギリシャ(y)∧哲学(y)∧毒杯(y)⊃x=y)∧男性(x))と書いた方がわかりやすい読者が一定数いることは承知しているが、この表記を説明するための一節を設けるよりは、この手の表記を省く方が効率的だというわたくしの判断を尊重して頂ければ幸いである。

要するに、ソクラテスが持つ様々な性質の連言を取って存在命題とみなすことによって、命題からは「ソクラテス」という固有名を消去できる。具体的に言えば、「ソクラテス」と書く代わりに、「あるものがただ一つ存在し、それは古代ギリシャ時代の人物であり、哲学に強く、毒杯で死ぬ」と書くわけだ。実際にはソクラテスが持つ性質群は三つどころではなく、「プラトンを弟子とした」「哲人王思想を持つ」「わりと嫌われていた」等々を含む膨大なリストになるだろうが、それら全てをかき集めてソクラテスを特定するのに十分な記述の束を作成し、それを固有名の代わりに用いると考えて頂いて構わない。ソクラテスを説明するのに十分な性質を数え上げたものが作成できると仮定した上で、そのリストを「ソクラテスの性質リスト」とでも呼ぶことにしよう。固有名を記述の束であると考える記述説においては、「ソクラテス」という固有名を「ソクラテス的性質のリスト」と同一視する。この戦略は我々が固有名を説明する際に日常的に行っていることである。実際、わたくしが「ソクラテスとは何か?」と聞かれたとして、わたくしが行うのは「古代ギリシャ時代の人物で、哲学に強くて、毒杯で死んで、わりと嫌われていて……」のような思い付く限りの性質の列挙だろう。

この記述説の直感的な正しさはと言えば、今のところ他に固有名を説明する仕方など有り得ないようにすら思われるほどだが、すぐに困ったことが起こってくる。それは「反事実的条件が有効である」という事態によってである。反事実的条件とは文字通り事実に反する条件のことで、これも具体例から入るのがわかりやすかろう。例えば、以下のように仮定を条件として含む命題を考える。

命題S:「もしソクラテスが毒杯を飲まなかったら、ソクラテスはもっと長生きしただろう」

素朴に考えると命題Sは真であるように思われるが、偽である状況も考えられないわけではない。例えば、意外にも寛大な裁断によってソクラテスは死刑を免れたために毒杯を飲まなかったが、その帰り道にアテナイを歩いているときにうっかり足を滑らせて頭をぶつけて死亡したようなケースである。

他にも色々なケースを考えることは出来そうだが、実を言えば、わたくしがこれから行う議論においては命題Sの真偽そのものはあまり重要ではない。毒杯を飲まなかったソクラテスがどのくらい長生きできるかは実はどうでもよく、我々が命題Sを理解するに際して「毒杯を飲まなかったソクラテス」を自明に想定できてしまうことが本当の問題なのである。

ここで先ほどの記述説を思い出して頂きたい。それによれば、「ソクラテス」という固有名は「ソクラテス的性質のリスト」と全く同一であり、そのリストには「毒杯で死んだ」という性質も含まれていたのであった。このとき、「もしソクラテスが毒杯を飲まなかったら」という反事実的条件は、「ソクラテス的性質のリスト」から「毒杯で死んだ」という性質を除外することに等しい。そしてその「『ソクラテス的性質のリスト』から『毒杯で死んだ』という性質を除いたリスト」は明らかに「ソクラテス」とは同一視できない。何故なら、「ソクラテス」と同一視されるのはあくまでも「ソクラテス的性質のリスト」であり、「『ソクラテス的性質のリスト』から『毒杯で死んだ』という性質を除いたリスト」は「毒杯で死んだ」という性質が除外されている点において「ソクラテス的性質のリスト」と異なるものだからだ。要するに、命題Sの前件たる反事実的条件によってリストの更新が行われたことで、「ソクラテス」という固有名は命題Sからは失われたと言わざるを得ないのである。

だが、我々は命題Sの後件で「ソクラテスはもっと長生きしただろう」と述べる時点で、明らかに「ソクラテス的性質のリスト」から「毒杯で死んだ」を除外した何者かを「ソクラテス」と呼んでいる。これこそが大問題なのだ。「ソクラテス」と同一視されるはずの性質のリストとは異なるものを依然として「ソクラテス」と呼んでいる以上、「毒杯で死んだ」という性質は「ソクラテス」という固有名とは無関係だったと言わざるを得ない。何故なら、毒杯を飲もうが飲まなかろうが我々はソクラテスを指示できてしまうからである。この議論は「ソクラテス的性質のリスト」に含まれる全ての性質に対して適用できる。「ソクラテスが女だったら」という反事実的条件から始まる文を我々は当たり前に理解できる。

こうして、一つの驚くべき結論が帰結する。「ソクラテス」という固有名はソクラテスが持つ性質とは全く関係なく、ソクラテスその人を指すのである。これにより、虚構世界という状況の異なる世界においてもソクラテスを指示できる道が開けてくる。というのも、記述説とは原則として現実世界に準拠する考え方だからだ。記述説によって固有名を記述の束に分解する際、そのリストに記載されている性質は現実で実現されているものに他ならない。よって、記述説は確かに現実世界においては有効である一方、反事実的条件を付与した異なる世界においては効力を失い、固有名の対応先を見失ってしまう。何故なら、反事実的条件で記述されるような異なる世界においては、固有名の対応先が持っていると思われる性質も当然異なってくるからだ。それに対し、固有名の対応が性質の記述に依らないと考える直接指示の道は反事実的な世界においても有効であり得る。

こうして記述説を退けることは、Vtuberを含むフィクション一般の虚構的存在者が現実世界でない虚構世界に存在すると考えるにあたって極めて強力に作用する。というのも、記述説の枠組みにおいては命題Fや命題Sは記述の束を用いた存在命題へと帰着される以上、存在しない虚構的固有名を含む命題は意味を持たないものとして退けられざるを得ないからだ。

補足17:厳密に言えば、「固有名を記述の束に分解する」という発想がただちに虚構的存在者を退けるわけではない。というのも、虚構的固有名でも適当な性質の束に分解することは依然として可能であるように思われるからだ。例えば、「白上フブキ」という固有名を「狐である」「綾鷹を好む」「少女である」といったリストと同一視することはできる。だが、この場合はそれらの性質群を何に帰せばよいのかが問題となる。性質はそれ自体単独で命題を構成するものではなく、それが帰されるところの存在者を必要とするからだ(「『狐である』は狐である」ではなく「狐であるものは狐である」と言わなければならない)。結局、記述の束を用いた固有名の解釈は、それが命題の中で用いられた途端に性質が帰される存在者に関する存在命題を呼び込まざるを得ない。

実際、「シャーロック・ホームズが男性でなかったら」「白上フブキが女性でなかったら」といった反事実的条件も、毒杯を飲まなかったソクラテスと同様に明らかに有効に作用するものであるから、固有名「シャーロック・ホームズ」「白上フブキ」も記述とは無関係に直接指示してもよいという主張は筋が通っているように思われる。

そして、こうした反事実的条件の取り扱いに関しては、実在する人物やフィクション一般の固有名よりもVtuberの固有名がとりわけ親和的である。すなわち、ソクラテスシャーロック・ホームズよりも白上フブキの方が反事実的条件を想定しやすいのだ。というのも、Vtuberは時々刻々と変化するコンテンツであるために記述説であれば固有名が還元されるところの性質の束が極めて流動的だからである。更に、Vtuberは現実に存在する人物に対しては物理的な制約を受けないという点において、既存のフィクション一般に対しては正典とされるテクストを固定されないという点において、潜在的な可変性が相対的に高い。この二点についてはもう少し詳しく論じる必要があるだろう。

まず現実世界においては物理的な制約は非常に強固であり、いくらわたくしが「ソクラテスが男ではなかったら」と述べたところで、ソクラテスのペニスがヴァギナに変わることなど起こり得ない。現実世界で性質の実現可能性を規定している物理法則なるものが自然科学という近代的イデオロギーが作り出した擬制であるかどうかはともかくとして、フィクション一般に比して相対的に実現される性質の幅が狭いということくらいは抵抗なく認めて頂けるだろう。

その一方、小説や劇台本においては虚構的存在者が持つ性質は物理的制約から解き放たれて想像の翼を纏う。小説内の話であればソクラテスが性転換することはいくらでもあり得よう。だが、今度は性質の記述が有限な正典テクスト内に限られるという強い制約を負ってしまう。例えば『シャーロック・ホームズ』シリーズにおいて、「シャーロック・ホームズ」が持つ性質は書籍内に列挙されたもので全てである。コナン・ドイルが没した今、『シャーロック・ホームズ』の正典はこれ以上増えないため、現状で存在する書籍に記載された性質を否定するような性質が新たに出現することはない。結局のところ、シャーロック・ホームズの性転換もソクラテスの性転換と同じくらい起こり得ないのだ。

補足18:わたくしは今ここで正典の定義に関する問題、例えば極めて権威的な二次創作において新たに付与される性質をどう扱うかというような問題については立ち入って論じるつもりはないが、少なくとも小説においては有効な記述が「ここからここまで」と量的に決まっていることくらいは同意して頂けるだろう。

つまり、「ソクラテスが男性でなかったら」「ホームズが男性でなかったら」という反事実的条件は機能するが、これらはまさしく起こり得ない反事実として措定されるものに過ぎず、我々はただ言説としてこれらを理解できるに過ぎない。それらに比べると、Vtuberにおいては、おたくどもがいみじくもよく言うようにコンテンツが「開いている」。それは二次創作ではなくVtuberのオリジナルが日々様々な媒体によって更新されるというほどの意味であり、具体的には毎日の動画投稿ないし配信やツイートで思いもよらぬ新情報が開示されることを挙げておけば十分だろう。我々が寝たり食ったりしている瞬間にも白上フブキが持つ性質は唐突に更新される可能性が常にあり、それは墓より蘇ったコナン・ドイルが突然シャーロック・ホームズの設定を更新することに比べればよほど現実的だ。作者が存命の小説やアニメのキャラクターでも性質リストの更新はせいぜい離散的にしか行われないのに比べ、Vtuberにおいては配信中は連続的に性質リストが更新され続ける。そしてそれは現実の事物とは異なり物理的な制約を受けないことから、極めて突飛な更新ですらも許容されよう。潜在的な性質の変容を大いに受け入れるという意味で、Vtuberの固有名は記述的な捉え方よりも直接指示の捉え方に親和性が高い。

補足19:念のために述べておくが、これはVtuberに限ったことでもなく、物理的制約を受けず、かつ、流動的なコンテンツにおけるキャラクターであるものに関しては同様である。例えば、ソーシャルゲームのキャラクターも同じ理由で潜在的な性質の可変性が高い、すなわち直接指示に親和的であろう。技術的な変化に応じてコンテンツ展開の枠組みが変化しつつあり、その急先鋒として運営型のジャンルとしてのVtuberソーシャルゲームがあるように思われる。

さて、ここまではVtuberの固有名に関して、記述に依らずに直接に指示を行うという発想を肯定してきた。次にただちに浮上する問題は、固有名を記述の束から独立したものと考えたとき、如何にして固有名の指示先を特定できるかである。というのも、固有名が記述の束ではないと考えることは、固有名の内実を説明する際に記述を利用できないことを意味するからだ。例えば「白上フブキとは何か」と聞かれて「Vtuber」とも「女の子」とも「狐」とも言わずに説明することは果たして可能だろうか?

ここで発想を大きく変えて、固有名は社会的に受け渡されていくことによって指示を追跡すると考えたい。例えば、ソクラテスの親だか友人だかが聴衆の前でソクラテスの右側に並び、すぐ左を指さして「彼がソクラテスです」と紹介したとしよう。この名指しによって、聴衆は今指さされている彼こそが「ソクラテス」という固有名の対応先であることを彼の性質とは無関係に知ることができる。むろん、人間の寿命はたかだか百年かそこらであるから、固有名の持ち主その人を指さして紹介できる期間はそう長くはないだろう。とはいえ、書物や伝聞を通じて間接的に固有名をある特定の対象に紐づけ続けることは依然として可能である。実際、我々も倫理の教科書か何かによって「ソクラテス」という固有名と並べてある人物を紹介されることによって、今まで固有名が辿ってきた長い道程を逆に辿り、当初のソクラテスにまで行き着くことができると考えられよう。

こうした、「固有名を受け渡すことで指示を繋ぐ」という因果的な連関に固有名の同定能力を見出す説明を、記述説に対比させて因果説と呼ぶ。また、ソクラテスが聴衆に紹介されるように、固有名の対応先が紹介や伝聞によって受け渡される過程を「因果連鎖」と呼ぶ。因果連鎖の終端が我々にまで辿り着いた固有名だとして、因果連鎖の始端には固有名の指示先が初めて固定される瞬間がある。それはソクラテスが生まれた瞬間に親が彼を取り上げて「この子はソクラテスだ」と叫ぶ瞬間であり、これを「命名儀式」と呼ぶ。「命名儀式」によって固定された固有名の対応先が「因果連鎖」によって紹介や伝聞で受け渡されることで、固有名は対応先を追跡できるというわけだ。

補足20:わたくしはなるべくテクニカルタームを避けて本稿を執筆することを冒頭で決意したのだが、因果説における「命名儀式」と「因果連鎖」に限っては説明の都合で仕方なく用いることにした、というのは真っ赤な嘘で、この何かの技名のようなクールなフレーズたちを使いたくて仕方なかったのである。

さて、フィクション一般について、虚構的固有名に因果説を適用するに際しての最大の問題は、果たして命名儀式が有効かどうかである。最も愚直に考えれば、フィクション一般の虚構的固有名における命名儀式とは、その固有名が紐付けられるキャラクターが生まれた瞬間の名付けであろう。だが、その瞬間には作者を含めた誰も実際に立ち会ったわけではない。如何にコナン・ドイルとて、「ホームズはこのようにして生まれて名付けられたことにしよう」と考案するのが精々で、「ホームズがこのようにして生まれて名付けられたのを実際に見た」と主張するほどエキセントリックな創作スタイルを持っていたとは言うのはなかなか難しい。よって、固有名「シャーロック・ホームズ」を巡る因果連鎖は命名儀式にまで辿り着かずに途中で切断され、因果説による説明は無効となるように思われる。

とはいえ、我々の当初の問題意識が「記述によらずに固有名の指示を行うにはどうすればよいか」であったことを思い出そう。それを踏まえれば命名儀式の本来の役割とはあくまでも「最初に固有名に指示を固定すること」であり、それに成功する限りは必ずしも誕生の瞬間に立ち会う瞬間はない。

実際、フィクション以外の文脈では存在しない対象に命名儀式を行うことは可能であり、その典型例として惑星「ヴァルカン」という固有名が挙げられる。ヴァルカンとは19世紀頃に太陽系の一員として水星の内側に存在を予言された惑星であるが、現在ではその仮説は誤りとされて存在しないことになっている。よって、ヴァルカンが目視で観測されたことは人類史上で一度もなく、最も厳しく想定した場合の「シャーロック・ホームズ」の例と同様、「ヴァルカン」の因果連鎖も命名儀式まで辿り着くことはない。だが、不可視のヴァルカンが真剣な議論の対象となっていた時代があったことから明らかなように、固有名が有効であるには必ずしも直接に視認する段階が必要なわけではない。重要なのは、架空の対象であろうが物理学の理論的枠組みによってともかく指示を固定することであり、その限りにおいて疑似的な命名儀式が有効だったと言ってよいだろう。シャーロック・ホームズについても同様であり、コナン・ドイルが『シャーロック・ホームズ』シリーズの最も早い段階で特定の描写と共に「シャーロック・ホームズ」という固有名を用いた時点で指示が固定され、のちに因果の鎖を繋ぐ命名儀式が疑似的に行われたと考えることは理に叶っている。

以上のように、わたくしはフィクション一般を含む非存在の対象に対しても固有名に対して因果説による直接指示が有効であると主張する。これをVtuberに適用したとき、Vtuberにおける命名儀式とは何か。それが「初投稿動画」ないし「初配信」であることは言うまでもない。

補足21:初投稿動画による命名儀式は主に短い動画を編集して投稿するタイプのVtuber、初配信による命名儀式は主に生放送を行うタイプのVtuberが行うものであるが、以下の議論にはどちらを用いても支障がないため、白上フブキが後者であることに鑑みてさしあたり「初配信」と書くことにする。

繰り返すと、記述に依らない固有名の指示が有効であると考えるに際して必要な命名儀式におけるポイントは「指示を固定すること」であった。よって、目下の問題は「初配信は指示を固定するか否か」に帰着される。わたくしの答えは以下の通りである。「初配信は指示を固定する。それも、フィクション一般よりも更に強力に」。

そもそも初配信において、Vtuberは自らの固有名をどのように自らに紐付けるだろうか。それは自己紹介によって、すなわちVtuber自身が名乗りを上げることによってである。典型的には「新人Vtuberの白上フブキです」というようなフレーズを用いて、白上フブキは自らが白上フブキその人であると宣言する。このやり方が、シャーロック・ホームズ命名儀式よりも強力な理由は二つある。

まず一つは、命名儀式が別の誰かではなくVtuber自身の申告である点だ。小説等のフィクション一般においては、キャラクター自身が自らの固有名を申告することによって命名儀式を行うことはそう多くはない。最も典型的なのは、三人称視点の持ち主というあの誰だかわからないが少なくともキャラクター自身ではない何者かの語りによって、地の文にキャラクターの名前が記載されるパターンだろう。その一方、Vtuberにおいてはキャラクター自身が明確に自らの責任において自らの固有名を申告することでそれを自らに紐づける。それはオギャーとしか言わない赤ん坊に両親が代理で名付けを行う現実の命名儀式よりも強力なものですらあり得るかもしれない。

もう一つは、命名儀式が他の誰かに向けてではなく我々に向けた固有名の固定を明確に企図している点だ。確かに小説やアニメにおいても、キャラクター自身の自己申告によって命名儀式を行うパターンもないわけではない。例えば、転校生が黒板に自らの名前を書き付けて自己紹介するシークエンスがそうだ。だが、その場合でも転校生は読者ではなくクラスメイトに対して自らと固有名の対応を固定しているのに対して、Vtuberはカメラではなくリスナーに対してそれを行っている。もともと因果説とは固有名が流通するような社会的なコミュニティを前提したものであるから、固有名を受け渡す企図が明確に存在することは今後の因果連鎖の有効性を担保するにあたって大きな加点要素となる。これに比べれば、小説を読んで我々が固有名をキャラクターに結び付けるのは、それが語り手が第四の壁を突破しているようなメタフィクションでもない限り、せいぜい不当な盗み聞きに過ぎないと言わざるを得ない。

補足22:とはいえ、わたくしが誠実であるために自ら指摘しておかなければならないことは、この命名儀式の有効性に関する議論には論点先取のきらいが若干あることだ。わたくしは白上フブキが虚構世界に住むことを正当化するために命名儀式の有効性を立証しなければならないのであって、虚構世界に住むことから命名儀式の有効性を導くのは手順が逆である。「疑似的な命名儀式」という保険をかけた表現によって胡散臭さをいくらかは緩和できるにせよ、このマジックワードがどこまで有効であるかは判然としない。

補足23:関連して、Vtuberにおける因果連鎖の有効性についてもわたくしとしては強く主張することには躊躇いを覚えざるを得ない。というより、むしろ最大の問題は命名儀式のあとに因果連鎖が成立するかどうかにかかっているようにすら思われる。というのも、本来は因果連鎖による追跡が有効であるためには、指示先の個体が常に時空間的に同一であって、ある瞬間に突然離れた空間から出現したり、昨日から明日にワープしたりしないというような連続性があることが必要だからである。それは誰かが視覚的に確認するわけではないにせよ、そういう確信を伴っていなければ因果連鎖は成り立たない。この成立がVtuberに限っては若干怪しいところがある。むろん、魔法が解けることを恐れたシンデレラのように「疑似的な因果連鎖」という表現に逃げるのも一つの手ではあるが、いずれ戻ってくるためのガラスの靴が用意できるかどうかは疑わしいところだ。謙虚なわたくしとしては、「白上フブキが因果的同一性を維持することを前提するならば、命名儀式からの因果連鎖によって直接指示が成立すると強力に主張できる」と条件付きの形で述べるのが妥協点であるように思われる。

本節の議論をまとめておこう。固有名を記述の束に還元する記述説に対抗し、我々はVtuberについては固有名を記述によらない対象への直接指示と見做し、その手段として命名儀式と因果連鎖によって固有名の指示先を追跡する因果説を擁立したい。その理由として、Vtuberにおいては固有名が持つべき諸性質の潜在的な可変性が相対的に高いことと、初配信における命名儀式が強力であることの二点が挙げられる。

4.白上フブキの住む世界とはどのようなものか:虚構世界の不完全性と空白の補充

前節において、わたくしは反事実的条件の理解が可能であることを根拠として、「白上フブキ」という虚構的固有名によって現実的な性質の記述には依存せずに虚構世界にいる白上フブキを同定できることを見た。それを受けて、本節では白上フブキが属するところの虚構世界について取り扱う。

補足24:ただし、指示が有効で有りうることはただちに指示先の存在を意味するわけではないことに注意されたい(プログラミングに明るい読者はポインタ型変数の値がnullであるような場合を想像せよ)。それは白上フブキが虚構世界に存在することを認めるための必要条件であって十分条件ではないのである。わたくしは依然として白上フブキが虚構世界に存在することの完全な立証には成功していないし、正直に言えば、それは永久に不可能であるように思われる。

今まで漠然と用いてきた世界というタームについてもそろそろ明解な定義を与えておこう。さしあたり、世界とは真である命題の集合とする。例えば、世界のうちの一つである現実世界は「ソクラテスは人間である」「地球は太陽の周りをまわっている」「人間は二百年以上は生きない」といった真なる命題を全て集めた集合と同一視できる。今回は存在者のリストも存在命題を用いて真なる命題の集合に繰り込んでしまおう。すなわち、ある世界にxが存在することは、「xが存在する」という命題が真としてその世界を構成していることによって表現する。

フィクション一般の舞台となる虚構世界も世界の一つであるから、それを命題の集合として構成することは、直感的にも問題がないように思われる。例えば『シャーロック・ホームズ』の世界、すなわち『シャーロック・ホームズ』において真である命題の集合においては、「シャーロック・ホームズが存在する」「シャーロック・ホームズは名探偵である」「ワトソンはホームズの助手である」「ホームズはコカインの常用者である」といった命題群がその元となろう。

ただし虚構世界においては、現実世界と違って真とも偽とも断定できない命題が無数にあることが知られている。その典型的な例として以下の命題がある。

命題H:「シャーロック・ホームズの髪の本数は奇数である」

もしわたくしがホームズに匹敵する名探偵だったとしても、命題Hが真実かどうかを見抜くことは永久に不可能であると思われる。シャーロック・ホームズの髪の本数が作中で直接描写されたことは一度も無いし、その手がかりすら全く見当たらないからだ。よって命題Hを真と言うのも偽と言うのも落ち着かないが、かといって、命題~H「シャーロック・ホームズの髪の本数は偶数である」も全く同様に真とする理由がない。だがH∨~H、すなわち「シャーロック・ホームズの髪の本数は奇数か偶数である」が真なのは明らかであり、通常の推論規則が成り立つとするならばHか~Hのいずれかは真でなければならない。

さて、この「Hも~Hも真とは言えないような命題Hがある」という事態は「世界が不完全である」と表現できる。一般に、ある世界が完全であるとは「あらゆる命題pについてpか~pが真である」ことを指す。要するに、全ての命題で真か偽かが定まって真偽不明の命題が無いということだ。一般的に言って、虚構世界においては現実世界と違って世界の完全性が担保されない。

ここで、世界の完全性は検証可能性の問題ではなく、原理的な問題であることに注意されたい。現実世界においても「ソクラテスが毒杯を飲み終えた瞬間に髪の本数が奇数だった」を検証することは実質的には不可能であり、その真偽を決定できることはあり得ないと言ってよい。だが、現に真か偽のどちらかであったことは明らかである。これに対し、シャーロック・ホームズの場合は髪の毛の偶奇は最初から決まっていない。ソクラテスの場合は実際に真理値が決まっていた時点や座標があるのにも関わらず実効的な限界によってそれが得られないのだが、シャーロック・ホームズの場合はそもそも最初から真理値が決まっていないためにどんな手段を用いてもそれを得ることができないのだ。

賢い読者は「命題Hは真か偽かのどちらかには決まっていることにしてしまって、例えば暫定的に真として虚構世界を構成してしまえばよいではないか」と思われるかもしれないが、命題の集合を世界と同一視してしまった今、事態はそれほど簡単ではない。命題Hのように作中で全く手がかりが得られていない命題は無数にあり、それら全てを暫定的な真理値で構成した命題の集合、すなわち世界には無数のパターンが考えられることになるだろう。よって、天文学的な奇跡でも起こらない限り、読者によって『シャーロック・ホームズ』の世界は全くバラバラであることになる。もしそうであるならば、我々は同じ作品の舞台の話をしているつもりで実際には全く異なる舞台について語っているという著しく直感に反する結論を導いてしまう。

それよりは、作品が提示するのは単一の世界ではなく世界の集合であるとした方がまだ穏当だろう。つまり、命題Hのように真偽を決定できない命題に関しては、それが真であったり偽であったりする世界全てを含めた「世界の集合」を構成するのである(世界が命題の集合であったことから、世界の集合は集合の集合であることに注意されたい)。この「世界の集合」に含まれる世界はいずれも「ホームズは名探偵である」「ワトソンはホームズの助手である」「ホームズはコカインの常用者である」といった明らかに虚構的に真である命題を含んでいる一方、「ホームズの髪の本数は奇数である」や「ホームズの髪の本数は偶数である」といった命題を含むか否かは世界によってまちまちである(ただし、どの世界も奇数バージョンか偶数バージョンのいずれかは必ず含んでいる)。つまり、簡単のために世界に含まれる命題が四つしかないとするならば、『シャーロック・ホームズ』が提示するのは以下の二つの世界を合わせた世界の集合であることになる。

世界1:「ホームズは名探偵である」「ワトソンはホームズの助手である」「ホームズはコカインの常用者である」「ホームズの髪の本数は奇数である」

世界2:「ホームズは名探偵である」「ワトソンはホームズの助手である」「ホームズはコカインの常用者である」「ホームズの髪の本数は偶数である」

ただし実際には命題Hのような真偽が判然としない命題は無数にあるため、作品が提示する集合に含まれる世界は膨大な数になることに注意されたい。このように世界の集合を扱う路線は個々の虚構世界の特殊性を解消するために取り回しが良く、Vtuberと衝突するような懸念点も特にないので、我々もこれに素直に従うことにしよう。次節以降ではわたくしはVtuberを含めたフィクションが世界の集合を提示するという見方を採用することにする。

しかしそれとは別の選択肢として、世界の不完全性をむしろ積極的に認めてしまう道と、逆にそもそも世界の不完全性を認めずに完全な世界を構成する道の二つがあることは確認しておきたい。これら二つの道は次節には持ち越さないが、それは議論の都合で暫定的にそうするというだけの話であり、決して無効なものとして棄却するからではない。むしろVtuberに限っては建設的な見方をいくつも提示する有望な選択肢たちであることをわたくしは胸を張って言える。

まず、一つ目の世界の不完全性をむしろ積極的に認める道について。つまり、虚構世界で判然としない命題の真偽を無理に定めて補充したり、いくつもの案の重ね合わせとして集合を作ったりするのではなく、虚構世界をいくつかの空所がある不完全な「歯抜け」の世界であるとそのまま認める方向性である。

この路線が極めて興味深いのは、世界の不完全性がただちにそこに所属する存在者へと感染することだ。すなわち、シャーロック・ホームズのような虚構的存在者もまた髪の毛の偶奇に関する情報をそもそも持たないような、空白のある不完全なキャラクターということになる。今まではシャーロック・ホームズのようなキャラクターをソクラテスのような実在の人間と同様に捉えることを自明の前提としてきたが、もう少し抽象的な存在者として捉えることが可能になるわけだ。自身の性質に歯抜けがあることを許容する抽象的な存在者としては、例えば「寓意」や「種」や「理論的対象」が挙げられる。以下、それぞれを簡単に紹介した上でVtuberとの親和性を確認しておきたい。

まず第一に「寓意」について。もっともわかりやすい例で言えば、さしあたり教訓的な童話を考えて頂ければよい。例えば、イソップ童話の「北風と太陽」における「北風」や「太陽」や「旅人」といったキャラクターを考えよう。この童話には明らかに「人には厳しく当たるより優しく接する方が良いこともある」という教訓が込められており、それを踏まえれば、「北風」とは「厳しさ」一般の擬人化、「太陽」とは「優しさ」一般の擬人化、「旅人」とは「気紛れな人間」一般の擬人化であろう。彼らは我々人間のように物理的に充実した生物というよりは何らかの性質を象った曖昧な存在者であり、髪の毛の本数などは設定されていなくても問題にならない。これをキャラクター一般に適用するならば、シャーロック・ホームズもまた決して我々と同じ生物としての人間ではなく、「優秀でやや変人な探偵」一般の寓意と考えることになる。

次に第二に「種」について。種とは生物学的な意味合いのタームと考えて頂いて構わない。つまり、具体的な個体ではなく、それらが共通して持つ特徴だけを抽出して構成した類型としての分類のことだ。例えば、「ダックスフント」という種について考えよう。わたくしが飼っている「ダッちゃん」「フンちゃん」の二匹が持つ体毛の色や体型は各個体によってまちまちで、命題Hが定まらなかったのと同様、一意な合意は得られそうもない。だが、その一方で「四足歩行である」「胴が長い」といった共通する特徴もあり、それら共通項だけを取りまとめたものが「ダックスフント」という種であると考えられる。この種においては、具体的に実現される個体から一致する性質だけを抜き出して記載しているのであるから、不完全である方がむしろ自然だ。これをキャラクター一般に適用してみると、『シャーロック・ホームズ』という小説で描かれる「シャーロック・ホームズ」とは要するに一部の性質だけを記した「シャーロック・ホームズ種」に過ぎないという見方ができる。

最後に第三の「理論的対象」について。これは物理学における「光子」や「ニュートリノ」と類比的に考えて頂ければよい。そうした理論的なタームが指す対象が実在するかどうかはまた厄介な議論を呼び込むのであまり言及したくはないのだが、少なくとも理論的対象は知覚によって直接観測されるものだけに限られるわけではない。理論的対象の中には、観測の産物というよりは理論的な枠組みの中で存在を予言される仮説的な存在者に過ぎないものも多くあるだろう。つまり、「光子が存在する」という主張は「物理学理論においては光子が存在することになっている」という読み替えを要求する。こうした存在者については実際に存在を主張しているのではなく、括弧付きで理論上での存在を主張しているのに過ぎないのであるから、その性質が理論に依存して不完全なものであることには問題が無い。これをフィクションに適用すると、「ホームズが存在する」という主張は「文学的な解釈や読解においてはホームズが存在する」へと読み替えられる。それはホームズそのものへの言及と言うよりは理論的な枠組みを経由した間接的な言及となり、我々が文学的な営みの対象にする限りにおいての存在であるから、現実の事物と異なって不完全であることにはやはり問題が無い。

さて、Vtuberに対してこれらの案を適用してみよう。

まず第一に、Vtuberを寓意と見做すことはあまり有望でないように思われる。というのも、キャラクターを寓意と捉える見方は「キャラクターやイベントが何を象徴しているのか」という象徴的な水準での読解を要求するからだ。太陽も北風も一連の営みがあって初めて優しさや厳しさの寓意を帯びるのであって、単独で見たところで何を示しているのかはわからない。つまり個々のキャラクターというよりはそれが物語全体の中でどのような位置付けを占めるかに関心があり、物語的構造の中でキャラクターが取るポジションこそがそれが何を寓意としてカリカチュアしたものかを定めるのである。このように、寓意という見方はキャラクターよりもプロットを重く見ることを前提するのだが、Vtuberにおいては明らかにキャラクターがまずありきで、その後にキャラクターの行動が決まってくるという手順の逆転がある。キャラクターがどのようなプロットを描くかは常に開かれており、いつまで待っても物語的構造が確定することはない。よって、Vtuberを寓意とする見方は不可能とは言わないにせよ、極めて親和性が低いように思われる。

補足25:とはいえ、いわゆる「属性」として性質のカリカチュアライズがVtuberに纏わりついていることも紛れもない事実であり、「属性」と「寓意」の違いについてはもう少し綿密な議論をしてもよいようにも思われる。これはあまり自信のない暫定的な回答ではあるが、わたくしにとってはその存在全てがある性質で尽くされるような場合は寓意であり、逆にせいぜい存在の一部をある性質が占めるに過ぎない場合を属性と呼ぶのが直感に合っている。不完全性の議論に合わせるならば、寓意がある性質に尽くされない部分を空白として放逐する一方、属性はむしろ空白部を補充することを前提としているように思われる。

次に第二に種について。Vtuberを種と見做すことは、寓意よりはまだ見込みがあるように思われる。というのも、実際にVtuberが命題Hのような暗黙の未確定設定だけではなく、明示したはずの設定ですらも変更して、パラレルな個体として自らを示すことは珍しくないからだ(この括弧内では特殊な事例として言及するが、黒上フブキがそれである)。ビジュアルとそれに付随するいくつかの設定についてのVtuberのマイナーチェンジはよく行われるところであり、この営みを「本来は種であるキャラクターが放送の回に応じて異なる下位種ないし具体物を生成している」と解釈することに何ら不都合はないように思われる。さて、「個々の事例を分析する各論はやらない」と冒頭で宣言したが、今から三センテンスだけその誓約を外すことを許して頂きたい。というのも、キズナアイという例外的なVtuberに限って言えば、「キズナアイとは個体ではなく種である」と述べるのはほとんど事実であるように思われるからである。周知の通り、キズナアイは全く同じ見た目を持つキズナアイの下位種をいくつも生産して同時並行的に動画配信を営んでおり、せいぜい共通項を括り出すだけの種の名前として「キズナアイ」という固有名を運用している。これは明らかに虚構的存在者の不完全性を逆手に取った営みであり、影響力に鑑みればここで言及しないわけにもいくまい(ここから再び誓約をかける)。

最後に、第三の理論的対象にもかなりの説得力があるように思われる。わたくしにはこれを否定する強力な根拠はあまり思い付かない。というより、わたくしが今まさに書いているこの文章が理論的な営みであるという点で、この説を語ろうとするときそれは常に自己言及的な正統性を主張できてしまうという繰り込まれた構造がある。逆に言えば、わたくしが今まさにそれをしているということ以上にどのような合理性があるかについてはわたくしには手の余る議題であり、いずれ検討が行われることを期待したい。

補足26:なお、このように空白を含む存在者としてVtuberを捉えるのであれば、(わたくしの当初の想定とは異なり)Vtuberは虚構世界ではなく現実世界に存在すると考える路線を取ることもできる。というのも、Vtuberが我々と同じように特定の時空間を占める具体的存在者として現実世界に存在することは有り得ないというだけで、「ダックスフント種」のようにもう少し抽象的な存在者であれば、現実世界に所属していると考えることに不都合はないからだ。我々との相違点を収拾するための選択肢が「所属する世界」「存在者のタイプ」の二つあると表現してもよいかもしれない。

さて、ここまでは世界の不完全性を積極的に認めてしまう道について論じてきたが、それとは全く逆に、そもそも世界の不完全性を認めない道もあると数段落前に予告したことはまだ覚えているだろうか。その第二の道が意味するのは、Vtuberには世界の完全性を担保できる可能性、すなわち世界内のあらゆる命題について真偽を定められる可能性があるということだ。何故なら、我々は命題Hのように真偽の判然としない命題を見つけたら、当事者のVtuberにそれが真か偽かを聞けばよいだけだからである。「白上フブキの髪の本数は奇数である」という命題の前で頭を悩ませるよりも前に、白上フブキに直接「髪の本数は奇数ですか?」と聞けばよいのだ。しつこく赤スパを送り続ければ、白上フブキが自分の髪の毛の本数を数えて「奇数でした」とか返答してくれることもあるだろう。それでめでたく命題の真偽が確定する。原理的には、これを繰り返すことで世界と存在者の完全性を担保できる。

すなわち、Vtuberが持つ「双方向のコミュニケーションが可能である」という性質は、世界及び存在者を構成する命題の集合という観点からは、「完全性を担保できる」という性質として発現しうる。これはキャラクター自身が質問と回答を受け付けるVtuberに固有の特徴であり、フィクション一般とは明確に異なると言ってよい。むろん、実際には無限の時間がかかる作業を終えることは不可能だろうが、実現可能性が無いことは現実における命題の確定と同じことだ。経験的に可能かどうかではなく原理的に可能かどうかが問題だということは既に述べた通りである。

補足27:賢い読者Aは、Vtuberがリスナーへの応答によって空白を補充する営みは、作者が作品の解説によって空白を補充する営みと何が違うのかを疑問に思うかもしれない。「久保帯人TwitterBLEACHに関する質問に無限に答える」という作業でも虚構世界内を原理的には無限に充実できるという意味では同じことではないかというわけだ。しかし、わたくしにとって決定的な違いは、第二節でしつこく注意したように、Vtuberの例では演者や作者という視点を持ち出さずに空白を補充できる点にある。実際、「空白を補充するのは白上フブキではなくMさんではないか」という反論に対しても、わたくしは「Mさんとは誰ですか」と切り返すことができる。

補足28:賢い読者Bは、応答によって空白を補充できるタイプのキャラクターはVtuberに限ったことではないことに気付くかもしれない。例えば、くまモンのようなゆるキャラがそうだ。くまモンもまた、「体毛の数は奇数ですか?」という質問に対して100%の精度で作者を持ち出さずに真偽を確定できる(なお、そこで問われているのは着ぐるみに生えている毛の本数ではないことは言うまでもない)。これに関しては、少なくとも虚構世界に完全性を担保するという議論においてはVtuberゆるキャラは同様に理解できることを認めざるを得ない。つまりわたくしはそれをVtuberならではの特徴ではないことを認めることになり、あとは感覚的な類似ではなく論理的な議論によって意外なところに隣接領域があることを発見できるのも一つの成果だという逃げ口上を残すことしかできないようだ。

こうして、白上フブキを完全な一世界に住まわせることは原理的に可能であり、シャーロック・ホームズとの対比という観点から言ってそれはかなり魅力的かつ有力な提案であるように思われる。残念ながら、次節においてはフィクション一般との比較検討を行いたいという便宜的な理由で世界の集合を扱うことになるが、完全な一世界を構成する方向でVtuberの存在に関する議論を深めて頂いても一向に構わない。

この節の議論をまとめておこう。世界を命題の集合と捉えたとき、フィクションにおいては世界の不完全性をどう処理するかという問題が生じてくる。大枠としては我々はフィクション一般において最も穏当と思われる道、つまり作品によって提示されるものを一世界というよりは世界の集合として捉える戦略を採用して次節に進む。だが、その副産物には実り多いものがあり、不完全性をむしろ積極的に認めたり、逆に不完全性を完全に棄却したりする路線を取る可能性においてもVtuberの独自性を見出すことが出来よう。

5.白上フブキは狐なのか:虚構的命題の真偽

前節では、Vtuberが所属する世界の完全性について検討した。他のフィクション一般と異なって一世界を取ることができるとする提案は極めて魅力的であるが、以下の議論では決定不能な命題のバリエーションを全て備えた世界の集合が提示されると考えることにしておこう。

本節では命題の真理値について考える。言うまでもなくその検討の対象はVtuber自身ないしVtuberの所属する世界に関する命題だが、とはいえ、その中にも改めて検討する価値のあるものとそうでないものがある。すなわち、命題の真理値の怪しさにもいくつかの水準があるのだ。我々が最初に行う必要がある作業は、世界の不完全性の議論において「シャーロック・ホームズは男性である」と「シャーロック・ホームズの髪の毛の本数は奇数である」を区別したように、真偽が自明に確定する命題とそうでない命題を峻別することである。

この作業はそこまで困難ではないと思われるかもしれない。というのも、当の作品がはっきり提示するものを前者、そうでないものを後者とすればよいだけのように思われるからだ。小説においては単にテクストに表記されているかどうか、Vtuberにおいては主にVtuber自身が自己申告したかどうかで区別できるだろう。概ね、白上フブキ自身が断定している事柄については真であるとしてよいように思われる。

とはいえ、これは決してVtuberに限ったことではないのであるが、ただちにここで問題になるのが、いわゆる「信頼できない語り手」の問題である。というのは、語り手が嘘を吐いていた場合、つまり虚構世界の実態と異なる報告を行っていた場合、何が真で何が偽なのかが全くわからなくなってくるということだ。わたくしはVtuberの発言は時に過去の発言を覆すことも含めて常に更新されていくと述べてきた以上、ここで都合よく白上フブキは絶対に嘘を吐かないと信じてしまうわけにもいかない。

一見すると、信頼できない語り手に関する話題は語用論に属する問題として棄却してよいように思われるかもしれない。すなわち、発話に嘘を含めるかどうかは純粋に言葉の使い方の問題に過ぎないため、我々の関心対象ではないという逃げの一手が打てると思われるかもしれない。しかし、今考慮しなければならない信頼性の問題は作者や演者ではなく虚構的存在者に紐付いたものである。第二節でも述べた通り、立場上わたくしが棄却できるのは演者の言語使用のみであり、キャラクターの言語使用においては立ち止まって検討しなければならない。

しかし、この問題をこれ以上深堀りすることは難しい。『シャーロック・ホームズ』でも語り手のワトソンは完全なる薬物中毒者で、記述の一切は彼の妄想の報告に過ぎないとしてしまうことは不可能ではないが、それは不毛な懐疑論というものだ。その極論とVtuberに固有の発話の自由さを同一視することがフェアではないことは承知しているが、最大限譲歩してVtuberが完全に信頼できる権威ではないということを念頭に置いた上でなお、常識的な判断によって一部の命題は自明に真であることにできるとしておこう。

少し脱線が長くなったが、わたくしが今言わんとしていることは、フィクション内で自明に真とできる命題が一定数存在する一方で、そうではない命題の真偽をどのように考えるかが我々の関心事だということだ。その区別は前節で世界の不完全性の議論に際して行った区別と完全に一致しており、前者がある作品が提示する世界の集合全てで真である命題、後者が個々の世界によって真偽がまちまちな命題に対応する。

前提を整理したところで本論に入っていこう。フィクションにおける真偽は通常、反事実的条件を含む命題の解釈と類比的に捉えられる。よって、しばらくは現実における反事実的条件を含む命題について考えよう。

命題T:「もしスカイツリーがいきなり倒れたら、少なくとも数十人の犠牲者が出るだろう」

この反事実的条件を含む命題Tは真であるように思われる。スカイツリーがいきなり倒れたら展望台に登っていた観光客はだいたい皆死んでしまうだろうし、下敷きになった墨田区民も無事ではいられまい。

さて、例によって、命題Tの真偽そのものはそこまで重要ではない。ポイントはいまわたくしが命題Tを解釈するにあたり、スカイツリーが倒れたという一点以外は現実となるべく一致するように想定したということだ。というのも、わたくしはスカイツリーがいきなり倒れるような空想の世界について考えているのだから、スカイツリーが倒れた瞬間にフワフワのマシュマロになる世界とか、スカイツリーが倒れた日だけ奇跡的に誰も来場者がいなかった世界を考えても良さそうなものだ。それらのケースではスカイツリーが倒れても死者はそう多く出ないだろうから、命題Hは偽と言っても構わないことになる。だが、我々は通常そうしない。命題Hを解釈するにあたっては「反事実的条件以外は現実に合わせて温存したまま後件の真偽を考える」というルールで解釈を行うことになっている。今は我々が何故かそう解釈してしまうと言う認知的な問題については深堀りしない。重要なのは、ともかくそのような機構で反事実的条件の解釈が行われるということだけだ。

これをフィクションに適用してみよう。

命題P:「『シャーロック・ホームズ』の世界において、ペンギンは卵生で繁殖する」

は真か偽か。これは恐らく真であるように思われる。

補足29:わたくしは『シャーロック・ホームズ』内でペンギンの生態についての言及、例えば「ペンギンは雌雄が番になって卵を産む」とか「ペンギンは分裂して増える」とかが記載されていないという前提で以下の話を進める。しかし全てを読んで確認したわけではないので、万が一どこかでホームズやワトソンがペンギンの生態について言及していたとしたら、わたくしは甚だ不適切な例を選んでしまったことになる。

何故なら、現実世界においてペンギンは卵生で繁殖するからである。『シャーロック・ホームズ』はどうせフィクションなのだから、ペンギンが胎生で繁殖する世界でもいいいだろうとは我々は通常は考えない。「フィクションにおける設定以外の部分は現実に合わせて温存したまま後件の真偽を考える」というのが我々の流儀なのである。

既に察しは付いているだろうが、命題Tと比較して考えたとき、命題Pのケースにおいては「『シャーロック・ホームズ』の世界において」という前件が反事実的条件として機能していることがわかる。つまり、フィクションの設定というのは「そのようなキャラクターは現実にはいない」とか「そのような事件は現実に起きていない」という点において事実に反しているという意味で反事実的条件の一種であり、その真理値決定方法を受け付けると理解できる。

ここで、前節で主張して冒頭でも確認した通り、フィクション一般が提示するのは単一の世界というよりはむしろ世界の集合であったことを思い出そう。それらの世界においては「ワトソンはホームズの助手である」のように作中から明らかに真とされる命題については全て真であるが、「ペンギンは卵生である」のように真偽の明確でない命題についてはそれを真とする世界と偽である世界が混在している。もう少し具体的に言えば、『シャーロック・ホームズ』を表現する世界の集合の元である世界3では真なる命題として「ワトソンはホームズの助手である」「ペンギンは卵生である」が含まれており、世界4では「ワトソンはホームズの助手である」「ペンギンは胎生である」が含まれているとする。

更に加えて、少なくとも我々が行った「虚構的に真」の定義によれば、フィクションにおける命題の真理値を決定することは、どの虚構世界(群)を真理値の判定に用いるかを決定することと等価である。というのも、極めて簡単な話で、わたくしが世界3を命題Pの真理値判定に使うことにすれば『シャーロック・ホームズ』の世界でペンギンは卵生だし、世界4を使うことにすれば『シャーロック・ホームズ』の世界でペンギンは胎生なのである。そして、実際のところわたくしは世界3を用いることが妥当であり、それは世界4よりも世界3の方が現実世界に近いからなのだった。

以上の考察を踏まえて、わたくしは以下の法則を得る。「虚構作品における命題の真理値は、虚構作品が提示する世界の集合のうち、最も現実世界に近い世界における真理値と一致する」。無数に想定できる世界の集合に対して、現実世界がいわば基準座標として振る舞い、そこからの不要な逸脱を禁ずるのである。この法則を用いれば『シャーロック・ホームズ』の世界においても恐らくソクラテスは毒杯を服したのであろうし、水素二つと酸素一つが結合すると水になることが言えよう。少なくとも、それは『シャーロック・ホームズ』の世界ではソクラテスは毒杯ではなくギロチンで死んだのだと主張したり、水素二つと酸素一つが結合すると金になるような独特の化学法則が働いているのだと主張したりするよりはもっともらしいと思われる。

だが、これがある程度は正しいだけの原則に過ぎないことは、以下のような状況を考えることで明らかになる。例えば、あなたがありふれた没個性的なファンタジー小説を読んでいたとして、その作中で角と翼を持つ馬のような生き物、いわゆるペガサスが初めて登場したとする。先ほどわたくしが発見した法則によれば、このペガサスは空を飛ぶとは考えられない。というのも、可能な限り現実に引き付けて考えるのであれば、そのペガサスは我々のよく知る馬に角と翼のように見える異常な器官が生えた変種に過ぎず、そのような生物が空を飛ぶことは物理的に考えて有り得ないからだ。ライト兄弟とて、あの決して大きくない翼が馬の体重を支えて安定飛行できるとは考えるまい。つまり、ペガサスが空を飛ぶと考えるためには物理法則の大幅な改変という現実世界からの重大な逸脱を要求するので、現実に沿おうとする限りはペガサスは飛ばないと推測されるのである。だが、ストーリーを読み進めていくうちにそのペガサスが空を飛んだとして、あなたは驚くだろうか。「まさか角と翼のような部位を持つ馬の変種が空を飛ぶなんて予想外だ」と言うだろうか。言うわけがない。ペガサスは空を飛ぶものだ。ペガサスが登場した時点でどこかで空を飛ぶことは予想されていた事態であり、むしろ飛べない方がファンタジーとしては新鮮ですらある。

法則と矛盾したこの事態を収拾するのはそう難しくない。先ほどの法則を改訂し、現実世界だけではなくファンタジージャンル一般の共通認識を集めた最大公約数的な世界(そこではペガサスが空を飛ぶ)もまた基準座標として採用でき、そこからの逸脱が禁じられることもあると考えればよい。こうした、基準座標とする世界には様々なマイナーチェンジがあり得る。例えば、天動説が信じられていた時代に書かれた小説においては明示的な記述がなくても太陽系の惑星は地球の周りを周っているだろうし、スピリチュアルパワーの実在を信じるコミュニティで描かれた小説においては明示的な記述が無くても超能力とかテレパシーが用いられていると考えるべきだ。こうした事例を全て拾い上げるのには労力がかかるので、これらは共有された信念の世界、共有信念世界とでも言っておこう。これにより、先に得た法則を少し改善し、「虚構作品における命題の真理値は、虚構作品が提示する世界の集合のうち、現実世界か共有信念世界に近い世界における真理値と一致する」というバリエーションを用いたい。

補足30:世界間の距離、すなわち「現実世界に近い」「共有信念世界に近い」とかいう類似性がどのようにして定まるかという具体的な検証法を論じることはここでは避ける。というのも、それには本筋を逸脱した長大な議論が必要になる上、わたくしには誰もが納得するような原則を提出することは不可能であるように思われるからだ。物理法則の有効性を信じることと物理法則の個別的な方程式を理解することは別のことであるとして溜飲を下げて頂ければ幸いである。

補足31:また、一つに定まる現実世界とは異なり、共有信念世界は単一の世界というよりは境界が確定しない共有信念世界群と呼んだ方が適切であろう。ジャンルや時代や地域によって共有信念が変化することは暗に指摘した通りだが、それは連続的に変化するものであって、ある小説に用いる共有信念がこれであると確定できないことは明らかだ。とはいえ、それは議論の大勢に影響を与えないので、さしあたっては現実世界と類比的に記述する便宜のために共有信念世界は一つであるかのように書くことを許して頂きたい。

補足32:この法則によって一部の真偽不明な命題については真理値を推測できる一方、それは全ての真偽不明な命題に対して真理値の推測を可能とするわけではないことに注意されたい。この法則を信頼したところで命題H「シャーロック・ホームズの髪の本数は奇数である」には依然として答えが出ない。というのも、現実世界ないし共有信念世界において、ホームズの髪の毛の本数を云々する世界は特に存在しないからである。

さて、Vtuberにおける曖昧な命題に対する真理値の判定も、原則的にはフィクション一般のそれと一致する。つまり、「Vtuberにおける命題の真理値は、Vtuberが提示する世界の集合のうち、現実世界か共有信念世界に近い世界における真理値と一致する」。ただし、Vtuberにおいては判定に使われる基準の世界が現実世界か共有信念世界かが明確に定まっておらず、それら二つの間でのいわば綱引きが恒常的に行われていることが特徴的だとわたくしは主張したい。

それはフィクション一般においては現実世界と共有信念世界のどちらを判定に使うか迷うようなことがほとんどないのとは対照的である。というのも、フィクション一般では表記されている情報ならまだしも、表記されていない情報に関しては無用な混乱をもたらさないように制御されているからだ。ペガサスが登場したにも関わらずそれが飛ぶか飛ばないか、どういった性質の生物であるかイマイチよくわからないファンタジー小説など読みにくくて仕方ないだろう。大抵の場合はペガサスは共有信念世界に依拠して飛べることに決まっているだろうが、例外的なケースでも現実世界に依拠して飛べないことに決まっているのであり、どちらに依拠するのかがよくわからずに読者を困惑させるような小説は単に技術的に未熟であると判断せざるを得ない。

補足33:これがかなり粗雑な第一次近似であることは了解している。むしろ現実世界と共有信念世界が異なることを利用して叙述トリックめいたギミックを作ることができたり、その境を曖昧にすることそのものを楽しむジャンルとして幻想小説があったりすることをわたくしは認める。他にも、ギャグ漫画で窓から飛び降りたキャラがコマの隅で普通に骨折しているというギャグはその典型である(ギャグ漫画の共有信念世界に寄せれば骨折しないのだが、現実世界に寄せれば骨折するというギャップに面白さがある)。ただし、それはあくまでも例外的な営みであり、いわば王道に違反しているために価値を持っているのに対し、Vtuberの場合はむしろジャンルの典型例としての現象を発現する恒常的な営みである。

しかし、Vtuberの場合は真理値の判定において依拠すべき世界が一定しておらず、発話のたびに付随情報が真か偽かわからない事態をもたらす。例えば、白上フブキが「自分は狐である」と言ったとして、それに関連して明言はされていないが真偽が曖昧な命題はいくつか考えられよう。狐の生態を踏まえ、「白上フブキは四足歩行する」「白上フブキはエキノコックス症を媒介する」「白上フブキは食事を穴に埋める」「白上フブキは昆虫を食べる」あたりが手頃なものとして挙げられる。要するに、現実的な狐の性質に関する命題である。これらの真偽を判定するに際して現実世界に依拠すれば、白上フブキは狐であるというフィクションに特有の仮定を除いてあとは現実と一致するものと考えることになるため、上に挙げたような命題は全て真であると推測される。

補足34:視覚的に得られる情報によって命題の真偽を得る路線、つまり「配信を見る限りは白上フブキはほとんど人間と同じような身体のつくりをしているし四足歩行しない」というような推論は無視してもよいとまでは言わないが、一時的に効力を大きく減じる分には全く構わない。というのも、我々は原則として言語的営みとしてVtuberを捉えることは既に述べた通りであり、視覚情報も言語情報に変換することで間接的に対象にできるにせよ、その変換に全幅の信頼を置く動機は我々にはないからだ。

だが、共有信念世界においてはその限りではない。オタク界に流布している共有信念世界は多様であり、一意に同定することは困難であるものの、「自分は狐である」という発話が「擬人化」というジャンルに依拠していることは多くの者が認めるだろう。何らかの超常的原因によって動物が人間の(大抵は少女の)姿を得るそのジャンルにおいて、元の動物の性質は極一部だけが受け継がれる。共有信念世界において、狐という自称は実際には「狐娘」という架空の生物種を意味し、狐娘は大抵は二足歩行し、エキノコックス症を媒介せず、食事を穴に埋めず、昆虫を食べたりもしないという事情によって、白上フブキもまた同様であると考えられる。

よって、「白上フブキは昆虫を食べる」は現実世界に依拠して考えれば真だが、共有信念世界に依拠すれば偽である。そうした、基準座標とする世界が曖昧であるが故に命題の真偽も曖昧である事柄について積極的に言及することがいわゆるロールプレイである。例えば白上フブキが「わりと虫とかも食べますよ、狐だし」と述べることは個人的にはかなり面白いロールプレイだと思われるのだが、このときに何が起こっているのかと言えば、命題の真理値の決定が現実世界に依るか共有信念世界に依るかが不確定であるという前提の下、どちらかと言えば後者側で解釈されていたことをあえて前者側に寄せて真理値を変更することに意外性が見出されているのである。

加えて、何度も述べてきたようにVtuberは設定を時々刻々と更新する運営型のコンテンツであるから、共有信念世界の内実も日々更新されている。つまり、虚構的命題の真理値決定にかかる要素の動的な変化はスケールを変えて二重に起こっている。第一にマクロに見ればVtuberの解釈にあたって何を共有信念世界とするかの合意が移り変わり、第二にミクロに見れば各動画の中でロールプレイによって各命題が現実世界と共有信念世界のどちら寄りに判定するかというウェイトが揺れ動く。

補足35:共有信念世界が変遷する具体例を一つ挙げると、2018年頃にはVtuberの共有信念世界はサイバーな世界観が支配的であったためにAIとか電脳少女とか電脳巫女が大量発生したのに対して、現在は共有信念世界が更新されて電脳的なものはだいぶ脱色されているように思われる。

本節の議論をまとめよう。本節では、虚構的な命題の真理値を定めるにあたってフィクション一般で行われる反事実的条件の解釈方法を用いて、ロールプレイという営みが真理値決定に際しての現実世界への依拠と共有信念世界への依拠が一意に決まらないことを利用したものであることを明らかにした。逆に辿るなら、ロールプレイの萌芽は実は演者を想定せずともフィクション全般に見られるものであり、それは反事実的条件の解釈に端を発しているということでもある。

6.まとめと参考文献と言い訳

以上、Vtuber存在論と意味論について長々論じてきた。その議論の大枠は冒頭にも記載したので省略するとして、各節でVtuberのどのような性質に注目したのかは議論を終えた今再確認する価値があるように思われる。第三節でVtuberの存在を直接指示する可能性を論じるにあたっては、性質が日々更新されていくという潜在的な可能性の開きに注目した。また、命名儀式の有効性を主張するに際してキャラクター自身が自分から我々に固有名を受け渡すというコミュニケーションの営みが指示の固定と伝達という目的に照らして強力であることを見た。第四節でも、世界の完全性を論じるにあたってVtuberが我々とコミュニケーションできることがあらゆる命題の真理値を一義的に確定しうることがわかった。第五節では、命題の真理値を論じるにあたって、Vtuberが現実世界と共有信念世界の綱引きを利用して自らの持つ性質を積極的に変更したり消極的に曖昧なままにしておけることがロールプレイの意外性を導くことを見た。

加えて、わたくしの議論の枠組みがどういった点でVtuberと類縁的と思われるものの分析と差別化していたのかも改めて主張しておきたい。まず、わたくしは一貫して演者の言語使用ではなく主にキャラクターの意味論を論じてきたことによって白上フブキをMさんのような演者と区別した。次に、わたくしはVtuberが現実世界に存在するのではなく虚構世界に存在するという前提を可能な限り擁立する道を探ることによって白上フブキをソクラテスのような実在の人物と区別した。最後に、わたくしは性質の連続的な更新やコミュニケーション可能性に注目して存在の様式や真理値決定方法を論じることで白上フブキをシャーロック・ホームズのような古典的フィクション一般のキャラクターと区別した。

最後に、わたくしがそれによって不本意な評価を被ることが想定される生じうる誤解について、保身のために弁解することを許して頂きたい。

第一に、わたくしはVtuberではこれこれこうしたことができるのだという新現象を発見することに対して労力を割いたのではない。ここで挙げた事例は何年も前から誰もが知っていることであり、むしろよく知られた事例がわたくしの関心のある問題設定の下でどのような効果を発動するのかを分析することに主眼がある。よって、現象としては読者に全く既知の事柄ばかりを列挙して退屈させたことについては弁明のしようもないし、本稿は「だからVtuberは凄いんだ」系の言説としてもあまり機能するものではないが、逆に言えば、既にVtuberにある程度詳しい者に対して「そういう見方もあるな」と思わせることが出来たならばこれ以上の喜びはない。

第二に、そうしたよく知られた現象について、わたくしの論は既によくある語用論的な分析を否定するものでもなければ後追いするものでもない。わたくしが示したかったのは、演者の言語使用という水準で議論されることが多かった論点に関しても、意味論や存在論の水準から光を当てることによって、キャラクターとしてのVtuberそれ自体を解釈する可能性が開けてくることである。例えばその成果の一つとしていわゆるロールプレイの解釈があり、従来はそれが演者がキャラクターであるかのように演じる意図を持って発する発言であるというような形で主に語用論の水準で扱われていた。しかし、その事態を意味論的に解釈すると、フィクション一般における虚構的命題の真理値を判定する方法の応用として、演者に言及せずとも意外性の源を突き止めることもできるのである。

本節の残りは参考文献の提示に充てたいのだが、その前置きとして長々とした弁明を書かねばならないことはわたくしにとっても読者にとっても若干憂鬱である。何故ならば、それは先ほどの誤解を防ぐための安全弁とは異なって本物の言い訳であるからだ。
まず何よりもお詫びしなければならない点として、わたくしは本文中で先人の議論を参照する際に怠惰にも適切な参照元を明示しておかなかった。むろん、他の誰かが書いた文章の一節を引用符にも入れずに完全に引き写すような最悪の痴態を晒してはいないことはわたくしの誇りに懸けて断言するにせよ、論点や論理展開に関してそうと明示することなく参照している内容が多くあることについては陳謝しなければならない。本来であれば、参照元が新しく現れるたびに最初にそれを言った偉人のテクスト名とページ数くらいは付記しておくのが作法というものだ。それを行わない怠惰は学術論文であれば到底許されないことであるが、わたくしがこの寄稿依頼を受けてから締め切りまでの間に一次文献を精査して主張がどのページでどういう文脈で述べられているかをリストアップする作業はとても間に合わなかったし、言いづらいことを本当に正直に言えば、特に何かの箔が付くわけでもない寄稿文にそれだけの労力を支払うのはとても見合わなかったということがある。もちろん物によっては手元にある一次文献のページを捲ることも可能だったのだが、一部だけそれをしてしまうと、却って逆に何も引用を付与していない部分が全てわたくしのオリジナルであるかのように見られかねないため、本文中では参照元についての記述を一切省き、その代わりに最後に最大の弁明を図るという方針を取ることにした。だが、根本的にわたくしは本来は情報系の出自であり、哲学など完全な門外漢であるから、それすらも孫引きであるものが多いことについては今度こそ全く弁解のしようもない。同じ理由で、議論の細部が粗雑であったこともわたくしにも全て責がある。正直なところ、そもそも固有名が指示を行うという前提自体が別に自明ではないとか、固有名の意味から命題の意味が定まるのではなく順序が逆だとか、命題の真理値自体と真理値の決定条件は別物だとか、存在論というより指示論ではないかとかいうような諸々の欠陥は、議論の簡単のために省略されたのか、それともわたくしの力量不足でなおざりになったのかはわたくしにも判然としない。そして、そうした瑕疵についてはわたくしは最後の手段を取ることにしたい。すなわち、共にホワイトボードの前で本稿の内容を吟味したサイゼミ一同に深く感謝すると述べることにより、わたくしが独占していたはずの責任の一部を彼らに分散させるのである。

三浦俊彦『虚構世界の存在論勁草書房, 1995.
清塚邦彦『フィクションの哲学 〔改訂版〕』勁草書房, 2017.
・ソール・A・クリプキ, 八木沢敬(訳), 野家啓一(訳)『名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題』産業図書, 1985.
・マリー=ロール ライアン,岩松正洋(訳)『可能世界・人工知能・物語理論』水声社, 2006.
・藤川直也『名前に何の意味があるのか: 固有名の哲学』勁草書房, 2014.
・ケンダル・ウォルトン, 田村 均(訳)『フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―』名古屋大学出版会, 2016.

 

後日追記:延長戦

saize-lw.hatenablog.com