LWのサイゼリヤ

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21/9/23 「白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか」延長戦

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「白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか」延長戦

saize-lw.hatenablog.com

ありがたいことにこの前書いた記事(『フブかつ』)へのレスポンスとそれに触発された記事を貰ったのでそれについて書きます。
ちなみにキーラ氏は友人の師匠(?)で、稀にdiscordでコミュニケーションすることもある知り合いの知り合いくらいの方です。僕が今まであまり一貫性なくバラ撒いてきた文書も読んで頂いて発展的な御指摘を頂けるのは非常に嬉しいです。ありがとうございます。

文中でたまに引用される『Vだけど、Vじゃない!』(『VV』)というのは僕が以前に書いたVtuberを題材にした短編のことです。

kakuyomu.jp

こうして使うつもりで書いたわけではないですが、確かに言われてみれば僕のVtuberの設定に対するスタンスと認識がよく滲み出ていて、他でもVtuberの話をするときに「それVVじゃん」とよく言われるので読んで頂いても面白いと思います。

 

1.絶えず自壊する泥の反論集:インタラクティヴィティと論理的(不)完全性

keylla.hatenablog.com

『泥反』からの指摘は以下の4点です。わかりやすく番号を付けて頂いたので答えやすくて助かります。

  1. LW氏は、「正典に依拠する情報かどうか」と「公式設定かどうか」とを混同しているのではないか
  2. LW氏は、発言の信頼性と正しさとを混同しているのではないか
  3. LW氏は、フィクションがもつ時間と我々が持つ時間とを混同しているのではないか
  4. LW氏は、キャラクターが世界に所属するものという前提をとっているが、果たしてこの前提は我々にとって有益だろうか

全体的に、僕が「このあたりまでは厳密に書けるけど、ここから先は怪しくなるからバレないように誤魔化しておくか」と思ってお得意のレトリックで誤魔化した部分が看破されているというのが率直な感想です。
『フブかつ』に限ったことでもないですが、僕は普段から一貫性を最重視して断定的な論を立て、多少の違和感や不整合はレトリックや補足に押し込んではぐらかす傾向があります。これは恐らく理系出身者の悪癖であり、デメリットよりメリットの方が勝ると思っているので直すつもりは無いですが、これで騙されてくれない賢い友人からは「お前ここ誤魔化しただろ?」「ここ本当に思ってるか?」と突っ込まれて開き直ることが割とよくあり、今もそのタイプの状況に追い込まれています。

よって今から僕が行うのは「この指摘は論理的にどうこう」という明晰なレスポンスではなく、主にそうせざるを得なかったモチベーションの説明や、原因や代替案についての共有です。応答する言葉のレイヤーが当初の『フブかつ』とズレていて、全体的に一つ水準が高い楽屋裏的なメタトークになります。そのあたりの温度感はキーラ氏も正しく汲み取っており、「正当に排除されてきたトリヴィアルな状況への言及」「LW氏のとった前提のちょっと外側に位置する話をしよう」と仰っています。恐らくこれを言ったら泥仕合になるだろうという正しい予感が記事タイトルにも現れているのはいいですね(主に推論の論理的正当性を巡る反論ではなく、前提を破棄するタイプの反論なので)。

以下の内容は全て『泥反』を読んだ前提なので先に読んでおいてください。

 

1-1.LW氏は、「正典に依拠する情報かどうか」と「公式設定かどうか」とを混同しているのではないか

そうですね(上に前置きしたような事情により、以下のレスポンスは全て「そうですね」から始まる気がします)。

『フブかつ』でも若干触れましたが、これは恐らく文学界隈で言うところのいわゆる「信頼できない語り手」の問題だと思います。
一応雑に説明しておくと、読者に対して情報を発信している者が嘘や勘違いや精神疾患等の何らかの事情によって正しい情報を寄こさないために信頼できない状態のことを指します(なおキーラ氏の認識とは異なり三人称視点の地の文ですら生じることが知られていますが、「地の文かどうか」という話題は小説技巧的なものに過ぎずあまり重要ではないので省略します)。白上フブキの発言も正典だからといって信頼できるとは限らないため、ただちにその自供を公式設定と同一視することは問題があるという話です。
これは仰る通りで、特に僕は白上フブキが実際に存在する女の子であるという立場を取りたいので、なおさら彼女の発言に全幅の信頼を寄せることには問題があります(実際に存在する女の子は正しい情報を報告するとは限らないため)。実際、僕も白上フブキの報告が信頼できない可能性は考慮した方がいいとは思いつつも、そのレベルでの真理値の検証は困難であるという理由で諦めています。以下は『フブかつ』からの引用です。

とはいえ、これは決してVtuberに限ったことではないのであるが、ただちにここで問題になるのが、いわゆる「信頼できない語り手」の問題である。というのは、語り手が嘘を吐いていた場合、つまり虚構世界の実態と異なる報告を行っていた場合、何が真で何が偽なのかが全くわからなくなってくるということだ。わたくしはVtuberの発言は時に過去の発言を覆すことも含めて常に更新されていくと述べてきた以上、ここで都合よく白上フブキは絶対に嘘を吐かないと信じてしまうわけにもいかない。

一見すると、信頼できない語り手に関する話題は語用論に属する問題として棄却してよいように思われるかもしれない。すなわち、発話に嘘を含めるかどうかは純粋に言葉の使い方の問題に過ぎないため、我々の関心対象ではないという逃げの一手が打てると思われるかもしれない。しかし、今考慮しなければならない信頼性の問題は作者や演者ではなく虚構的存在者に紐付いたものである。第二節でも述べた通り、立場上わたくしが棄却できるのは演者の言語使用のみであり、キャラクターの言語使用においては立ち止まって検討しなければならない。

しかし、この問題をこれ以上深堀りすることは難しい。『シャーロック・ホームズ』でも語り手のワトソンは完全なる薬物中毒者で、記述の一切は彼の妄想の報告に過ぎないとしてしまうことは不可能ではないが、それは不毛な懐疑論というものだ。その極論とVtuberに固有の発話の自由さを同一視することがフェアではないことは承知しているが、最大限譲歩してVtuberが完全に信頼できる権威ではないということを念頭に置いた上でなお、常識的な判断によって一部の命題は自明に真であることにできるとしておこう。

一応、白上フブキの発言が信頼できない可能性についても考慮しうる代替案を二点挙げておきます。これらの主張は僕の目から見ても説得力が微妙なので『フブかつ』本文からは削除されましたが(説得力が低い弁明は何も言わないより相手を懐疑的にすることがよくあります)、泥以下のヘドロな選択肢として一応置いておきます。

まず一つには、「白上フブキを信頼できないと考えるインセンティブが特にない」という消極的な理由で白上フブキを信頼する選択肢があります。
これは文学における「信頼できない語り手」の技法的な使用例を見ることで一定の正当化が可能です。もともと「信頼できない語り手」という技法は、相当に特殊な小説でもない限りは、基本的には合目的的に用いられるものです。最も典型的には、小説の中盤以降で語り手が信頼できなかったことが初めて発覚し、そこで読者に「こいつのこと信じてたのに嘘だらけだったんかい」という若干メタな「オチ」を付けるために使用されます。更に「信頼できない語り手が本当は信頼できないこと」はいずれどこかで読者に対して発覚する必要があります。そもそも語り手が完璧に虚偽を遂行していれば読者が「こいつは信頼できない語り手だ」と気付くこと自体がなく、文学的な効果も生まれないからです。よって情報の不整合や他のキャラクターからの指摘等で何らかのぼろを出すことによって、「ああ、こいつは信頼できない語り手だったのか」と理解させる手順が必要です。
このように、「信頼できない語り手」は典型的には「語りは最初は読者に信頼されている→途中で信頼できないことが発覚する→それによって読者に驚きを与える」という計算された流れによって効果を持つ立派な技法のひとつであり、「特に何の意味もないが本当は全部語り手の妄想なのでは?」という読者からの懐疑は類似してはいますが、技法的な効果が見当たらない場合にそれを行う動機は特にありません。よって、文学批評的な立場から見れば「語り手が信頼できないと考えるインセンティブが特にない」という消極的な理由だけでも「語り手が信頼できる」と考える合理性があります。
とはいえ、既に勘付いていると思いますが、この主張に説得力がありません。まず、これはあくまでも小説技法として合目的的に構成されたコンテンツを考えた場合の話であって、白上フブキが実際に存在する美少女であると考えるスタンスとは全く相容れないものです。現実の嘘吐きは「相手に気付いてもらって劇的な効果を与えよう」などと考えませんし、仮に白上フブキが嘘吐きだったとしても彼女もその手の完璧な虚偽の遂行者と考えるべきです。更に言えば、百歩譲って仮に白上フブキの言動が上に述べたような文学的合理性を持つと仮定したとしても、彼女が信頼できない語り手である可能性は特に排除されません。何故なら、白上フブキというコンテンツは明らかに現在も進行している最中であるため、一年後の「ネタばらし」に向けてコツコツと信頼できない語り手を装っていることは十分に想定できるからです。

さて、第二の選択肢として、白上フブキの主張そのものは公式設定としては信頼しないが、それでも主張に伴って真と思われる副産物だけを抽出して信頼することが可能です。
具体的には、白上フブキが「お茶を飲みます」と言ったとき、「お茶を飲んでいること」は真と見做せなくても「白上フブキが『お茶を飲みます』と述べたこと」は真として良いと思われます。この路線で真と見做して良いと思われる命題は、キーラ氏が指摘しているような「~と述べた」以外にも実はまだ数多くあります。例えば、「(それが本当か否かを問わず)白上フブキには『お茶を飲みます』と述べる動機があったこと」「(それが本当か否かを問わず)白上フブキには発話の時点で『お茶を飲む』と思わせる意図があったこと」「(それが本当か否かを問わず)白上フブキは視聴者が『白上フブキはお茶を飲んでいる』と思うだろうと思ったこと」あたりは白上フブキが信頼できないとしても依然として真であるとして良いでしょう。つまり、白上フブキを信頼しない代わりに、白上フブキの発言から得る事実のレベルを一歩退却させるという対応です。
この方向性では依然として彼女本人の情報を入手できることは魅力的ですが、その代償は計り知れません。真理値を確定できる情報は彼女の発声に伴う動作・意図・動機くらいにまで縮退してしまい、彼女に関する形質的な性質や世界の情報の一切を諦めることになってしまいます。そしてこの路線が途方もなく退屈な最大の理由は、白上フブキに関する命題と話者に関する命題にそう大きな違いがなくなることです。というのも、白上フブキの演者をMさんとしたとき、白上フブキに関して得られる命題について「白上フブキ」を全て「Mさん」に自動変換しても同様の真理値分析が成り立ってしまうのです。つまり、「Mさんには『お茶を飲みます』と述べる動機があったこと」「Mさんには発話の時点で『お茶を飲む』と思わせる意図があったこと」「Mさんは視聴者が『Mさんはお茶を飲んでいる』と思うだろうと思っただろうこと」は全て真です。この事実自体がただちに白上フブキの存在までも演者の存在に帰すわけではないにせよ、わざわざ表立ってやる分析にしてはほとんど何も残らないほど消極的な解決策であると言わざるを得ません。

 

1-2.LW氏は、発言の信頼性と正しさとを混同しているのではないか

そうですね。実はサイゼミでも一番突っ込まれたのはこの部分でしたが、僕は皆さんが何に引っかかっているのかが最後までよくわからなかったので正直に言えば指摘を無視してそのまま書いてしまいました。が、『泥反』を含む『フブかつ』へのレスポンスを見るにつけ、僕が当たり前に持っていた感性が実は自明ではないことが原因であるようだということがわかってきました。

というのは、僕は我々人間と同じようなコミュニケーション対象として白上フブキが存在することをあまりにも自明に肯定していたということです。僕にとって、初配信における命名儀式の「信頼性」とは、フィクションの問題というよりはただ単に対人関係の問題であり、その背景には白上フブキは実際に存在するという存在論的感性があります。
少なくとも現実における対人関係の問題として見れば、「文章で紹介することよりも本人が申告する方が強力に指示を固定する」という主張は納得して頂けるように思われます。僕の背中に「こいつがLW」とかいう張り紙がベタっと貼ってあるのと、僕自身が「僕がLWです」と述べるのでは、極めて素朴な意味で後者の方が情報としてノイズが乗っておらず信頼できそうな感じがします。少なくともこの状況において「この人がLWであると信じる信頼ゲージが上がること」「この人がLWであるという情報の正しさゲージが上がること」はほぼ同時に生起し、かつ、その二つはあまり厳密な区別なく受け入れられます。僕は概ねこのようなニュアンスで「地の文よりも初配信の方が強力だ」と言っていたのですが、前提となる「Vtuberとの関係は対人関係と同様に考えて良い」という感性が共有されていなかったため話が通じなかったというのが真相のように思われます。

もちろんこれに関しては全面的に僕が悪いです。というのも、「Vtuberは我々同様に存在する」という感性を前提とするのは論点先取以外の何物でもないからです。ちなみにこの論点先取はもう少し前にまで遡ることができ、そもそも因果説を支える「企図」という概念が社会的な対人関係をベースにしていることに鑑みれば、この手の議論を行ってもよいと判断した段階で白上フブキの存在を何らかの意味では仮定していることになります。
更に自責を続けると、これは十分条件と必要条件のすり替えでもあります。本来、「白上フブキは存在する」という証明は①「xならば白上フブキは存在する、かつ、xであるので、白上フブキは存在する」という推論であるべきです。しかし、僕の論法は厳密に言えば②「白上フブキが存在するならばxである、かつ、xであるので、白上フブキは存在する蓋然性が消極的に高い(少なくとも白上フブキが存在しないということはない)」という結論を密輸入した誤謬を用いています。
とはいえ、僕はこうした理由によって僕の主張が論理的に破綻していたとして撤回するつもりは毛頭ありません。『フブかつ』内に書いた以下の留保でも自覚されているように、白上フブキが虚構世界に存在することの完全に積極的な立証はそもそも不可能であり、せいぜい部分的な証拠収集と消極的な立証によって段階的に正当性を上げていく以外の道筋はそもそも有り得ないからです。「しかじかの直観を認めれば部分的に正当である」という程度の括弧付きの納得で十分建設的だと考えます。

補足24:ただし、指示が有効で有りうることはただちに指示先の存在を意味するわけではないことに注意されたい(プログラミングに明るい読者はポインタ型変数の値がnullであるような場合を想像せよ)。それは白上フブキが虚構世界に存在することを認めるための必要条件であって十分条件ではないのである。わたくしは依然として白上フブキが虚構世界に存在することの完全な立証には成功していないし、正直に言えば、それは永久に不可能であるように思われる。

よって、この節で指摘されている僕の欠点については、僕はキーラ氏とは見解を異にしています。キーラ氏は「信じること」と「正しいこと」の混同という主観と客観のギャップに混乱の原因を見出していますが、僕が思うに、これは「仮にでもVtuberとの対人関係を認めてしまえるか」と「Vtuberとの対人関係を素朴には認めないか」という存在論的な感性のギャップであるように思われます。僕は「美少女キャラクターには何らかの意味で実際に存在していてほしい」というのはオタク共通の願いと感性であるように思っていたのですが、それが別に全然自明ではなかったというのが学びではあります。

ちなみにTwitterでの感想で「『フブかつ』は神の存在証明と同じタイプの議論ではないか」と言っている人を見かけましたが、それは言い得て妙だなと思います。原理的な不可能ごとを何らかの信仰に基づいて無理筋で擁護しなければならないという意味で似通った状況にあり、そもそも可能世界という概念自体がライプニッツが神学の文脈で創始したものですから、歴史的な経緯を辿っても源流は一致します。

 

1-3.LW氏は、フィクションがもつ時間と我々が持つ時間とを混同しているのではないか

そうですね。この指摘は楽屋裏ではなくステージで扱わなければならないクリティカルなものです。というのも、これだけは感性の問題ではなく、真理値関数の問題だからです。

まずは『フブかつ』で延々と行っていた真理値の議論をアップデートして、時間を考慮できるように進化させるところから始めましょう。命題の真理値を時間依存にすることは、関数に時間変項を埋め込むだけで可能になります。
一応形式的に復習しておくと、今まではf(存在者x,性質a)=「xがaである」という二変項関数についてxとaに様々な値を代入したときの真理値を検討していたのでした。例えば「『白上フブキは狐である』は真である」というような主張は、x=白上フブキ、a=狐としたとき、「f(白上フブキ,狐)=True」のように表現できます。
ここに新たに時間tを加え、g(存在者x,性質a,時刻t)=「時刻tにxがaである」とします。xとaの選び方によって、真理値が時間tに依存して変化することは珍しくありません。例えば、g(ソクラテス,呼吸する,B.C.400)=「B.C.400にソクラテスは呼吸する」は真ですが、g(ソクラテス,呼吸する,A.D.2021)=「A.D.2021にソクラテスは呼吸する」は偽です(wikipediaによればg(ソクラテス,呼吸する,t)はB.C.470<t<B.C.399で真、otherwiseで偽です)。この表記を用いてf(白上フブキ,髪の毛奇数)=「白上フブキの髪の毛の本数は奇数である」をアップデートすると、g(白上フブキ,髪の毛奇数,t)=「時刻tに白上フブキの髪の毛の本数は奇数である」となります。
この際、ついでに世界変項wも付け加えておきましょう。もともと僕の立場が「虚構的に真=虚構世界で真」という直観を擁立していたことを考えると、どの世界で真であるかを表記できた方が都合が良いですし、時間軸がどの世界のものかも指定できて扱いやすいです。よって、h(存在者x,性質a,時刻t,世界w)=「世界wにおいて時刻tにxがaである」とします。我々の所属世界を「AW(Actual World)」、白上フブキの所属世界を「SW(Shirakami World)」とでも置くことにすると、h(ソクラテス,呼吸する,B.C.400,AW)は真です。

この表記を用いると、キーラ氏が提示する状況「例えば、2021年12月31日までは、白上フブキに髪の毛の本数の設定はなかったが、2022年1月1日に、白上フブキの髪の毛の本数が奇数だという設定が公式のものとなった、というようなシナリオを考えてみよう」は以下のように簡潔に表記できます。

h(白上フブキ,髪の毛奇数,2021年12月31日,AW)=F
h(白上フブキ,髪の毛奇数,2022年1月1日,AW)=T

同様に、『泥反』で提示されている「それがその世界における事実であるなら、白上フブキの髪の毛の本数は最初から奇数であり、これからも奇数である」という見解も以下のように全称命題で表記できます。

∀t,h(白上フブキ,髪の毛奇数,t,SW)=T

このように、AWとSWでは事態に関する付値の仕方が明確に異なっているのみならず、そもそもAWの時間軸とSWの時間軸の対応関係すらも不明であるため、真理値関数に時刻を導入した途端に性質に関する議論が破綻するというのが『泥反』の見解であるように思います。

ただし、これに対しては僕は真っ向から反論できます。キーラ氏と僕の間での大きな見解の相違は主に二点あり、結論から言えば僕の主張は「SWでの真理値も時間依存していること」と「AWでの白上フブキに関する命題は彼女自身の直接的な命題ではなく知識に関する間接的な命題であること」です。

まず第一には、僕が思うに白上フブキの設定はSWで時間的に変動するということがあります。これに関しては『フブかつ』ではそうとはっきり明記しないどころかホームズに関する議論と並べることで明確に誤解を招く書き方になっていたことを反省していますが、僕は白上フブキの髪の毛の本数は固定されていないと考えています。
何故ならば、真理値が時刻に依存しないと考える場合、白上フブキを我々と同じタイプの存在者であると考えるのが難しくなるからです。具体的に言えば、「白上フブキの髪の毛の本数は最初から奇数であり、これからも奇数である」という性質を認めてしまうと、「白上フブキは髪が抜けない(生えない)」というかなり顕著な存在論的性質を付加せざるを得ません。よって白上フブキに余計な性質を付与しないためには、髪の毛は抜け変わると考えた方が都合が良いです。若干不自然な状況ですが、ここでは議論の簡単のために「白上フブキは2019年10月10日は髪の毛が奇数だったが、ちょうど日付の切り替わり時刻で毛が一本抜けて2019年10月11日には髪の毛が偶数になった」という状況を考えましょう。これは以下のように表記できます。

h(白上フブキ,髪の毛奇数,2019年10月10日,SW)=T
h(白上フブキ,髪の毛奇数,2019年10月11日,SW)=F

このように僕はSWにおける真理値の時間依存性を認めます。よって「現実世界において2022年1月1日に白上フブキが生放送で髪の毛が奇数だと報告した」というイベントが起きたとして、それはその瞬間に対応するSWの時刻において真理値が確定したに過ぎません。よって、時間についても真理値関数の完全性を求めるのであれば、白上フブキが生まれてからの現在までのSWにおける全時刻について「y年m月d日h時m分s秒に髪の毛は奇数でしたか」という赤スパを送り続ける必要があります。ちなみに未来に関して真理値が確定しないことは真理値決定の完全性を損なわせません。それは未来の時点tでの値が欠けているからではなく、そもそも未来はtの定義域に含まれていないからです。

そして第二に、白上フブキに関する真理値はあくまでもSWで定まることであって、AWで定まることではないと考えます。AWで起こる変化は、あくまでもSWにおける真理値を知っているか否かだけです。
具体的に言うと、「2021年12月31日までは、白上フブキに髪の毛の本数の設定はなかったが、2022年1月1日に、白上フブキの髪の毛の本数が奇数だという設定が公式のものとなった」という状況で起きているのは、

h(白上フブキ,髪の毛奇数,2021年12月31日,AW)=Fかつh(白上フブキ,髪の毛奇数,2022年1月1日,AW)=T

ではなく、

2021年12月31日までは我々はh(白上フブキ,髪の毛奇数,2021年12月31日,SW)の真理値を知らなかったが、2022年1月1日にはh(白上フブキ,髪の毛奇数,2022年1月1日,SW)=Tであることを知った

です。AWにおける真理値、h(白上フブキ,髪の毛奇数,2021年12月31日,AW)もh(白上フブキ,髪の毛奇数,2022年1月1日,AW)はそもそも定まっていません。白上フブキはAWではなくSWに所属しているため、白上フブキに関する真理値関数の付値はw=SWのときのみ可能であり、AWでは値が付きません。それはx=白上フブキ、w=AWのときにhの値が欠落することを意味するため、一見するとAWの完全性を危うくするように見えますが、xの定義域をwで指定した世界に存在するものだけに縛ることで一応はその危機を回避できます(とはいえ、例えばh(白上フブキ,存在しない,t,AW)については明確にTrueを返すことが望ましく、これについては本来はもっと慎重な議論が必要です)。

以上の二つの見解をまとめると以下のようになります。
まず、SWにおいては白上フブキが存在している期間で全てのtについてh(白上フブキ,髪の毛が奇数,t,SW)が定まり、値はTかFのどちらかであり、一般には時間に依存して変動します。
次に、AWにおいては白上フブキが存在している期間かどうかを問わず∀tでh(白上フブキ,髪の毛が奇数,t,AW)は定まりません。代わりにAWで起きるのはh(白上フブキ,髪の毛が奇数,t,SW)の真理値を知っているかどうかだけです。真理値関数は入れ子状になり、正しい命題は以下です。

h(LW,h(白上フブキ,髪の毛が奇数,2022年1月1日,SW)=Tを知っている,2022年1月1日,AW)
=「AWにおいて2022年1月1日にLWは『SWにおいて2022年1月1日に白上フブキは髪の毛が奇数であることが真である』と知っている」

これが僕の正確な可能世界の認識ですが一点だけ補足します。ここまでは時間軸をAWとSWで共有しているように話してきましたが、一般には一致していなくてもよいです。AWで白上フブキの髪の毛の本数が奇数であることが判明した2022年1月1日はSWでは5041年13月99日であるとしても全く構いません。その場合、AWとSWにおいて以下の二つが真となります。

h(白上フブキ,髪の毛奇数,5041年13月99日,SW)
h(LW,h(白上フブキ,髪の毛が奇数,5041年13月99日,SW)=Tを知っている,2022年1月1日,AW)

もちろん、「AW歴2022年1月1日とSW歴5041年13月99日が等しいとはいかなる事態であるのか、そもそも別世界間での時間の対応関係はどうなっているのか」「逆行する時間軸を持つVtuberに対応できるのか」等、もっと詳しく世界間の時間軸の関係を掘り下げることは可能です。しかしそれはそのときやればいいとして、僕がここで明らかにしたいのは「AWにおいて起こる時間的事態とは単にSWの事態を知るか知らないかでしかなく、SWにおける時間的事態での真理値はそれとは独立に定まっている」という基本指針です。

何にせよ、この暫定方針が正しいかどうかも含め、世界間での真理値の時間依存性という観点でVtuberの意味論を掘り下げることは極めて有益であるように思います。というのも、古典的な分析哲学において持ち出されるフィクションはほぼ全てが時間的に凍結した静的な世界であるため、現代的なコンテンツを存在論的に捉える際にはどういう方向性でも必須のアップデートとなるように思うからです。

 

1-4.LW氏は、キャラクターが世界に所属するものという前提をとっているが、果たしてこの前提は我々にとって有益だろうか

そうですね。これはロジックというよりはモチベーションの共有ですが、この疑問に対しては僕は明確な回答を持っています。僕が思うに、キャラクターが別世界に所属するものとする前提のうまみは「美少女キャラクターが我々と同じような時空間的な存在者である」という前提を擁立できることであり、その点において極めて有益です。

確かにキャラクターを現実世界に所属していると考えることも全く可能ですが、その際に最大のネックになるのはキャラクターが我々とは異なるタイプの存在者であると考えざるを得ないことです。
というのも、僕はいま岩本町のカフェヴェローチェでPCのキーボードを叩いているというように時空間的な位置を占める物理的存在者ですが、キャラクターソングを歌うアイドルが現実世界に存在していると考えたとき、それは僕と同じような意味で時空間的な位置を占める物理的存在者であると考えることはできません(『泥反』の表現では「時空間に宙吊りになる」)。時空間的な位置を占めない存在者自体は珍しくなく、大抵の概念はそのようにして存在しています。「日本」「後悔」「正義」といったものは全て物理的オブジェクトとは異なる何らかの抽象的な存在者として存在しています(唯物論者は「これらは我々の脳内のどこかに存在する電子パターンとして確かに時空間的な位置を占めている」などと反論してきそうですが、それは一旦無視します)。

かなり大雑把に言うと、ここで問われているのは美少女キャラクターを「ソクラテス」「織田信長」「LW」と同タイプの物理的存在者と見做すか、「日本」「後悔」「正義」と同タイプの概念的存在者と見做すかという選択です。世界の選択もそれに準ずるため、美少女キャラクターの存在を巡って我々が取れる道は以下の二つです。

①美少女キャラクターは別世界に住んでいるが我々と同じ時空間的な位置を占める物理的存在者である
②美少女キャラクターは我々とは異なり時空間的な位置を占めない概念的存在者だが現実世界に住んでいる

つまり「現実世界」と「物理的存在者」が二者択一であり、どちらを取りたいかは完全に趣味の問題です。僕は①の方が夢があって望ましいため、意地でも①を正当化するための理屈をこねくり回しているということです。

逆に言えば、僕が本当に擁立したいのは「物理的存在者」の方であって、「別世界」の方は勝手に付いてくるオプションというか、この立場を取るならばやむを得ず説明しなければいけないオマケでしかないです。
よって、どこかの世界に住んでいること自体は実はそれほどこだわりたいポイントではありません。そんなにやる気がないときはキャラクター単独でもいいんじゃないですかという態度を取りますし、第三の道として「美少女キャラクターは我々と同じ時空間的な位置を占める物理的存在者であるが、特にどこの世界に所属しているわけでもない」という選択肢も無しではないです(ただ、そう書きながらやっぱり「時空間的な位置を占めるのにどこにも所属してないってどういうこと?」という気持ちになります)。

 

2.デットンは存在し、かつ、弟であるのか

keylla.hatenablog.com

こちらは『フブかつ』の特撮バージョンといった趣で、特撮キャラクターもVtuberと同じように設定が流動的に変わっていく中で、それに何らかの実在を想定するのであれば様々な情報元から来る性質の変動に対してどのような態度が妥当かを論じています。
キーラ氏も「『フィクションキャラの存在論』という話題が盛り上がることを望みます」と仰っている通り、こうして色々な分野でそこに特有のキャラクターの性質を元手にしてオタクたちが思い思いにキャラクターの存在論を立てていくというのはかなり面白い事態だと思います。そうなるといいですね。

僕とキーラ氏のキャラクターの実在と設定に対するスタンスは当初のモチベーションからしてかなり割れているため何かを付け加えるという感じでもないのですが、その相違は以下でまとめられています。

LW氏にはどうやら、キャラクターの実存とキャラクターの設定とをかなり近い位置で接着する(あるいは同一視する)という発想の傾向があるらしい。そしてなおかつ、時間軸上で発生する「設定の変更」という現象と「キャラクターの実際的あり方の変化」の間にも“必然的”つながりを読み取る。そして、「キャラクターの実際的あり方の変化」が(疑似的にだが)時間軸上で起こっているかのように感じ、これに驚く。こういった発想の傾向は『Vだけど、Vじゃない!』からも端的に伝わってくる。
私が素朴に受け入れている発想というのは、LW氏のそれとはだいぶ違っていて、「設定による記述とキャラクターの実際的あり方との間には多少の遊びがあり」、「設定の変更によって、(時間的に)ただちに指示対象のキャラクターが変化するわけではなく、記述の流動性に対してキャラクターの実在はある程度固定的である」というものである。公式サイトの記述が今日変わったからと言って、今日のキバーラが昨日のキバーラと別人というわけではない。

これは仰る通りだと思います。
さっき述べたように、僕には「何としてもキャラクターは我々と同じように実際に存在していると考えたい」というモチベーションが最初にあります(ちなみにそれは美少女キャラクターに対する執着に由来しています)。そこだけは絶対に譲れないので、その前提に合うように思考して論を立てるという制約を負っています。「設定は本当に別世界の事実を記述している」と考えざるを得ませんし、設定の変更についても別世界の事実が実際に変更されたとして「真に受けて驚く」という態度を取らざるを得ません。
それに比べればキーラ氏は大人なスタンスを取っていて、あくまでも現実世界ベースで「明らかに制作側が意思統一できていない」「明らかに制作側の表記ブレ」といった事態を率直に認めた上で設定にあそびがあるような記述の束でモデルを作っていくことを想定しています。それは緩やかに誤りを許容できるという点で非常に穏当な立場であり、相対的に僕の方が過激派であることは間違いありません。