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20/1/2 第4回サイゼミの感想 反出生主義 / 世界史の構造 / オートポイエーシス

・第4回サイゼミ

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月一くらいでやってる勉強会みたいなやつ、サイゼミ(サイゼリヤ+ゼミ)の第4回を12月28日にやった。そろそろ記録しておかないと皆忘れそうなので、今までの足跡をまとめておく。

第1回 ニッポンの思想 / 新反動主義 / アンチ・オイディプス(19/8/18、本郷)
 <主要参考文献>
  『ニッポンの思想』佐々木敦
  『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』木澤佐登志
  『ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義』仲正 昌樹

第2回 宇野常寛特集(19/9/30、池袋)
 <主要参考文献>
  『ゼロ年代の想像力』『リトル・ピープルの時代』『母性のディストピア宇野常寛
 <鑑賞映画>
  『リンダリンダリンダ

第3回 フェミニズム / 新実在論(19/11/9、本郷)
 <主要参考文献>
  『女ぎらい』上野千鶴子
  『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』岩内章太郎
 <鑑賞映画>
  『ジョーカー』

第4回 反出生主義 / 世界史の構造 / オートポイエーシス(19/12/28、中野)
 <主要参考文献>
  『生まれてこない方が良かった』ディヴィッド・ベネター
  『世界史の構造』柄谷行人
  『オートポイエーシス論入門』山下和也

第2回のまとめは以下。

saize-lw.hatenablog.com

補足231:本当は第3回も議事録を書こうと思っていたのだが、フェミニズムについてTwitterで蔓延するポップ言説に吸収されずに語るために理論武装するのが面倒でやめてしまった。
あと、第2回議事録を書いた時点ではなるべく参加者全員の意見を拾うニュートラルなまとめを心掛けていたのだが、それも断念した。参加した皆がそれぞれの関心に応じて得るものがあった中で、俺視点ではこういうことを考えていたというスタンスを取る。それでタイトルも議事録から感想に変えた。
扱ったテーマそれぞれの内容自体を解説するのも手間がかかりすぎるので諦めた。反出生主義の話をするとき、反出生主義の内容について書かずにいきなり感想から入る。 

・反出生主義

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ベネターの独特な議論を受けて向かう方向は二つある。一つはベネターの土俵に乗って分析哲学の論理パズルを続けること、もう一つはベネターの立つ土俵を俯瞰して思想的な立ち位置を見定めること。
ベネターの議論に反応するとき、どちらの方向性で反応しているのかは常に意識しておくべきだ(反論するときは特に)。手法が実証的ではない直観分析である以上、「俺はそうは思わないし皆もそう思わないはずだ」と言えば反出生主義を支持しないのには十分なのだが、それは前提崩しであって反論したことにはならない。

参加者のヨグルティから「存在者の状態には快と苦以外にも中庸を設けるべきではないか」という指摘があり、確かに非対称性原理で描かれる四象限の恣意性には注意した方が良いと思った。
快楽/苦痛、良/悪をスパスパ切り分けているのが非常にわかりやすいのでついついそれを自明に認めてしまいそうになるが、立ち止まってよく考えれば、そもそも良いものが快楽で悪いものが苦痛なのではないか(分類と性質が逆なのでは?)という密輸入っぽい臭いは漂っている。良い/悪いという二分法のリーズナブルさに比べれば、快楽/苦痛という二分法には検討の余地があるように感じる。

個人的には、反出生主義は中心vs周縁という現代思想にありがちな図式の変奏のように感じた。「中心者が周縁者を抑圧していたことを告発する」という論法は枚挙に暇がない。例えばその代表格であるフェミニズムには「男性が女性を抑圧していたことを告発する」という役割があるし、オリエンタリズムは西洋から東洋への抑圧の告発、精神分析は意識から無意識への抑圧の告発と言えよう。
反出生主義にも同様に、「存在者が非存在者を抑圧していたことを告発する」という役割を与えることができる。つまり、今までは非存在者の利害を存在者本位の理屈で考えていたことを反省して改めて非存在者の理屈で物を考えましょうというモチベーションはフェミニズムと全く同じ形式を持っているのではないかということだ。
とりわけ、ハンナ・アーレントが赤ん坊に抱く期待と対比するとそれがはっきりする。アーレントは「新たに生まれてくる子供は全体主義を打開する契機になる」という理由で出生を支持するが、それは非存在者である子供を存在者の利害に従属させようとする暴力的な行為であると言いうる。この意味において、実はアーレントもまた非存在者を存在者のロジックで動員しようとする全体主義者(!)という矛盾を孕んでいる。
以上を踏まえ、徹底して非存在者=マイノリティの利害を擁護する部分にベネターの白眉がある。確かにベネターの議論は非存在者の利害のクリティカルな部分に関してはやや無理のある直観分析を行っている感じはあるが(どうとでも言えることを良いように言っている感じはあるが)、もしそれが妥当でないと思ったとして、我々の判断には存在者=マジョリティの立場からバイアスがかかっている可能性が高いと自省したい。
そしてそれはあながち机上の空論というわけでもなくて、真面目に考えていいと思うことは身近にもよくある。具体的に言うと、Twitterで「このアニメは未来の人から見たら意味わかんないだろうなw」などと言って悦に入るツイートをたまに見るが、それはやや品の無い行為だと思う。まだ生まれていないのを良いことに未来人を都合よく利用して喜ぶ、若者にマウントを取るやつのかなり邪悪なバージョンを感じる。

そういう現代思想的な立ち位置がある一方で、会合の中で出てきた「非存在者が所属する世界(?)を、超越的で基本良い方向に神秘化しているあたりに、むしろ中世以前の古風なものを感じる」という指摘も確かにそうだなと思う。
「人間の相」の上に「永遠の相」を置くこと自体、プラトン的な世界観の気配があり、ベネターは非存在者のことを存在者のイデアだと思っているのではないかといってもあながち間違いではないような気すらしてくる。ベネターの議論は一見すると分析哲学らしい明晰なものではあるが、「存在してしまうことが常に害悪である」の論証においては、背景に宗教臭い神(絶対者)のイメージを嗅ぎ取ることは難しくない。俺はあまり詳しくないので深入りできないが、「赤ん坊がどこから来たのか」について論じる各宗教の教義との比較は有用かもしれない。

サブカル的には、俺は元々『進撃の巨人』29巻で反出生がソリューションとして取り上げられたことを受けて反出生主義に興味を持った。しかし、ベネターの掲げる狭義の反出生主義を用いて『進撃の巨人』を分析することは難しい。『進撃の巨人』における反出生はあくまでも政治的な判断の延長線上にあるものだからだ。ベネターの掲げる、存在論的な地平からはかなり遠い。また、『アベンジャーズ:エンドゲーム』でもサノスの指パッチンによる絶滅が描かれたが、これも狭義の反出生主義が妥当するとは言い難い。

saize-lw.hatenablog.com

上の記事で詳しく書いたが、MCUにおいても『進撃の巨人』とほぼ同様に「ナイーブな正義が疑問に付される→政治的な状況が描かれる→しかし政治的なアポリアは解決できないため実存的な方向に救いを見出す」という過程で反出生が見出された。しかし、ベネターのロジックからは人生経験のような主観的な経緯は完全にオミットされているため、こうした段階的な過程との親和性も低い。
総じて、サブカル分析への適用に際しては、ベネターの議論自体に注目するよりは、それがブームとなってしまうような(広義の)反出生的な雰囲気に目を向ける方が有用なように感じる。

ついでに言えば、ベネターの反出生主義とサブカル分析の相性が悪い理由は、ベネターが要求する「一度も存在したことがない非存在者」という概念が、「キャラクター」概念と致命的に相容れないからだと思う。
「キャラクターが存在しなかったことになる」というモチーフ自体はアニメでも割と頻出するものの(例えばリゼロの消滅の霧)、それは一度は存在していた存在者が消滅するというものであり、一度も存在したことがない非存在者は滅多に出てこない(というか、出てこられてない)。べネターは剥奪に対しては非常に敏感であり、「快楽が存在していないことは、(こうした不在がその人にとって剥奪を意味する人がいない場合に限り、)悪くない」という補足を欠かさない。レムが消滅の霧によって消滅することは明らかにレム自身にとっての快楽の剥奪を意味するため、ベネターの分析の例外になってしまう。
ベネターの分析が妥当するキャラクター、すなわち「最初から最後まで存在しないキャラクター」を描くことは可能だろうかと考えたとき、押井守が『トーキング・ヘッド』で「不在のキャラクター」に執着していたことを思い出す。ベネターの反出生主義を適用する余地はそのあたりにあるのかもしれない。

・世界史の構造

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柄谷行人の『世界史の構造』について。
俺は読んでいないので解説だけ聞いたのだが、柄谷行人に詳しいゆあさが柄谷行人年表を用意してくれたのが地味にありがたかった。

柄谷の世界史分析は交換様式に基づく四段階の変遷がベースになっているのだが、頭の三段階は『アンチ・オイディプス』でドゥルーズ+ガタリがやっていた未開部族→専制君主→資本主義の三段階と同じなのではと思った。資本・ネーション・国家の三位一体はドゥルーズ+ガタリ風に言えばオイディプス三角形だ。
俺は世界史の教育をほとんど受けていないので、どこまでが一般論でどこからが柄谷の功績なのかがよくわからなかったのだが、変遷自体は高校世界史の範囲で理解できることらしい。柄谷の功績は、交換様式に注目して構造を整理し直したことと、四段階目の世界共和国構想を提出したことにあるようだ。

柄谷が新たな交換様式として提示する無償の愛とは、無償の暴力でもよいのかということが非常に気になった。
第一段階である互酬の交換様式においては、ポジティブな返礼(感謝)とネガティブな返礼(報復)がコインの裏表として同等に扱われていた。それならば、第四段階の無償の交換様式においても、ポジティブなそれが愛、ネガティブなそれが原始暴力としても良さそうなものである。報復が生じない一方的な暴力が無償の愛と並置できるのであれば、四段階目から一段階目に一周できるのでグラフ平面上の挙動が美しいのと、個人的には暴力と愛にそれほど大きな違いはないので納得度が上がる(社会的にはそうではないのだが)。

段階を追って交換様式が変遷していく際、思想が先に立つというよりは、概ね外部状況の変化によって先導されるようだ。例えば、第一段階の互酬から第二段階の略取への移動に際しては、強い外敵の発生というある種切実な要因がトリガーになっていたらしい。一部の批評家だけではなく社会構造全体の問題となると、合目的的に社会をドライブしようとするリーダー層以外にとってもリーズナブルでなければ、変遷は起こらないのだろう。
それならば、第四段階への変遷はどうやって生起するのかが問題になってくる。会合の中で出た意見として、「社会が富みすぎて誰もが資本主義の闘争から解放されたとき、他にやることが無くなるので倫理的な追求が始まるのではないか」という意見には納得がいく。ちょうどいま前澤友作が正月のお年玉と称して10億円の配布企画をやっているのがその典型だ。富豪がよく大金を寄付するのは資産が欲望の上限を超えたからで、彼が本質的に倫理的な人間だからというわけではない。その線で行くならば、AIに生命維持を委託して芸術などの余暇を楽しむような、技術的ユートピア構想との相性が良いのかもしれない。

また、俺は「外部」と「無償」の間に結びつきを感じており、「取引する相手の外部性が極まると無償の贈与になるのではないか」というようなことを言おうとしたのだが、その場ではあまりうまく伝えられなかった。
俺が言いたかったのはこういうことだ。例えば、ある日突然東京の中心にワームホールが出現して、そこに何かを入れると何が返ってくるとする。十億円を入れるとセロハンテープが出てきて、腐ったバナナを入れると東京タワーが出てくる。ワームホールは宇宙人の世界と繋がっており、ワームホールに入れたものは彼らの世界に届いているようだ。宇宙人は地球からの贈り物に対して何らかの返礼をしているようではあるのだが、何千回何万回試しても何の法則性も見いだせない。それはもはや交換と言えるのだろうか、お互いに無償の贈与をしているのと同じではないか。すなわち、完全に価値観の違う理解不能な相手との取引、量的にではなく質的に異なる尺度を持つ相手との取引の極致は無償の贈与と見分けが付かないはずだ。

サブカル的には、「無限に富んだ者が倫理的な追求を始める」という構図は異世界転生ものとよくリンクしているのではないかと思う。異世界転生にも色々あるが、圧倒的に最強な立場に立って周りにワンパンで倒せる雑魚しかいなくなったとき、無双するのではなくて愛や暴力について考えていくというプロットの作品は一定数ある。例えば最近アニメ化が決定した『スライム倒して300年』のようなスローライフ系の異世界転生作品はそういう話に近い。ただ、一人だけそういう動作をするキャラクターがいたところで全体にかかる社会構造が変動するわけではないということは留意しておいた方がいい。

オートポイエーシス

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俺はオートポイエーシスについて書籍を5冊読んだのだが、はっきり言ってまだよくわかっていない。
オートポイエーシスが最も成功を収めているのは社会学分野におけるルーマンの経済分析のようだが、本来のオートポイエーシスはもっと広範で学際的に適用可能な一般理論であり、そのエッセンスを抽出するとなると抽象度が一気に上がって極めて難解になる(ルーマンも難解さで知られているが)。
とりあえずは最もわかりやすかった山下和夫の『オートポイエーシス論入門』に準拠し、近代科学が捉え損ねてきた生命的な性質(創発性、当事者性、継続性など)を説明する発生の論理として解説した。

最もよくわからないのは、創発に象徴されるシステムの不確定性が、本質的なものか便宜的なものかということだ。オートポイエーシス論者は不確定性は本質的なものだと主張するが、俺からすると便宜的なものとしか思えていない。
システム・環境間の相互浸透によってお互いが決定関係がないために不確定性が生じると理解したが、それは環境についての解像度が低いからではないのか。近代科学的な手法で要素還元的に環境を無限の精度で分析すれば本来は決定論的な確定性が得られるところ、現実的には有限の精度しか得られないので不確定だという話ならわかるのだが、書籍には「個々のメカニズムが決定論的でも全体としては非決定系」というようなことが書いてあり、意味が理解できなかった。決定論的な法則そのものは不確定であるということか?

もう一つよくわからないのは、閉域の構成にこだわる理由だ。
確かに生体システムにおいては産出システムの一周が自己を成すという描像は説得力があるが、意識システムやコミュニケーションシステムについても同じことが言えるだろうか。意識システムが駆動する上で、リンゴについての表象が一周して最初のリンゴまで戻ってくる必要は特にないように感じるし、コミュニケーションならなおさら発散して無限に分岐していくことの方が多いように思う。実際に閉域を成すと言っているのではなく、閉域を成す可能性が常にあるという話なのだろうか。

オートポイエーシスを活用した論文も何本か読んだが、AI系の論文では「機械は生命とは違って創発性を持たない」、教育・コミュニケーション系の論文では「環境との不確定な相互作用で自己が攪乱される」という程度の主張に留まっており、わざわざオートポイエーシスを援用する意義がわからなかった。オートポイエーシス理論自体を真剣に適用するというよりは、創発を語りたいときにとりあえず引用価値が高いという扱われ方をしているように感じた。

元々オートポイエーシスに興味を持った理由は、西垣通の『AI原論』で実存哲学や現象学に対して唯一理系サイドから応答している理論として紹介されていたからだ。
俺は元々理系寄りの学際研究に興味が強いというのもあるが、サブカル的には、人工知能を巡る倫理的な議論はキャラクターを巡る議論へと転用できる可能性が高いだろうという目論見もある。本来はメモリの列でしかない機械の自律性を論じることは、本来はインクやテキストでしかないキャラクターの自律性を論じることとパラレルである。そういう経緯で人工知能の解釈に特に注目していたが、現状ではあまり有用な使い道を発見できていない。

なんだかよく理解できずに批判的なことばかり書いてしまったが、世界の捉え方というか、ギリシャ哲学でありそうなレベルの自然哲学としてはかなり有益だと思う。産出プロセスの連鎖としての自己、階層的な決定関係の否定というやり方で理解した方がよいことは色々あると思うし、イメージとして持っておくと人生が豊かになるという予感は強い。

・マグロマート

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年末なので忘年会を兼ねて終了後にマグロマートに行った。美味かった。

マグロマートでは(というよりはマグロマートに向かう道中で)異世界転生の思想的な立ち位置についてもっちーさんと話せて良かった。

何となく異世界転生って低く見られがちというか、Vtuber新海誠的な感情サプリメントコンテンツに比べてあまり論じられていないように感じるのだが、どう考えてもテン年代で最も大きな存在感を持っていたジャンルの一つだ。テン年代を語るにあたって異世界転生の隆盛をゼロ年代と接続する作業は避けられない。

俺ともっちーさんの考えでは、異世界転生はサヴァイブ系の正統後継者であり、扱われている問題設定が一歩前に進んでいる。
誰もが対称な関係であるという多元主義的な前提の下で生き残りを巡ってバトルロワイヤルを繰り広げる時代はもう終わって、周囲との非対称な関係が前提されるようになっているのだ。それはバトルロワイヤルを勝ち残った勝者だからというわけでは決してなく、バトルロワイヤル自体に嫌気が指して別世界へのドロップアウトを志向した結果、バトルロワイヤルを繰り返さないために要求された前提である。

異世界転生といえばチート無双のイメージが強いが、実際に流行っている作品を見ると、そういう作品は毎期ファストフードのように消費されて誰もいちいち覚えていない。逆に二期や劇場版が作られるような人気作品は安易に無双せず、倫理的な追求をする傾向がある。政治的な闘争をやめ、実存的な思索にふけるための空間として異世界を考えることができると思う。