LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

20/7/23 ウォッチメンの感想 ヒーローはもういない

ウォッチメン

f:id:saize_lw:20200723103756j:plain

非常に面白かった。
内容が優れているし、キャラクターや話が純粋に好き。もう10年以上前の映画だが、現代アメリカヒーロー映画の総決算と言っていい。正直なところ、単発であることも含めて完成度はMCUより高いと思う。

ウォッチメン」というタイトルが複数形(MEN)であることから推測されるように、ウォッチメンはヒーロー一人ではなくヒーロー六人のグループだ(その割には女性が一人おり、デッドプールなら「ウォッチピープル」と訂正するだろう)。
単発ヒーロー映画としてはやや珍しい群像劇形式が採用されており、彼らが戦う相手は「ヒーローが正義を失って凋落している(古き良きアメリカの終焉)」という現実である。この舞台設定はもはやお決まりのものだが、そこに至る経緯が序盤の回想で早々と消化されるのが好感度が高い。そういう現状があることは前提とした上でそれにどう向き合うかというテーマが展開していく。
六人のウォッチメンが持つ思想はそれぞれ明瞭に分節されており、キャラクターというよりは思想の擬人化という印象すら受ける。それぞれがそれぞれにどうしようもない現実をどうにかする方法を模索していくのだが、しかし結論から言えば、結局のところ「どうしようもない」。ヒーローたちがヒーローの不可能性を追認していくのが『ウォッチメン』なのだ。

六人のヒーローのうち、他の五人と明確に一線を画しているのがDr.マンハッタンだ。
Dr.マンハッタンは量子を操る能力を持ち、物理的には無敵、新物質の創造やテレポートも容易い。既存のヒーローが出来ることは大抵何でも出来る完全上位互換モデルである。
しかし能力が既に完成してしまっているが故に、彼は人間への興味を薄めていく。中盤のクライマックスでは「現実とは偶然の連鎖であり、偶然の連鎖とは奇跡である」という様相的な気付きによって人間に力を貸すようになるが、しかし、その気付きは人間のレベルではない。既に形而上学のレベルに達してしまっている。彼が奇跡について語るのは個々の事物に対する事象様相ではなく、世界の在り方に対する言表様相である。つまり、個々の人間を見ていない。超越者となったヒーローは超越的な世界での超越的な価値観しか持てないのだ。実際、彼自身も「人間はわからない」と語り、最終的には地球を放棄して宇宙の彼方へと去っていく。
Dr.マンハッタンの末路で描かれたのは「スーパーパワー」はもう役に立たないということだ。単純な能力や性能の高さは社会の行き詰まりを全く解決しないし、むしろ地に足が付かずに離脱を招く。名前にドクターと付いているのがなかなか上手く、応用可能性がわからない水準にまで専門化されて神学に近付いていく理論物理学が意識されているのかもしれない。

超越性故に人間界から離脱していくDr.マンハッタンとは異なり、あくまでも人間界に居座ろうとするのがコメディアン、オジマンディアス、ロールシャッハの三人である。彼らが醜悪な世界を何とか生き延びようとして選択する戦略はそれぞれ「適応」「偽装」「固執」だ。
コメディアンは世界の改善を完全に諦めており、自らもそのパロディとなることを選んだ。レイプや虐殺を行う「悪人」と化してしまったのは醜い現実に適応すれば彼自身が醜い形態にならざるをえないからだ。コメディアンは現状追認以上でも以下でもなく、それ故にオジマンディアスの過激な思想には腰が引けざるをえない。現実の映し鏡であるコメディアンが殺されることにより、それを巡る闘争がスタートすることを示す冒頭シーンは素晴らしい。
コメディアンを殺害したオジマンディアスも「世界の改善はもはや不可能である」という前提は共有している。それに適応しようとしたコメディアンとは異なり、オジマンディアスは改善ではなく更なる「改悪」ならばできることに気付いたに過ぎない。Dr.マンハッタンですら法にはなれない世界で可能な営みはジョークしかないが、逆に言えばジョークであればギリギリ有効なのだ(しかし有効というのはどういう意味だ?)。
思想の根底に完全な諦観を持っているコメディアンとオジマンディアスと異なり、その無意味さを理解していながらも世界の改善に固執するのがロールシャッハだ。彼は寄る辺なき世界の変容を認識しているからこそ、犯罪まがいの方法へと手段を変えて自らの信念を実行し続ける。終わった世界においてはロールシャッハは端的に狂人であり、刑務所に叩きこまれてヴィランのような存在にならざるを得ない。

コメディアン・オジマンディアス・ロールシャッハの三人とは異なり、そもそも最初から現実を追認せずに古き良き世界に憧れ続けるのがナイトオウルとシルクスペクターだ。
この二人が古風な正義に固執しているのはロールシャッハと同じだが、世界の変容自体を認めていない点で決定的に異なっている。何の意味も無い自警団活動を再開して喜べてしまう、ナイーブなヒーローに憧れる子供たちがこの二人だ。ナイトオウルが時代遅れで見かけ倒しのガジェットを愛しているのは滑稽ですらある。
終わっている現実に気付けない彼ら二人はある意味では無敵で幸福である。闘争の末にDr.マンハッタン・コメディアン・オジマンディアス・ロールシャッハの四人が何らかの形で社会から離脱してしまった一方で、ナイトオウルとシルクスペクターはそれなりに幸せな人生を送っているようではある。
ただし、その代償は途方もなく大きい。とりわけ、戦いを終えたラストシーンでシルクスペクターが自分の人生を意味づけて自己満足してしまっていることがそれを象徴する。二人は醜悪な世界とは最初から戦っていなかったし、せいぜい自分の人生を自己実現していたに過ぎない。ナイトオウルとシルクスペクターの活動は「自分探し」でしかなかったことが明らかになる。

こうして、六人のヒーローはそれぞれがそれぞれの結論を出した。
Dr.マンハッタンは世界への興味を失った。コメディアンは醜悪な現実に適応した。オジマンディアスはジョークで偽装した。ロールシャッハは狂った正義に殉職した。ナイトオウルはナイーブな夢に埋没した。シルクスペクターは自己実現に撤退した。

要するに、ヒーローはもういない。