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20/7/19 倫理は永井均しか勝たない

倫理学を齧った感想

153.倫理学について語って欲しい(出来ればLWさんのおすすめ本も教えて欲しい)

最近読んだ倫理学の本はこのあたりです。

プレップ倫理学 (プレップシリーズ)

プレップ倫理学 (プレップシリーズ)

  • 作者:柘植 尚則
  • 発売日: 2010/08/01
  • メディア: 単行本
 
メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

 
動物からの倫理学入門

動物からの倫理学入門

 

大阪経済大学准教授のHP(→)がブックガイドとして非常に参考になり、それを見ながら初心者向けの書籍を選んで読みました。
いずれも平易でわかりやすい良書ですが、『プレップ倫理学』はあまりにも教科書的で文脈に欠けるため、単独で読んで満足するよりは最初に読んでおいて後で適宜参照するのが良い気がします。『メタ倫理学入門』は学史上の経緯よりも論理ベースで主張を整理する構成が見事で、様々な論点を明晰に切り分けて理解するのに役立ちます。『動物からの倫理学入門』は各理論について対応する身近な問題を動物倫理から引っ張ってきて検討してくれるので、理論の使いどころを正しく理解できます。

これらで学んだ全体的な印象としては、各分野が扱う対象、何を争うのかという論点、主張を縮約した主義などの各要素が非常によく整理されていて、分析哲学的な雰囲気は好みでした(メタ倫理学の場合はムーアの影響が大きそうですが、倫理学がそういう学問であるというよりは読んだ本がそういう意味で優れていただけかもしれません)。
道徳や倫理に関する話題はニュースや創作でもいくらでも見られるので、道具立てとして簡単にでも触れておく価値は高いです。僕は『ウォッチメン』を見ながら「功利主義者のオジマンディアスと義務論者のロールシャッハが対立しているな……」と考えていました。

倫理学は主に3つの分野に分かれますが、僕が一番興味があるのはメタ倫理学でした。「メタ」という名前から何となく察せられるように、メタ倫理学では「そもそも道徳は存在するのか」「そもそも道徳判断とは何なのか」というような、そもそも論的な話題を扱います。それらの問いに対する僕の答えは読む前からはっきりしていて、「道徳は実在しないし、道徳判断とはせいぜい話し手の気持ちの表明に過ぎない」です。人を殺してはいけない理由など何一つないし、「人を殺してはいけない」という判断は「人を殺さないでほしい」という気持ちの表明と等価です。

補足308:僕が「人を殺してもよい」というのは、「生きていたらこれから100人殺すことが確実な殺人犯なら殺していい」とか「どう見ても意志を持っていない知的障碍者なら殺してもいい」というような「やむを得ない場合では殺す選択肢も正当化されうる」という意味ではありません(倫理学では境界例として頻出するようですが)。世界で最も「善良」な人間でも理由なく殺していいし、十数年間手塩にかけて育ててきた大切な娘でも、心から尊敬し感謝もしている最愛の親でも倫理的には理由なく殺していいという意味です。一般に「人を殺してもよいか」という疑問は「どういう条件ならば人を殺してもよいか」という全く異なる疑問に変質する傾向があり、それによって「別に無条件で殺していい」という発想が隠蔽されることに対しては欺瞞の気配を感じざるを得ません。また、動物倫理に対する立場もはっきりしており、「無条件で人を殺しても良いのだから、況や動物をや」です。

メタ倫理学の言葉を使えば、僕の立場は非実在論かつ情動主義です(道徳は実在しないし、せいぜい情動を表す程度のものである)。そして僕と対立するのが「道徳は椅子や机のように実際に存在する」と考える実在論者や、「道徳は事実の認知である」と考える認知主義者です。
僕は僕の立場に対して非常に強固な確信を持っているので、これらの対立する主義の間での論争がどう展開するのかを非常に楽しみにしていました。実に陳腐なテーゼですが、本を読んで新たな知見を得ることの魅力が今まで自明だと思っていたことを疑えるようになることだという見解にはかなりの程度同意します。

ところが、「実在論者vs非実在論者」や「認知主義者vs非認知主義者」の論争はそもそも成り立っているようには思えませんでした。
例えば、僕のような立場に寄せられるお決まりの反論は「それでは現に我々が持っている道徳の重みを説明できない」「現に行われている道徳の実践を説明できない」というものです。シニカルな倫理的見解に対してはすぐにこの手の反論がシュバってきますが、はっきり言って意味不明です。そういう考え方をするコミュニティがローカルにあることは否定しませんが、その存在を前提にするならそれはそのコミュニティローカルの社会学でしょう。その路線であれば本来すべき議論は「何故その直観が存在するのか」であるはずで、契約論や進化生物学がその範疇であるようですが、それらは実在論者の妄想と矛盾なく両立しうるため、やはり「実在論者vs非実在論者」という対立自体が不毛と言わざるを得ません。
元々、僕が反証として挙げられることを期待していたのは、理論の内部破綻や自己矛盾を指摘するようなやり方です。それを鮮やかにやってみせたのが例えば厚生経済学におけるアローの不可能性定理であり、ざっくり言えば「君たちはこれこれこういうことを主張しているようだが、それを緻密に検討するとこういう暗黙の前提と矛盾してしまう」と指摘することでそれまでナイーブに信じられていた立場を破壊しました。ところが、倫理学実在論者に全く共有していない前提を出された上で「これが説明できない」と言われても「だから何?」です。哲学において直観分析という手法が有効であったとして、直観を全く共有していない人間から見れば、それは恣意的に説明に合う「直観」を抽出してくるイデオロギー操作でしかありません。

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僕の考えでは、こうした歪みが生まれてくる根本的な原因は、倫理が個人的なものか社会的なものかという軸の設定が(僕が読んだ限りでは)あまりきちんと行われていないことです。
具体的に言えば、倫理という概念が本当に出発点にすべき疑問は例えば「世界に僕一人しかいないときに倫理は生まれるか?」だと思います。もし今日からこの世界に人間が僕一人しかいなくなったとして(お望みなら犬猫などの任意の生物も消去して構いません)、その世界で倫理を考えることは端的に無意味であるとは思いませんか。もしそれに同意してもらえるならば、倫理とは他者の存在を認めることによって初めて駆動する、本質的に社会的な営みであるはずです。そしてそれを認めるならば、非実在論に対して「倫理に対して強い実在の確信を持っている人もいる」という他者の直観への説明責任が生まれることは理解できます。ただし、それならそうと最初にそう明言した上で、哲学の看板を下げて社会学の看板を上げてください。
僕が言っているのは、倫理において検討される内容には「個人の生き方」や「社会の規範」といったレベルがあるということではなく、そもそも倫理という概念が成立するための超越論的な条件として他者の存在が必須であるということです。僕の考えでは、評判の悪いムーアの直観主義を評価できる点もそのあたりにあります。ムーアが批判されるのは、倫理の規範になると彼が主張した直観がせいぜいその個人の中でしか有効でない曖昧な概念だからです。しかし、まさにその弱点によって、倫理を個人の牙城に囲い込む=単独で成立させる倫理があり得るという可能性が提示されるように思います。

結局のところ、僕にとって倫理という話題は「私と私以外」という問題系に収斂せざるをえないわけですが、そうなってくるとやはりTwitterの底からドロンと現れてくるのが永井均です。

引用元で僕が貼った文章は『これがニーチェだ』からの引用です。

なぜ人を殺してはいけないか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。道徳哲学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答えは、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」――だれも公共の場で口にしないとはいえ、これがほんとうの答えである。

これがファイナルアンサーです。また、もし倫理学というゲームが「私と他者の等価性」という地点から始まるとすれば(そしてそれを前提にしないとき参加可能性自体が断たれるならば)、そのゲーム設定は『<私>のメタフィジックス』の範疇でもあるでしょう。

これがニーチェだ (講談社現代新書)

これがニーチェだ (講談社現代新書)

 
<私>のメタフィジックス

<私>のメタフィジックス

  • 作者:永井 均
  • 発売日: 1986/09/01
  • メディア: 単行本
 

以上のような経緯で、僕がお勧めする倫理学の書籍は『これがニーチェだ』『<私>のメタフィジックス』です。ただ、その意義は倫理学のしょうもなさを味わってから初めてわかるので、とりあえず倫理学入門を齧ってから読む方がいいと思います。実際、僕は倫理学を齧ってから再読して改めてその重みを理解しました。