LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

20/12/19 お題箱回:恋愛事情、小説入門書、作者の死etc

お題箱75

213.恋愛とかされたりしないんですか

「このコンテンツ消費しないんですか」みたいなノリで来ましたけど、しないと思います。

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僕が最後にプライベートで異性と会話したのは小学六年生の卒業式なのでもう終わりです。逆にその環境でヤバいミソジニーモンスターとかになってないのが偉くないですか?

 

214.結婚や恋愛をするオタクとしないオタクって、何が違うんですかね
自分は死ぬまで恋愛というものをしないだろうという確信があるんですけど、それまで恋愛のれの字も言ってこなかった周りのオタク達が気付けば結婚してコミュニティから離れていくみたいな事が続いて驚いています。
いつか休みの日に気軽に遊びに誘えるような友人がいなくなるのではと思うと少し寂しくなってきました。
KSUみたいなコミュニティでもみんな結婚していくんでしょうか(みなさん結婚してたらすみません)

僕にそれを聞く意味はないと思いますが、僕も取り残されるサイドなので仰っている気持ちはよくわかります。
この年齢になると友人の結婚によって我々が受ける被害って結婚した男に対する嫉妬などでは全くなく、男友達を奪った女への怒りっていうヤンホモみたいなものになっていきますね。我々からすると悲しいですが、KSUでもサイゼミでも男どもはぼちぼち結婚していくと思います。その流れはもう止まらないです。

補足366:そういう男しかいないオタクコミュニティの異常性をネット上ではポップにホモソーシャルと呼びがちですが、僕は男子校的なオタクコミュニティをいわゆるホモソーシャルと見做すことには異議を唱えたい立場です。というのは、イヴ・セジウィックが提唱した原義のホモソーシャルって女性を所有することでメンバー同士が認め合うような輪姦的コミュニティを指すんですが、それって基本的に体育会系サークルみたいなモテるマッチョ男性のものです。それはあくまでも異性愛によって駆動するコミュニティなので、そもそも異性を排除して介在させないオタクコミュニティには妥当しません。セジウィック式のホモソーシャルでは結婚した男性に対して「これでようやく一人前だな」みたいな引力が働くのですが、投稿者の方とか僕にとっては「そうですか、さよなら」みたいな斥力が働くわけですから、もっと素朴に同性愛的な空間だと思います。

もし本当に周りのオタクが皆結婚して誰とも連絡が取れなくなったら大きめの新興宗教に入信すると良いと思います。「結婚」のオルタナティブとして「入信」という選択肢があることは忘れない方がいいでしょう。
これは冗談で言ってるわけではなく、新興宗教は我々の末路みたいな孤独な独身男性にとって最後のセーフティーネットの一つだという認識があります。田舎から集団就職で上京してきて身寄りのない人間たちを吸収することでデカくなっていったのが日本の新興宗教ですから、元々家族代わりの即席コミュニティを提供する機能は備わっています。「新興宗教なんて始めたら周りにどう思われるか」なんて心配するような「周り」がいるうちはまだ良くて、その周りすらいなくなったときが恐らく真剣に入信を検討すべきタイミングでしょうね。

 

215.哲学や思想モチーフで書いているのだとは思うのですが、小説書く際に小説そのものの書き方は勉強しましたか?(何かワナビー本的な参考書みたいなの読みましたか?)参考になったものがあれば紹介してほしいです。

「小説の書き方」みたいな本は無限にあるので、図書館で何冊か適当に読みました。

ほとんどの本は参考にならなかったのでまずはその話からすると、「何を書くべきか」を説明する本はあまり役に立ちませんでした。だいたい以下のような事柄について懇切丁寧に解説する本と言えばイメージはわかると思います。

・典型的な物語構造(例:自立と成長、貴種流離譚、時事問題の寓意……)
・典型的な小説ジャンル(例:ファンタジー、ラブコメ、SF、推理……)
・典型的な登場人物(例:陽気、冷静、陰湿……)
・典型的なプロットの進行パターン(例:仲違いからの和解、課題発生と解決……)

こうしたテンプレートの把握が大いに参考になるのは事実ですし、知っておくに越したことはないと思います(とりあえず読んだ方がいいとは思います)。が、それはどこまでも補助線として参考になるだけであって、真に役立つことはあまり無いような気がします。

素朴に根本的にズレていると思うのは、常識的に考えて、「適当なジャンルのポイントと流れを押さえてそれに当てはまるような小説を書こう!」というモチベーションで素人が小説を書き始めることは有り得ないのではないだろうかということです。
我々は売れる小説を書けと出版社から圧をかけられている職業作家でも、週明けまでに課題の短編を書き上げないといけない専門学校生でもないはずです(もしそうだったらすいません)。書いても書かなくてもいい立場なのに書いているのは書かなければならない内容がもう既に頭の中にあるからではないでしょうか? そうやって書き終えたものが結果的にラブコメやサスペンスの類型であることは大いに有り得ると思いますが、それは最初から「類型を押さえてそれに当てはまるように書こう」というモチベーションで書き始めるのとは全く別のことです。

だから我々素人が本当に知りたいのは「何を書けばいいのか;What to write」ではなくて、「どうやって書けばいいのか;How to write」のはずです。そこのところ、『スクリプトドクターの脚本教室』という本が非常に良かったです。

スクリプトドクターの脚本教室・初級篇

スクリプトドクターの脚本教室・初級篇

  • 作者:三宅 隆太
  • 発売日: 2015/06/25
  • メディア: 単行本
 

この本では脚本の原動力をテンプレートではなく作者自身に求めています。
そのため、面白くない脚本が面白くない理由は、(テンプレ紹介系の入門書がよく言うように)「テンプレートに沿っていないから」「流れを押さえていないから」ではなく、「作者自身が保守的な性格だから」「作者が自分自身の嗜好を理解できていないから」というような自己理解へと還元されます。作品と作者を不可分に捉えている以上、脚本の修正は作者のカウンセリングという側面も持ちます(作者の仕事エピソードでは幼少期のトラウマを解消する精神分析家のようなことをしている話が語られます)。もちろんテクニックもいくつも提示されますが、その目的は自分をよく理解してよく描写するためであって、テンプレートへの当てはめゲームをするためではありません。

僕が特に共感したのは冒頭で素人が書きがちな小説のタイプを「窓辺系」と括ってその解決を最大の目的とするところです。今この本は手元に無いのでググって出てくる記事の孫引きをしますが(引用元→)、窓辺系とは以下のような小説です。

典型的なストーリーラインは、「人づきあいの苦手なOLが田舎に帰って自分探しをした結果、少しだけ元気になった(つもりで)東京に戻ってくる話」です。

また、「友だちとプリクラやカラオケに行くのを極度に嫌うおとなしめの文学系女子が、図書館や美術館などで出会った理知的な年上の男性から褒められて承認欲求を満たした(つもりになる)話」

(中略)

いずれのパターンでも共通しているのは、主人公が極端に内向的で、思っていることを口にしたり、問題を解決するための具体的な行動をとったりすることがなく、かわりに独りで「窓辺」に立ち、物思いに耽ったり、思い悩んだりする場面が繰り返し出てくるという点です。

この本の思想では小説の内容は作者の人格を映しているので、「窓辺系」を書いてしまう作者もまた「窓辺系作家」として分析対象となります。

『窓辺』系作家とは、非常に簡単に言うと、内向的で自分自身に自信がないが、その割にプライドが高く、そして人と関わることが苦手な脚本家(志望)を指す。そんな彼らの書く脚本はどんなものか。さえない主人公の日常にちょっぴり「何か」が起こり、読み手がその「何か」を把握しきれないまま、いつの間にか解決し、新しい日常へ歩み出す。

これ「わかる!!」って叫びたくなりません? 僕はなります。

ここまで具体的に提示されてしまうと、(この本はそこまではっきり言っているわけではないにせよ)「つまらない人間はつまらない脚本しか書けないのでまずは人間の方を何とかしなさい」という一見暴論じみた思想もかなり説得力を持つように思います。著者の三宅氏にとっては窓辺系作者こそが「自己認識が甘い素人」の典型であり、彼らが自己理解と自己表現を通じて面白い脚本を書くにはどうすればよいかという流れで本旨が展開していきます。

実際のところ、三宅氏が窓辺系を問題視する理由は「窓辺系は誰でも書けすぎて脚本として売り物にならないから」というのが大きいように思われ、その商業的なインセンティブに対して共感するわけではありません(僕は脚本家志望ではないので)。ただ、もっと単純に個人的な好みとして僕は特にこれといった事件も起きずに謎にほっこりして終わる窓辺系が本当に嫌いだということ、それを徹底的に回避しなければならないこと、少なくとも僕にとってはテンプレートに沿ったものより自己表現を深めたものを目指すべきだろうことなどをはっきり認識できたのは大きかったです。以下はこの本に書いてあったか内容だったどうかは自信がありませんが、例えば

・登場人物をなるべく一人にしない(独りよがりな内省に入ることを封じるため)
・登場人物の心情はモノローグにせずなるべく口に出させる(問題をはっきりさせるため)
心理的な発展や成長はなるべく会話を通じて処理する(自己完結、自己満足をさせないため)

などの工夫は窓辺系を避けるために意識しています。

最後に一応欠点を挙げるとすれば、この本は別に素人創作趣味のためではなく本当に真剣な脚本家志望者のために書かれていることがあります。よって、業界の内情、脚本の形式的な扱い方、仕事の取り方などにもかなりページ数が割かれており、正直そこはどうでもいいです。つまり参考になる実質的なページ数はそれほど多くないのですが、逆に厚さの割には読みやすいと言ってもよいでしょう。オススメです。

 

216.最近『化物語』や『幼女戦記』のコミカライズに「原作者はもっと原作読め」みたいな感想がつくのを散見するのですが、これって「作者の死」の言い換えって理解で合ってますか?

(ついでに「作者の死」にオタク的な一家言があれば語って欲しいです)

この投稿が来たのでそろそろ『作者の死』を読んどくかと思って読んだのが4回前くらいの謎記事でした。

saize-lw.hatenablog.com

ちなみに『作者の死』自体は数ページの極めて短い論文なので関心があるならば目を通すと良いですが、その中で前提されている構造分析とテクスト分析の差異については他の論文を参照する必要があり、結局のところ『天使との格闘』や『作品からテクストへ』を読む羽目にはなると思います。

バルトの原典を踏まえるのであれば、「原作者はもっと原作読め」は「作者の死」に相当するかという疑問は半分は合っていますが半分は間違っています(というのはやや好意的な裁断であって、まあ正直に言えば9割くらいは間違っています)。

まず、「原作者はもっと原作読め」が「作者の手から作品を分離させる」という発想を前提しており、この発想をバルトが構造分析から引き継いでいることはかなりの程度事実だと思われます(少なくとも、作品を作者の人生史に紐づける素朴な文化批評に距離を取っている点は共通します)。
とはいえ、構造分析において抽出される構造とはレヴィ=ストロース的に言えば「変換に対して不変なもの」、すなわち色々な作品で細部が変奏されるにも関わらず変化しない通奏低音のことです。典型的には、様々な要素を六人の行為者が持つ関係に還元するプロップのモデルが挙げられます。

送り手-対 象→受け手
     ↑
援助者→主 体←敵対者

これですね。といっても全然ピンと来ないと思うので、例えば挙げられている『化物語』シリーズの『傷物語』で構造分析をやってみましょうか(劇場版三部作でまとまりが良いので)。まずはこの六項に適当に登場人物を嵌めていく作業をやります。

とりあえず「主体」は主人公の「阿良々木暦」で良いでしょう。彼が欲望している「対象」を何にするかは、『傷物語』の主題を何と見るかでいくつかの選択肢があり得ます。
例えば彼が自分自身の生身を取り戻す自己理解としての物語として読むならば対象は「人間としての阿良々木暦」になりますが、対象を「(大人の)キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード」と見るならばこれはもっと素朴にヒロインの吸血鬼を救うための冒険譚になるでしょう。もしくは、対象を「羽川翼」にして青春物語?として捉えるのもアリかもしれません。
別にどれでもいいのですが、簡単そうな「ヒロインの吸血鬼を救うための冒険譚」という解釈でいきましょう。よって、「対象」は阿良々木暦が取り戻そうとする「(大人の)キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード」となります。
わざわざ「大人の」と書いたのは、「(子供の)キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード」が阿良々木暦に力を授けて協力する「援助者」になるからです。無論、「敵対者」は「吸血鬼ハンター」です。「対象」が誰から誰に受け渡されるのかを考えると、「送り手」は肢体を持っている「吸血鬼ハンター」、「受け手」は「(子供の)キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード」になるでしょうか。
こうすると、「受け手」と「援助者」が一致し、「送り手」と「敵対者」が一致しているという、極めて単純な「対象」の奪い合い、「主体」である阿良々木暦を媒介とした代理戦争という構造が見えてきます。適当に主題を設定したせいでやたら単純な読みになってしまいましたね。

とはいえ、『傷物語』の真骨頂は最終盤で「対象」だったはずの「(大人の)キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード」が「敵対者」に反転して、依然として「主体」である「阿良々木暦」との戦争に突入することです。これによって「阿良々木暦」が欲望する対象は「羽川翼」に変化し、援助者も「忍野メメ」に変わります。
こうした露骨で意図的な構造の急変から主題のシフトが可視化され、前半と後半を結び付ける力学は何なのかとか適当な批評を展開する余地が出てきます。

この先の分析は来週までのレポート課題にするとして、僕が言いたいのは、「原作者はもっと原作読め」と言っているオタクは別にこういう構造への還元を想定して「原作」と言っているわけではないだろうということです。
彼が「原作」と言って指しているのはこういう普遍的な典型プロットではなく、むしろ作品固有の設定とか特殊な流れのことだと、少なくとも彼自身は思っているのではないでしょうか。よって、構造分析に現れるような「普遍性への還元」という意味での作者のオミットは「原作者はもっと原作読め」には妥当しないように思われます。

では、バルトが提示するテクスト分析はどうでしょうか。
バルトは「作者の死」に加えて「読者の誕生」を支持している点で構造分析から先に進んでいます。彼自身、テクスト分析を明晰に定義しているわけではないので断定する自信はありませんが、読者の誕生とは「無意識のように無際限に広がる多様な読みの可能性」のことだと言ってそう当たらずも遠からずという感じだと思います。
重要なのは、バルトが言う作者の死には、その代わりに読者の読みが多様化するという解釈の複数性の方に力点があることです。そうなると「原作者はもっと原作読め」と言っているオタクと噛み合わなくなってくるのは、そういうオタクは恐らく一元的な読みを想定していることです。確かにこのオタクは読者側の解釈を重視しているようですが、恐らく彼が許容している解釈はむしろコミュニティで是認されている唯一のもので、それにそぐわない解釈を作者が提出したことに異を唱えているのでしょう。バルト的に散逸する読みを許容するのであれば、一つの読みを絶対視して他の読みを否定することは起こりません。

よって、構造分析としてもテクスト分析としても、恐らく「作者の死」は「原作者はもっと原作読め」とは無関係であると思われます。なんか怒涛の全否定みたいになりましたね、すいません。

ちなみに僕自身は「原作者の解釈が唯一正しいものではない」「原作者が知らない正しい解釈は全く有り得る」「原作者も一度創作を終えれば読者の一人に過ぎない」みたいなことは割とよく言う方であり、比較的バルトに即した意味で作者の死を内面化しているような気はします。