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20/11/20 ロラン・バルト『物語の構造分析』メモ 構造分析vsテクスト分析

物語の構造分析

物語の構造分析

物語の構造分析

 

お題箱に「作者の死」に関する投稿が来ていたのでやむを得ず読んだ。
ロラン・バルト及びその著作については「構造主義ブームの記号論&物語担当」くらいの解像度でしか把握していなかったが、実際に著作を読むとロラン・バルト自身はグレマスやプロップのような古典的な構造分析に対しては明確に距離を取っているのが意外だった(同じ界隈だと思っていた)。
バルトのポジションは「作者ベースの批評(歴史的批評)vs読者ベースの批評(構造主義批評)」という対立において後者というよりは、構造主義批評の中で更に分裂した「構造分析vsテクスト分析」という対立において後者という方がしっくり来る(そしてテクスト分析は構造分析よりは歴史的批評に近い)。構造分析が単に所定の枠組みで作品を捉える原始的な構造主義であるとすれば、テクスト分析はその自律性に疑いを持つポストに片足を突っ込んだ構造主義という印象。

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実際、メインの論文である『物語の構造分析序説』では主として構造分析を深化させたモデルを提示しながらも、要所でテクスト分析の必要性を示唆する構成になっている。
バルトが提示する機能-行為-物語行為という三段階層モデルは直観的にも理解しやすく、構造への当てはめゲームに終始する節がある機能リストや行為項モデルに比べると、ゆがみや拡大といった説得力のある魅力を扱える点で上位版のように感じる。
ただ、この論文における最大の力点は決して機能-行為-物語行為モデルそのものではなく、むしろこの単純な腑分けに収まらない余剰への意識であるように思われる。それはバルトが物語行為について語るところで顔を出すが、これに関してはバルト自身より日本語訳者(花輪光)の訳解の方がはっきりと書いている。

物語の自律性を前提とする内在分析は、「物語の状況」に関して十分な意味規定をおこなうことができず、逆に外在的条件までも考慮すれば、物語外の要素の介入を避けえない。物語の構造分析のこのディレンマを解決するためには、物語のディスクールを含む包括的な「ディスクール言語学」、いやさらに「エクリチュール言語学」が必要であろう。

ここで物語の構造分析を補完する「エクリチュール言語学」として現れるのがテクスト分析であることは明らかだ。ちなみに統語論に終始して文化的価値体系と接続しない構造分析のことはレヴィ=ストロースも批判していたらしい。

実践を行う『天使との格闘』でも主にバルトが行ってみせるのは古典的な構造分析に過ぎないが、その過程でテクスト分析を示唆するという『物語の構造分析序説』と同じ構成を取る。こちらの方が構造分析とテクスト分析を峻別する態度がはっきりしており、構造分析を行っている最中にわざわざ「私の本意ではないのだが」という留保をいちいち挟むのが面白い。

最後にわたしは――もっと自分を殺して――われわれのテクストに二種類の構造分析を応用し、そうした応用の利点を示したいと思う――わたし自身の作業はいくぶん異なった方向を目ざしているのであるが

また、ではテクスト分析とは何なのかという自然な疑問に対して(比較的)明晰なバルトの定義が与えられるのもこの論文だ。

テクスト分析はもはや、テクストがどこからやって来るか(歴史的批評)、またどのように構成されているか(構造分析)を言うのではなく、テクストがどのように解体され、爆発し、散布されるか、つまり、テクストがコード化されたどのような道を通って立ち去るか、を言おうとつとめるのである。

ここでもやはり歴史的批評と構造分析とテクスト分析の三種がはっきりと区別されている。この論文では嫌々行われる構造分析が主題であり、テクスト分析そのものは陽に行われてはいないが、最後にその具体的な手続きが僅かに触れられている。

周知のように、換喩的論理は、無意識の論理である。それゆえおそらく、この方面にこそ探求を続けていくべきであろう。つまり、繰りかえして言うなら、テクストの読み取りを、テクストの真実ではなくテクストの散布を、追求していくべきであろう。(中略)少なくともわたしが身に課す問題は、実際「テクスト」を、何であれ一つの記号内容(歴史的、経済的、民間伝承的、ケリグマ的)に還元せず、テクストの表意作用を開かれた状態に保つようにすることなのである。

バルト自身も触れているように、この一節にはラカン精神分析の影響があることは明らかだ。事物を記号的に構築された構造の中でしか捉えられないとするならば、次第にその構造からはシニフィエが欠落してしまい(構造は自律して存在できるのだから)、通常のシーニュではなくシニフィアンだけが残るという見解が共通していることが伺える。

よって、『作者の死』に収録されている、「エクリチュール」に並んで有名なフレーズ「作者の死」もこの文脈で捉える必要があるだろう。
「作者の死」というキーワードだけからスタートしてバルトのテクスト分析を語ろうとすることはミスリーディングとは言わないまでも、少なくとも「読者の誕生」の方がウェイトが高いことは事実だろう。作者が死ぬこと自体は、作品を単純な構造の中に分類しようとするプロップらの構造分析の時点で既に見られるからだ。作者を排除して自律的に作品を捉える閉鎖性はむしろ構造分析の特徴ですらある。
バルト自身のテクスト分析としては、作者を廃してもなお到来する領域として読者に向かっての開きを確保したところに力点がある。ラカン精神分析では「無意識」に割り当てられているような本質的に解釈不可能な領域が、バルトでは「読者の読み」に相当しているように思われる。テクストについて語ることが主題の『作品からテクストへ』でもテクストはなかなか肯定形ではっきりとは定義されず、隠喩や否定形でのみ語られることにも納得がいく。