LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

20/5/10 『アキハバラ電脳組』の感想 憧れの王子様を見限って

アキハバラ電脳組

f:id:saize_lw:20200510134216j:plain

コロナ禍で新宿TSUTAYAが一時休業してしまい(新宿TSUTAYAは未だにVHSを取り扱っている数少ないレンタルビデオショップである)、仕方なく契約した「dアニメストア for PrimeVideo」にあったので見たが、かなり面白かった。

最初はコメディとしてギャラクシーエンジェル的な感じで面白いアニメだったが(特に第9話)、中盤から話の本筋に入ってシリアスになってくる。『少女革命ウテナ』と問題意識を共有しており、憧れの王子様を打ち捨てていく過程がシンクロしていて興味深い。
『電脳組』と『ウテナ』は放送時期的にもほぼ同期であり、まとめてDVD-BOXになっていたり(→)、Google検索すると劇場版を同時上映していた記録が出てきたりする(→)。しかし、内容の同異点ベースで語った記事は見つからなかったので自分で書くことにした。

異様な変身と王子様への憧れ

『電脳組』の基本線は女子中学生ヒバリが主人公のキャピキャピした変身ものだ。
概ね魔法少女ジャンルのテンプレートに沿い、特別な力を得た女子中学生5人が「ディーヴァ」に変身する力で敵組織と戦うストーリーが展開する。ディーヴァとは5人が大人になった姿であり、変身シーンには毎回成長バンクが挿入される。
しかし明らかに異質なのは、少女たちの大人姿に変身するのが少女たち自身ではないところだ。変身するのはマスコット的な存在であるところの「パタP」である(CCさくら的に言うと、さくらちゃんではなくケロちゃんが変身する)。よって、少女たちは元の姿のままで自分の大人形態を応援するというスタンドバトルのような妙な構図になる。

ディーヴァはスタイルの良い美人でありながら独立した自我を持たないところも特徴的だ。少女の指示に従って黙々と戦うだけで、傷付いても表情一つ変わることがない。人間ではなく精神を欠いた機械人形として描かれる。
つまりディーヴァは大人の肉体を持ってはいるが、大人の精神が欠如しているのだ。少女の肉体だけが成長して精神はそれに追いついていない。「少女が成長を先取りする」という魔法少女的なフォーマットにおいて、仮に身体が成長したところで精神の成長がそれに追い付くとは限らないという歪みが「無機物としての大人の肉体」というディーヴァのグロテスクさに表されている。

そして、この歪さは「王子様への憧れ」に象徴される主人公の幼児性に由来する。
主人公のヒバリは幼い頃から王子様に強い憧れを持ち、実は彼女が持っているパタPも王子様から与えられたものだ。王子様は宇宙に浮く城「プリムム・モビーレ」に住んでおり、ヒバリが使う力はプリムム・モビーレからレーザーのように降り注いでくる。

少女革命ウテナ』との比較、憧れの王子様を見限って

こうした王子様絡みの設定は『少女革命ウテナ』を想起させるものだ。
ウテナ』の主人公である天上ウテナもまた、王子様に憧れ、王子様から得た力で戦う。王子様は天空に浮かぶ城に住み、ウテナは決闘の際にはその城から力を得る。
実際、『電脳組』の「プリムム・モビーレ」と『ウテナ』の「城」は絵的にもよく似ている。

f:id:saize_lw:20200509163123j:plain

(『アキハバラ電脳組』における「プリムム・モビーレ」)

f:id:saize_lw:20200509163109j:plain

(『少女革命ウテナ』における「城」)

二作品において、「王子様」のポジションや顛末もほとんど一致する。
いずれでも王子様は人間社会を遥かに超えた超越的な力を持ち、そのために自らの目的のために手段を選ばない暴力性をも併せ持つ。当初は主人公は王子様に憧れ、王子様もまた姫君としての主人公に強く執着するが、最終的には主人公が王子様に見切りを付けてオルタナティブを求めることになる。

補足294:いわゆるポストモダン論ではこうした王子様の性質は社会体制におけるそれと同一視される。『電脳組』ではWW1でモダニズムに限界を感じた王子様が強大な力と共に社会からの完全な離脱を計るところは倫理的だが、それに主人公たちを巻き込もうとする独善性が拭いきれなかった。

例えば、『ウテナ』においては王子様であるディオス(アキオ)は学園の理事長として君臨している。そしてウテナが持つディオスの剣という理想を求め、あらゆる手段を尽くして彼女に執着する。ウテナは一旦はアキオとの恋愛関係に陥るが、最終的には王子様への理想を捨てて学園を去ることになる。

『電脳組』においても、王子様であるクレインはSF的な科学力を背景に人間社会を遥かに超えた力を手にしている。クレインはWW1を経て人間に絶望し、俗世から離れたナイーブな理想を体現する存在としてヒバリたちに執着してプリムム・モビーレに誘う。ヒバリも当初は誘いに乗り気だったが、別れを悲しむ両親の涙を見て地球に留まることを決める。
「特別であること」と「日常を送ること」は二者択一なのだ。特別でありたいクレインと日常を守りたいヒバリたちとの間で戦争が始まり、最終的にはヒバリは「あたしは特別なんかじゃない」と絶叫して変身を解き、クレインを見限る。クレインはとりあえずしばらくは人間を見守る方向で和解してプリムム・モビーレへと帰っていき、ヒバリは仲間たちとの日常へと戻っていく。

いずれの作品でも、当初は憧れの対象であった「王子様」がその超越性の裏に孕む暴力が剔抉される。「王子が姫を抑圧する」というフェミニズムの背景の下で見れば、王子様が持つ問題の力点は『ウテナ』においては「姫(薔薇の花嫁、アンシー)にコストを押し付ける」ことにあり、主人公は王子様を見限ると同時にアンシーを解放する。『電脳組』においては「姫(主人公と仲間たち)から日常を剥奪する」ことにあり、主人公は王子様を見限ると同時に仲間たちとの日常を防衛する。

また、既に述べたように、『電脳組』においては王子様への憧れの歪さはディーヴァへの変身が示す「肉体と精神の分離」に象徴されていた。この分離はヒバリの成長に伴って解消されていき、途中で「霊機融合」という奥義を獲得する。「霊機融合」ではディーヴァの肉体と少女の精神が正しく一致し、ヒバリは自分の身体のようにディーヴァを操るようになる。
しかし、テレビ版のクライマックスではヒバリは霊機融合すらも解き、そういう特別なガジェットを用いた特別な存在であること自体を否定したのだった。更なる顛末は劇場版で描かれることになる。

劇場版と王子様の顛末

劇場版『アキハバラ電脳組 2011年の夏休み』は王子様を追放したことで訪れた日常のシーンからスタートする。そこでまず目につくのは、テレビ版ではちょい役だった同級生「ウズラ」の大躍進だ。
ウズラは同性愛者でストーカー気質で幼児体型フェチでメカニックに強い強烈なコメディリリーフだ。盛りまくった属性を活かして序盤から主人公たちを追い回して爆発物を乱射し、とりあえず復旧した日常の中にコメディらしい非日常の旋風を引き込む役割を担う。元々ウズラは変身能力を持たない部外者だったため、日常への埋没を選択した主人公たちとは独立して非日常的なコメディを推進する役割を一手に引き受けられるのだ。

後半ではヒバリたちは地球の危機を救うために再びディーヴァに変身して宇宙に向かう。
しかし、それはかつて王子様に憧れていた頃の歪な変身ではなく、やはり「霊機融合」だ。霊機融合はテレビ版では一部のキャラしか使えない奥義であったにも関わらず、劇場版では「気持ちの問題」として誰もが簡単に使えるようになる。更にディーヴァの姿のままでギャグシーンやコメディパートをこなせるようになり、ディーヴァの姿は非日常的な戦場ではなく日常の延長線上に置かれる。遂に肉体の成長に精神の成長が追い付き、霊機融合は地に足の付いた正しく成長する変身として完成した。これが王子様を見限ったことでもたらされているのは言うまでもない。

また、後半部に来て主人公たちとウズラのポジションも逆転する。ウズラは地球に待機して宇宙に飛び立つ5人を見送る。このときの台詞がかなり良い。

ウズラ「夏休みの栞によると夜の外出は9時まで、お祭りの日に限り10時までになっています。これ、守らないと補導されちゃいますよ」

ヒバリ「わかった。それまでに帰るようにする」

このウズラの念押しによって、地球の危機を救うための宇宙への出発ですらも夏休みの枠内に押し込められる。後半のウズラは非日常に向かう女子中学生たちを日常に繋ぎとめる役割を担っているわけだ。
すなわち、ウズラの立ち位置は劇場版の前後で綺麗に切り替わる。前半部で主人公たちが日常を担うならウズラを非日常を担い、後半部で主人公たちが非日常を担うならウズラは日常を担う。ウズラの存在によって日常と非日常の断絶が緩和され、日常をベースとしたコメディの中に全てを配置することが可能になる。この裏面としての挙動はウズラが部外者であるために可能になっているわけで、彼女こそが劇場版最大の立役者だ。

補足295:その代わりに割を食わされたのがカモメだ。「いつもの5人」からカモメが抜けてウズラが入るというかなり残酷な人員整理が行われているが、カモメはあまり人気がなかったんだろうか?

クライマックスでは、荒廃したプリムム・モビーレで王子様のクレインが地球を見守ることに耐え切れずに苦しんでいる様子が描かれる。地球の危機はクレインの機能不全によってもたらされていた。やはり彼はどうしても安寧な地球を見ていることに耐えられなかった。

主人公たちがテレビ版で王子様を見限ったことと呼応して、クレイン自身もかつての暴君ではなくなっている。最初から最後まで、クレインは意識が朦朧とした状態でベッドに横たわってうなされているだけだ。ヒバリたちとクレインの間の会話は一切ない。かつてのディーヴァが自我を持たなかったように、今度はクレインの方が自我を持たない無機物となってしまった。歪みの所在はヒバリたちから王子様に移った。
主人公たちはクレインを残り5分であっさり救う。クレインが地球を見守るためのテレビを全て破壊し、日常から完全に追放したのだ。去り際にはスズメがプリムム・モビーレに発信機を残していき、ステルス技術により不可視で君臨していた王子様の城は監視されるものにまでグレードダウンしてしまった。

ヒバリたちがプリムム・モビーレを去っていくときの最後のやり取りもかなり良い。

スズメ「王子様はお姫様がいるから王子様なのかもですね」

ツグミ「クレインが王子様だったら誰がお姫様なんや? ヒバリか?」

ツバメ「ヒバリは……ヒバリだよね」

ヒバリがお姫様であることは遠回しに否定される。王子様に憧れていたテレビ版当初のヒバリはもういない。そして姫がいなくなった王子様はもう王子様ではいられない。見捨てられたのは王子様の方なのだ。
姫でなくなったヒバリたちは王子様が耐えられなかった日常の泥臭さの中へと帰還していく。彼女らが帰りながら雑談するのは「今日泊まる場所」だ。地球の危機を救った直後でありながら限りなく俗で日常的な会話をしながら帰っていく。

ちなみに劇場版『ウテナ』でも王子様のアキオは登場しないどころか物語開始時点で既に自殺している。『電脳組』でも『ウテナ』でも王子様はテレビ版で打ち捨てられ、劇場版で完全に力能を失う。

「王子様はお姫様がいるから王子様」、お姫様に見限られた王子様は哀れなほどに弱い。