LWのサイゼリヤ

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22/9/17 小二で全国模試一位を取った男の半生

・お題箱104

469.最近LWさんのことを知ったのですが、言える範囲で今までのご経歴を教えて欲しいです。

最近僕と同じ筑駒→東大のフォロワーのきらじゃんさんが半生を振り返る記事を書いていて、めちゃめちゃ経歴が似ててビックリしたので僕もリスペクトして主にペーパーテストから半生を回顧する文章を書こうと思います。
筑駒とか鉄緑会とか東大の基本的なシステムはそちらに書いてあるので、先に読んでおくことをお勧めします(あまりにも同じイベントを通過してきているので基本設定の説明が参照で済んでしまう)。

kirarajump.blogspot.com

小学生

僕の一番古いペーパーテストの記憶は小学二年生のときにSAPIXだか日能研だかの全国模試で全国1位を取ったことです。

今にして思えば、人生において「勉強を頑張ろう」みたいな言説が発生する前の段階で雑に頂点を取ってしまったことはその後のペーパーテストの認識に大きな影響を及ぼした気がします。

別に何もしてないデフォの状態で全国1位くらいは取れることを小二で確認してしまったので、「トップを目指して頑張ろう」みたいなことを言われても「それもうやったし全然大したことじゃないすよ」と思うだけで響きません。その後の人生で勉強をする際にも「上を目指して頑張ろう」みたいな純粋な上昇志向を持てないのは多分そのせいで、代わりに「他の受験生を全員殺す」みたいなゲーマー流戦闘民族マインドや「俺自身を無限に研鑽して神になる」みたいな修行僧マインドが発動します。

また、別に養成ギブスを付けて朝から夜まで机に縛り付けられて教科書を百冊読んだりしなくても、物心も付いていない頃に適当に受けた試験で適当に1位を取る人間も普通に存在するというサンプルが自分なので、今リベラルな風潮の中でよく言われる「学歴と投入教育資本は正確に比例する」「学力は教育と環境で決まる後天的なものだ」という言説にもあまり賛成できません(とはいえ公平のために言っておくと、少なくとも小二の子供に全国模試を受けさせる程度には教育意識の高い家庭だったことは事実です)。

全国模試を受けたときはまだ塾に通っていなかったのですが、「さすがにこいつフルチャンすぎるからオールインした方がいいだろ」という感じになって中学受験のためにSAPIXに通うことになりました。

どうせ余裕なのが目に見えているので両親も気楽だったと思いますし、受験方針で揉めていた記憶もありません。筑駒志望もちゃんと検討したわけではなく、「どこでも行けるし最強のとこ行けばよくね」くらいの感じだったと思います。元々住んでいた埼玉の家が筑駒の学区外だったので、小五のときに合格する前提で学区内の都内に引っ越しています。

補足422:ただ僕がEASY MODEだった裏で二歳上の姉が代わりに非常に苦労していたことが最近になってようやく判明しています。姉もたぶん小学校で一番になる程度には優秀なのですが、さすがに僕と比べてしまうと成績が悪すぎて親に無駄に怒られたり劣等感に苛まれたりと大変だったらしくてけっこう可哀想です。

筑駒の文化祭に行ったときに僕がチョコバナナ食って「これうめ~」とか言ったのを母が事あるごとに掘り返してきて「筑駒に入ってチョコバナナ食べようね」とかしきりに言ってくるので「おっそうだな(別に筑駒に進学しなくても文化祭に行けば食えるのでは?)」って感じだったのですが、今にして思えばあれはイマイチ目的意識に欠ける僕のモチベを何とかして筑駒に導こうとする努力だったんでしょうね。

SAPIXでは常に最上位クラスにいて最前列の友達と楽しくやっていました。『二月の勝者』で「最前列にいる神7は宇宙人だ」って言ってるのは事実で、犬の真似して犬語で会話してる女の子とかが普通にいました(ソシャゲのキャラ?)。どうせトップ帯で気にする必要がなかったので当時の成績はよく覚えていませんが、当時は全国1位を取るとお小遣いが2000円貰えるシステムだったことだけは覚えています。いくらなんでもそのレートはシャクりすぎでは?

ちょっと脱線しますが、当時はコンプラが緩くて全国模試や塾内試験での順位がすぐ冊子になって配られてトップランカーの名前や所属がすぐにわかったので、中学受験勢最上位帯は格ゲー全国ランキングみたいな世界観でした。「この鈴木ってやつは社会はバカだが算数は誰も勝てねえ」みたいな面識のないランカーのステータスが知れ渡っていて、そういう子供たちってだいたい同じような中学校に集結したり数学オリンピックとかでもメダルを取ったりするので、「お前があの柴田か!」ってどこかで伏線回収することも珍しくありません。もっと後にも鉄緑会とか東大でかつてのランカーの姿を見かけたりもしてインテリ世界の狭さを感じます。

中学受験本番はよく覚えていませんが確かきらじゃんさんと同じ受け方をして、聖光と筑駒に受かって開成には落ちていたはずです。僕は別に開成に行きたいわけでもなかったのでそういうこともあるよねくらいの感じでしたが、親は子供が動揺しないように努めて平静を装ってフォローしているのが見え透いていて逆に哀れでした。

 

中学・高校

筑駒では基本勉強していませんでした。

これは謙遜ではなく、1学年120人のうちで100位以下の成績がデフォでした。勉強する理由が特にないので勉強しないし当然成績も悪いというだけなので全然気にしておらず、「筑駒で100位ってことは全国で100位ってことじゃね?笑」とか言いながらマリカと遊戯王をして授業は寝ていました。たまに起きて聞くと面白いことを言っていたりするのですが、体系的に学ぶ気がないので断片を一瞬で忘れてしまって残るものがありません。

鉄緑会には中一から通っていたものの、そもそもやる気がないので特に成績が上がることもなく、謎に僕の時間と労力と親の金が吸われた以上の効果はありませんでした。
あの名高い鉄緑会と言えども底辺層は普通にカスなので、最後列に座ってるやつは授業中にヴァイスシュヴァルツのカードをスリーブに詰めてたり(僕も隣の席から協力して10枚くらい詰めたことは今でも覚えています)、ノートの裏で涼宮ハルヒの退屈を読んでたり(授業前に貸して授業後に帰ってきたときには折り目が付いていてキレたことを今でも覚えています)、授業後に帰らずに賭け遊戯王で遊んでいたりします(これは負けたーと思って打った韓シクのアムホがトップから混黒を落として早埋を回収して捲ったことは今でも覚えています)。

途中で気持ちを入れ替えることも特になく、中一から高三までペーパーテストはずっとそんな感じでした。僕も中三くらいのときにママ友経由で母が存在を知ったとある英語塾に入れさせられたのですが、何も起きずにフェードアウトして何かを学んだ記憶がありません。東大模試も特別考査もカスみたいな成績だったはずで、特別考査が意味不明すぎて開幕即寝してたら解き終わったと勘違いした教員が「はやっ!」と小声でビックリしていたことだけ覚えています。

あとこれは人生で初めて白状するんですが、高三の夏に腸炎で入院したのは勉強もせずに過酷なオナニーをしていたせいです。毎日のようにうつ伏せの同じ体勢で比較的個性的なオナニーを長時間していたので、いつも拳が当たっているお腹の同じ部分が強く圧迫され続けて炎症を起こしたというのが真相です。受験勉強のストレスということにしたせいで未だに家族にはストレスがかかるとお腹に現れる体質だと思われているのですが、別にそんなことはないです。

それでも東大の二次試験を受けたということは足切りを回避する程度にはセンターの点数を取っていたはずですし、早稲田のどこかくらいは受かっていました。とはいえ現役時はそもそも勝負していなかったので浪人するのは既定路線で、「さてそろそろやるか!」みたいなテンションで浪人を開始しました。

 

浪人時

浪人中は本気を出したので春頃からもう成績がよく、河合塾本郷校では敵なしで夏の全国模試では浪人生中では全国1位を取っていました。

とはいえ浪人生って普通の人がもう受かってるところを受からなかったバカだけを選んで抽出してきた終わりの集まりなのでハンデ戦もいいところです。実際、浪人1位になっても全体では3位で、その後もけっこう頑張ったのですが、浪人の王にはなれても現役も含めての1位は結局一度も取れませんでした。そもそも一年多く勉強しているというヤバいアドバンテージがあるのでけっこう勝ちたかったです。

浪人時のセンターと二次試験の成績は覚えていませんが、予備校のセンター後面談で英語が満点だったことを報告した瞬間にメンターの空気というか顔面がめちゃめちゃ緩んだのはよく覚えています。メンターも当落上にいる余裕のない受験生と何度も面談し続けるのは精神的に相当きつくて(泣き出す人もたくさんいます)、こいつはさすがに余裕だろみたいなやつが来てくれるとやっぱりホッとして緊張が緩むんでしょうね。

早稲田もついでに特待生合格して四年間学費免除みたいな奨学金のオファーも来たのですが、どうせ金は親が出してくれるので普通に東大に行きました。

 

大学以降

大学では浪人時のモードを引き継いでかなり真面目に勉強していました。

僕もきらじゃんさんと同じで特にやりたいことはないけどやりたいことが出来たときのために点数を高めに取っておく派でした。ただ面白い授業は学期に一個あればよい方で基本的につまらなかったです。内容がつまらないというよりは、僕は座学という形式が絶望的に苦手なので講義を受けるべきではありませんでした。今思えば教授に初手で参考書を聞いてあとは講義を聞かずに本で独学して試験に臨むのが最適解でしたが、当時は若くそれがわかりませんでした(ただ今はもう本を読みこなす自信があるのでそう言えますが、成人前の自分には難しかったのではないかとも思います)。

進振りの段階になっても特にやりたいことがなかったので、適当に一番無難そうな工学部で底点が高めで丸そうな学科に進学することにして、それが計数工学科でした。正確に覚えていないですが、当時の計数の底点は70点代後半とかだったような気がします。今は情報需要でインフレしてもっと高いらしいですね。

ただ研究能力が要求され始める学部後期ともなると、興味のない分野を無理してやっていくのにも流石に限界が来始めます。計数での成績は良くも悪くもないくらいで、単位を落とすことこそ滅多にありませんでしたが、卒論は書けずに留年したし大学院入試には落ちたしで良い思い出がありません。大学院の面接は周りは皆スーツで来ていたのに僕一人だけ私服で、口頭試問も全部わかりませんとか言ってました。どうでもよすぎて点数開示請求をした記憶すらありません。

翌年はたぶん温情で全然人気ない研究室に入れてもらったのですが、やはりそもそも興味がないので何もせずに退学しました。大学院生の僕がどのくらい無能だったかと言えば、制御理論の研究室だったにも関わらずPID制御がよくわかっていなかったくらいです(制御理論を知らない人向けに言うと、ポケモンバトルの研究室にいて草タイプの弱点がわからないくらいやばいです)。

ただ理系分野の講義を完全無視して宗教学とか芸術学とか哲学の講義やゼミを取りまくっていて、そちらでの成績は非常に良くて優上をいくつも取っていました(在学中に書いた古い記事にはその辺のレポートを載せています)。その経験はその後の人生でも活かされていますし、システムの抜け穴を使って文系講義をたくさん履修できたことは情報理工学大学院に行って唯一良かったことです。

ちなみに良い機会ですし来月には退職するので書いてしまうと、今はソシャゲ会社でゲームプランナーをやっています。ゲームクリエイターと言うと響きが良いですが、わかりやすく言えばソシャゲのガチャの中身を設計して売っているのが僕です。僕がスパ銭に行ったり家系を食ったりするお金は皆さんがこの前ガチャに課金したときのiTunesカードから来ているかもしれません。

こういうことを書くと「筑駒に入って東大を出た頭脳の末路がガチャでオタクから金を巻き上げる底辺ジョブか……」とか嘆かれそうですが、僕はソシャゲプランナー業は自分の知的能力をよく活かしていると思っているし、かなり満足していて誇りを持って楽しく働いています。その辺はいずれ機会があったら書いてもよいですが、退職が完了して自分の中でも経験の立ち位置が整理できてからになるので相当先になると思います。

 

追記:この記事への反応が多かったのでレスポンス編も書きました。

saize-lw.hatenablog.com