ブコメから俺の半生を反省する
一昨日書いた記事が謎に伸びてブコメでたくさんコメントを寄せて頂いたのでそれについて書きます。普段はブコメが伸びても色々な意見があるな~くらいですが、今回は僕自身が腹を出して転がって見世物になっている記事なのでなるほどこう見えるんだとか色々勉強させてもらうところがありました。
Twitterでは「刃牙の家」って書きましたし、「ブコメ荒れすぎでしょ」みたいな心配をしてくれる人もいますが、別にこれは大丈夫です。最近は誹謗中傷抑止の名の下にネット言論の過剰なクリーン化が進んでいますが、ネットは対面じゃないし言いたいことを言った方がいいというのが僕の基本スタンスであることは、先の記事が一切謙遜を含んでいなかったことからもわかってもらえると思います。
もちろんラインを超えた人格攻撃とかだったら流石にちょっと考えますが、少なくとも今来ているコメントは全てラインに掠りもしていません。色々感想寄せて頂いてありがとうございます。
実家の太さについて
本人の資質+惜しみない親の財力。ストレートに羨ましい
一応ご本人も教育に金かける方の家庭という認識はあるけど、サクッと浪人させてくれたり留年の学費払ってくれたり奨学金蹴れるのは金を持ってるって事だよ…(それができなくて道を変える人も普通に多いので)
“小五のときに合格する前提で学区内の都内に引っ越し” ←コレできる家なのがすでに恵まれてるよね。九州の田舎で養豚業をやってる家がいざ同じ事をできるか?を考えたら…
実家が太いというのはどこまで行っても自覚はできんのだろうな。サンプル1なのが普通なのだから当然か
一番多かったのが実家太いですね系の感想で、それは事実だし謙遜しても仕方ないので親にマジ感謝という感じです。
ただ「あまり過剰に謙遜したり罪悪感を抱いたりしないようにしよう」というある種の露悪的な態度は意識的にやっていることです。先の記事だって良識的なエリートなら「僕はたまたま環境が恵まれていて~」とかいう留保を挟んでこの手の反応への緩衝材にするんですが、僕はそれをやりたくないということです。
それってポーズとはいえ自分を下げる行為なのでやっぱり精神にあんまり良くはないんですね。世間の自尊心を補填する代わりに自分の人生から自尊心を少し削るゼロサムな言動で、形だけ寄り添う振りをするのはお互いにあまり良いことが無いです。生まれを謙遜しない代わりに生まれによって他人の批難もしないのが妥協点です。
また「自覚が無い」というコメントもぼちぼちありますが、普通に自覚していますしそれはむしろ隠さず露骨に書いたつもりでした。実家が太いことを自覚したらただちにそれに対して感謝や謝罪をしなければならないと考えている人もいますが、僕はそうではないというだけです。
人間性について
人間、頭の良さより人格が大事なんだなって感じた
文章だけだと、なんかこの人嫌い。
筑駒生は一定レベルの学力は保証されていますが、当然ながら人格は保証されておらず、また灘高生と比較するとよろしくない人格を隠す技術が発達していないようにも見受けられます(筑駒生にも真の人格者はいますが)
一切謙遜しなかったので全体的に好感度が低いです。「頭が良い代わりに性格が悪い人」みたいな人格テンプレを当てはめる方も多いですが、それは本当に人格者かどうかというよりは人格者の振りをするかどうかという話です。
僕は人格者の振りをしないので更に被害を広げることにすると、基本的に知的能力と道徳性ってある程度は反比例するので、筑駒生とか東大生が「真の人格者」である可能性は低いと思います(仮に対外的には人格者に見えたとして、「彼が本当に人格者かどうか」というよりは「人格者の振りをするのが上手いかどうか」が本当の争点であるケースの方が圧倒的に多いはずです)。知的能力が高いといわゆる道徳的な言説もイデオロギーの一つでしかないことに気付きますし、その裏に素朴な利害が隠されていることや、実際には抑圧されて取りこぼされているものがあることもわかるからです。
逆に「自分の能力なんて大したものではありません」とか言ってる東大生がいたらとりあえず警戒しておいた方がよくないですか? 謙遜とか社交辞令ならまだ良くて、心の底から本気で言ってるようにしか見えなかったらヤバい馬鹿かヤバい嘘吐きの可能性があります。客観的に見てどう考えても突出した能力を持つという統計データがあるのに、それをまともに認識せず著しく捻じ曲がった解釈を表明しているからです。僕は「さすが東大卒は賢いね」と言われたら「いえいえそんなことは……」じゃなくて「ありがとうございます」と言うようにしています。
模試の分母について
小2の頃って、まだ全国の猛者たちが全国模試とか受けてないから、そこでの一位なんて外形的にも大した意味ないのでは。
この指摘はかなり正しいです。小二以降も何度か取ってましたが、いずれにせよ全国模試の一位は割とローカルな一位であるということは忘れないようにしないといけません。
全国模試なんて色々な塾が高頻度で開催している上に何度でも受けられるので、同年代の間ですら100人くらいは一度は何かの模試で全国一位を取った人が存在しているはずです。漫画みたいに絶対不動の一位という人もまずいなくて、実際には開催回によって一位の座を譲り合うトップ100人くらいの集団に入っているかどうかという方が正しい世界観でしょう。先の記事でもその集団内での状況を脱線して記載したのは、中学受験界の上位を「頂点の誰か」というよりは「最上位帯集団」みたいなイメージで捉えているからです。
浪人生の立ち位置について
浪人生をナチュラルに見下してるのがどうも引っかかるんだけど、みんな気にしてなさそうね。
浪人した割に自己評価高いのおもろい。
「浪人生って普通の人がもう受かってるところを受からなかったバカだけを選んで抽出してきた終わりの集まり」って書いたのは僕もその中の一人なので自虐のつもりでした。わかりにくくてすみません。
もちろん浪人事情は人によるとは思うのですが、僕は基本的に浪人生が「一年間歯を食い縛って勉強を頑張っている人」みたいなポジティブなイメージで語られることには違和感があって、「普通の人がゲームオーバーになっているところを何故かコンティニューしているチーター」みたいなセコいイメージです。「映画版ジャイアン」とか「更生した不良」に近いですね。
教育投資について
小児の全国模試の内容は分からんけどもいくら天才といえど一切の教育的投資無しで一位を取れるものではないだろ。本人の資質以上に6〜7歳までの環境もまた相当整っていたと解釈するべき。
能力も高いけど、中1から鉄緑会というあたりやはり親の文化資本的な面は大きいんだよなぁ。腐っても鉄緑会。環境によって少なからず影響は受けてるはず。
この指摘もそれなりに正しくて、ある程度はイメージを差っ引いて読んだ方が真実に近くなると思います。そんなに詳細に書いている解像度の高い記事ではないので、細部の正確さが全体の文脈に引っ張られているところがあります。
例えば慶應義塾幼稚舎ではないとはいえ埼玉では名の知れた(しかし東京では誰も知らない)小学校に通っていましたし、いくら鉄緑会の成績が振るわなかったとはいえそれでも概ねサボりはせずに毎週9時間くらいは座って講義を受けていました。空白部分を設けている僕の書き方も悪かったですが、過剰にネガティブな中身を充填しない方が良くはあります。
研究能力について
勉強は正解があるしひたすら人から言われたことをやってればできるが研究は自分からやりたいことを見つけそこからの正解も自分で導き出さなきゃいけないので全く別のものだからな。でも今が幸せなら問題ないのでは
僕を「答えのあるお勉強は出来るけど答えのない研究は出来ない人」という人物テンプレに当てはめるコメントも多いですが、それが正しいかどうかは僕にとってもよくわからないところです。
というのも「そもそも興味がなくて研究する気がなかった」という経験はあっても、「研究を頑張ったが歯が立たなかった」という経験はないからです。研究の素養もなくはないがたまたま関心が向く対象がなかったのか、研究の素養自体がないのかのどちらが正しいかはわかりません。
ただこればっかりは実績がないので「やろうと思えば研究も出来るんだぞ」とか言っても虚しいだけで真相は藪の中です。以前は就職して興味のあることが出来たら大学院に戻ってもよいと思っていたのですが、今は社会人がけっこう楽しいので少なくとも当分は戻りません。
進路選択について
浪人になってからの模試で全国二位とかで、進振りで工学部に行っているのは理3でなく理1なんだろうか。書かれてあることではなく、書いてないことに、本人の心の何かがあるのかもしれないとか思う
理三ではなく理一です。理一に進んだことに深い理由はなくて、別に医者になりたくはないし試験当日の成績がたまたま下ブレして理三に出願したばかりに落ちたら嫌だな~というだけです。
ただ何も考えずに東大に入ろうとする割には何も考えずに理三に入ろうとはしなかったというのはご指摘の通りで、確かに妥協点みたいなものがそこにあったと言えばあったのかもしれません。
目的と幸福について
ものすごく優秀なエンジンを持っているのに、それを操作する制御系ができていないので、自分で自分を制御できないで持て余す、というタイプ。 逆に、天才タイプの人は、自分をうまく操作して集中できる。その差。
生得的な資質が頭が良く勉強嫌いだとどうなるかという話。残念ながら頭の悪い勉強好きより高等教育を与える価値がある。この人の場合はゲームプランナーになってハッピーエンド。
上手く言えないんだけど、何かものすごく興味が持てるもの、死ぬほど好きで執着して齧り付いてでもやり遂げたい!と思えるものに出会えるといいなと感じた。
すごく面白かった。一般人からしたらぶっ飛んでるレベルの知的能力を持っている人が、楽しんでゲームプランナーやってるというのがいいな。この先も興味の湧いたことにチャレンジして、またブログに残して欲しい。
「やりたいことが見つかるといいね」「今とりあえず楽しそうでよかったね」系の温かいコメントもけっこう多くてありがたい限りです。
僕としてもやりたいことが特にない大学~大学院時代は非常にきつくて精神薬を飲んだりしながら何とか凌いでいたので、今はとりあえず楽しくできることがあってすごく良かったと思います。「絶対にやり遂げたい」というハングリー精神はを持つことは無くてせいぜい「これオモロ笑」くらいの温度感で生きていくと思いますが、まあ一生そんなんで良いと思っています。
酔生夢死な人生について
実家が太いとここまでなんも考えずに生きていけるのだな
ペーパーテストのセンスがあるととこういう酔生夢死な人生が送れるってのはあるけど、そういう人生で「何者か」的な問いに惑わされないためには、ある種の道楽のセンスとかは問われそう
これ一番いいコメントでした。僕が三百年後くらいにFGOに出るときの概念礼装は「酔生夢死」でお願いします。
仰る通り適当にソシャゲ会社入るくらいなので「社会的な何事かを成して何者かにならねばならぬ」みたいな意識は薄くて、無駄な問いに惑わされない道楽のセンスが重要な気がします。充実した有意義な人生に関する言説なんて既に無限にあるので、逆に張った感性の方が貴重です。
人文系の進路について
完全な偏見だけど、人格がちょっとアレで頭脳明晰な人は文系の研究者目指したほうがいい。実際そっちで成果出したんだし。
これは100%正しく、完全に同意します。もし人生の針を巻き戻せるなら人文系に進みます。
こういうことを言うとまた好感度がガクッと下がりそうですが、素養としては理系なんて全然向いてなかったのに、向いてない分野でも東大くらいなら入れてしまう程度にはスペックがありすぎたせいで自分が理系人間だと勘違いしてしまったことが、何がしたいのかわからない酔生夢死な半生を歩んでしまった最大の敗因だと思っています。
理系の中でも特に工学って極めて素朴な意味で「世の中を良くしたい」というマインドで動くので、人格が終わっている人はあまり乗り切れないところがあります(とはいえ工学研究者が皆そういうマインドを持っているというわけでもなく、単にテクニカルに面白く感じることがたまたま世間の需要と一致している人の方が多数派な気もしますが)。僕は「そもそも世の中を良くするって何? 良いって何?」「理系的な合理性以外にも世の中を動かしているものっていくらでもあるよね」とか思う方で、そういう疑問を回収してくれる文系学問に適性があったというのは完全に真実です。
関心の育成について
日本ってこういうペーパーテストお利口さんの人材プールはあるけどティール財団に拾われるような小さい頃から社会課題を解決したり革新起こすアイデア繰り出す天才は出てこないイメージ
まあそうだろうなあ。基本能力を伸ばしてもどこかで頭打ちになるし、社会的には探究心や好奇心を持続させる方がはるかに重要。
これは本当にそうですね。
基礎能力だけで成功者っぽい雰囲気を出せるのってせいぜい二十歳前半くらいまでで、それ以降は学業成績がイマイチでも強いモチベーションを持って起業したりガンガン動く人の方がいわゆる社会的成功者になります。社会の評価基準って何ができるかより何をしたかですから、それはほとんどトートロジカルな事実です。
僕はもう手遅れですが、もし社会を良くする人材になってほしいなら有能な子供にはもっと社会課題教育みたいの気合入れてやった方がいいと思います。いわゆる道徳教育は頭が良い子供にはすぐに嘘だと見抜かれるので、もっと実際に社会が歪んでいる現場に連れて行って困窮している人と実際に喋ってもらったりとかした方がいい気はします。
ペーパーテストの才能について
ペーパーのテストは、ペーパーの才能が凄いしか担保しない。はてなーは東大を買いかぶりすぎで、社会に出てスゴイかどうかは全然違う能力が必要だからな
ペーパーテストがこの先の人生で重要な意味を持つ日は、何かを間違えてない限り、まず来ないよ。あれは仕方なくやってただけだよ。
「ペーパーテストが出来ても仕方ない」系のコメントも多いですが、漢字ドリルとか計算ドリルみたいな低レベルなものは別として、まともなペーパーテストを自分で解けるスキルは社会に出てもかなり役に立ちますよ。
ペーパーテストって少なくとも問題作成者は完全に把握している既存の知見についての理解度を測るものなので、極めると「既存の知見を最大効率で吸収できる」という能力が身に付きます。誰かがペーパーにまとめてさえいれば知りたいことは何でも超速で吸収できるのは普通にかなり便利ですし、仕事でも助けられています。
例えば職場で「来週から新しい何かを導入します」とか言われたとして、僕は本屋行って適当にパラパラ本捲れば「どの本をどのくらい読めば今必要な知識が完全に身に付くか」が完璧にわかるので、必要だと判断した本を経費で買って全部読めば必要なことが全部できるようになります(知識をアプデしたくなったらまた本屋行けばいいだけです)。新しいことをするにも既存の知識は知っておいた方がいいので「勉強の仕方」がわかっていて最短距離を音速で走れるのは絶大なアドバンテージで、それは東大である程度真面目に勉強して身に付けておいて良かったと思います。
過去の栄光について
昔こんなにすごかったんだ私は、を言い出した瞬間に歳関係なく老害の仲間入り
小2の成績だとか高校がどこだったとか大学がどうだったとかは大人になればなるほどウルトラクソどうでもいい話にしかならないんだけどそんな事を未だに擦ってるケツの穴の小ささがほんとの末路って感じ。
「未だに過去の栄光を擦ってんのかい」系コメも気持ちはわかります。中学受験大好き東大生の間ですら何年経っても永遠に擦ってるやつは流石にバカにされますからね。
まあ先の記事だけ読んだ人にとっては僕の情報ってそれで一分の一なのでそれしか言ってない人に見えるのは当然ですが、実際には全然擦ってなくてむしろこの話をするのはかなり稀です。少なくともこのブログが300記事くらいあって初めて書いてますし、別に友達にもわざわざ言わないので10年来の友達も知らんことがたくさん書いてあったはずです。
あと実は社会に出てからも学歴そのものもけっこう便利です。確かに東大卒であることがその現場で必要な能力を確実に担保するとは僕も思わないですが、「少なくとも馬鹿ではない」という最低保証にはなるので、まともな相手ならとりあえずは諸々の疑念を一旦脇に置いて一分くらいはちゃんと話を聞く構えを作ってくれます。それはかなり有利なユニークスキルなので東大を出ておく意味があるところです。
ソシャゲプランナー業について
頭いい人には日本が良くなるにはどうしたらいいか考えてほしい。ソシャゲなんて日本壊す事やってないでもっと広い視野を持って欲しい
ソシャゲガチャ設計か……一つ道標が違えば日本の経済の何かを帰るキー石にもなり得たかもしれないと思うと日本の損失に感じる
あんまり成功例って印象は受けないけども.......「ガチャでオタクから金を巻き上げる底辺ジョブ」に満足して誇りを持てる仕組みはよく分からんが、次も特に倫理のなさそうな仕事ってことかな
ソシャゲプランナーなんかやってんじゃねーぞボケ!というコメントも多く頂きましたが、これに関しては「ソシャゲプランナーは皆が思っているよりは『善い』仕事です」という反論をしておきたいです。
今問題にしたいのは「職業に貴賎なし」みたいなしょうもない建前じゃなくて、ソシャゲのガチャ設計は多くの人生を健全かつ劇的に豊かにする「貴」寄りのジョブだと僕は思っているという話です。まあその熱量で国家公務員とかやった方がもっと社会を良くできるのは事実ですが、かといってガチャ設計はFX投資家みたいにマジで何も生まない虚無のジョブではなく、きちんと娯楽価値をゲーマーに提供するジョブですよという弁明を今からします。
昨日したこのツイートの続きですね。
俺はガチャを集金システムではなく革命的なゲームシステムだと思っているし、売切である限りはMOTHERだろうがエルデンリングだろうが原理的に超えられない限界を打ち破った最先端のシミュレーション形式だと思っているし、ソシャゲ課金者の人生はガチャによって健全かつ劇的に豊かになると思っているよ
— LW (@lw_ru) 2022年9月18日
頑張ればガチャを面白く活用できるみたいな次元の話じゃなくて、ガチャというシステムそれ自体が極めて優れたゲーム体験を提供するという話
— LW (@lw_ru) 2022年9月18日
しかも10連3000円で一点狙い0.1%みたいな正気を疑う価格帯じゃないとダメで、10連300円じゃダメなんすよ
いずれブログに書くか~
まずガチャを持たない売り切りのゲームが持っている根本的なジレンマは「売り切った以上はユーザーがゲーム内容の全てを潜在的には体験可能でなければならないため、シミュレーション体験の要である分岐の選択に重みが無い」ということです。
別にシミュレーション的な側面があるゲームなら何でもよいのですが、一旦ギャルゲーの選択肢でも思い浮かべてもらって、例えば「ヒロインと一緒に勉強する」「ヒロインと別れて買い物に行く」という二つの選択肢があったとしましょう。プレイヤーはこの選択肢のどれかを選ぶことによって物語が分岐します。シミュレーションは分岐があることによって初めてシミュレーションになるので、この選択肢の存在がゲームのシミュレーション体験を担保する要です(映画のように分岐しない一本道のストーリーを「シミュレーション」とは表現しません)。
補足423:ゲーム研究界隈では「シミュレーション体験」「インタラクティブ性」「バーチャル」みたいな言葉を雑に使うとネチネチ怒られるんですが、今は日常語として意味が通じる程度の理解で構いません。
しかし売り切りのゲームではこの選択肢による分岐はその気になればいつでもやり直せるものでなければならず、一回性の人生において生じるものと同じような選択の重みを持ちません。というのも、とりあえず「ヒロインと一緒に勉強する」を選んで適当にストーリーが進んでエンディングまで行ったあと、セーブデータをリロードすれば先の選択肢まで戻って「ヒロインと別れて買い物に行く」を再選択できてしまうからです。ギャルゲー以外でも同じことが言えて、アクションゲームならもう一回ステージをやり直せば道中のギミックに対して別のアクションを試して分岐できますし、仮に途中セーブ地点が限られるRPGだったとしても別のデータスロットで周回プレイをして他の分岐を辿り直すことができます。
これは売り切りのゲームではプレイヤーがゲームプログラム全てへの対価として既に支払いを終えている手前、ゲーム内容の全てを体験できなければ詐欺になってしまうからという商業的な理由です。もちろん実際にはわざわざ遊び直して全分岐を辿る人は少数派だとしても、「潜在的にはやり直しが可能である」という商業的な誠実さに裏付けられた余裕が常に分岐に対して付随してしまうというのが真の問題です。つまりシミュレーションとしてのゲームは選択によって生じる分岐を体験の基礎に置いている割には、ユーザーが分岐をやり直せることを保証しなければならないため、シミュレーション体験にやり直し不可能な重みを持たせられないという構造的なジレンマがあります。
この「選択の陳腐化によるシミュレーション体験の破綻」という現象はネットによる集合知攻略の普及によってどんどん進んでいて、いまや新作のゲームでも一瞬で攻略情報が出回ってプレイする前からでも様々な選択肢の結果を知ることが出来てしまいます。特にそれが極致に達したものが最近人気のRTAで、あれは最初から全ての分岐を網羅して完全に把握した上で最適解だけを踏む遊び方です。
補足424:それでもセーブデータを消してしまうとかメタフィクション的なギミックで分岐を殺すように工夫することはできますし、実際にそれをやるゲームがあることも認識しています。とはいえ全ての売り切りゲームがそれを搭載することは現実的ではありませんし、例外的な試みの例が存在することはジャンル的な困難の存在を無効にしません。僕は例外を許さない全称命題を主張しているのではなく、ふんわりとしたジャンル傾向の話をしています。
そこで分岐に重みを取り戻すのがガチャシステムです。ガチャは10連3000円程度にして一点狙い1%以下という異常な高額がデフォであるため、ユーザーは金銭的な限界によって入手可能なユニットの数と種類が否応なく絞られます。しかも完全な確率分岐であるため、望む分岐に確実に進む方法は存在せず、好むと好まざると関わらず分岐への賭けを余儀なくされます。売り切りのゲームとは逆に、仮に天井まで引くにしても一回一回のガチャには「毎回腹を切っていて絶対にやり直せない」という圧倒的な重みが伴います。いくら結果が塩だったからといってセーブデータをリロードすることはできず、一度引いてしまったらそれで戦うしかありません。
僕は今までのゲームが迫真さのあるシミュレーション体験を提供することに失敗し続けたきた中で、ガチャだけがゲーム史上初めてそれに成功したとすら考えています。殺してでもアイスソードを奪い取るかどうかで一晩考える人は滅多にいませんが、ガチャは引くたびに大なり小なり祈りがあります。こういうガチャの「根本的にどうにもならない不条理と相対してどう向き合っていくか」みたいなプレイの在り方ってカミュキルケゴールサルトルあたり実存主義思想と相性が良くて、これがいけすかない哲学崩れのゲーム批評ならそのあたりが引かれることは間違いありません。
補足425:ただし例外的なソシャゲもいくつかあります。例えばDCGはカードを全て揃えてスタート地点となるゲーム性なのでせいぜい十万かそこらのヌルい課金でも全カードを使えるようにしてあげなければならず、いわゆる魔素による救済措置も豊富です。DCGのガチャは分岐を網羅可能で重みと祈りがありません。