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21/10/16 ウマ娘 プリティーダービー Season2の感想 ライスシャワーは何故いじめられたのか

ウマ娘 プリティーダービー Season2の感想

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2期は明確に1期より良かった。ライスシャワー周りのエピソードが良すぎた。それに尽きる。
2期7・8話のライスシャワーだけがウマ娘というコンテンツの裏面を描き、ストーリー全体にかかるチープさを正当化できている。俺にとってはライスシャワーの存在だけがアニメ版ウマ娘の評価を担保していると言っても過言ではない。

史実がチープさを正当化する

元々ウマ娘アニメはストーリーのメインであるはずのレース周りのドラマがかなり貧弱だ。
どのエピソードにおいても最終目標はレースの勝利しかなく、乗り越えるべき障害は骨折か故障しかなく、達成はリハビリとトレーニングを経ての復帰試合での勝利しかない。周囲の人間関係に多少のバリエーションは有りつつも、適切な解像度で捉えれば全く同じストーリーラインが多用されていることは端的に事実だ(サイレンススズカメジロマックイーントウカイテイオー×n……)。

しかしウマ娘に限っては、お話が単調だからといってただちにコンテンツが陳腐ということにはならない仕掛けがある。「いやでもこれ史実だから」という最強の弁解によって安い話の連打を正当化できるのだ。
つまり「さすがにトウカイテイオー故障しすぎじゃね」という無粋なアニメオタクに対しては、「トウカイテイオーが度重なる故障に見舞われたのは史実、現実にもそうだった」という反論ができる。それによって、かつて馬の方のトウカイテイオーが現実でそのような苦難を被ったことが(大抵の人にとっては仮想的に)想起され、ストーリーの完成度の話が現実における辛苦の話にすり替えられる。そうなると無粋なオタクも「一見すると単調なストーリーだが、実際にこういう出来事があって大変だったのだなあ……」としみじみしてしまい、美少女の方のトウカイテイオーの頑張りに感動してしまうという仕組みがあるわけだ。

擬人化ものや歴史人物ものが流行する昨今、現実世界の史実に立脚したキャラクターが登場すること自体は大して珍しくはないが、大抵はキャラクターのちょっとした性格や言動の一部に史実からエピソードが反映される程度に留まっている。アニメで描かれるストーリー自体の全体が史実をなぞっているというのはそれなりに珍しいアプローチの部類に入る(もちろん比較的稀というだけで、ウマ娘が唯一の例だと言っているわけではない)。

補足393:このアプローチが有効かどうかは、「キャラクターが人物をモチーフにしているかどうか」がとりあえず第一の分岐点になりそうだ。人物モチーフのキャラクターを史実通りに動かした場合、それは単に美形キャラクターで歴史教科書を再演するだけになってしまい、あまり面白そうな感じはしない。

その点、ウマ娘がストーリーをフリーライドさせる史実の元に競馬という題材を選んだことは慧眼というほかない。もともと競馬においてはファンは劇的なドラマを重視する傾向にあり当事者たちにとっては感動的なエピソードが色々あること、そして(競馬ファン以外は競馬史にあまり詳しくないので)それに美少女のガワを被せれば比較的新鮮なコンテンツとして提供できることを見抜いた企画者が有能すぎる。

このあたりで一応誤解を受けないように言っておきたいのは、俺はいま「現実における感傷を持ち込むことで質の低いストーリーを量産する悪質な手口を用いている」などとウマ娘を糾弾したいわけではないということだ。別にウマ娘は「全く新しいストーリーの数々をお見せしますよ」などと予告していたわけではないのだし、魅力の多くをストーリーではなくキャラクターに振っている美少女コンテンツとしては、ストーリーが単調であることは大きな問題ではない。このレベルで同じ話を無限に擦っているコンテンツは他にもいくらでもあるし、むしろ史実というエクスキューズを用意していた分だけ優れたアプローチと言ってもよい。

補足394:俺は今「物語の類型がたかだか有限個しかないことはプロップを引かずとも明らか、全く新しい物語を求めるよりは既知の物語をどう変奏するかという小手先の工夫の方がむしろ本質だ」みたいなことを一瞬書きかけたが、それはちょっと弁が立ちすぎているというか、本当は思っていないことを何となく手なりで書いているだけだなと思ったのでやめた。

史実は人が作るもの

俺がいま語りたいのは、ウマ娘のストーリーの背後で強力な後ろ盾となっている史実という制度についてである。

史実とはさしあたり現実に起きた出来事を因果的な連鎖によって結び付けたストーリーのことである。しかし一般に史実として想定される因果の連鎖は、科学的に厳密な意味での因果の連鎖とは水準が全く異なっていることに注意されたい。例えば「広島への原爆投下によって日本が降伏した」という史実的因果関係を、「水素分子二つと酸素分子一つが結合して水になった」という科学的因果関係と同一視することはできない。

何故ならば、史実とは現実に起きた出来事の系列をフラットに並べたものではなく、誰かが意図をもって構築するものからだ。史実の構成には必ず誰かの関心が作用しており、それ故に史実はそれを構築する主体を必要とする。
またしても誤解されそうなので慎重に弁解しておくと、ここで俺は「歴史とは本質的にアジテーションなのだ」などと主張したいのではない。政治的な云々を抜きにしても、史実は原理的に誰かがその手で構成する人工物以外では有り得ないのだ。少し言い換えると、観測者のいない世界に出来事の時系列は発生するが、史実は絶対に発生しない。史実に残すべき事態とそうではない事態の見分けが付かないからだ。
例えば「恐竜が絶滅した」というイベントが史実として認識されているのは、恐竜の絶滅に関心を持っている誰かがその出来事を無限の時系列の中から拾い出したからだ。世界に「恐竜の絶滅など屁が綺麗に出たのと同じくらいどうでもいいことだ」という価値観の人しかいなければその史実は構築されない。

補足395:本筋とそこまで関係ない割には長いので補足に回すが、現実における史実的因果関係と実験室における科学的因果関係が異なる理由を二つ挙げておこう。
一つには、単に現実の出来事は複雑すぎることがある。「誰かが何かを喋ったからそれが起きた」という単純な史実でさえ、科学的に厳密な意味で言えば、口を開いたから周囲の空気中の分子が移動して云々というものまで含まれてくる。他にも「誰かが会話を盗み聞きして得たアイデアが数年後に芽吹いた」とか、「本人も気付かないうちに身体がぶつかったことが後の因縁の一つになっていた」とかいうことは有り得るし、実際あるだろう。そういうもの全てを完全に拾い上げて正確な因果関係を構成することはできない(ちなみに「些末な出来事は取り上げる意味が無い」という反論はナンセンスだ。「何が些末な出来事か」を決定するのが史実だからである)。そうやって無数に起きていた事象から史実に編入する事象を拾い出すこと自体に恣意性が伴う。
もう一つには、史実に関与する事象は大抵が一回性の出来事であるために厳密な因果関係を立証することが不可能だということがある。ここで言う「厳密な因果関係」とは、形式的には「もしAが起きなかったのであればBは起きなかったであろう」の反実仮想のことだ。「広島への原爆投下によって日本が降伏した」という因果関係を立証したいのであれば、「広島へ原爆が投下されなければ日本は降伏しなかった」を示す必要がある(もしそうでなければ、日本の降伏は原爆投下とは無関係に生じていたことになる)。だが、何度でも実験を行える実験室とは違って、現実には「広島に原爆が投下されなかった日本」など存在しないため、それを示すことは不可能である。

「一定の関心の下で人為的に構築される」という史実の性質は、史実が娯楽として消費される競馬のような現場では顕著に際立ってくる。競馬においても「可能な限り面白く劇的な物語としてレースを捉えたい」という観客たちの欲求があって初めて、トウカイテイオーが故障して復帰して故障して復帰して云々という史実の構築が起こってくる。

よって、ウマ娘のストーリーが史実をなぞっているだけで感動的なものとして受容されていくことは二重の意味でむしろ必然的である。すなわち、一つには単純に多くの人々が娯楽のために構築してきた競馬史はそれ故に娯楽としての完成度が最初から高いこと。もう一つにはアニメにおいて競馬ファンが作り上げた史実を再演することはそれ自体が再構築として史実をより強固に承認していくこと。競馬がもともと史実を娯楽として消費していることを踏まえて、アニメ版ウマ娘はそこに乗っかる形でコンテンツを成立させたわけだ。

史実を妨害した罪

さて、現実と史実の順序について考えてみると、ふつうは現実は史実に先んじるし、史実は現実に遅れる。つまり現実に起きた事象を誰かが関心に基づいて適切に加工することで、事後的に史実が生まれる。
当たり前のことだが、トウカイテイオーが現実に故障したからトウカイテイオーの故障という史実が残ったのであって、トウカイテイオーが故障したという史実があったからトウカイテイオーが現実に故障したのではない。

だが、常に現実が史実の手綱を握っているとは限らない。ときには暴走した史実が現実から主導権を奪い取り、現実の方が史実に隷属する異常事態が発生する。これこそがウマ娘アニメで競馬ファンライスシャワーにやたら厳しかった元凶であり、ライスシャワーが聖域である史実の侵犯という重罪を犯してしまった所以でもある。

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ライスシャワー菊花賞に出走する時点で期待されていた「ミホノブルボンの三冠」とは、いわば「成立前に先行して公認された史実」である。本来であれば「ミホノブルボン菊花賞優勝」という現実が発生してから「ミホノブルボンの三冠」という史実が残るのだが、史実という娯楽に忠実な競馬ファンはその順序を逆転させてしまったのだ。
それは史実が一定の関心の下で人為的に構築されることを考えればむしろ自然なことではある。劇的な史実を求めてやまない競馬ファンにとって、「ミホノブルボンの三冠」というあまりにも完成度の高い史実は魅力的すぎた。この史実を作るために必要な現実はもちろん「ミホノブルボン菊花賞優勝」であり、それを用いて完璧な史実を完成させるのが彼らの関心である。よって、ライスシャワーがそれを阻止したことは史実成立の妨害に相当する。その罪は史実を愛する競馬ファンにとってあまりにも重い。

よって、7・8話でやたらライスシャワーに厳しい世界だったのは、突然皆がライスシャワーにだけ意地悪になったわけではないのだ。競馬ファンの態度はずっと一貫しており、娯楽として史実を求めているという態度の裏表に過ぎないのである。史実には現実を事後的に編纂するという表面と、現実に先立って期待されるという裏面がある。表面の史実を利用した娯楽として競馬が営まれてきた一方で、裏面の史実を侵犯したライスシャワーが激しいバッシングを受けるのも当然と言える。

ライスシャワーが一番かわいそうだったシーンであるところの冷え冷えウィニングライブは実に象徴的だ。
何度も言うが、史実とは歴史の当事者というよりは第三者が事後的に構築していくものであって、時系列を観測して編纂する外野が必須なのだ。ウィニングライブとはレースの勝敗という事実を史実の編纂者である観客に明示する機会であり、史実が構築される舞台そのものと言っても過言ではない。だからこそ、期待されていた史実を破壊してしまったライスシャワーはウィニングライブで観客から完全に拒絶されるのだ。

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ちなみにウマ娘がアイドル要素を捻じ込んできた合理性もここにある。史実同様、アイドルという制度もアイドル本人だけでは機能しない。アイドルを見てくれる観客がいて初めてアイドルはアイドル足り得るのであり、いずれも第三者を必要とする点で一致している。ウマ娘とは競馬史を構成するイベントの当事者であると共に歌って踊ってみせるアイドルでもあり、二重の意味で観客を求めている。この二つを綺麗に回収するウィニングライブは極めて優れた舞台装置と言える。

補足396:もっとも、最終的にはライスシャワーの勝利ですらもこうしてウマ娘のアニメとして消費されるように史実として残った。この事件がいわば「史実的ではなかったという史実」として回収されていくという捻れた構造がある。

まとめよう。

競馬においては一定の関心の下で人為的に構築される史実という制度が強力に作用しており、ウマ娘というコンテンツ自体がそれに立脚することで比較的チープなストーリーが正当化されむしろ感動的なものとして消費されてきた。しかしその一方、アニメ内では逆向きに作用した史実の成立を妨害したライスシャワーがやたら厳しく当たられる様子が描かれた。
競馬における史実という力学の二面性が認識され、コンテンツ自体がその表面を利用しつつもライスシャワーという裏面を妥協せずに描き切ったこと、最初から最後まで一貫してライスシャワーには厳しい世界を崩さなかったことは高い評価に値する。