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23/7/20 『君たちはどう生きるか』感想 そろそろ監督の話じゃなくて冒険成長譚の話しませんか?

カヘッカヘッカヘッ

Q:君たちはどう生きるか

話題沸騰中の新作ジブリ映画『君たちはどう生きるか』を新宿で見てきた。気付けば映画も1回2000円の高級品となってしまったが、まだ知識が白紙の状態で見ておきたいと思うくらいにはスタジオジブリへの関心が残っていたようだ。

まあ面白かった。個人的には、疎開先の田舎を描く序盤のシーンが好きだった。丁寧な自然の描写を背景にして、まだ得体の知れない怪異であるアオサギが先導する不穏な事態の数々は和製ホラーのように静かで怪しい雰囲気を漂わせる。悪意を滲ませたアオサギが人歯をチラつかせるビジュアルは見事だ。

異世界パートはやや冗長にも感じたが、よく動いていて退屈はしない。高度に象徴的な世界ではありつつも筋立てはしっかりしており、少年主人公が新たな気付きを得て成長する冒険譚として筋が通っている。

 

そろそろ普通にストーリーの話しません?

と気に入った要素を一通り表明したところで翻って気に入らないのは、シンエヴァに続いてまたしても有名監督の個人史に全てを帰する読みが流行っていることだ。ジブリの歴史がどうとか、高畑氏との関係がどうとか、もちろんその楽しみ方自体は全く悪いことではないし、露骨に過去作品の意匠を詰め合わせた異世界パートに漂うファンサービスの趣きを否定するのは難しい。

とはいえ、そういうディープで玄人的で作り手本位の語りに夢中になるあまり、「それで結局このお話はどうでしたか?」という浅くて素人的で受け手本位の語りがあまり掘り下げられないのは勿体ない。広告戦略の話題に拘泥するのも同じで、それはそれでとても興味深いトピックではあるが、「そろそろ普通にストーリーの話しませんか?」という気持ちでいるのは俺だけではないはずだ。

というわけで、この記事では作品外部の事情を全く排除したごく表面的なストーリーの話がしたい。別に気を衒ったところのない爽やかな冒険成長譚として。

 

見ればわかるテーマ:「母親」と「悪意」

Twitterの過激派の中では「『君生き』はプロットが存在しないイメージ映画である(『天使のたまご』みたいな?)」という論もあるようだが、俺に言わせればかなり素直なストーリー映画だ。序盤の現実世界パートで眞人の人物像とモチベーションはほぼ全て提示されており、異世界パートでそれにまつわる気付きを色々と得て成長し現実に戻ってくるというよくあるフォーマットをなぞっているに過ぎない。ただし「眞人自身が本当のモチベーションを隠す」という否認の振る舞いがストーリー上のキーになっているため、やや汲み取りにくい部分があることは否めない。

とはいえ、テーマの一つとして「母親」があることは誰の目にも明らかだろう。映画は入院している母親が焼死するショッキングなシーンから始まり、疎開した先でも眞人が母親の幻影に苦しむシーンが何度も描かれる。あえてファンタジーを脱色して見てみれば、眞人は戦争によって心的外傷を負った児童の一人に過ぎない。一見すると平静な眞人の精神状態は実は尋常ならざる領域にまで追い込まれており、アオサギを介して幻聴を聞き幻覚を見、妄想と戦うために弓矢で武装する危険な状態にある。

その一方、「悪意」というもう一つのテーマはもっと唐突に挿入される。眞人は母親を亡くして精神的に不安定な状態にあるとはいえ、もともと育ちの良い礼儀正しい少年であり、しかし級友たちに何か揶揄われれば殴り返すくらいの胆力はあるらしい。「主人公らしいバランスの取れた少年キャラだなあ」と思って見ていると、なんと学校の帰り道でいきなり石を拾って躊躇なく自分の頭を殴る暴挙に出る! ここで眞人の印象ががらりと変わり、自傷行動を躊躇しない異常性が初めて提示される。

「こいつ……喧嘩した相手から大怪我させられたと嘘を吐いて復讐するつもりか!」とハラハラして見ていれば、しかし話はそうは進まない。というのも、「誰にやられたか」と執拗に問うてくる父親に対して眞人は頑なに答えないのだ。決して誰か一人の名前を挙げることはなく、かといって「やって初めて事の大きさに気付いた」という青ざめた顔でもなければ、逆にしてやったりの表情を浮かべるでもないし、誰かに復讐するつもりで自傷をした風にはとても見えない。そもそも、級友との小競り合いはそこまで重大な事件ではないだろう。陰湿ないじめエピソードなど全く描かれていないし、軽く揶揄われた程度としか思えない。わざわざ眞人が自分で流血沙汰にしなければならなかったということは、逆に言えば、そうしなければ血も出ない程度の子供の喧嘩でしかなかったということでもある。

いったい眞人は自分の頭を殴って何がしたかったのか? それは彼の母親に対するアンビバレントな態度を見ることで明らかになる。というのも、現実世界パートで提示される「母親」と「悪意」という二つのテーマは実は同根だから。

よって悪意については一旦保留して、義母との関係を見ていこう。

 

考えればわかるテーマ:「父親への依存」

現実世界パートでは、眞人と夏子の関係は良くも悪くもない。会ったばかりの義理の親子としては妥当な距離感だが、それは親子にしてはまだよそよそしいということでもある。実際、眞人は異世界で夏子を探す折にも「自分は夏子を気にしているわけではないが」と留保することを忘れない。どうして夏子を探すのかと聞かれれば、答えは常に「自分は夏子を気にしているわけではないが、父親の好きな人だから」だ。

しかし、そう嘯く眞人の行動は明らかに言動と一致していない。そもそもキリコの強い制止を振り切ってまで夏子を探すために危険な廃墟に飛び込み、怪異に遭遇するたびに臆することなく「夏子はどこだ」と迫る。結局のところ、眞人は亡くした母親の代理として夏子に執着していることは明らかであり、夏子に対面した際には彼女を母親と混同した呼びかけを発したりもする。本当は誰よりも夏子を気にしているのだが、「自分は気にしていないが、父親が気にしているからやむを得ない」と父親を隠れ蓑にして照れ隠ししているだけだ。

こういう眞人の義母への態度は自傷へのスタンスと同じである。どういうことか。眞人の自傷行為は決して復讐のためではないということはさっき確認した。では自傷によって何が実現したのかと言えば、父親への喧嘩のアウトソーシングである。眞人が頭に怪我をして帰ってきたのを見た父親は眞人以上に怒り、眞人は級友たちとのごたごたの矢面に立たなくて済むようになる。それどころか、怒り狂う父親を諫める冷静な息子という立場さえ手に入る。本当は誰よりも喧嘩を気にしているのだが、「自分は気にしていないが、父親が気にしているからやむを得ない」というわけだ。

こうして「母親」と「悪意」という二つのテーマは「父親への依存」というより深いテーマに包括される。こうして並べてみれば、義母と級友の共通点も明らかになる。眞人にとって、それらは疎開先で突然生じた新しい人間関係なのだ。新しい人間と関わるのは骨が折れる。いきなり母親になった夏子に対して自分の好意を露わにして甘えたり、いきなり友人になった級友に対して自分の怒りを露わにして戦ったりするのは。

だから父親に代行させる。事態を父親の管轄にする。この件は本当は父親の管轄なのだが、自分は巻き込まれて仕方なく参加しているのです! 巧妙な理論武装によって一次的な動機を父親に託しつつ、自分は動かざるを得ないだけという二次的な手先に留まれる。責任を取るのは父親だが、旨味を取るのは自分である。

ここで、眞人の父親が異様にパワフルで底抜けに息子思いで徹底的に無敵の人間として描かれることは眞人の問題と一貫している。父親は責任を負うことを何ら苦とせず、むしろ自らの糧として消化吸収するブルドーザーのような人種だ。疎開先でも息をするように仕事を呼び込み、屋敷を工場生産品の置き場として公私を問わずにエネルギッシュに動き続ける。そんな父親は何の苦もなく息子の事件を背負えるし、息子はそんな父親に寄り掛かれるという完全な共犯関係が成立する。

 

炎属性だからセーフという謎理論

とはいえ、眞人が父親に頼るのは口先までだ。「父親に頼るのは動機形成までで、実力行使まではさせない」というのが彼の引くラインである。喧嘩相手については黙秘しているため、父親に出来ることは喧嘩相手の家に乗り込むことではなく、精々大金を寄付してビビらせるくらいのことだ。母親探しにしても、中盤で異世界に乗り込みかける父親のことは自らの手ではっきりと拒絶する。動機については父親に頼るが、行為に関しては自分で引き受けるというアンビバレントな態度が眞人の思春期たるゆえんである(もっと幼ければ行為も父親に任せるし、もっと大人なら動機も自分で引き受けるだろう)。

こうした眞人の態度がはっきり問われるのは大叔父から世界の行く末を託されるシーンだ。このシーンでいきなり悪意というワードが前景化したように感じた人もいたかもしれないが、頭の傷に象徴される態度が眞人の振る舞いに通底していることは既に見てきた。悪意というのは必ずしも人に仇なす意志ではない。実際、特定のいじめっ子に復讐しようとする気は眞人には毛頭ない。そうではなく、根源的な責任を父親に負わせて自分は安全圏に留まれるように事態を作り変える、世界を他責で曲解する態度こそが眞人が抱える悪意である。

それに対応して、大叔父から眞人に提示されるのは世界の移譲と再構築だ。すなわち悪意なき母性的な世界を手中に収めること。ここで大叔父は眞人だけを指名して話しており、父親は一切介在しない。誰のせいにするでもなく全てをありのままに解釈できる新たな世界を自分でやっていく。唐突にも思える世界の移譲は、現実を他責で歪める精神を是正するチャンスとして提示されているのだ。

しかし、眞人は自分が悪意を持っていることを理由に提案を拒絶する。悪意を排除して新世界の神になるのではなく、悪意もまた自分の一面であることを受け入れて生きていくことを選ぶ。この選択によって、眞人の母親に対する態度ははっきりと変容する。

この映画は母親の焼死から始まった。であれば、母親の死に対する答えこそが長い旅を締めくくるゴールとなるのは当然だ。そしてその答えはと言えば、ヒミとの別れ際に交わした「焼死するがそれで良いのか」「炎は綺麗だからまあセーフ」というやりとりだ。母親は火事で焼け死んだが、炎属性の能力者だからセーフ!

現実の母親が炎属性の能力者だったはずはないのだから、これもまた一つの曲解であることは言うまでもない。母親の焼死という事態を正面から乗り越えるのではなく、都合の良い炎属性設定によってクリアしていこうとする態度。思えば、この結論は焼死した母親が炎属性の能力者として登場した時点で最初から既に示唆されていたものでもある。これは明らかに父親任せと同根の、現実を捻じ曲げる狡さであり、世界の再創造を拒絶した眞人はそこで温存した悪意を備えたままだ。

しかしここに父親は全く介在していない。これは眞人が自ら提出した解釈だ。母親を火災による不幸な犠牲者ではなく、炎を操る能力者として曲解すること。それは良い悪いの問題ではない。この想像力さえあれば、眞人は心的外傷を克服して幻聴と幻覚から解放されることができる。ここに来て事態の曲解が持つ機能は反転し、悪意的な他責から力強く生きる術へと化ける。悪意と同じ論理構造を、父親に頼るためではなく自分の困難を超えるために利用する。

自らの手で解釈を捏造する否認の手振りそのものが問題なのではない。人の死のようにどうやっても変えようのない現実は常に人生に立ち塞がり、それには精々ポジティブな解釈を加えて現実に戻っていくしかないのだ。ただしここで注意点が一つ。父親に押し付けるのではなく、自分の力でやっていくこと。悪意を否定しなかった眞人は現実を生き抜く強かな術を身に付けて現実に帰った。

 

頼れるおっさんとおばさんの仲間たち

眞人の転導を導く補助線として、重要なサブキャラクターであるアオサギとキリコにも妥当な立ち位置を与えてみよう。

アオサギは序盤の現実世界パートにおいては奇妙な怪異として眞人の前に現れ、人歯が生え揃った悪意的な顔で母親の死を煽っていた。異世界パートでは徐々にコメディリリーフとしての姿を見せるようになっていくが、和解が決定的になったのは眞人がペリカンと会話した直後である。

このペリカンとの会話は現実の解釈というテーマに対して極めて重要な意味を持っている。それまで眞人はワラワラを食べるペリカンのことを単なる絶対悪だと思っていたのだが、ペリカンペリカンなりの背景があったことを話し、事情を受け入れた眞人はペリカンを粛々と埋葬する。つまりペリカンとの会話の中で、眞人は自分の解釈が一面的なものでしかなかったことを学んだのだ。それはそのまま自らの解釈を相対化して別の解釈に進むための契機であり、自らの内なる悪意を使いこなすためのキーの一つである。だからこそ、ペリカンを埋葬した直後に眞人は困難の象徴であったアオサギと和解できるようになる。

そしてアオサギと眞人を和解させるキリコは成熟した大人だ。というのも、キリコこそが現実世界パートにおいて眞人が辿り着くべき結論を先に提示していた唯一の人間なのである。周囲の大人のうちでキリコだけが眞人を庇護すべき子供ではなく一人の人間として見ていた。だからこそ持ちかけたのが、「弓矢の場所を教える代わりに煙草をもってこさせる」という小狡い交渉である。「弓矢の場所」と「煙草の譲渡」という二つの事態に何ら関係はなく、それらはキリコの介入によって初めて結び付けられて意味を持つ。

すなわちキリコが持ちかける交渉とは現実を曲解して利を得ようとする態度であり、眞人の自傷行為と、義母探しと、母親の能力者化と同型である。こういう個人交渉は常に悪意や嘘が付きまとう諍いの種ではあるが、かといって必ずしも咎められるようなことでもないだろう。現実はこういう交渉によって回っているのだから。キリコだけがそういう前向きで現実的な悪意の応用を眞人に示していた。だからキリコは異世界パートで眞人と同じ傷を持っているし、力強い姿で眞人を先導できる。

 

A:我々は平凡に生きる

眞人は父親に頼らずに現実を適切に歪める術を身に付けて現実に帰還した。ところで、これは極めて特殊な問題に対する劇的なソリューションだろうか? そんなことはない。むしろ極めてありふれた問題に対する凡庸なソリューションだろう。

誰もが悪意を屈服させて現実をありのままに受け止める聖人ではないし、かといって悪意を支配して他者を貪り食らう悪人でもない。ただ辛うじて前向きに悪意を応用する術を学んだ凡人だ。母親の死のような厳しい現実に対し、そうやって折り合いを付けられるようになっていく。

だから『君生き』のエピローグは極めて素朴だ。壮大な冒険によって眞人が得た学びは誰でも人生のどこかで得るようなものでしかない。一度手に入れればアオサギは飛び去ってどこかに消えていくのみだ。

君たちはどう生きるか」と問われれば、そうやって平凡に生きていくのである。