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11/15 サマーウォーズは何故失敗したのか

基本情報技術者試験

休学中に暇だしなんか資格でも取っとくかと思って受けた基本情報技術者試験の結果がようやく来た。
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どちらかといえば誰でも取れる資格なので、俺が落ちるはずもなく……というのが正直な感想ではある。
この資格はテクノロジからマネジメントまで、広く浅く情報系の知識があることを保証するというものらしい。理系のアカデミックな場所では資格を云々することがないので俺にはあまり馴染みがないが、ネット情報によれば職業プログラマーにとっては登竜門的資格、高専生もよく取ったりしているようだ。
試験会場に来ていたのもほとんどが三十歳以下と思しき若い人だった。試験直後にTwitterで「基本情報~」と検索すると高専生たち(アニメアイコンなので恐らくそうだろう)が死んだだの終わっただのとやいやい騒いでおり、ちょっと若返って中高生の定期試験に放り込まれたような気分になれる。

履歴書にも堂々と書ける立派な国家資格ではあるが、実際的な使い道は特に無い。
技術者になるつもりは無いし、仮にそれを目指すことになってしまったとしても力を発揮するとはあまり思えない。単純に保持者が多いのもあるが、元々の学歴の打点が高いので、こんな資格を追加したところでABCドラゴンバスターに機械改造工場を装備するようなものだ。

まあ、日常生活上の知識としてはあっても困らない。
役には立たないが、見えるものは変わる。「花の名前を知ると散歩道の風景が変わる」とかいうツイートがだいぶ前に流れてきたが、この情報化社会においては、花の名前とはアーキテクチャやテクノロジの名前、散歩道の風景とは日常生活を取り巻く全てに相当すると言っても過言ではない。ちょっと前に「WPAが死んだ」ことが話題になったが、この文字列を見て「Wifi通信の暗号化が突破されたのか」と理解できたのはこの資格のおかげだ。
オタクの皆さんにおかれては、実世界だけではなくゲームとかアニメで「パソコンに強いキャラが雰囲気付けとしてそれっぽいことをグチャグチャ弄ったり喋ったり書いたりしている描写」を見てだいたい何が表現されていたのか理解できるようになる効果もある。というか、一番役に立っているのはその用途かもしれないな。
ぼくらのウォーゲームで光子郎がTCP/IPを設定しているのは手動でネットワークを繋いでいるんだなとか、Ever17で優が空に対するソーシャルエンジニアリングを提案したニュアンスとか、理系のオタクどもがコンテンツに紛れ込ませているテクニカルタームが「ふむふむ」という感じになる。

補足83:サマーウォーズで主人公が暗号を解いている描写が(誰が見ても子供向けの描写ではあるが、更に輪をかけて)馬鹿馬鹿しく見えたりもする。

他の収穫としては、人生で初めて資格試験を受けて、いわゆる「資格マニア」の気持ちがよくわかった。確かにこれはハマるね。俺が一ヶ月前に大学院に合格したことは嬉しくもめでたくもないのでどこにも書いていないが(今初めて書いた)、基本情報技術者試験に関してはこうして一トピック作ってしまう程度には難易度とは別の次元で嬉しくめでたいわけなのだ。
放っておいても何かしらのインプットをし続けるマグロのような人間にとって、資格試験ほど手頃な終着点もない。自分で取る資格を選択できること、趣味としてはリスクも後退も時間制限もないという点でゲームのレベリングに近いものがあるのかもしれない(洋ゲーやオンゲーによくある、スキルツリーを解放していくイメージ)。

あと、資格を設ける過程で「分野内の一般論」が明確化して共通言語の足並みを揃える効果があることを鑑みると、本当は人文系分野にも国家資格試験的なものがあると個人的には非常に非常に非常にありがたい。が、そこは資格自体が実務向けの制度というか、資格を見て即座に「採用!」とできるような領域でなければ需要がないのだろうか。

ぼくらのウォーゲームvsサマーウォーズ

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さっき話題に出したついでに、ぼくらのウォーゲームサマーウォーズの話をする。

感想の大筋は上のツイートの通りで、ウォーゲームは怪物的に面白いが、サマーウォーズは全然面白くなかった。
「家族・田舎というテーマが魅力的ではなかった」ことをサマーウォーズを低評価する理由として挙げる人も多いが、俺はファンタジー閾値設定に失敗したことが最大の敗因だと思う。

ファンタジー閾値設定とは、ファンタジーにおいてどこまでが「アリ」でどこからが「ナシ」かを規定する線引きのことだ。
ここで言うファンタジーとは空中浮遊からケルベロスの存在言明まで含む「非現実的な要素」くらいの非常に広い意味だが、いくらファンタジーが非現実だからといって何でもしていいわけではない。作品ごとに暗黙のうちに了解されたルール=許容ラインを持っていて、そこを超えてしまうと、ご都合主義・超展開という印象を免れなくなってしまう。
この閾値設定が最も厳格に定められているのは能力系漫画だろう。緊張感と説得力のあるストーリーを続けるために、「出してもいい・扱える能力の程度」というのは実は作品ごとに決まっている。例えばめだかボックスでは安心院さんの「神になる能力」が許容されているが、ハンターハンターでゴンがその能力を得るのはやりすぎだ。あまりにも強すぎて、暗黒大陸も継承戦も、全ての謎を無に帰してしまうだろう(どのキャラでも許されない)。そのバランス感覚こそが暗黙に定められた閾値であり、作品内ではなく作者と読者の間で交わされるメタな約束である。

では、ウォーゲームとサマーウォーズの場合はどうだろう。一応ざっくりしたストーリーを復習しておくと、いずれも「電脳空間内で誕生した疑似生命体(敵)の暴走を主人公一同が止める」という内容であった。

まず、電脳空間において。敵AIが真にファンタジーの産物かどうかは人工知能への知見に応じて意見が分かれるところかもしれないが、まあ、ヴァンパイアやエンジェルと同質のファンタジー存在とするのが妥当であろう。主人公勢との戦闘も電脳空間での肉弾戦が主になり、脅威・応戦共に現実性を欠いたファンタジー寄りのものである(設定的にはコンピュータ上のプログラム的な戦いを大袈裟にビジュアル化しただけかもしれないが、魔法少女もののように別世界で戦闘しているように絵を作っているのは明らかだ)。

一方、どちらの映画でもより大きな舞台は現実であり、電脳空間の戦いは現実世界にフィードバックするという形で脅威となる。が、電脳世界の脅威と現実世界の脅威が完全に対応しているわけでもない。敵AIの暴走は、現実世界では「交通機関の混乱」などのようにリアルな形でしか出現しないというのがポイントになる。ここにファンタジーに振り切っている電脳世界とリアルなルールを堅持している現実世界との温度差があり、現実世界は電脳世界からの影響を受けはするが、その脅威は間接的な形でしか現れてこない(現実に敵AIそのものは現れない)。電脳世界では主人公たちが世界の存亡を賭けた熱い戦いを繰り広げている横で、オバハンたちが呑気に野球を観戦していたりママがケーキを焼いていたりするのはそのためだ。

整理する。
電脳系に存在する脅威が現実系に影響を及ぼすが、その脅威は現実系ではリアルな形でしか現れない。電脳系と現実系はそれぞれファンタジーとリアルに寄ったルールを把持しており、その範囲内で駆動する・影響し合うことが定められている。閾値という概念を使って書けば、電脳系ではファンタジーが許容される=閾値が高い、現実系では許容されない=閾値が低いという関係にある。

この異なる閾値感覚を持つ二系において、ストーリー展開上で現実系から電脳系にアプローチしなければならない主人公たちは、どうにかして世界の間を乗り越えて異なる閾値の整合性を取る必要が生まれてくる。
つまり、主人公たちが閾値の崖を乗り越えるに際して、どのように納得のいく形でその間に梯子をかけることができただろうかという点にこの二つの映画の評価は帰着されてくる。

ウォーゲームの場合は単純で、既成の「デジモン」の設定が系間の整合性を担保した。
実は、デジモンの扱い方という点に関してはウォーゲームはかなり異質な作品だ。デジモンが画面の中にしか現れないウォーゲームとは異なり、テレビ放送版ではデジモンは現実世界にも普通に肉体を伴って現れることができる。この違いはデジモンではなく世界観の問題と言った方が正確だろう。つまり、放送版の「現実世界」はデジモンが現れることもできる、部分的にファンタジックな世界なのだが、ウォーゲームにおける「現実世界」はデジモンの出現を許さない徹底的にリアルな世界だ。
実際、ウォーゲームにおけるリアリティの追及は目を見張るものがある。上にも書いたが、TCP/IPまで持ち出すネットワーク通信描写や、PCを操作する際のOSのGUIに至るまで完全に現実に似せて作られているし、挙句には通信事業主の「NTT」という単語まで飛び出す始末だ。
ウォーゲームの現実世界ではデジモンでさえもファンタジーでいることを許されない。デジモンと言えば「進化」がウリのコンテンツであり、放送版ではデジモンが進化するときは専用のBGMを流しながらスクリーン全体を占領して数秒の変身バンクを流すのがお約束だった。
しかし、ウォーゲームでは別の「お約束」が存在する。なんと、一つのアプリケーションとして必ずPCのウィンドウ内で変身するのである。スクリーン全体を占領するどころか、スクリーン内のPC画面の更にその中のウィンドウ内で例の進化バンクの縮小嵌め込みが流れるのだ。
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進化シーンそのものは見つからなかったが、こんな感じでPCのウィンドウ内にデジモンがおり、進化もこの中で行われるのだ。この衝撃が伝わるか。デジモン最大の見せ場である進化が、ブラウザやメーラーと同じたかが一アプリケーションに過ぎないという、ある意味で最高レベルの貶めを食らっているという。
そんな扱いを受けつつも、ウォーゲームでも電脳世界ではいつものデジモンが姿を見せる。太一と一緒に戦い、良かったねという感じで敵を成敗してくれる。一応ちゃんと言及しておくと、電脳世界のデジモンの振る舞いはデジモンコンテンツが元来持っている設定に束縛されている。アグモンがグレイモンになるとか、オメガモンになるとかね。

以上のように、ウォーゲームの場合は既に設定されているデジモンのファンタジー性をまずは最初の拠り所として、次に現実で徹底的にリアルな描写によってその幻想性を貶めるという方向で最終的な閾値の整合を取っている。身も蓋もない話だが、ウォーゲームの場合はファンタジーからの尖兵として既に存在していたまさに「デジモン」こそが閾値の整合性を担保してくれていたわけだ。

一方で、「サマーウォーズ」ではデジモンは完全にオミットされている。
先程の結論をひっくり返して「デジモンがいないので閾値の整合性が担保されなかった」とだけ書いて終わるのでもよいのだが、デジモンに類似する挙動をする要素も無いわけではなく、それがこちらでは「家族」になる。
ウォーゲームとは逆転し、サマーウォーズではまず現実系からスタートして電脳系の閾値を探るという方針を取る。これは当たり前のことで、デジモンがいない以上、最初からファンタジー系に属している要素が無いのだから、まずは現実に足場を作らざるを得ない。

補足84:ファイターやアバターの設定がデジモンの役割を担って最初から存在していたと見ることも不可能ではないが、俺はその見方には同意できない。仮にそうだったとしてもほとんど閾値の提示を行っておらず、物語が進むにつれて後付け的にどんどんファンタジー閾値=許容度合いが上昇していくため、存在の先行が実質的な意味を持っていないからだ。

ここで現実系と電脳系を結ぶ橋をかける足場になるのが「家族」だ。
現実系から電脳系に対して可能な挙動を規定することになったとき、現実からファンタジックに適用できるルールを選定して当てはめなければならない。もう少し噛み砕いて言えば、現実系からスタートする場合、主人公たちがファンタジー世界である電脳系に「何でも出来る」のでは物語が成立しないので、何かしらのメタな要件がその能力の限界を定めなければならず、その「何かしらの要件」に「家族の絆」が選ばれた。家族の絆が強まれば電脳系への干渉力が増し、逆も然りという公式でファンタジー系の閾値及び二系間の整合性を一応保つことができる。「まるで家族の絆の強さだけが都合よく物語の展開を定めているようだ」と思った人は少なくないと思うが、そうでなければならない事情があったということだ。

まとめると、閾値絡みの整合性はウォーゲームではファンタジー→リアルという方向、サマーウォーズではリアル→ファンタジーという方向で保たれていた。また、具体的にそれを担保する要素は前者は「デジモン」、後者は「家族」である。
サマーウォーズデジモンをオミットした代わりに「田舎の家族の絆」が代わりに世界全体の信頼感を規定するという構造を持っているので、家族に絶対の信頼を寄せるというスタンスに同意できなければ「作品の基本的な信頼」が崩れてしまう。よって、家族観が一致しない勢力が却って不信、違和感、気持ち悪さを募らせるのも必然ではある。

なんだか暗い感じで終わってしまうのでもうちょっとポジティブな感じにまとめたいけど、タイトルが「何故失敗したのか」だしこんなもんか。
以上です。