LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

11/28 YU-NOの感想

・お題箱28

41.「うまるちゃん二期からやたら増えた、メイン四人がモチャモチャするだけの話って必要か?」ってツイートしてましたけど、言うほど不必要ですか?(“二面性を持った”うまると他メインとの絡みを描くには必要に思える)(というか私は楽しんで見れているためそもそも気にならない)

ん~~まあ僕は不要派ですね。
なんかメイン四人がモチャモチャする話って四人とも安定行動しか取らなくなってしまうんですよね。役回りが完全固定されて、うまるは常識人発言しかできないし、シルフィンのパワープレイも突き抜けなくなってしまう。
じゃあUMR回やたぬきち回は不安定行動を取っているのか?というと別にそういうわけでもないんで、単に僕が好んでいる行動をしないというのが真実なんですけど。僕はUMR形態とシルフィンのタイマン絡みが一番好きです。
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「二面性を描くために美少女パートはオミット出来ない」ということには同意しますが、僕の記憶が正しければ一期では美少女パートは一枚絵とか30秒くらいの超短パートで済ませてたので、二期もそんくらいでいいです。
増えたシーンを楽しんで見られるのはとてもいいことですね。羨ましいです。

・神性の起源 予告編

何かの感想を語るにつけて俺は「神性」という単語をあまりにも任意に使いすぎてきたという反省がある。
具体的に言えば「完全に規定不能なもの」「完全に規定されたもの」という全く相反する性質のいずれに対しても「神性」という形容を用いてきた。例を挙げれば前者がシンゴジラ、後者は美少女一般がそれに該当する。シンゴジラ的なものが持つ畏怖の起源が規定不可能性にあるということに関しては言を待たないだろうし、美少女一般についても絶対的な清廉さの起源が「汚されない」という記述的な定義にあると納得してもらうことも難しくないと思う。

ただ、美少女性にも「規定されない美少女性」と「規定されている美少女性」の二種類が存在することは恐らく話をややこしくするので早めに切り分けておきたい。
まず「規定されない美少女性」に関しては、打ち上げ花火のヒロインが備えさせられていたような、挙動不審・意味深・不明瞭な性質がこれに該当する。不明であるが故に魅力的という感覚、恐らくオールドタイプなオタクが好み、初期のイリヤ(アインツベルンではなく伊里野)や綾波駆逐艦ではなくファーストチルドレン)もこの性質を持つ。こちらのケースに関しては、当面はシンゴジラと同じ場所に分類しておいていい。
「規定されている美少女性」の方はさっき書いた通りだが、もっと具体的に書けば、「美少女はウンコをしない」とか、「老いと無縁である」「お風呂に入らなくてもいい匂いがする」など。理想形に沿うように一般的な人間からは捻じ曲げられた性質の数々は明らかに言語化可能であり、シンゴジラ系列の規定不能性とは真っ向から対立する、むしろ規定による明確化を経て機能する性質であると考える。
ただし、キャラ単位で見れば併せ持つことも許されているのに注意してほしい。初期の綾波は不可解な女の子ではあるが、それはそれとして気張ってウンコもしない。

以上、規定を巡る真逆の性質が同様に形容される矛盾がある。
「違う性質は違うものとして呼び分ければいい」というのは一つの解決策ではあるが、それは便宜的な整合を得るために逃げを打っているような感じがして素直に頷けない。俺自身の感覚として、それら二つは同一の起源を持っているように思われる。今までは「不可侵領域を持つという点で共通する」くらいのザックリした説明で誤魔化し続けてきたが、そろそろ綻びから目を背けるのをやめたい。

また、もう一つのモチベーションとして前に挫折したファニーゲームの感想をリベンジしたいということがある。俺の予感が正しければ、この流れでどうにかしてあの青年二人組がいた場所も定位できるはずだ。
ファニーゲームに関しては一刻も早く感想を肯定文で言語化しておきたい。
巷でよく言われる、メタ描写とか、観客の共犯性とか、暴力の悲惨さとか、アンチハリウッドとか、そんなことは付け合わせのようなもので、青年二人組の特異点的な性質はそういう説明では語れない(それらを全て消去しても青年の価値はまだ残る)。しかし、俺がそれを語れない限りはただただ他人の意見を否定し続けるだけのオタクマシーンになってしまうのでリベンジは急務だ。

予告編終了、本編開始時期未定。

YU-NO感想

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PS4特典のPC-9800オリジナル版(という触れ込みではあるが、一応ベタ移植ではなく若干の手が加えられている)を全ルートクリア。
ネタバレを含むので追記。
==== まあ~面白くはなかった!
イオニアとしての価値の痕跡は感じるものの今プレイするには正直しんどい、ブレードランナータイプの古典作品。本当に面白くないから一度にちょっとずつしか進められなくて、長いこと苦痛と戦う羽目になってしまった。YU-NOプレイ中に削られた俺のGP(ゲームパワー)を回復するため、今はリハビリで3DSの時オカをプレイしている。

補足85:「しばらく苦痛とは縁のないゲームをやりたい」というときはやっぱり任天堂が頼りになる。

一応面白くなさを切り分けておくと、この作品固有の内容的な部分と、一般論に帰するメカニズム的な部分それぞれがある。

前者については単にキャラやストーリーに魅力を感じない。同じような苦痛状態にあったEver17は最終盤で巻き返したが、こっちはダメだった。これはまあ流行り廃りの類のもので、当時はウケていたキャラが現代の俺にはウケなかったというだけのような気がする。わざわざMAGESちゃんがリメイク版を作ってくれたのに頑なにオリジナル版を遊んだ俺の方が悪いのかもしれない。強いて言えばジオテクニクスの女守衛が一番好き。
後者についてはいわゆるゲーム的リアリズムに関する部分。マッピング作業そのものは楽しかったし、ゼル伝のダンジョン探索と同じ次元であれば楽しめたのだが、パラダイムシフトというか、ガツン!と来るところはなかった。これを初めてシステム化した功績は大きいのだろうが、俺はただそれを追認することしかできない。
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マッピング作業を楽しんだ痕跡

A.D.M.S.そのものを採用しているゲームが溢れているというわけではないので、世界観レベルでこういう認識が当たり前の時代になってしまっているというのが実感に近い。

補足86:ゲーム的リアリズムの具体的な内容については東浩紀が述べていた内容に完全に同意する。それ以上でも以下でもなく付け加えることが全く無いので、今回は触れない。
一応ざっくり言うと「ギャルゲーを遊ぶオタクがセーブ&ロードで選択肢を選び直したり複数のルートを渡り歩く行為は、いわゆるループものの主人公がやっていることと全く同じだよね」みたいな話で、気になる人は「動物化するポストモダン」を読んでください。


あまりにも内容がどうでもいいのでスキップを連射してA.D.M.S.のマッピングに熱中できたところはあるが、内容の薄さが淡々とルートを探索するプレイヤー視点を促進したというのは流石に言い過ぎか。

あとは異世界編で龍蔵寺が再登場したあたりでちょっと萎えたことについて書く。
ストーリー的には初めて異世界に現代編のキャラクターが現れる衝撃的なシーンのはずなのに、何故俺はこんなに萎えているのか、吊られた龍蔵寺を見ながらしばらく考えていた。
多分、異世界が完全に未知なる新天地ではなく、一つの整合の中に組み入れられてしまったというのが気に食わないんだろう。現代世界や美月先生のいた次元も含めた世界を体系立てて繋ぐ理屈が提示された時点で、異世界の非現実性(「理外」と言うことによって担保される特権的な立ち位置)が消滅し、拡張された新制度の中に組み入れられてしまう。現代編を規定していたいわゆる常識が、異世界編では美月先生が解説するような理論に変わっただけだ。固有名詞ではなく一般名詞としての枠組みが存在するか否かで見ると、現代世界と異世界に大した違いはない。
だから極端なことを言えば、異世界編は現代編のキャラクターが現れるよりもっと前、ユーノが生まれたあたりで終わっても良かった。というか、俺は無意識のうちにその辺で適当に終わると思い込んでいたので、帝都に行くあたりで「あっ、これちゃんと続くんだ……」と思ってしまった。

このあたりの「異世界感」は、最近流行りの異世界無双ものと対照して語ることができるかもしれない。
YU-NO異世界編とは異なり、いわゆる異世界無双ものでは元の世界との接点は完全に切断されて二度と言及されないことが多い。二つの世界をまとめる枠組みも特に存在しないし、リフレクターを持ち出さなくても転生担当の神様がなんちゃら~という雑な設定を仮置きしておけば許されるところがある(あまり詳しくは知らないから憶測で喋ってるけど)。

まあ、これに関しては別に時代が移り変わったのではなくて単純にジャンルが違うだけというのが真相に近い気がするけど、いずれにせよ、俺的には現実の後腐れは無い方がいい。