LWのサイゼリヤ

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11/12 結城友奈は勇者である大反省会(今更)

鷲尾須美は勇者である

録画してなかったんだけど、放送が進むうちにどうしても見たくなってきてしまった。
放送中のアニメを後追いするのにレンタルビデオ屋は役に立たないので、ネットサービスと契約するしかない。面倒だけど自らの怠惰への戒めとしてdアニメストアあたりと契約しようと思ったら、Amazonプライムにあって全部解決した。神。
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鷲尾須美の話をする前に結城友奈の話をするのが筋だろうと思って、俺が昔どっかに書いたはずの結城友奈の感想にリンクでも貼ろうとしたらどこにもない。懸命に捜索した結果、途中まで書いて放棄した残骸が弱肉二式の下書きに埋まっていたのを発見した。

いい機会なので、何故感想を途中で放棄してしまったのかも含めて、没記事を継ぎ接ぎしながら結城友奈の復習をする。
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まず、こういうことを言うと時間的特権を振りかざそうとする厄介な消費者になってしまうんだけど、それでもやっぱり「リアルタイムに視聴したことが重要なアニメ」っていうのはあって、まどかマギカほどではないにせよ、結城友奈もその類のアニメだ。

補足81:「もしまどかマギカの放送が震災と被らなかったらあれほどのブームになれただろうか?」という質問に対する回答は人によってまちまちだろうが、俺はまどかマギカの成功の半分以上は震災のおかげだと思う。一番続きが気になる話数で震災が来て延期になったこと、その末に最終話と直前話が同時連続放送になったこと、世界が終わりそうなときに世界が終わりそうな話をやれたこと、全ての噛み合いが奇跡だった。

理由を結論から言うと「結城友奈が示したファジーな脅威は先行きの不透明さと切り離せないから」ということになるんだけど、それについて説明するためには、まずは(さっきと違う文脈で同じタイトルを出すので混乱しないでほしいが)まどかマギカフォロワー系アニメ、いわゆる「絶望魔法少女もの」が置かれていた状況について書く必要がある。

結城友奈も「絶望魔法少女もの」の一つと言っていいだろう。まどかマギカが2011年、結城友奈が2014年、「3年経ってもまだいた」と言うべきか「まだ3年しか経っていなかった」と言うべきかは微妙だが、2017年の今もがっこうぐらしのような変形版や広義の邪道魔法少女ものまで含めると「絶望魔法少女もの」は無数に存在するわけで、たぶん後者が正しいのだろう。
しかし、そうやって一過性のブームですらないジャンルが確立してしまったことは、狭義の絶望魔法少女もの=「お気楽日常系かと思わせておいて実はシリアス絶望系だったという筋書き」の死を意味する。裏切りによるインパクトは裏切られるところの消費者が予測していないから発生できるのであって、天丼によって強力になるタイプの仕掛けではない。いまどき魔法少女ものと聞いて身構えないオタクの方が少ないし、実際にやられたところで「またこれか」以外の感想が出てこない。2014年時点ですら、「日常もの」から「絶望もの」へという二項対立がもう既に寒かった。

そんな中で結城友奈も「見るからに寒そうなまどマギフォロワー」という第一印象だったのだが、回を重ねるごとにどんどん評価が上がっていく。
当時の俺のブログを見ると、結城友奈は話数的にはだいたい「~五話」「六・七話」「八話~」という三段階に分かれるようだ(正直に言うと、いま結城友奈の放送内容はそこまで鮮明に覚えていないので、細かい話は過去の俺がソースみたいなところがある)。

まず五話まで、ここまでは基本的に何も起きない。その割には意味もなく死神のタロットを映して終わるなど不安を煽る描写がやたらと多く、不安を煽る→何もなし→煽る→何もなしというパターンを繰り返すようになる。この煽りは絶望ものへの変化を期待されているというメタなコンテクストの共有を前提として成り立っていることが明らかで、少なくとも素直に期待に乗ってしまう作品よりは面白いことをしている。

俺が一番評価していたのは六・七話だ。
形態覚醒だの宇宙圏戦闘だの最終回的なことをやってボス的なものを倒した第五話から一転し、第六話では戦いによる疲労の影響(と、登場人物は解釈しているが詳細は不明)で各人が身体障害を負うことになる。
具体的には
・声が出ない
・左耳が聞こえない
・味覚を失う
・左目が見えない
という内容で、日常生活を送る上でも厳しいものばかりだ。

補足82:生死じゃなく障害でペナルティを与えるっていう発想自体がだいぶ良い。死や寿命を最大のペナルティや回避目標みたいに掲げられても俺は「最悪でも死ぬだけなら別にどうでも良くないか?」と思うところがあって、いまいちピンと来ない(デスノートの目の取引とか)。対して、障害は不便さが直接理解できるから「それはヤバい」っていうのを身に迫って感じる。
もう少し主語を大きくすると、世代か環境か遺伝かはわからないけど、真面目に生きているかどうかとは無関係に生への執着自体が希薄な勢力(死ぬ理由が無いというだけで生きている勢力)っていうのはたぶん一定数存在する。まあ、現代日本で普通に生きていて生死の危機に直面することなんて十年に一度も無いからというだけのような気もするが。


これらの障害を負った状態で第六話と第七話で日常パートをやったというのが決定的に良かった。第五話でその時点でのボスを倒してしまっているために原因が不明で治る見込みも特にないというのがポイントなのだが、ここからは当時の没記事をそのまま引っ張ってこよう。

――――――――――――没記事始―――――――――――――――――
結城友奈は勇者である」が類稀に悪趣味なのは、障害を負った状態で再び女の子たちの日常パートを再開させたことです。
障害を負ったことに呼応して隠された真実、黒幕、陰謀がずるずると出てきて解決に向かって動き出すということがなく、「新たな敵」というファクターがちらりとも見えてこないまま、全員が勇者になる前の生活に戻っていきます。一番秘密のありそうな「大赦」という存在も夏凛に対して理解のあるメールを送るなど極めて協力的な姿勢を取っており、主人公たちの味方である状態を続けています。

「悪い状況に対して悪い原因が無い」というのは最悪の状態です。
誰かから攻撃を受けているなら彼に反撃すればいいし、誰かが裏で糸を引いているのであれば彼を発見して倒せば良いのです。その過程には努力と希望があって、たとえ失敗しようとも、それは代えがたい物語になります。しかし誰も悪くない、原因があるかどうかすらわからないにも関わらず被害だけが発生し続けているとなると、もう全く何をすることも出来ず、ただただそこにある被害を受け続けるしかありません。
各種身体障害は確かにきついですが、受けようと思えば受けられるというのがポイントになります。ポジティブキャラの友奈が「歯ごたえだけでも食事は楽しめる」という無理すぎるフォローをしてみせたように、痛みや飢えと違って耐えようと思えばギリギリ耐えられないこともないのです。

素晴らしいと思ったのはここです。
友奈たちは誰にも文句を言えないんです。サンドバックになってくれるキュゥべえはここにはいません。世界を救うという結果も出してしまった手前、後悔することすら出来ません。かつて日常の中で非日常と彼女たちを繋いでいた精霊も全て消え去り、異世界の痕跡はもうありません。日常パートが再開してしまった以上、黒幕が登場して敵役を演じてくれることもなく、いつか治ると無根拠に信じて前向きなフリをすることしか出来ません。コメディに振りきった第六話はそういう最悪の状態を示唆しています。

まあ、これはちょっと過大評価気味というか、残り話数は六話もあるので、今回の話はクッションとして挿入されただけでこれから何か真相じみたものが出てくるだろうということは理解しています。が、「障害を負った日常パート」という話数をわざわざ挟んだことによって、哀楽が逆転する世界を作り出したことを評価したいです。「滑稽であればあるほど、面白ければ面白いほど悲しくなる芝居がある」とか樹木希林が言っていましたが、日常パートという舞台でそれをやってみせたのが離れ業と言って良いでしょう。
本当はこのまま障害を抱えたままだらだらと日常パートを続けて、時々少し不安になるけれどいつか治るよね……と仲間同士信じつつ、永久にそれは実現しないことをラストカットで示唆して終わるみたいなことをしてくれれば最高のアニメになれると思うんですけど、まあ、なんか色々あって、治るんでしょうね。
―――――――――――没記事終――――――――――――――――――

今の俺なら「不安的な脅威はファジーな状態で最大の性能を発揮する」とでもまとめそうなところだが、当時の言葉でも概ね同じことを言っている。絶望魔法少女ものとしての文脈に乗せて言えば、「日常ものと絶望ものという二項対立が既に寒い」という問題に対処するために「どちらとも取れる曖昧な状態に置き続ける」という、五話以前から行ってきたメタな揺らぎを続行しているとも言える。
いずれにしても、六話と七話の高評価は今でも変わらない。

翻って、最終話では三十分で評価が二転三転した形跡がある。

まず、神樹空間での最終決戦は良かった。正当な対価として障害を次々に加算しながら敵を撃破していくという戦闘は、(不透明な脅威というテーマは薄れてしまったにせよ)身体障害設定自体が優れているので問題がない。

が、最終決戦以降は明確に明確に明確に悪かった。「障害負いまくりでヤバかったけどなんか治ったし勇者部はもう戦わなくていいらしい笑」というご都合は六・七話までも巻き戻して破壊する内容で、俺は大きく落胆した。

しかしBパートラストの立ち眩みは良くて、ここで再びプラスに揺り戻した。
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この「立ち眩み」が最終話最大のポイントなのでちゃんと説明すると、障害が完治した登場人物たちがラスト5分くらいで日常パートを再開し、幸せな演劇(本来の部活動)をやっている最中に主人公の友奈が唐突に立ち眩むというもの。一応周りが心配する描写が入るものの、本当にただちょっとフラついただけで何事も無かったように演劇も大成功し、平和なEDが流れてこの作品は終わる。
これ俺は大好きなんだけど周りからの評判が最悪で、「お前それはバカだぞ」「あまりにもいやらしすぎる」「オタクを舐め切った演出」「庵野が何も考えずにやりそう」とか散々なことを言われた。

いやいやいや、別に良くない!?
そりゃ何もないアニメが最終話でやったら「うまぶりすぎだろ」で終わるけど、結城友奈は一話から「はっきりしない脅威」っていうテーマを積み上げてきてるわけだから、眩暈をその集大成として捉えていいでしょう。一見問題のなさそうな日常にも脅威の尻尾が微かに見え隠れしていて、それは黒幕ですらなくとにかく判然としない(ために最悪である)っていう文脈の上に乗るじゃん、これは。
注意して見ると、最終話でも大赦とか神樹のような権威から明確に障害の治癒に関する通達が来ている描写は無く、夏凛と風が大赦から送られてきたメールを見て供物システムが改善されたのかしらんと話していただけだ。「治ってきている描写」をやっても「完治した描写」はやっていないこともファジーな脅威を補強する。

最初の話に戻ると、とにかく「不透明な脅威」っていうのが全体を貫くキーだから、現実でも「来週の放送内容がまだわからない」っていう時間的な不透明さをオーバーラップさせて見るのが理想的だったと思う。




で、放送自体を見た最終的な感想としてはかなり高評価なアニメだったのだが、放送終了二ヶ月後に最悪な監督インタビューが発表され、俺は萎えて感想を封印してしまう。→(他のソースが見つからないのでまサイですいません)
あーもうめちゃくちゃだよ……と当時は思ったが、今見るとこのくらいなら別に耐えられそうな感じがあるな。作品は作品として、監督の意図は切り離せるので。それはそれ、これはこれ。

ちなみに二期を見る予定がなかった理由は監督のインタビューが残念だったからというのもあるけど、ファジーさの魅力ってどうしても続編で明確化に向かって消えてしまうからというのもある。最近自殺サークル紀子の食卓についてまさにそういうことを思ったので、機会があったらその感想の話もするかもしれない。