LWのサイゼリヤ

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18/2/19 「芸術批評の哲学」の感想

・お題箱33

49.理系なのに哲学みたいな話多くない?

多いかもしれません。
どの回を指して「哲学みたいな話」と言っているのかはわかりませんが、僕のスタンスとしてはアニメを見たり本を読んだりする上で普通に必要なことを概ね場当たり的に収集して述べているという感じで、少なくとも学問としての哲学をやる意図は無いです。
ちなみに僕は高校の頃からずっと理系で、今は工学の応用物理系・情報系あたりですね。ちゃんとした文系の教育を受けたことがないので、いまいち教養に欠けるというか、哲学の基盤がないことはコンプレックスではあります。

50.のらきゃっとの記事で「ミミズがのたうったような」と書いてますけど正しくは「ミミズののたくったよう」ですよ

ztoka00357[1]
ありがとうございます。普通に知らなくて完全にのたうって苦しんでいるミミズのイメージでした。多分のたうつウンパスのせいですね。

・芸術批評の哲学


を読んだ。

オタクはアニメや漫画について感想文以上のことを書いたと自負する文章に対し、わりとすぐに批評と名乗る傾向があるが、その具体的な要件については自己申告以上に思い浮かぶものがない。
別に何が批評か定義してやろうという気持ちは全くないのだが、そうした文章の中でも内容ではなく対象によって俺の興味の有無が分かれていること、俺の書いた文章が批評の類義語(考察、評論……)で括られるのに違和感があることなどを鑑みて、ちゃんとした芸術批評についての本を一冊読みたくなった。

この目的に応じて、芸術批評の哲学という本を拾えたのはラッキーだった。
今必要としているのは批評が取り扱う射程や要件を定める「xの哲学」系の理論であり、きちんとした批評のやり方を教える「xの実践」系の理論ではない。タイトルにそれを冠しているだけあって内容は期待に合致しており、自らの主張に対する反論や再反論も豊富なので検討の糸口としては悪くない。
俺が最も興味があるのはアニメ漫画ゲーム等の語りが批評理論の中でどのように位置を確保するかということなので、本文の内容をオタク語りに適用させつつ読んだ。

・批評の最も緩い定義/認知的情動としての萌え

まず、「批評とは理由に基づいた価値付けである」というのが第一章で提出される最も緩い批評の定義である。
これは「そうでなくてはならない」というよりは「そうしなければ他の語りと区別できなくなるため」という消極的な発想だが、それも含めて妥当だと思う。例えば理由に基づかないものとしてはただ親指を上や下に向けるだけの好みの語り、価値づけを伴わないものとしては技巧や背景の解説に終始する語りが該当し、これらを区別のために脇に避けておくのはそれは批評ではないという感覚に合致する。本文中では既に価値の確定した芸術作品への批評を扱うために何ページかを割いているが(今更モナリザに対する価値付けは必要か?)、それはアート界特有の事情なので今は扱わなくていいだろう。

恐らく今ただちに問題になるのは、理由の語りが言語による語りである以上、言語化されないエモーションを処理できないのではないかという疑問のはずだ。つまり、作品に対して間違いなく存在する認知(ロゴス)と情動(パトス)に対して、理由の提示で説明が付くのは前者だけであるから、後者を切り捨てることになるのではないかという。
この容易に予想される反論に対する再反論としては、「認知的情動」論が持ち出されている。これは「情動にもある程度の理由に基づく一般則が導ける」という理屈で、例えば「崇高」という情動に理由を付けるには、「(精神的・物理的に)とてつもなく大きい」と述べればよい。もちろんこの法則は主観に依存した柔らかさを持ってしまうが、かといって個々人によって果てしなく異なるものでもないので、作品を批評する理由に用いる程度には十分な合意が形成できるとする。

俺も基本的には認知的情動論によって補強された当初の定義(「批評とは理由に基づいた価値付けである」)に同意する。しかしこれをオタク特有の事情として「萌え」に適用する、つまり「認知的情動としての萌え」が批評できるかということになると、首を傾げざるを得ない。
先の「崇高」に対する「崇高な理由」と同様に、「萌え」に対する「萌える理由」を提示することはまあ可能ではある。例えば俺はダウナーな女の子が好きだし萌えなので、「感情表現に乏しいからダウナーで萌えだ」とか、「発話が遅いからダウナーで萌えだ」とか設定的・表現的にそれらしい理由を付けることはできる。しかし、どう好意的に見てもこれを批評と主張するのにはかなり無理がある。
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(今期最萌ダウナーヒロインこと皐月夜見さん(刀使ノ巫女))

雑に言えば「初動で萌えないキャラに理由を説明されてまで萌えることに何か意味があるか?」ということだが、これは三つの問題に分解できる。

まず最も単純には、萌えは個体によってまちまちであるということ。
萌えの定義は未だ確定しておらず、共同幻想的なものに起源を持つと考える派閥もあるが、俺は圧倒的に個人の認識論派だ。個人的には萌えの起源は設定的な完全性にあると思っているのだが、そこまで行かなくても「理由を述べられたところで誘発しない程度には萌えは共有されていない」という説明は合意を得られるだろうし、今はそれで十分だろう。

二つ目は、萌え(キャラ)は理由を持たない偶発的な存在だということ。
データベース理論に従えば、現在消費される萌えは匿名的なデータベースから導かれる属性の組み合わせに過ぎない。いまやキャラは世の中に溢れていて(ソシャゲ一つにつき数百人の萌えキャラがいるというのはすごいことだ)、萌え要素はサイコロを振るが如き勢いで組み合わされて次々にキャラを生成している。そこには技巧的介入が存在せず、乱数的に自然発生したものが押し寄せてきてフィルターにかかるかどうかで選別されているだけなので、ランダムな嵐の中からたまたま一つを取り出してそれにとりわけ価値があるとかないとか言うのがナンセンスだということ。

三つめは、萌えは作品全体の統一に寄与していないということ。
これがノエル・キャロルが想定している芸術作品とオタクコンテンツの最も大きな違いだと思うのだが、アニメや漫画においては(絵画などとは異なり)作品内のあらゆる要素が統一的なテーマに対する役割を持つようにはデザインされていないものも少なくない。映画SAWにおけるザッピング的なショットが最大のクライマックスへの伏線だったとして、絵画モナリザにおける重ねられた手が画面全体の三角形の調和を構成していたとして、ゆるキャン△のシマリンが第三話で犬に体当たりを食らったことに何か全体の統一を目指すような意味があるのだろうか?
このスタンスの違いを見るには、虚構的リアリズムを持ち出すのがわかりやすい。現実に対する自然主義のように、フィクションは虚構を写生するという立場を取れば、虚構内要素が合目的的に稼働する理由は特に何もない。萌え要素が持つ役割は「作品全体の整合」まで辿り着くことがなく、せいぜい「キャラ・キャラ同士の整合」程度の地点で切断されるため、萌えからスタートする価値付けは作品全体に言及しないローカルなものになってしまう。
これは萌えに限ったことでもなく、特に解釈論において問題になってくるので、そもそも作品全体の統一などというものは存在するのかということも込みで後で扱おうと思う。

・作品の価値とは何か/達成価値vs受容価値

第二章は「価値付け」と言ったときの価値とはそもそも何なのかという話題で、「達成価値vs受容価値」という対立が提示される。

達成価値とは芸術家の達成であり「芸術家が何かを達成したから価値がある」と考える派閥、対して受容価値とは消費者の受容であり「消費者が肯定的な経験を受け取ったから価値がある」と考える派閥。何か感想を書いたとき、全ての文章を括弧に入れて「以上の内容を監督○○氏が達成したため、価値のある作品だ」と締めくくれば(締めくくれるように書いていれば)前者、「以上の肯定的経験を私が得たため、価値のある作品だ」と締めくくれば後者となる。

まず俺の立場を言えば圧倒的に後者に寄っていて、結城友奈の感想もくまみこの感想も全て受容価値のスタンスで書いている。俺の評価点(結城友奈がファジーな脅威をよく描写していたこと、くまみこがアンチ成長ものとして完成していること)が製作の意図に沿っているかどうかは問題ではなく(多分沿ってない)、俺がそういう点を面白いと感じたので評価するというだけで終始している。

一方、この本の作者は完全な達成価値派で、受容価値の問題点として「水槽の脳」「完全な贋作」「示唆的な失敗作」の三つを提示している。つまり、受容価値論者は、

1.水槽内で電極に繋がれた脳が肯定的な経験を受け取り続ける状態を価値あるものとみなしてしまう
2.真作と同じ肯定的な経験を発生させるような、(人間の五感では全く見分けられない)完全な贋作を価値あるものとみなしてしまう
3.(「プラン9」のような)明らかにシリアスに失敗しただけの馬鹿な作品を、コメディとして肯定的な経験を受け取ったとして価値あるものとみなしてしまう

以上の理由によって受容価値論は否定されるとしているが、これらに反論するには「俺はそれに問題があるとは思わない」で十分だ。要するに現実に対して現実であるというだけの理由で価値を見い出せるかどうかという話で、実際に俺は見い出せないので議論はこれで終わってしまう。

ちなみに達成価値を肯定する積極的理由はあまりにもナイーブで、真面目に書いているようには思えなかった。
そもそも芸術家の達成を評価するためには「芸術家が何を達成しようとしたか」という意図性が必要になるため、「作品から意図をどうやって汲み取るのか」という方法論が達成価値論の要になるはずなのだが、「手を挙げている学生がいれば質問をしたがっていることがわかるように日常的にも同族の意図を推察する行為は普通に行われている(というのに、何故芸術の場面となると意図を汲みたがらないのだ?)」という信じがたい説明でこれを済ませている。この著者は芸術家の意図性の話題となると何故か有り得ないくらい論理が貧弱になるので(人間主義者め!)、この点については別の本を参照した方がいい。

・解明・解釈の要諦/作品の未統一と分析の切断/「このキャラをよく表現しているので良かったと思います」論について

みたいな話題が次回以降に興味が持続していたら続くかもしれない(望み薄)