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18/1/25 マルキ・ド・サド「悪徳の栄え」の感想

マルキ・ド・サド悪徳の栄え」を読んだ。
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期待を超える面白さだった。
女性主人公と悪意のどちらの観点からも優れている、というのはもちろん18世紀の時代背景を踏まえた古典読解的な読みではなく、現代オタク事情に照らした極めてアナクロな読みにおいてであるが、俺は文学研究者ではないので開き直っていこう。そもそも読んだ文章を脳内でキャラクターの図像に変換するような読み方は、キャラクター小説が発見されている文化圏特有のものなので一般性を欠き良くないということを誰かが言っていたが、俺はむしろそれを実践する。
主人公のジュリエットは自分の快楽のためだけに殺人と変態セックスを繰り返す悪党で、男を一瞬で篭絡する絶世の美少女というエロゲーじみた設定を持つ。徹底的に利己的で非情な快楽主義者だが、立ち回りが非常に貴族的で泥臭くなく、特に日本語訳では「~ですわ」口調なあたり萌え要素が過剰すぎる。個人的な趣味としてはわかりやすい悪人面をしていてほしくなく、イラストリアスみたいな見た目をしているのが一番しっくり来る(今のタイトル画面のイラストリアス、かなりジュリエットのイメージに近い)。
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美少女と悪意の結合という話題は俺の執着が深いもので、今までにも何度か触れている。単に好きなもの二つが結合するとすごく好きというカレーうどん理論もあるが、他の見地からも実は悪意と美少女は親和性が高いみたいな話を最終的にはしたい。
まとめて扱うには荷が重いので、とりあえず悪意についての話から入る。


悪徳の栄えでは大小様々の悪人が登場し、彼らが悪徳の限りを尽くす理由についてそれぞれの見解を述べる。しかし、そのキャラクター数と演説に割かれるページ数の割には、主張のバリエーションはそれほどない。
細部こそキャラクターによって異なるが、「悪徳は自然の意向であり、それを行使することはむしろ道徳的行為だ」という前向きな悪意観が通底している。ノアルスイユに言わせれば、人間には生まれた時点で個体による力の差が存在していること自体が力の行使を自然が肯定している証明であり(本当に暴力を排除したいと思っているのであれば平等な力を与えるはずなので)、強者は自然の意思に従い力による快楽を享受するよう努力すべきだという具合になる。
また、それと対照して社会的な価値観の脆弱さが定期的に語られる。社会規範は便宜的に発生した地理依存性の高いものであるから自然の意向とは縁遠く、それによって禁止されている殺人や淫行を躊躇する必要は全くないということだ。

別に要約をしたいわけではないので社会規範の話を接点としてオタクの話に戻りたい。
オタクが大なり小なり社会規範から外れた存在だからといって、オタク向けのアニメが社会的な価値観をそれほど逸脱しているわけでもない。というか、数と規模でいえば、むしろ既成価値観をなぞっているコンテンツの方が圧倒的に多い。例えば最近の京アニが作る繊細路線のアニメ、ユーフォニアムエヴァーガーデンが社会組織的規範への適合を是とする前提に立っていることは疑う余地がない。

好きな人には本当に申し訳ないが、感性が終わっている俺はエヴァーガーデンの一話を見てやや不愉快な気分になった。
アニメで顔を持つ人型のキャラを出しておきながら「心を失った人間」を気取るのは無理だろう。どう考えても精神障害者でしかない。キャラクターの図像にはそれ単体で何らかの内面を想像させる効果があり、その能力は現実における肉体が持つそれよりも遥かに強い。現実でペッパー君が(知性ではなく感傷的な意味で)心を持つのではないかと考える勢力は今のところ出てきていないが、逆にアニメでドラえもんが心を持つことを疑う人はいない。
よって、アニメ作中でやっているような、エヴァーガーデンちゃんが心を持つか持たざるかという筋書きは鑑賞する我々にとっては無効である。心を再発見する話というファンタジー的ジャンルを気取りながらも、実際には反社寄りの精神障害者が完治する話として咀嚼されるであろうという、虚構をエクスキューズにして社会適合を描こうとしている節を俺は察知した俺には、ジワジワとしたスリップダメージが入った。

しかしまあ、実際のところそういう作品は無数に存在して評価されていて、その中には俺が気に入っているものもある。たまたまエヴァーガーデンを見た俺が暗澹たる気持ちになったのは、タイミングとか細かい舞台設定とか(認めたくはないがマーケティングとか世間の反応とか)他のもっと些細な要因の組み合わせによるというのが真相に近いような気もする。
よって、「オタクなら逸脱せよ」とか、ましてや逸脱しないものを糾弾しようという気持ちもない。追従でも逸脱でもないのであれば終着点はどこにあるのかということは俺にもわからないのだが、エヴァーガーデン一話によって傷付いた俺のハートを回復するため、社会制度から最も縁遠きコンテンツを摂取しなければならないという緊急の需要が発生したことが、図書館で悪徳の栄えを借りる行動に繋がったのは事実である。

少し脱線した。
何か別の目的のために便宜的に悪にならねばならなかったというパターンは論外としても、ヘルシングの少佐のように好き嫌いのレベルで悪や破壊を好むキャラクターは一定数存在する。快楽自体に悪徳を肯定する論理を見出すジュリエットはもう少し高級な立ち位置にはいるが、規範に反逆するという意味では同種として括れる。

ちなみに、ファニーゲームの青年二人に関してはもっと別の枠に除外しなければならないと俺は考えている。
ファニーゲームが優れていたのは(これ言うの何回目?)悪意の人格ではなく悪意の事態をキャラクター化していたこと、悪役二人が悪意を行使する人間ではなくて、悪意そのものに手足が生えて歩き出した徘徊する災害だったことにある。大抵の性格がそうであるように、人格と事態は別物だ。優しいキャラが登場しなくても、偶然の連鎖で事態がやたらと良い方向に進んだだけで優しい世界は生まれる。同様に「悪意に満ちた人格」と「悪意に満ちた事態」も別物であり、大抵の悪人キャラは前者に分類されるしかない一方(ジュリエットも例外ではない)、ファニーゲームは後者を擬人化して生まれた悪意的事態の寓意人格であるという点で特異である。

また脱線した。
さっき触れたように「悪人キャラ」は漫画アニメにもたくさんいるが、彼らは時には正義側のキャラよりも人気を得る。詳しい理由の検討はしないが、その人気は規範の破壊によって発生したものではなく、むしろそれを都合よく歪めた結果によると感じることが多い(反社会性が肯定されているように見えて、ただ単に反社会的な行為の裏に別の社会的に比較的正当な規範が発見されているだけ)。
別に何でもいいのだが、一番フィクション的な悪の美学とは遠い事例として、例の女子高生コンクリート詰め殺人事件を想像しよう。遊ぶ半分で何の罪もない人間を苦しめて死に至らしめたこの事件の犯人は魅力的か?と聞かれてイエスと答える人間は恐らく多くない(俺もそうは思わない)。美学が伴っていないからだとか、そこはやはり現実とフィクションの違いなのだとか、視覚的に魅力的なイラストはキャラクターには不可欠なのだという理由付けは可能だが、それらしい根拠を示せる気もしないので、とりあえずは以下の二つの結論を得たことにして強引に次に進みたい。すなわち、真に悪意しかないネウロのシックスのようなキャラは大して人気が出ないこと、このタイプの悪であろうと美少女は魅力のうちに吸収すること。前者は言いたかっただけなのでもう忘れていいが、後者によってようやく美少女の話に移れる。

ジュリエットのようなコンクリート詰め殺人が如き悪行を行う美少女クラスであるところの悪意美少女は、一見すると清廉潔白な美少女的な要件からは最も遠いものの、他のある意味では却って美少女であることに忠実であると感じる節もある。というのは、単独で決定的な行動をする能力と、それを実行する精神性を兼ね揃えていること。つまり、よく戦闘美少女を経由して発見される、主体型美少女としての完成度においてである。
この意味において、ヒロイン的な「客体型美少女」と対比して、女性主人公的な「主体型美少女」のバリエーションとして戦闘美少女や悪意美少女が同じ枠に入ってくるような気がする。俺が執着しているのは主体型美少女なので、悪意美少女にもこの執着センサーが反応したところがある。

悪意美少女についてもう少し掘り下げるため、まずは処女性について触れようと思ったのだが(ジュリエットは性的に奔放だったが、一般論として悪意美少女に処女性は必要か?)、参考資料にしようと思ったネパールの処女信仰についての本が図書館で予約待ちになっているのでここで終わる。