LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

18/1/27 「物語は終わった」論

・「物語は終わった」論

最近,「もはや漫画アニメゲームにストーリーは求められていない」という趣旨の「物語は終わった論」を見る機会が多くなった.
自称シナリオライターによる匿名はてなダイアリー(→)がバズったことが記憶に新しくはあるが,「終わった論」自体は微妙にバージョンを変えながらいつの時代にも生息している.古くは手塚治虫が死んだあたりから,最新版は異世界ものの流行を嘆く声まで,オタクの「終わった論」は枚挙に暇がない.オタクの嘆きたがりといえばそれまでだが,俺もその例外ではなく,何かにつけて「終わった感」を感じる機会は多い.
d49616f6[1]
例えば,俺は今期はラーメン大好き小泉さんを毎週楽しみにしているが,女の子が毎週ラーメンを食って美味しいだけのアニメに物語があるかといえば,ほとんどない.ゆるキャン△はもう少しだけ人間関係が豊富だが,キャンプをして楽しくて良かったねというだけの話と言ってしまえば,小泉さんとそう変わるものでもない.
一方,メルヘン・メドヘンには小泉さんと違って1話あたりの起承転結がある.1クール単位でのストーリーも設定されている.しかし,これはこれで取ってつけたような話ばかりというか,次回予告とタイトルと冒頭5分を見れば今週のストーリーはだいたいわかってしまうところがある.「なんかよくありそうな話」をなぞっているだけのアニメを見るのは,もはや文明が終わったあとの遺跡を歩くが如くで,まあ確かに物語の生命は終わったのかもしれないとも思う.

これら全てを単線的に「物語は終わった」と表現することも可能だが,しかしラーメンを啜るだけの話と,一応色々努力して魔法を使う話を同じようにダストシュートに叩き込むのはどうだろうという気もする.どちらが上という話ではなく,そもそも物語という語は多義的であり,切り分けて考えた方がいいのではないか.更に言えば,それら複数の意味での物語が独立に終わったり終わらなかったりしていることが「終わった論」をややこしくしているのではないか.
具体的には,

1.バックグラウンドとしての物語
2.ジャンルとしての物語
3.プロットとしての物語

の3つを切り分けて,それぞれの終焉の形を別個に語らなければならない.

1.バックグラウンドとしての物語

作品の背景にあり,作品を担保する物語.戦記ものを思い浮かべてもらうとわかりやすい.例えば放送はされないけど数百年前からこの地では戦争が続いていて,その原因は○○で,こういう勢力争いがあって現在はこうなっていますよ,というようなことを示す年表的なもの.
それは設定であって物語ではないのでは,と思うかもしれないが,これも物語と呼んで差し支えない.現実で同じものを指すときの用法を思い起こしてもらった方がよいと思うが(現実はどんな虚構よりも遥かに多くの過去設定を持っている),我々の現在に至るまでの長い歴史の中で連綿と続いてきた人々の物語,という言い方はなんら違和感のないものだ.フィクションにおいては,虚構的に存在する大きな物語の一部として個々の物語が紡がれるのだという感覚.何か確かな世界の歴史がバックグラウンドに存在することを求めるという意味で,「世界志向性」とでも言い換えられるかもしれない.
80e266f0-s[1]
この意味での物語の終焉は,単にバックグラウンドが志向されなくなることだ.
一般的には,ガンダムからエヴァンゲリオンへという流れの中で「終わった」と言われることが多い.膨大な歴史年表を持つガンダムと対比してよく言及されるのは,エヴァンゲリオン最終話の学園コメディパートである.キャラクターだけを使い回してパラレルワールドに行くことに問題が無いという感覚が成立してしまえば,作品はもはや世界への固着を求めないのだから,バックグラウンドとしての物語は終わる.「本編エヴァ」と「学園エヴァ」を繋ぐ歴史年表は存在しない.

とはいえ,少なくとも現代から見てエヴァはそれなりに多くの背景物語を持つ作品だろう.アダムの話とかセカンドインパクトの話とか.製作側の深くは突き詰めない態度(一生懸命考察したところで「そこまで考えてないですよw」と言われそうな感じ)を指してそう言っているのだろうが,いずれにせよ,バックグラウンドの物語を完全に持たない作品などというものは現代にも存在しないのであって,最近ではけものフレンズで過去のフレンズの歴史を考察する人が発生するあたり,これを志向する意欲もまだまだ根強いものもある.

しかしまあ,背景物語の無駄な緻密さは熱心なファンが無駄と知りつつ考察・発表して面白がる程度のもので,少なくともコンテンツの魅力の核心とはあまり関係なくなったと言ってしまってよいのではとも思う.積み重なる歴史ではなく,今まさに見えている時間だけを即物的に消費できれば別にそれでいいよ,という態度への嘆きは「終わった論」でも見るものだ.

2.ジャンルとしての物語

初めに例を挙げると,ありがちな話をなぞるだけのストーリーを見て,「ああ,こんなありきたりなストーリーしか見られないなんて,物語は終わった」と呟くときの終わった感がここに該当する.正確に言えば志向されているのはノージャンルな物語なので,項目としては否定形になるべきだが,まあいいか.

「ああ,あれ系の話のアニメか」というときの「あれ系の話」がジャンルとしての物語であり,テンプレート的なものと根を同じくすると考えていい.よって,「ありがちなあらすじ」「ありがちな設定」全般も広義のジャンルの物語としてここに含めてしまおう.冒頭10分で魔法を使えなくて悩んでいる女の子が登場したら,残りの15分で何か事件を経て魔法が使えるようになって良かったねという話になるに決まっている.「魔法少女にはマスコットがいる」というような世界設定のお約束も同じ.

さっきも言った通り,この意味での物語の終焉は新しいジャンルのストーリーが現れなくなることだが,とはいえ「この物語は既存のジャンルとも違う全く新しいものだ」というアニメを,皆さんは人生で何回見ただろうか.少なくとも,「ジャンルの王道」だとか,「ジャンルへのアンチテーゼ」とかいう,ジャンルの存在を前提としたアニメを見た回数よりは遥かに少ないと思う.単純に,全く新しいものはそうポンポン生まれてこないので,時代が進むにつれて発見確率はどんどん下がっていく.漫画界などでは,1970年頃にはもう物語の類型は発掘され尽くしたという認識があったようだ.

しかし,俺はそういう原理的に避けられないジャンルの摩耗というよりは,ジャンルを認識する態度の一般化こそが,この手の終焉を招いている真の原因であるように感じる.ジャンルの存在を前提とすること,ジャンルに対してメタな立場を取ることが自明になりすぎたのだ.メルヘンメドヘンの二話で主人公が「これは魔法少女もの?バトルもの?」とか喋り始めるシーンがあるが,まさにそれがそうで,とりあえず発見され尽くしたジャンル図鑑のどこかに作品を当てはめて,その項目の説明と照らし合わせるようにして作品を消費する.
maxresdefault[1]
僕のヒーローアカデミアなどは特にわかりやすい.あれはどう見ても直球のヒーローものではなくて,ヒーローもののパロディだろう.「『ヒーローもの』もの」とでも言うべきメタジャンルであり,位相としては「アンチヒーローもの」がいる場所と大差がない.ジャンルが広がる平面の余白が無くなりすぎて,既存のジャンルの上にいわば縦軸としてメタ視点を導入するしか道が残されていないのかもしれない.この手のメタ認識の増長はインターネットの発展とも無関係ではないだろう.いまやネットサービスでどんな時代の作品でも見ようと思えばだいたい見られるし,瞬時に感想が行き来するためにそれが咀嚼されるスピードも速い.

いずれにせよ,この態度の害悪たる所以は,辛うじて新出らしきものを即座にジャンルに吸収し,カリカチュアやパロディを生産して陳腐化させてしまうことだ.要は,終焉に向かって爆走するのだ.
例えば,異世界転生ものはジャンルとしてのストーリーラインしかない(作品固有の物語を持っていない)から金太郎飴のようにいくらでも再生産が利くのだ,だから物語の終焉を象徴しているのだという攻撃をよく聞く.それは大部分正しいとは思うが,しかし,異世界転生ものに全ての責任を帰すべきではないとも思う.悪いのは一つ上のレベルの,金太郎飴工場が稼働するシステムの存在それ自体なのだ.時系列として,作品をただちにジャンル化して再生産可能なものにしてしまうという制度が働き始めた地点よりも,異世界転生ものというジャンルが発見された地点の方が後である.異世界転生ものが生まれた瞬間から陳腐化を大いに被ってしまっているのはそういう時間的な要因でしかない.異世界転生ものというジャンルが固有の問題を抱えているのではなく,本来は時流全体に横たわっている問題がたまたま噴出した地点が異世界転生ものの上だっただけではないのか.
何の捻りもないヒーローものを「王道」と持ち上げておきながら,何の捻りもない異世界転生ものを頭が空っぽでも作れるからとこき下ろすのは筋が通らない.まあ,異世界転生ものはつまらないから俺もほとんど見ないけど,それはただ単に「異世界転生ものというジャンルがつまらない」ことだけが問題なのであって,変に物語の終焉を持ち出して責任を押し付けるのはアンフェアだ……と,俺は思う.


3.プロットとしての物語

プロットとは登場人物が買い物に行ったとか縄跳びの練習をしたとか,「なんらかの話の動き全般」くらいに考えてもらえればよい.この物語が終わるとなると,話に運動がほとんどないということになる.まあ,流石にキャラクターが30分ボーっと何もせず立ちっぱなしのアニメなどは見たことがないが,ガールフレンド(仮)の一話あたりは割とこれに近い.主人公が登場キャラクターの挨拶回りをするだけでAパートが終わった.
a0c8ac86[1]
物語理論によれば,プロット一つ一つが持つ力学的エネルギーは,「それが行われなかった場合の将来的な影響」によって算出できるらしい.例えば,桃太郎の冒頭で「婆さんが川に洗濯に行く」というプロットは,物語全体にとってかなり重要でエネルギッシュと言えるだろう.婆さんが川に行かなかった場合,主人公である桃太郎が生まれないからだ.逆に,「爺さんが芝刈りに行った」プロットの方は大して重要ではない.爺さんが芝刈りに行こうが家で寝ていようがそれはそれとして桃太郎は生まれることができるわけで,話の大勢に影響はない.なるほど,感覚的にもわかりやすい理屈である.

この理論に従えば,エネルギーのないプロットは物語的でないとして「終わった論」の中に回収することができそうだ.ガールフレンド一話で「椎名心実が他のキャラたちに挨拶をする」プロットは,一応登場人物の動きとして成立はしているのだが,行われなかったとしてもほとんど何にも変化を生まないので,極めてエネルギーの低いプロットと言えよう.「影響力の無い,あってもなくてもよさそうな行動」ばかりが続くアニメを見て「物語に力学がない,物語は終わった」と呟くことがこの物語の終焉となる.

アニメに限らずもっと広い目線で見れば,ソシャゲの繁栄などはこの物語の終わりに対応してくる.もうこのブログで何度も触れたことだが,プロットを放棄するという終焉と同時に立ちあがってくるのがキャラクターの増長だからだ.キャラクターは特にプロットを持たずとも図像だけでコンテンツを構成することができる,キャッチーなステータス画面のイラストさえあれば特に何の行動もしなくても問題がなく,ストーリーは求められていないということになる.アズールレーンに入れ込んでいるプレイヤーのうち一体何人がストーリーの全てを説明できるだろうか.俺はできない.


ものすごく雑に総括すれば,時系列的にはだいたいこの順番で物語が終わり始めて全体としては終わりに向かって進んでいるのではないかという気がするが,逆に物語志向のイベントもいくらでも思いつくし,そうでもないのかもしれない.俺は別にストーリーテリングで金を稼いでいるわけではないから何でもいいけど,話が混線するから分けて喋った方がいいという話をした.