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20/11/26 Re:ゼロから始める異世界生活(第2期前半) 深化するループ者の倫理

Re:ゼロから始める異世界生活(第2期前半)

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一期に続いて非常に面白かった。
俺は普段あまり人に「これ見て」みたいなことを言わない方のオタクだが、『リゼロ』は例外的に勧めざるを得ない。『リゼロ』を見た人と見ていない人では参照可能なトピックのレパートリーが違いすぎて会話が成立しない恐れがあるからだ。『エヴァ』を見ていないヤバさを100とすれば『リゼロ』を見ていないのは50くらいヤバい。

saize-lw.hatenablog.com

一期については既存のループものから問題意識を前に進めた「ループ者の倫理」という主題を巧みに扱っていることを称賛する記事を書いたが、二期でもそれを受け継いで深化させている。論点は一期から一貫しているため、上の記事を読んだ前提で話を進める(読んでいない人は読んでおいてほしい)。

補足356:正直なところ、俺の称賛は作者の意図とは必ずしもリンクしない偶然的な解釈の産物で続編では梯子を外されることも多い(とはいえ、作者の意図に沿っていないことは解釈の価値を何ら減じないことは言うまでもない)。リゼロもその手の「解釈違い」だったら二期は見なかったことにしてシリーズごと記憶の奥底に埋葬しようと思っていたのだが杞憂で済んだ。リゼロ二期を経て長月達平に一目置くようになり、現在絶賛放送中の『戦翼のシグルドリーヴァ』も「彼が噛んでいるなら見届けておくか」という気持ちで見続けている。『シグルリ』でも「死者をどう弔うか」という観点が『リゼロ』と共通しており、その回答がどう提示されていくのか楽しみにしている。

ループへの適応と糾弾

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二期でまず起きる事態は、スバルの死に戻りへの適応だ。
一期では一貫して死に戻りを拒絶していたスバルだが、二期ではループを活かすというポジティブな利用可能性を見出し始める。それによって、スバルはベアトリスに助けられた際に怒ったり(ループが切れる危険があるから)、オットーやオズワルドに動揺が薄いことを指摘されたり(ループすれば元に戻るとわかっているから)、極めつけには彼自身が「試して持ち帰る」と発言したりするようになる。
もともと、スバルが死に戻りを嫌う理由は二つあったのだった。上の記事に書いたように、一つはスバル自身の死が肉体的苦痛を伴うこと、もう一つは(仮にリセットされるとしても)他人の死が精神的苦痛を伴うことだ。よって、スバルが死に戻りを厭わなくなることは、自身と他人の苦痛を共に軽視することを意味する。
また、ループに対する「スバルの慣れ」は「視聴者の慣れ」ともパラレルだ。『シュタゲ』や『AYNIK』では作品全体を通して一つの課題をループで解決しようとする一方で、『リゼロ』では課題がはっきり複数のセクションに分節されており、レムを助けたら次、エミリアを助けたら次というように、各目標をクリアするたびに次の目標が設定されていく。そして二期冒頭の聖域編ではこのゲームステージも6回目だかに突入し、それだけ繰り返せば見ている側も流石にもう慣れてきてしまう。そもそも『リゼロ』のプロットのパターンはそう豊富なものでもない。Bパートの終わり間際まで平和なムードだったらだいたい最後の引きで誰かが死ぬし、誰かが死ねば死に戻りするのは予想が付く。もはや衝撃の展開に既視感を持たない方が難しいだろう。
視聴者の飽きに呼応する形でスバルもまた自身の死に鈍感になり始めたという、二期にして三クール目というシリーズの長期化(小説としては長編化)を組み込んだ前提の更新が行われているわけだ。

しかし既に指摘したように、スバルがループを利用するループ者になるということは全く歓迎すべき事態ではなく、それどころか明確に反倫理的な行為だ。
少なくとも一期において、「スバルはループを上手く使えないし使わない」というところに、スバルがループ者として可能世界の全責任を背負っていることに対する倫理が現れていたのではなかったか。スバルがループを活用する岡部やキリヤのような存在になることは、スバルにとっては自らが果たすべき責任に対して鈍感になるという完全な退化に他ならない。
実際、中盤で頂点に達した「死に戻り利用路線」は第二の試練で最強の批難を受けることとなる。まさしくスバルが捨ててきた可能世界における顛末が提示され、スバルはそれらに対して責任を果たしていない=放棄した可能世界の全人類を殺害したことを激しく糾弾されるのだ。確かにスバルは多少死に戻りを活用しようとしてしまったとはいえ、第二の試練で回想されるような第一期の時点においては誰も死なないように血を吐きながら頑張っていたはずだ。にも関わらず、そうしたやむを得ない不履行までもがスバルに永遠に憑りついてくる、病的なまでの潔癖さが第二の試練からは垣間見える。

補足357:ちなみに中盤でベアトリスから提示される「ベティを一番にして」という要望もループ者一般に対する糾弾として読める。ループ者であるスバルは「皆が幸せになれる可能性」を探しがちだが、その対象の複数性はループ者が持つ並行世界の複数性とパラレルであることは言うまでもない。最初から誰か一人を選んで他の全てを切り捨てて彼女と心中できるのであれば、つまり、ただ一つの世界を選んでその世界と心中する覚悟が決められるのであれば、ループ者になどなる必要はないのだ。そして全く同じことを後半でロズワールも述べている。なお、ゼロ年代ギャルゲー批評(笑)の亡霊を呼び起こしてくるならば、もっとベタにルートシステムにおける複数ヒロイン攻略への批判として読んでもいい。

ループ者自身の幸福

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そして時系列的には逆になるが、この第二の試練を踏まえるならば、第一の試練で唐突に転生前のエピソードが挿入されたことの意義も明らかになってくる。
第一の試練で普通の過去回想が普通に始まって俺は本当にビックリしてしまった。あまりにも乱暴な概観ではあるが、異世界転生というジャンルには「現世での不憫な境遇に対する根本的ソリューション」という側面が間違いなくあるはずで、現世に残してきた問題に向き合ってしまったら、せっかく転生した意味がなくなってしまうではないか。実際、少なくとも他のファストフードのようにお気楽な異世界転生作品においては、現世を振り返ることはせいぜい教訓やモチベーションや知識のような都合の良い優越を得るための踏み台に過ぎず、『リゼロ』のように正面から真摯に反省することはまず有り得ないと言っていいだろう。
しかし、『リゼロ』では第二の試練で提示された「死に戻りで放棄した世界ですら見捨てない」という激烈な倫理を前提するのであれば、それはスバル自身の転生前の世界にも適用されて然るべきだ。異世界転生ものの第一話で行われる転移とは、都合の悪い世界から都合の良い世界への移動であり、元いた世界を全く省みずに放棄していく営みであるとすれば、これも「死に戻り」の変奏と見て何の問題があろうか。「並行世界の問題ですら捨てることを許さない」というループ者に要求される病的な倫理性は、ループジャンルに対するアンチテーゼであるだけではなく、異世界転生ジャンルにすらその鋭い切っ先を差し向ける。

更に言えば、この第一の試練において、「絶対に見捨てない」という倫理的考慮の対象がループの被害者たるレムやエミリアだけではなく、ループの加害者たるスバルにまで広がる可能性が示唆される。つまり、スバルが第一の試練において異世界転移を死に戻りの亜種と見做すことで、異世界転移において放棄された自らの過去と、死に戻りにおいて放棄された他者の可能性を同一視する契機が生まれている。ここから、スバル自身もまた死に戻りのたびに自らの生を放棄させられるループの被害者であるという観点まで跳躍するのは難しくない。

補足358:第一期時点や第二の試練でのポジションにおいては、スバルだけが世界を乗り越えられる超越者であり、その強大さにかけられた縛りが「死に戻りを口外できない」という「誓約」に象徴されていた。ところが、二期シリーズではエキドナ、フレデリカ、ベアトリス、ロズワールなどのように直接間接にスバルの死に戻りに気付き始める人物や、別経路での「誓約」を持つ人物が次々に登場し、スバルの絶対的なポジションも多少は相対化されてくる。スバルもまた自分自身のループで見捨てられる被害者で有り得るという視点は、こうしたポジションの軟化からも支持される。

そして最終的にはエキドナによる「死に戻り活用路線」の露悪的な再提案に対して、スバルは「自分自身を大切にしなければならないから」という理由で明確に拒絶する。これによって「実は死に戻りを利用してもよいのではないか?」という視聴者の飽きとパラレルに現れてきた疑問に対して改めてNOを突き付けると共に、「(ループ者以外の幸福だけではなく)ループ者自身の幸福も求める」という新しい視点が導入される。
なお、第一期時点ではループ者と被ループ者の絶望的な断絶が維持されていただけに、「スバル自身も幸福になってもよいし、なるべきだ」という幸福観の転回はスバルに対して甘くなっただけではないか、問題設定のちゃぶ台返しではないかという指摘も予想される。
しかし、その見方は誤っているとここではっきり述べておこう。何故なら、最大の主題であるループに関してはスバルの状態は決して好転していないからだ。依然として死に戻りに際しては肉体的・精神的な苦痛を味わい続けなければならないし、立て続けの試練と幸福を求める意志によってそれらの苦痛は弱まるどころかむしろ強化されている(強化された倫理は死に戻りの苦痛に対して鈍感であってはならないことを求めるのだから)。
むしろループそのものに対してはより苛烈な制約が課されてくる中で、それと併走する形で新たな幸福の形を模索するところに価値がある。主題と矛盾しないところでも過度に自罰的になる必要はない。倫理的な義務を遂行できる範囲で新たな価値観を打ち立てることは生産的な営みであろう。

ループに協力的なラスボス

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そして最後に立ち塞がるラスボスはロズワールだ。
一期のラスボスであったペテルギウスと同様、二期のラスボスになる(のだろう)ロズワールもまた、ループ者一般に関する論点を持つ敵である。上の記事で書いたように、ペテルギウスは憑依によって生をリセットできるという意味でローカルな死に戻りを持っていたのであった。ロズワールも(彼自身はループしないにも関わらず)一回性の生を捨てており自分を大切にしないという、ペテルギウスに似た価値観を持っている。

だが、ロズワールが提示する問題はペテルギウスよりもラジカルでロジカルだ。ペテルギウスがループ者自体を徹底した先の極限だとすれば、ロズワールはループ者への協力を徹底した極限にいる。
二期前半クールの終盤において、ロズワールはスバルが死に戻りせざるを得ない状況を用意していた黒幕であったことが明らかになる。「ループを強要する」、それがロズワールの本質である。ある意味、岡部やキリヤのようなループ者にとってはこれほど嬉しいこともないだろう。彼らにとってはループとはポジティブに活用できる強力な能力であり、それを活かせる舞台をロズワールはわざわざ提供してくれるのだから、本来であればロズワールはループ者との共犯者ですら有り得る。もっと言えば、「主人公にループでどんな困難をクリアさせようかしらん」などと考えているループものの「作者」こそがロズワールであり、彼は明確にループジャンルに対するメタキャラクターだ。
しかし、『リゼロ』においてスバルに課される倫理性は、ループ者でありながらループを行わないという矛盾を要求する。ループできてしまうからこそ、それをなるべく行わないのが最大の倫理なのだ。

補足359:だが、ある意味ではこの矛盾こそが倫理の本質である。喩えて言えば、生後間もない赤子にとっては「人を殺さない」という倫理が意味をなさないのと同じだ。赤子には人を殺しうる腕力も精神力も存在しないのだから、そんな規範を与えたところで最初から機能しない。成長の末に「その気になれば人を殺しうる能力」を手に入れたときにこそ、「人を殺さない」という倫理が初めて現実味を帯びてくるのである。この意味で、倫理という概念には常に遂行能力が含意されており、その根底には可能と不可能の相転移が渦巻いている。

親切にも舞台設定を整えてくれるロズワールに対し、スバルが取れる道は実質的には存在しない。ループを利用して勝ってしまっては彼の倫理が敗北し、ループを利用せずに負けてしまっては彼の人生が敗北するからだ。
この詰み状態をどう収拾するのか、第二期後半を本当に楽しみにしている。