LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

18/1/16 ムーミンはどこにいる?

メルヘンメドヘン

ce253b36[1]
今期女性主人公多杉内?
たしかSHIROBAKOの期も多かったけど、それを超えるレベルの特異点が来てる。メヘヘンは前に男性主人公の女性主人公への置換について話したのと同じ話で→、「異世界召喚ラノベ」の女性主人公バージョンとしてよくできている。たぶん最近流行りの完全な異世界転生ものではなくて、異世界と現世を行き来可能なオールドタイプの異世界ものだよね(知らんけど)。
可愛い女性主人公が事あるごとにテンプレートから再生産されていそうなラノベ主人公らしい挙動をしてくれるのが非常に良い。特に脳内でめちゃめちゃ気持ち悪いモノローグ(教室での友達がいない自分語り&裸になって逃げる直前の状況語り)を喋るのが素晴らしく、二話以降もノルマにしてほしい。男主人公だったらもう耐え切れないけど可愛い女の子だから今期最強アニメになってしまうし、やっぱり主人公は全部美少女で良くない?って俺は思うけど……皆はどう?
一応Bパートで主人公がヒロインらしい立ち回りをしたのはやや転倒が起きていると言えなくもないものの、別にそこまで徹底して主人公であることを求めているわけでもないので可愛くて良かったと思う(浅)。

女性主人公への置き換えといえば、立花館(漫画)のアニメ化が決まったらしくて楽しみにしている。
さっきのリンク先にも書いたけど、立花館はハーレムラブコメの男性主人公を女性主人公化した作品で、内容は全く面白くないが置き換えの試みを徹底しているところが類稀に優れている。
主人公は可愛い女の子なのにいわゆるラッキースケベイベントが頻発し、事故って裸のヒロインを押し倒したり風呂場に乱入したりする。そのたびに「バカーッ!」とはたかれる異常さ(同性に裸を見られることに何の問題が……?)に対して一切の説明をしない点が肝なのでアニメ版もそういう感じで頑張ってほしい。

刀使ノ巫女

6835e8df[1]
一話で主人公が何の説明もなく即決で反逆者(美少女)の味方をするのが「可愛い女の子は仲間!」っていう割り切りで良かったんだけど、二話の最後でそれらしい理由が提示されてしまったのは少し残念だった。俺は主人公の価値観が狂ってるって理由で十分納得できたけど……
女の子が可愛いから最後まで見ると思う(浅)。

・センタームーミン

9
センター試験で「ムーミン(アニメ)の舞台はどこか」と問う出題が話題になったが、今度は出題ミスではないかという疑惑が持ち上がっているらしい。うるさいアニメオタクが重箱の隅を突ついているのかと思いきや、阪大の研究室からも大学入試センターに説明を求める文書がネットで公開されている。

これは各自で読んでもらうとして、LW的には

1.「モデルであること」と「舞台であること」は同一視できるのか?
2.よしんばモデルと舞台を同一視できるとして、それはどのように検証できるのか?

という二点が気になるという話をする。

1.「モデルであること」と「舞台であること」は同一視できるのか?

まず大前提として、最大限に厳密な立場を取るのであれば、フィクションであるムーミンの舞台が現実のフィンランドであることはどうやっても有り得ない。
ただ単に、「我々のいるまさにこの世界」と「ムーミンのいる世界」は明確に別のものだからだ。仮にムーミンが間違いなく地球上のフィンランドにいるという確約が取れたとしても、それは「現実世界のフィンランドを模倣したムーミンワールドフィンランド」に過ぎない。つまり、「ムーミンフィンランドフィンランドがモデルであること」と「ムーミンフィンランドフィンランドが舞台であること」はそもそも別の事態であり、前者をエビデンスとして後者を導くことには世界間の飛躍が含まれている。

しかし、それを理由にしてただちに問題が不適切であると見なすのもナンセンスだ。
日常会話として「龍が如くシリーズは歌舞伎町が舞台だ」「けいおん劇場版はロンドンが舞台だ」というような発言は普通に解釈可能である。よって、今問題なのは、こういう虚構に関する言明(虚構言明と呼ぶことにする)は日常的にどのように解釈されているのか/解釈すればいいのかということだ。

まず最初に挙げた前提から推測されるのは、虚構言明は「一致の是非」ではなく「類似の程度」によって真偽が判定されるだろうということ。「龍が如く世界の歌舞伎町」と「現実の歌舞伎町」がどうやっても全く同一のものではない以上、類似度合いが何らかの条件を満たしたときに「龍が如くは歌舞伎町が舞台だ」という発言が真として解釈可能になると考えるのが妥当だろう。
この意味において、虚構言明は、現実で言葉と事物が完全に一致する言明(例えば「彼が飼っている犬は去年まで私が飼っていた犬と同じだ」)とは異なる方法によって真偽が判定されなければならないことがわかる。

補足108:時空間的な同一性すら仮定しない立場、つまり「今この瞬間のポチ」と「一秒前のポチ」でさえも別物であるとみなすような立場からすれば、(虚構言明に限らず)あらゆる事物への言及が一致の是非ではなく類似度の判定であるということになる。しかし今は常識的な日常会話としての解釈を探りたいので、そこまでは考えない。

2.よしんばモデルと舞台を同一視できるとして、それはどのように検証できるのか?

虚構を扱う前に、とりあえずは現実での真偽判定から始めよう。
例えば、我々は「ドナルドトランプは男性である」という文章を「真である」と判断できるわけだが、この真偽判定はどのように行われているのだろうか。最も単純でわかりやすい説明は、「対象に関する記述と比較して一致していれば真、不一致ならば偽」というものだ。
ドナルドトランプに関する記述というと、

・人間である
・男性である
・白髪である
・既婚である
・娘がいる
アメリカ大統領である
……

などなど、無数に考えられる。
今は「男性であるかどうか」が知りたいのだから、リストの中から「男性である」という情報を検索しよう。すると確かにヒットするので、「ドナルドトランプは男性である」は正しいことがわかる。逆に、「ドナルドトランプは女性である」については、「女性である」が見つからないので偽。なるほど、わかりやすい。

当たり前じゃないかと思うかもしれないが、名詞の性質を対象の記述によって確定できると考える立場(記述説と呼ぶ)は、虚構言明に対しては無力である。記述説は絶対的な指示対象、いわば「原器」が存在する事物にしか適用できないからだ。
例えば、「ユニコーンは一本角である」という虚構言明を考えれてみよう。ドナルドトランプのケースと同じようにユニコーンに関する記述を集めよう!と思いきや、ユニコーンは現実にいないのであらゆる記述が不可能である。記述が存在しない以上、「一本角である」を検索しても当然ヒットしない。よって、「ユニコーンは一本角である」は偽であり、それどころか「ユニコーンは」という主語を持った時点で全ての言明はただちに失敗して偽となる。

しかし、我々の常識的な感性において「ユニコーンは一本角である」は真だ。同じように偽とされた「ドナルドトランプは女性である」とは明らかに異なった言明である。後者を「現実における嘘」だとすれば前者は「虚構における真」であり、これら二つを見分けられないのが記述説の限界なのだ(「常識的な感性」の方を疑うのは賢くない)。
これを克服する新しいアイデアを探そうということになると、「記述によってしか情報を得られない」という発想を放棄するのが最も手っ取り早い。何しろ、我々はユニコーンが記述不可能であるにも関わらず

・馬に似てる
・一本角
処女厨
・足が速い
……

などの情報を持っているのだ。
これらの情報は原器の記述によっては作成されていないというだけで、何らかの手続きによって得ることはできる。そうした手続きの候補には「アンケートを取ったときの共通見解」「何らかの人物の主張」「何らかの作品内の描写」などが考えられるが、いずれにしても「虚構言明の真偽判定はいかにして可能になるのか」という当初の問題設定は、「情報リストを作成する手続きの信頼性評価」なる地点へと回収されてくることがわかるだろう。

これら手続きは一つには定まらず、よく見れば阪大の意見文にも様々な案が入り乱れている。

スウェーデン語研究室に属する教員が現時点で原作(ただし現時点では全9作すべてのスウェーデン語原典を確認できてはおりません)やトーベ・ヤーンソン関連の評論・資料などから確認できている限りで、「ムーミン谷」は架空の場所であり、フィンランドが舞台だと明示されておりません。

例えば、これは「原典における直接的な単語の記述」に虚構言明の真偽を判定する情報源を求めている。当然ながら「単語の記述」は文章媒体特有のものであるため、(問題中のムーミンがアニメーションであるにも関わらず)原作小説を探しているのだろう。なお、このアプローチは「原典」が存在しない虚構に対しては適用できない。例えば、先に挙げた「ユニコーン」についてはどの文書を検索すればよいのか定かではない。

補足109:このような「作品内の文章」という意味での「記述」は、ドナルドトランプの例のような「原器の観察結果」という意味での「記述」とはやや異なることに注意。作品を提示する文章は作品内部事象それ自体とはまた区別できる。

ムーミン谷は、ムーミントロールの冬眠の期間に数日間夜の闇に沈んでいるという設定があるので、これが「極夜」現象の起きる場所だろうということで北極圏のいずこかとは推測できます。

これは「作品内の描写」に情報源を求めている。ムーミン世界と現実世界は一致するという前提をクリアした上で、作中世界描写によってその場所を推測できるものと考えている。
この方向性は、作品内の全ての図像が製作者の手の内にあると思われるアニメであればそれなりの説得力を持てるが、全てのフレームを制御しきれない映画メディアなどでは怪しくなってくる。例えば、香港を舞台にした映画を予算の都合で高田馬場で撮影したとしよう。街中での激しいアクションシーンにおいて、うっかりミスでたまたま日本にしかない「晴れる屋」がフレームの端っこに映りこんでしまい、誰もそれを修正しないまま公開されたとする。このとき、それを理由にしてこの映画の舞台設定自体を日本だと主張することは明らかに妥当ではない。そこまで露骨なうっかりミスではなかったとしても、咲いている花の種類や地形を盾にして難癖を付けるのも同じ理屈で可能になってしまう。

他には「作者の主張」あたりも情報源として考えることはできるだろう(作者が特定できればの話だが)。トーベ・ヤンソンが生前に遺したインタビュー等を漁り、「ムーミンの舞台はフィンランドです」という発言が発見されれば、それを理由にして言明の真偽を決定するというアプローチを妥当なものと感じる人も多いはずだ。

別にどの方向性が正しいというわけでもない。
最初に言った通り、超厳密には偽であるという前提の下、日常的感性において真と言ってもよい妥協点はどこかという程度問題なのだ。本来は各自が適当に納得すればいいことなのだが、センター試験というオフィシャルな場でこの問題が発生してしまったことにより、どのようにして妥協点が見出されるのかは興味深いところがある(とはいえ、実際のところは教育的な観点から言い訳が出されることは目に見えているのだが……)。