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23/4/16 『ぼっち・ざ・ろっく』感想 何故ぼっちちゃんの髪はピンク色なのか?

お題箱より

551.ぼっちの髪色がピンクなの、キャラクター(メンバー)カラーの役割を、現実とフィクションのバランスを若干ミスってるSF味が勝ってしまって辛い。。。(あらさがしすな)

ちょうどいい機会なので、僕はぼっちちゃんのピンク髪が好きだし割と重要なファクターだと思っている話をします。

ぼっちちゃん不良説

二次創作レベルの話ではありますが、僕は「ぼっちちゃんがクラスメイトからは不良と思われている説(不良説)」がかなり好きです。

ぼっちちゃんを傍から見ると一人だけ制服着ないしギター担いでるし成績悪いしホームルームは寝てるし他校の先輩とツルんでるしライブハウスに入り浸ってるし定期的に暴れるヤバいやつです。不良というのはやや言い過ぎにせよ、容姿もスタイルもいい割に距離を置かれているのは「遠い世界の住人だから」、下に見られて避けられているのではなく逆に一目置かれているというのは有り得そうな気もします。

謎ピンクジャージ

不良説は作中ではその片鱗が全く見えないのでいわゆる「考察」チックでアクロバティックな解釈であるように感じるかもしれませんが、実は作中では描写されないこと自体に一定の合理性があります。

というのも、ぼっちちゃん本人は自分の問題点を「会話やテンションを他人に合わせられない(から陰キャである)」という深く内面的なものと考えているのですが、不良説によれば客観的な問題点は「振る舞いや服装が他人と合っていない(から不良である)」というもっと素朴で外面的なものです。よって「ぼっちちゃんの自己認識」と「客観的に見た本当のおかしさ」はそこそこ乖離しているのですが、アニメは主人公であるぼっちちゃんのモノローグをベースにして進行するため、実情を捉えていない誤った自己認識の方が強調されることになります。

実際のところ、ぼっちちゃんの苦悩が基本的に空回りであることや、実は周りの人間にはそんなに問題視されていないことは折に触れて描写されています。深く接している結束バンドや大人たちからぼっちちゃんへの好感度や評価は軒並み極めて高いですし、最大の仮想敵であるクラスメイトですらぼっちちゃんにいきなり話しかけられてもフランクに応じる用意があります。

後藤さん話しかけてくるなんて珍しい!

人の目を気にしろよ

よって別に誰も問題にしていないことに絶望して奇行に走るところまでがギャグのパターンになっているのですが、しかしここでよくよく考えてみると異様なのは、ぼっちちゃんは他人の目をめちゃめちゃ気にしている割には「奇行」を省みる発想がないことです。

ぼっちちゃんの奇行は実際かなり異常であり、駅前でプラカードを付けて土下座する、公園で倒れて痙攣する、いきなりゴミ箱に入り始めるなど枚挙に暇がありません。もちろんギャグ描写としての強調を差っ引いて見るべきであるにせよ、彼女のキャラクターを最も象徴するのがこの奇行であることは誰もが同意するでしょう。

人の目を気にしろ

本当に人の目を気にするのであればいきなり路上で叫んだり倒れたりするのをまずやめた方がいいと思うのですが、不思議なことにぼっちちゃんが奇行を省みることは基本的にありません。強いて言えば「中学時代に教室にデスメタルを流した」「変な格好で学校に来た」程度の割と些細な判断ミスを黒歴史扱いしているくらいで、よく見ると実は段ボールに入って演奏したことすらそれほど真剣には気にしていません(段ボール演奏を思い出しても「ぐわあああーっ!」とはなっていない)。そうやって大人数の前で奇行を働くことにも割と無頓着であるため、奇行を省みない理由が「他人は自分になど注目していないから」という卑下に由来しているとも考えにくく(明らかに注目されているので)、単に不可解な動作として何度でも奇行を繰り返すことになります。

この「内面的な洞察が深い割に、外面的な奇行には全く思い至らない」という妙な性質は冒頭に書いた不良説の裏付け描写とも一貫しています。ぼっちちゃんはクラスメイトとテンションを合わせられないことを気にしている癖に、ホームルームで平然と寝たり、涎を袖で拭ったり、そもそも周りと違って制服を着ずにジャージでいることに対して違和感を覚えることは一度もありません。

つまり本人の自己認識とは異なり、ぼっちちゃんが本当に終わっているのは内面的なマイナス思考というよりは、外面的な自己客観視能力が破綻していることです。「実際に自分の行動がどう見られているか」という行動水準での自己認識が機能しておらず、機能が停止していること自体にも気付いていません。自分が具体的にどう見られているかが全くわからないが故に、その反動で過剰でズレた抽象的な悩みを抱くのかもしれません。

スタンドプレーという奇行

そんな難儀なパーソナリティを持つぼっちちゃんですが、音楽パートではそれが天賦の才として発現していくことになります。

主なライブシーンは五話のオーディション、八話の台風ライブ、十二話の文化祭ライブの三つありますが、いずれにおいてもぼっちちゃんが横をぶっち切ったソロで独走して全体を牽引するという流れが執拗に描かれます。五話と八話では暴走気味のソロで悪い空気を飛ばし、十二話でのボトルネック奏法はソロパートでのスタンドプレーです。

口先では「結束バンドの皆と一緒に~」みたいなことを言ったり周囲と演奏を合わせる練習をしたりしている割に、最も肝心な見せ場では協働路線ははっきり後退し、本当の天分は「たった一人で全ての流れを変えられる能力」であることが繰り返し描写されます。

ひとりでよくね?

ライブシーンは明らかにぼっちちゃんとその他三人では格が違う前提で描かれており、他のメンバーはせいぜいぼっちちゃんのフォローや追従が限界です。明るい虹夏ちゃんにも陽キャの喜多ちゃんにもマイペースなリョウにも単騎で流れを作る能力はありません。ゲームチェンジャーになれるのは陰キャのぼっちちゃんだけです。四人バンドアニメの割にはギターだけがヒーロー、セッションではなくソロが最大の見せ場になるのがぼざろの異様さです。

そしてこの「音楽パートにおける独奏力」と「ギャグパートにおける奇行」は裏表の関係にあります。すなわち「自らの行動の異様さを自覚できない」という異常性は普段は「自分の行動がどう見られるかわからずに一人で奇行を繰り返す」という短所でしかない一方、音楽活動においては「場の空気に流されずやるべき演奏を一人で即決できる」という長所に反転します。

ロックが天職なんだろ?

だからぼざろの本質は「克服」ではなく「適合」です

このアニメは「異常なパーソナリティを克服し、クラスメイトやバンドメンバーに合わせられるように成長する話」では全くなく、むしろ逆で「異常なパーソナリティを温存したまま、それに適合した天職としてのロックの才能を開花させる話」です。

そもそも冷静に見るとぼっちちゃんのコミュ障は言うてそんなに改善していません。確かにバイトを始めたり人の目が見られるようになったりという小さな改善はあるのですが、ぼっちちゃん自身が「でもそれはバンドとしての成長ではない気がする」と謎にシビアな判定を下していたり、結局その喜びは更なる奇行で表現されて帳消しになったりします。最終話でもわざわざBパートでたっぷり時間を取って楽器屋での挙動不審ぶりが描かれます。

キョドり・ヘドバン

こうした奇行を省みない異常性は明らかにギターの才能と地続きのものです。「周りとの行動のズレへの無自覚さ」がライブにおいては「一人で判断してソロで走れる行動力」に転化することは既に書いた通りですが、そもそも何年間もたった一人で練習し続けていたこと、夏休み中に一人だけどこにも行かずに何日でも何時間でもギターを弾いていられること、そしてそれらを不自然だと自覚しないことまで含めて彼女の異常な強みです。ちなみにきくりを代表とした他の実力者たちも皆きちんとした大人ではなく高校中退やアル中の外れ者ばかりで、彼女たちが異常性が発現する場としてのロックの才能を認めるのはぼっちちゃんだけです。

文化祭ライブのクライマックスがステージダイブなのが本当に素晴らしく、ぼっちちゃんの天分が遂に奇行とロックの両面から合流した象徴的なシーンです。

天性のダイブ

月並みなコミュ障克服アニメなら「今日はすごく楽しくて~皆のおかげで~」とかなんか適当にスピーチして成長エピソードとして綺麗に終わっておけばいいものを、ぼっちちゃんはマイクを向けられた瞬間に超テンパった挙句に無言でステージからダイブする奇行に至ります。

しかしこのステージダイブこそがロッカーとしては最適解であり、本物のミュージシャンであるきくりは爆笑し、学校の人たちからも「ロックのやべーやつ」という最高の評価を得る結果で終わります(例によってぼっちちゃん自身は無自覚ですが)。ここまで演奏によってのみ示されてきたロック適性が初めて直接に奇行と融合したシーンであり、まさしく最終話にふさわしい幕引きでした。

陰キャならロックをやれ!

こうしたぼっちちゃんのキャラクター観は作品のキャッチフレーズである「陰キャならロックをやれ!」に集約されています。

このフレーズがたまに「陰キャでもロックで輝ける」という逆接のニュアンスで捉えられていることには最大の異議があって、僕は「陰キャだからロックが向いている」という順接を支持します。ぼっちちゃんの周囲に合わせられず奇行に走る陰キャとしての異常性が最も活きる天職がロックであって、学校や街中では異常な奇行がロックでは常に最適解として発現するということです。

ぼっちちゃんがロックに向いている理由が実はむしろ周囲とのズレに無自覚な陰キャの鈍感さにあるならば、どこにも絶対に馴染まない全身ピンクのビジュアルはそれだけでアンリアルな激浮き感によって異常性と天性の本質を体現する優れたデザインであると解釈できます。

クソ浮いてる全身ピンク人間

だから髪はピンクがいいんじゃね? という話でした。