LWのサイゼリヤ

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18/11/29 小児性愛・被虐趣味・同性愛アニメ

・うちのメイドがウザすぎる感想

5話までは適当にニコニコで流し見していたのだが、鵜飼みどりが登場してから俄然面白くなってきた。
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(鴨居つばめ28歳・ミーシャ8歳・鵜飼みどり33歳)

もともと鴨居のペドフィリア小児性愛は性欲を向けられるミーシャからの嫌悪感が一貫していることでそれなりにきちんと描写されていたのだが(最近はだいぶ怪しいが)、内容は違えど形式を共有する異常者としてマゾヒストの鵜飼みどりが現れたことで点が線に変わった。ヤン・シュヴァンクマイエルの『悦楽共犯者』と同種の異常者ものとして一定の完成度を得たと言ってよいと感じる。
鵜飼の投入による成果として、異常者が正常に動作しているシーンが描写できるようになったのも大きい。五話までは基本的に鴨居はミーシャとしか交流しないので常にペドフィルとしてしかカメラに映らなかったが、六話以降はミーシャ不在の環境で鴨居が鵜飼と会話するシーンが生まれ、性欲対象がいないシーンではまともに受け答えしている様子が描かれるようになった。相対的に異常性が際立つようになり、五話までは性癖としてのペドフィリアに照準が当たっていたのが、六話からようやく人間としてのペドフィルに当たるようになったと言える。

彼女らが異常者としてわりと優れているのは、いずれも本命の相手以外にも性癖を向けられるところにある。
鴨居は女児でさえあればミーシャ以外の小学生にも見境無くアプローチするし、鵜飼も鴨居が好きだと言う割にはミーシャに罵倒されることも好む。ペド・マゾに限って言えば基本的には性癖が性愛の対象よりも優位であり、(対象への執着を正当化するために性癖が追従するのではなく)性癖を具現化したサンプルとしての限りにおいて鴨居からミーシャ、鵜飼から鴨居への執着が現れてくる。その場限りの関係に解消されない自己完結した性癖と向き合っているものたちとして、彼女たちに異常者たる資格があるのはその故である。
わざわざこんなことを言うのは、大抵のアニメでは対象優位だからだ。百合描写などは特にそうで、「たまたま好きになった相手が同性だっただけで性癖として同性愛者なわけではない」という設定はむしろ標準といっていい。常識的に考えて同性を好きになることはただちに同性愛者の定義なのでは?と思うのだが、そもそも普遍的な性癖のレベルで関係を云々することに需要がないのだろうし、今は深入りしない(ある種の百合描写でディープな同性愛が忌避される理由については昔ちょっと書いた→)。

補足159:これからの文章にも深く関わってくるのだが、レズをペドやマゾと並置することが許されるのかどうかはわりと微妙な問題ではある(誰かの何らかの怒りを買うことが有り得ないとは言えない)。俺個人の感覚としては「倫理を抜きにした統計的事実として少数派の性癖」として括ってしまうことは比較的穏当な立場ではないかと思うのだが、このピックアップ自体が少数者を周縁に追いやりうることは認めざるを得ない。とはいえ、今回異常と言う場合は倫理的な異常という意味ではなく統計的な異常を指す。

さて、同性愛といえば、ウザメイドも描写される執着が女性から女性への矢印に限られているという意味で、ある種の同性愛に支配されている作品でもある。
このとき、鴨居のペドフィリア・鵜飼のマゾヒズムがいずれも自覚された上で自律駆動しているのに対して、彼女ら両方が持つ同性愛の起源は判然としない。まあ、身も蓋もないことを言えば、直接の原因は明らかに商業的な事情ではある。彼女ら(彼ら?)の異常性癖が異性に対して炸裂するのはあまりにも生々しくてとてもコメディとして成り立たないし、特に理由がなければ何もかも可愛い女性にしておくのが萌え的に安牌なのだ。

しかしそれ故に、結果として鴨居も鵜飼も様態の異なる二つの異常性癖を抱え込むことに注目したい。自覚されているペド(マゾ)と、自覚されざるレズである。さっき検討した通り、所持している性癖と性癖を向ける具体的な対象との優劣関係は

1.普遍的な性癖が優位であり、それを適用する一事例として対象が存在する
2.個別的な執着が優位であり、それを還元する一原因として性癖が存在する

の二つ考えられる。
鴨居のペド・鵜飼のマゾが1であることは述べた通りだが、双方のレズについては明確に自覚されている描写が存在しない以上、2とするのが妥当と考える。

この捻じれた二つの異常性によって、異常者の普遍性と人間的な個別性の両方を担保したキャラクターが立ち上がってくる。
マゾヒストである鵜飼から見て、具体的な執着の対象はサディストに限られるのだが、その中でもよりにもよって同性の鴨居に執着するという事態は、それが所与の性癖や(ポリコレ的にかなり微妙な表現だが)自然な本能に由来しない一度限りの愛を証明できるからだ。冒頭では「百合描写ってなぜか同性愛者であることを認めたがらないよね」というような話をしたが、今回に限って言えば、それは自己完結した異常性癖(ペド・マゾ)では説明できない領域の執着を意味できる。性癖優位な振る舞いをするキャラクターは具体例としての執着対象を求めて異なる対象に執着を乗り換えていく可能性が否定できないのだが、鵜飼は同性愛者である理由を持たないにも関わらずよりにもよって同性に執着したという強い限定を被っている故にその可能性は低いとできる。
すなわち、同性愛を一つの異質とみなすことによって、単に「性癖を具現化したサンプルの一つとして執着対象を見ている」という見解は撤回できる。確かに性癖を具現化したサンプルを求めてはいるが、それなりに選んではいるという二重の集合の限定が、因果関係の異なる二つの異常性癖を踏まえた正確な表現になるわけだ。

異常性癖の普遍志向に誠実でありながら、人間的な個別志向をも描写できるのは二つの性質の異なるマイノリティが共存しているからだ!

という結論でおわりです。