LWのサイゼリヤ

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19/2/26 よりもいのスカジャパ/わたてんのルッキズム

・よりもいのスカッとジャパン

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全話見たが、スカッとジャパン(スカジャパ)みたいな話でびっくりした。中卒が陸上部からテレビ電話される回が一番スカジャパしていて、この回が好きな人にはスカジャパの毎週録画を勧めたい。

補足172:スカッとジャパンとは?
身の回りにいる身勝手な人たちによって「ムカッとした」ことに対して、機転やアイディアによって「スカッとした」話を募集し、それらをショートドラマ化して紹介するバラエティ番組(wikipediaより→
。番組HP→

ネット上では嫌われているスカジャパだが、よりもいがスカジャパだったことには青春というテーマに照らして一貫性があるという話をする。
そもそもスカジャパがうすら寒い理由は「一人で盛り上がっている」ことに尽きる。悪を打倒する正義の鉄槌というストーリーを勝手に作り出し、周囲の人々をその参加者にしてしまう。藁人形論法のような演劇に巻き込まれる側は堪ったものではない(悪役のロールを割り当てられる人は特に深刻だ)。よりもいの中卒回ではシラセが「一生モヤモヤしていればいい」とか啖呵を切っていたのが一人で盛り上がっている様子だ。深い心の傷を抱えているのは中卒だけで、陰口を叩いた不特定多数は中卒に電話以上の興味は無い……という温度差を意図的に無視する構図がまさにスカジャパ的で、関わりの薄い他人を勝手に自分のストーリーの中で悪という重要人物に仕立て上げる仕組みが機能している。
また、そういう温度差は多分ある程度は意図的にやっていると思う。何故なら、本家スカジャパでは撃破されたクレーマーが悔しがったり改心したりするのだが、よりもいでは撃破された敵の様子が描写されないからだ。シラセが一方的に電話を切るので通話後の陸上部の様子はわからないし、他にも南極行きを決めたシラセが鼻息荒くドヤりまくるシーンは何度も挿入される一方で学校の人たちが地団駄を踏んで悔しがるシーンは存在しない。それを描いてしまうとあまりにも都合が良くて嘘くさく、本当にスカッとジャパンになってしまうことがわかっていたんだろう。

補足173:シラセの南極行き決まったときのバカにしてきた人たちのリアルな反応って「へぇ~よかったね~」くらいじゃない?いじめっ子を気にせずにいられないのはいじめられっ子だけで、いじめっ子の方はいじめられっ子にそんなに興味ないよ。

しかし、一人で盛り上がって他人を自分の痛快ストーリーに一方的に巻き込んでいくというスカジャパ的な想像力が、平坦な日常を劇的に物語化するフィクション志向に支えられていることは間違いない。その意味で、スカジャパのうすら寒さは一話で主人公が延々と主張していた青春の意欲に繋がってくる。平凡な毎日を遠出やサボりで何とか脚色していこうとする姿勢は、根底にある強制的な物語化という部分がスカジャパと一致する。
倫理観を捨てた、いかにもティーンエイジャーらしい青春への志向性がスカジャパ的な形態を取って噴出するという意味で、よりもいが(特定の話数どころではなく)全体を通してスカジャパだったことには一貫性がある。

・わたてんの外見至上主義

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わたてん、美少女動物園の割にはルッキズムが強い。
みゃー姉が容姿だけで花とその他大勢を区別するのがその筆頭ではあるが、ノアが自分の容姿についてデリケートな側面を持っていたり、花が容姿で優劣をつけることについて苦言を呈したりする。差別主義者のみゃー姉自身も自らの恵まれた容姿の恩恵にあずかっていることは多く、何度も容姿が優れることを言及されるほか、高校時代に単に友達がいないからぼっちで服を作っていたのを松本に良いように解釈されたり、こより襲来時も「すごい美人さん」なので土下座まで一言も喋らなくてもとりあえず幻想を壊さないで済んだりする(正確に言えば、ベースにあるルッキズム的な雰囲気が「特に意味もなく好意的に解釈されるシーン」をその産物として理解する土壌として機能している)。恐らく設定的には

みゃー姉=花>ノア=松本>その他大勢

くらいのカーストがあり、花だけがみゃー姉に懐かないのはランクが近いためにルッキズムのルール(外見が良いのは良いことだ)が効かないからだと言うことはできる。

事実上のわたてんの前身であるところのウザメイドでもルッキズムは強かった。ミーシャの容姿がとりわけ優れていることは明示されており、設定上のみならずキャラデザレベルでも容姿格差が描かれていたことは記憶に新しい。
二話か三話くらいでミーシャが容姿について悩む回が挿入されたが、大した回答は示されなかった。つばめが「容姿であれ何であれ特徴的な性質が注目を集めることは人間関係の取っ掛かりと考えるべきだ」というような教育的な見解を述べたが、それは「外見至上主義は必ずしも一般的ではない」という程度の主張に過ぎず、つばめ自身が容姿全振りの外見至上主義者その人であることへの正当化はされていない。

補足174:通常ならば問題を棚上げして道徳的に妥当な見解で煙に巻くのはかなり良くない脚本だが、ウザメイドに限っては逆に評価できる。つばめは実際にミーシャの教育者であると同時に、自分の性癖を棚上げして適当に話を誤魔化すモチベーションもあるからだ。

ここまで日常系におけるルッキズムという問題系にこだわるのにも理由がある。一般に日常系では、深層にある動的な物語が破棄されて、表層的で固定されたやり取りが取って代わるわけだが、外見の過剰な重視に由来する好意もその帰結として位置づけられるからだ。
物語を描かない日常系では、好意すらも表層的な設定として出会って5秒程度で固定されるべきもので、わざわざ好意を抱くまでのエピソードを描くべきではない。出会って5秒で惚れるという流れを正当化するためには容姿に理由を押し付けるのが最も手ごろで設定上のコストが安く済むので(萌えアニメのキャラは皆萌えキャラだから)、日常系では原理的にルッキズムが強くなる土壌が整っている。好意という視点から大雑把に見れば、物語的な作品での好意はエピソードに由来する一方で、非物語的な作品のそれは容姿に由来するとも言える。

そうした背景を踏まえたとき、明示的に容姿を扱う差別主義者が主人公のわたてんは引用価値が高いポジションにいる。これから問題系に対して何かしらの貢献をしてくれると嬉しいが、かといってそれをシリアスに押し出したところで面白い話になるともあまり思えないので、面白く見られる程度にスマートに裏テーマとして何かをやってくれるとありがたい。