LWのサイゼリヤ

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20/3/13 劇場版SHIROBAKOの感想 リアルとファンタジーの狭間で

・劇場版SHIROBAKOの感想

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まあ面白かった。
一番良かったのがクノギちゃんとエマちゃんがルームシェアしてるところで、ああいう低燃費なところがくっ付くとうまくいく。俺は女の子同士の同棲に詳しい。

相変わらず、最初から最後まで一秒も退屈しないのは本当に凄い。
アクションの無い会話中心のアニメなのに、純粋な会話だけで出来ているシーンは恐らく一つもない。喧嘩はゲーセンで格ゲーをしながら、脚本の議論はキャッチボールしながら、殴り込みは殺陣を演じながら、必ず同時進行で大袈裟なリアクションやイベントが展開するので画面の情報量が多く、見ていて飽きることがない。五年前にテレビ放送版を見て以来なので正直記憶に残っていないキャラも多かったが、誰だかよくわからない上に美少女ではないキャラクターの会話シーンですら面白く見られるのは凄いことだ。

このように、ファンタジックでいかにもアニメらしい描写によって本来は社会的でリアルなシーンを描くという手法が用いられているのは、何も表現レベルに限ったことではない。プロットもその影響を受け、リアルな問題をファンタジックな勢いで解決するというスタイルは放送版から通底している。
放送版において、それが最も印象的なのは第23話だ。無能な編集に痺れを切らした監督が原作者への直談判に向かう掟破りの交渉という社会的には限りなくシリアスなシーンを、ほとんどギャグに近いアクションシーンとして描いてみせた。更にはそこで第三飛行少女隊の新キャラクターが発生したことにより、ヅカちゃんが声優として振るわないというもう一つのシリアスな問題も雪崩れるように解決した。

すなわち、リアリスティックな土台の上にファンタジーを乗せるという手法は、表現レベルとプロットレベルのいずれでも働いている。それぞれ具体的に言えば、個々のシークエンスの内部ではリアルな会話内容をファンタジックな背景に包んで提供し、シークエンスの連続においてはリアルで社会的な問題をファンタジックな解決方法で氷解させるということだ。
これを悪く言えば「お仕事もの」として要求されるはずの世間の厳しさをファンタジー描写の「ご都合展開」で誤魔化していると言えばそれはそうなのだが、かといって「これはご都合展開だなあ」というみみっちい感想を持たせないところがSHIROBAKOの優れるところだ。むしろ良く言う方が妥当で、最低限のシリアスさは土台として描いておきながら、そのままやると陰鬱になりすぎる部分だけは適宜明るいファンタジーで吹き飛ばすという、リアルとファンタジーのバランス感覚が楽しいアニメだった。

ファンタジーサイドを最もよく象徴するのが宮森が使役(?)する二体のぬいぐるみで、劇場版も彼らが放送版の内容を復習するシーンから始まる。冒頭のシーンは一貫してSDキャラクターで構成されており、アニメ版をコメディとして明るく思い出すことを要請する。
しかしその直後には彼らは黙り込み、今度は意気消沈している宮森が画面に映る。そこからしばらくは暗い雰囲気が続き、武蔵野アニメーションは大失敗を経て力を失い、宮森も仲間たちも仕事に躓いている現状が描かれる。とはいえ、それはあまりにもわかりやすい「解決されるべき障害」であり、もはや希望への予兆と言ってもいいほどのマッチポンプの絶望ではあるのだが。

大方の予想通り、その後はどん底から下克上的に逆転していくストーリーが展開する。プロット上ではその転機になるのは宮森が元社長に会いに行ってカレーを食べるシーンだ。たしか「原動力を思い出せ」とかそんなような自己啓発的な励ましを経て宮森は奮起する。

しかしその取って付けたような再起はどうでもよく、重要なのはその直後だ。宮森が「アニメを作ろう」と連呼し続ける強迫観念に満ちた歌詞を歌いながら踊り狂うという狂気的なミュージカルがかなりの長尺で流れる。
このシーンで最も注目すべきは、宮森が(SHIROBAKO作中の)アニメキャラクターと共に歌ったり踊ったりすることだ。これによって、宮森は彼女が見たり作ったりしてきたキャラクターと同じレイヤーに置かれる。要するに宮森は「アニメのキャラクター」になるのだ。
このミュージカルによって宮森は視聴者から見てアニメのキャラクターであるという立ち位置を自覚的に引き受けることになる。つまりリアルな社会の担い手であることをやめ、「アニメ的」な振る舞いをするキャラクターに変貌する。開始早々、放送版にも見られたリアルからファンタジーへの越境があからさまに行われるわけだ。
主人公の宮森が「アニメキャラクター」になったことを受け、このシーンからストーリー全体が動き始める。陰鬱で・リアルな・社会が終わり、楽しい・ファンタジーの・夢の世界がスタートする。リアルとファンタジーのバランスという話題に照らせば、あのミュージカルシーンが全てのクライマックスであるわけだ。

放送版とは異なり、劇場版ではこのリアルからファンタジーへの切り替わりは一度発生すると戻ってくるタイミングがない。
というのは、放送版ではメディアの都合で24分を区切りとして視聴者の意識が毎週リセットされるため、概ねどの回も冒頭はリアルでシリアスなシーンから始まり、話が展開していくうちに解決を見るというパターンだった。一方で、劇場版では話数の切り替わりがないため、リセットがない。アニメ版で結果的に生じていた緩急は失われ、全体はミュージカルシーンを唯一の切り替わりとして前後に分けられることになる。

とはいえ、ただちに手の平を返すようであるが、決して劇場版の後半部が全てファンタジーの産物だったとは言わない。関係者各所に声をかけていく地味なシーンも多いし、少なくとも放送版第23話のようなギャグじみたアクションシーンだけで構成されていたとはとても言えない。
しかし、冒頭でも述べたように、SHIROBAKOでは退屈のないようにあらゆるシーンで何かしらのファンタジー描写が挿入されることも事実である。舞茸氏が疲労度合いに応じてボロボロになっていったり、ムサニの新人男が大袈裟な動作や言い回しをしたり、細かいところまで見れば挙げきれない。画面を退屈させないようにする努力も、それが現実的には有り得ないという意味ではファンタジーの一環でもある。
そうしたグレーゾーンのシーンをどう見るかという解釈の指針は、やはりあの衝撃的なミュージカルシーンによって与えられてしまう。ミュージカル以降は基本的にファンタジーの論理によって駆動し、御都合的に解決していくことに疑問のないモードとして視聴の意識が作り替えられていた。

正直なところ、今回の社会折衝的な側面でのクライマックスとして設定されている、宮森と仕事仲間の女性(?)が着物を着て敵陣に乗り込んでいくシーンは少し寒々しい気持ちで見ていた。
確かにアクションは素晴らしいし、俺も宮森のことは好きだから着物を着て華麗に戦っているシーンが見られて嬉しい気持ちはある。とはいえ、これはリアルな問題をファンタジックに解決するというSHIROBAKOの基本スタイルをあまりにも忠実に踏襲していて何の意外性もない。というか、完全に放送版第23話の焼き直しだ。クライマックスに全く同じシーンが来てしまうあたり、僅かに状況設定が変わっただけで全体のプロットは何も変わっていないことに少し落胆した。

また、更に言えば、冒頭で提起された宮森たち五人の閉塞感という大きな問題が「仕事が順調に進む」というだけで解決されてしまうことにも少し拍子抜けした。
例えば、冒頭でタイヤ女は部下(?)との間で意見の食い違いを抱えていることが描かれる。このシーンから読み取れる問題は以下の二つのいずれかだ。一つはただ単に「仕事が上手くいっていないと困る」という問題、もう一つは「仕事そのものが夢と相反する妥協を要する」という問題である。
SHIROBAKOは放送版から一貫して夢の成就というテーマを扱っていること、劇場版では五人共が既に短くない期間を社会人として過ごしていることから、全体のテーマもアップデートされていることが期待され、俺は今回は後者の問題について扱うことを予想していた。
しかし、それ以降のアニメ映画制作がトントン拍子で良かったねというストーリーを見る限り、面白い仕事があるかないか、仕事が順調かそうでないかという程度の問題しか読み取れない。テーマそのものは放送版から特に前進しておらず、それにがっかりしなかったと言えば嘘になる。一応、最後の方で作中アニメのラストシーンに不満を持った宮森が急遽そこだけ作り直すというそれらしいシーンは挿入されているものの、その工程は関係者全員の賛同する下で進行しており、冒頭に見られたようなコンフリクトは見いだせない。

全体として、アニメ版で確立した手法を劇場版らしく大きなスケールでなぞっており、アニメ放送版のファンが求めていたものを高い精度で提供し直した反面、テーマを含めて同じものをなぞっているという焼き直しの感は否めない。俺は宮森が好きだから以前と同じように動いてくれてもいいが、もしこれがキャラクターコンテンツじゃなかったらちょっと厳しかったかなというのが正直な感想だ。

逆に、そのキャラクターコンテンツとしての性格こそが放送版と同じ基本線を抜け出せない原因なのかもしれないとも思う。
今回見ていて地味にずーっと気になっていたのは、四年という短くない歳月が経過しているにも関わらず、キャラクターの外見が一切変わっていないことだ。もしかしたら設定資料レベルでは細部のデザインが変更されているのかもしれないが、少なくとも俺の目では四年前からの変化は一つも見つけられなかった。大人は子供に比べて変化が少ないとはいえ、二十代の女性がそれまでと全く異なる環境で四年も過ごせば容姿もそれなりに変わってくるのではないか。
現実的なことを言えば、SHIROBAKO美少女アニメとしては設定上キャラクターの年齢が高めかつ大人寄りのデザインであったために変更の余地がなかったのだろう(元が高校生であれば、適当に髪を伸ばすなり背を伸ばすなりが出来たかもしれない)。成人女性でありながら美少女として描かれているという微妙な立ち位置が、サザエさん時空でもないのに(むしろきちんと実時間が経過する誠実な時間経過なのに)、「歳を取らない」という異常事態を発生させる。別にそれが悪いと言っているわけではない。俺だって妙にきちんと年を重ねてスレた宮森は見たくないし、短大を出たままのビジュアルで構わない。
しかし、このキャラクターデザインの固定化は言うまでもなくファンタジックな領分に入る特徴である。つまり、ミュージカルシーンと同じく「宮森はアニメキャラクターである」という見方を補強するわけだ。キャラクターコンテンツとしての制約により容姿を変えないことを選択した時点で、放送版で木下監督が昇竜を打ったのと全く同じように、宮森が定規片手に戦うことは避けられなかったのかもしれない。
結局のところ、歳を取らない宮森は最初からアニメのキャラクターなのだから。