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21/1/24 2020秋アニメ感想まとめ

2020秋アニメ

2020秋はやたら見るアニメが多いシーズンだった。
俺は四半期の始まりには放映アニメのHPを一通り確認し、「女の子がまあまあ可愛いキャラデザで主人公が女の子のアニメ」を全て録画している。つまり、2020秋は女の子がまあまあ可愛いキャラデザで主人公が女の子のアニメがやたら多かった。

魔女の旅々

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面白かった。
こういう良い性格をしている主人公は普通に性癖でイレイナちゃんが今期最萌えヒロインだった。利己的なナルシストであることが、表面的なキャラクターだけではなく作品全体を通して貫徹されているのが良い。

補足370:一部でイレイナちゃんに付随している「わからせ」系のカルチャーはよくわからない。俺も虐待系の二次創作は結構好きだが、強者の鼻を折るタイプのものよりは弱者を更に虐げるタイプのものを好む(ゆ虐wikiにあるSSは昔全部読んだ)。

異世界転生でこそないものの主人公の魔法(=暴力)絡みのスペックは高めに設定されており、「私また何かやっちゃいました?」系のやつかと思いきや、意外にも強さは常識的な範囲に収まっている。魔女ではないチンピラやルーキーや一般兵士には圧勝するが、同様に熟達した魔女であるネームドキャラクター相手に勝るわけではない。むしろイレイナ自身のスペックがほどほどに収まっていることによって、彼女自身は遭遇する事件の解決に極めて消極的なスタンスを取ることが特徴的だ。
コメディで済む範疇であれば解決するに吝かではないが、自身がリスクを背負うようなシリアスな大事件となると途端に逃げの一手を決め込んでしまう(この態度はちょうど同期である『くまクマ熊ベアー』の主人公ユナが何でもかんでも解決してしまうことと好対照を成す)。三話や四話では街や国の崩壊を見届けておきながら特に誰も助けずにただただ立ち去ったほか、十一話では母親絡みの真相からあえて距離を取る態度を見せた。

特に圧巻だったのが最終話で、概ね最終話のためにあるアニメだったようにも思われる。
もともと、生まれついての悪のような幼女キャラクターがいきなり登場し、イレイナは力及ばず無力に打ちのめされるという前振りのようなシリアス話が展開したのが最終話少し前の九話だった。素朴に考えると最終話ではその事件を解決して綺麗に一件落着みたいな流れかと思いきや、実際の最終話ではイレイナの精神世界で自己分析を繰り広げるだけで30分を使い切ってしまった。
自分の性格には色々な側面があること、自分の行動にも様々な可能性があったこと、それらを直視することが自分の人生をより豊かにすること。全てのイベントを己に還元して自己愛を深め、自分と百合百合したことでイレイナの中では事件は解決してしまう。結果と過程が完全に逆転しており、「自分的には色々経験できて良かった」という結論を先に得たことで一件落着し、実際に起きている事件をどうにかするという過程は丸々放棄される。お前はテレビ版最終話のシンジくんか?

一話での「イレイナが旅に出る前の修行中に自分の弱さを知って号泣する」というオリジンエピソードが割と謎だと思っていたのだが、最終話まで見ると自分を認めて自分本位に物事を考えられるようになるという文脈だったのだろう。ナルシストの美少女主人公が持つ自己本位さが発生から発動まで貫徹しており、かつ、それが他人の利害には貢献しないことをはっきり描いていた点で好感度が高い。

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最終話で最後に出てきたこれから相棒になるらしい美少女もめちゃ可愛いので二期を楽しみにしている。いま最も二期が待ち望まれるアニメ。

 

くまクマ熊ベアー

f:id:saize_lw:20210117214230j:plain☝この左足壊死ニキコメがマジで天才

まあまあ面白かった。
異世界転生無双作品のあらすじを無限にインプットしたマシーンからテンプレート生成したようなアニメで、毎話藁人形みたいな薄っぺらい悪と幼稚園児向けみたいな問題を主人公の暴力性能によって一秒で解決していく。経済的な衝突も政治的な葛藤もなく、暴力に裏打ちされた適当なアイデアで何となく悪が淘汰されて身内がハッピーになっていく様子は缶詰生産工場のベルトコンベアを見ているようだった。男性主人公なら見ていられなかったが、女性主人公なら最終話まで見てしまうのでやはり無双するのは美少女の方がよい。

暴力だけで何となく全てを解決する主人公が唯一その範疇を超えた大義を口にしかけたのが第五話だ。浅い道徳によるウンチみたいな説教をしたあとにそれが割と勘違いだったことが発覚し、最終的に「私はもう少し大人だと思っていたんだけどね……」と猛烈に自省していたのはかなり良かった。
これを受けたのかどうかは知らないが、第十話あたりでは巨悪が暗躍する事件に対しても大義を振りかざすこともなくなり、完全な部外者として事情も良く知らないまま「私また何かやっちゃいました?」状態で何となく解決してしまうという成長が見られた。また、それと前後して「米が食いたい」とか「飯がうまい」とかカスみてえなモチベーションで力を使うことが増えていく。
自覚的な大義の行使ではなく無自覚な共生の成功として「私また何かやっちゃいました?」があるのであれば、それは一つの倫理的な態度であると言えなくもない。すごい力を持つ主人公が高貴な精神によって駆動するのではなく卑近な欲や身近な人のためだけに力を行使するという姿勢の優れること、裏を返せば暴力に裏打ちされた正義の幻想は剥き出しの暴力よりもタチが悪いということを『くまクマ熊ベアー』に教えてもらったような気がする。

ところで最後まで割と謎だったのが、このアニメは「ネトゲの世界を舞台にしている」という設定があったような気がすることだ。ユナはSAO式に仮想世界から出られなくなっているのか、それとも食事や排泄は描かれないだけで普通に適宜行っているのか、一話で適当に解説されてから二度と触れられないのでそれすらよくわからない。
同じように女性主人公がネトゲ世界で無双するアニメだった『防振り』では周囲がNPCではなく人間だったことに加えて、「運営に脅威として認識される」という形で明確に現実の水準でその異常性を披露される機会が与えられていた。ゲーム内で強いプレイヤーがゲーム内で強いのは当たり前なのだが、そこから現実に繋がる尾が運営や掲示板という接点を通じてリアルの美少女主人公であるメイプルにフィードバックされていたわけだ。
その一方で、『くまクマ』のユナはそういうフォローがない。つまりコンピュータプログラム相手に無双したり感謝されたり成長を語ったりするあまりにもヤバすぎる自慰行為を12週に渡り見ていたことになるが、それをやべえやつと思うのがもう時代遅れなのかもしれない。『ドラゴンクエスト ユアストーリー』が完全に内面化されてしまうとそれを云々言う必要すらなくなる。

ついでにどうでもいいことをもう一つ言えば、結局「熊」というモチーフは何だったのかもよくわからない。
「デザイン的な意匠として熊が用いられている」ということ以外に本当に全く何一つ熊要素がなく、何なら『しかシカ鹿ディア―』でも全く同じ話が成り立つだろう。オリジナルアニメならまだしも原作が文字媒体の小説でビジュアル要素だけの差別化点があったというのはよくわからないが、原作を読む気もしないのでわかる日も来ないだろう。

 

戦翼のシグルドリーヴァ

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まあまあ面白かった。
見るからに萌えアニメなキャラデザの割には萌えキャラに対する感性が若干古く、やたらビジュアルが強いアズズ以外はまあという感じ。園香が初期には腹黒キャラの片鱗を見せていたのだが、あまり回収されることもなく泣いているヒロイン枠に収まってしまったのは悲しい。

華々しく展開する戦争の裏で「死者をどう弔うか」というテーマが隠れて進行しているのはやはりリゼロの長月だなと思わざるをえない。戦争でキーになっているのは実は戦いそのものではなく戦死者なのだ。黒幕である神オーディンの目的はラグナロクに向けて戦死者の軍勢を完成させることだし、オーディンに対抗する人間陣営の中でも死にゆく兵士を救済し葬送する者としての主人公たち美少女の役割は何度も強調される。第三話の終盤で死にゆく男を救う宮古のポジションは少し前に流行った「看取らせ音声」そのものだ。人類の存亡を巡る生死という水準の戦いは物語が進むにつれて後退していき、オーディンが裏切ったあともなお人間たちに力を与えるあたりで完全に形骸化する。

つまるところ、死者の弔いを巡る神と美少女の闘争が『戦翼のシグルドリーヴァ』だったと言ってよい。表面的な「生存闘争」においては美少女を擁する人間陣営が神の率いる怪物に打ち勝つ裏で、裏面での戦死者を巡る「死亡闘争」においても最終的には美少女たちが神を打倒する。すなわち、ラグナロクという更なる戦いに向けて神オーディンが死体を引き取ることと、コミュニティの中で神格化された美少女が死体を看取ることのうちで、後者の方が勝利したというわけだ。

こうした救済を巡る神vs美少女という構図は、まさしくオタク文化の中で実存を巡る水準で美少女が神的なポジションを占めてきたことのカリカチュアとしてよく出来ている。実際、美少女が男どもに安らかな死を与える神の如き存在と化すことと相対的に、美少女を担ぎ上げる男性陣はほとんど脱人格化されたアイドルオタクのモブとして描かれる。
このアニメで登場する男たちは皆が筋肉質なマッチョ兵士であることを見て、ムキムキな兵士は貧弱なアイドルオタクとは対極の存在ではないかなどと早合点してはならない。マッチョが現実には怒張した男根の如き肉体によって性欲を喚起するのとは異なり、アニメではむしろ性欲を排除された男性としてのステレオタイプがある。過度なマッチョの戯画化された肉体は裸体を晒しても性的な文脈を構成しない男性としての需要がある(女子高生たちの前で平然と脱衣していた街雄さん、マチズモなきマッチョ!!)。よって、性欲のような俗世の文脈を廃して美少女を生死を司る神のポジションに祭り上げるモブ男性としてマッチョという類型はむしろよく合致する。
そんな数百人の男性たちが数人の美少女をアイドル視している様子はそれなりにグロテスクである。男性社会の中で数少ない女性を女性であるというだけでありがたがって褒めちぎる有様は限りなく昭和的というか、想像的な輪姦と言っても過言ではない。いまどきポリコレ的にかなり問題のある扱いであり、少なくともこんな職場が衆目に晒されればただちに炎上することだろう。とはいえ、オタク文化における美少女の神的ポジションを可能な限り誠実に描こうとすればこんな構図にならざるを得ないというのもまた事実だ。個人的には露悪的と言わざるを得ないこの構図が自覚的に選択されたのかそうでないのかは長月達平に聞いてみたいものだ。

補足371:「クラウディアたちを可愛い可愛いとまつり上げるのはコミュニティ的な事情であって、実際のところ別にクラウディアたちはそれほど可愛いわけでもない」ということを示唆していればかなり面白かっただろうが、俺が視聴をやめていた危険もある。

 

アサルトリリィ

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面白かった。神琳ちゃんが激萌えです。

「アサルトリリィ」とかいう内容物を愚直に記載したタイトルを最初に聞いたときは「ペヤング 酢コショウ味」みてえな名前だなと思ったが、実際に見れば確かにアサルトでリリィというのは有りそうでなかったような気もしてくる。
百合ヶ丘女学園という学校名、姉妹の契り、ワンピース風のモノクロ制服、上級生への「~~様」呼び等々、テンプレートな特徴を無数に備えた全寮制女学校という舞台は『マリみて』『ストパニ』のような古典的ジャンル類型の自覚的なパロディと言ってしまって良いだろう。今まではそこで感情の機微を無限に云々していたお嬢様たちが巨大な武装を振るってバチバチに戦えるという基本設定はかなり魅力的だ。単なるバトル百合はいまどきいくらでもあるが、『神無月の巫女』のように裏で展開するでもなく、お嬢様たちが表立って戦闘を行えるという造形の優位性が先立っている感じはドールプロジェクトからという出自の成果なのかもしれない。

補足372:メインキャラデザが八重樫南なあたり、学園×戦闘×百合というテーマが共通する閃乱カグラオルタナティブのような印象もある。『閃乱カグラ』は比較的下品寄りというか「うお~胸デカ!!」的なテンションだが、アサルトリリィは綺麗な方の閃乱カグラみたいな感触がある。

やたらキャラデザの優れた美少女が無限に出てきて、ほどほどなやり取りが無限に展開しつつ、うるさくない程度に戦闘も入ってきて戦闘美少女ものとしては大満足の内容だった。しかし後半で展開する事件に関しては何がしたかったのかよくわからない。
中盤でユリを巡って展開した「ヒトとは? ヒュージとは?」みたいな論点は結局大した結論の出ないうちにユリが特攻して爆発四散してしまうし、百合アニメだし素朴にルッキズムを肯定する水準で収拾されたのかしらんと思いきや、今度は故人のお姉さまが出てきてヒュージ寄りの思想を述べてカリスマが発動し、それもそれで全然発展せずに主人公が有耶無耶にして設定的にも心情的にもよくわからないまま終わってしまう。
そのあたりの話題の取っ散らかり方はメディアミックスの悪いところが出ているという感じがある。アニメ設定を超えた膨大な設定資料集が背景に控えていることは、明らかに完全把握を想定していない美少女の人数や、やたらSFっぽい設定を詰め込まれているヒュージからも伺える。設定に振り回されて収集が付かなくなっていたというのは恐らく的を外した評価で、アニメでの消化不良点は先日配信が開始されたゲームとかでいずれ補填されていくような気もするのだが、未だにインストールしていない俺がそれを目にすることがあるかどうかはまだわからない。

 

安達としまむら

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まあ面白かった。

俺にしては珍しいことに『安達としまむら』は一巻から買って追いかけているコンテンツであり、古参!!の目から見てもかなり忠実に映像化されている。序盤のクライマックスである安達クエスチョンが終わったあたりから延々と安達がウダウダする話が続いて中弛みするのも原作通りだ。

ただ、メディアが小説からアニメに変わって明らかに問題が生じているのは、「ヤシロや樽見が普通にめっちゃ可愛い」ということに尽きる。
安達としまむら』は(適当にベチャベチャの百合百合を描くタイプのやつではなく)割と正統な青春恋愛小説を志向しているので、安達の恋路ないし友愛を遮る明確な障害を設けた上でそれを乗り越えるような構造で話がドライブしている。障害というのは例えば、安達個人としてはしまむらとの距離を詰めるにあたって相手からのレスポンスを恐れる内的な抵抗だったり、しまむらとの仲を引き裂くべく現れる新キャラという外的な妨害だったりする。
特に後者の外的な妨害キャラとして配置されているのが初期のヤシロや中盤の樽見であり、小説では概ね語り手である安達の意向を露骨に折るような形で明らかに鬱陶しいオブジェクトとして現れる。だからニコニコではヤシロや樽見安達としまむらの間に割って入るたびに「ガッガイアッッ」みたいなコメがテンプレ化しているのは非常に正しく、彼女らはいわば敵として安達の恋物語ないし友情物語をドライブするのに重要な役割を果たしているわけだ。
ところが、アニメではヤシロも樽見もビジュアルが可愛いので画面に入ってきても全く邪魔にならないのだ。小説であったときの鬱陶しさ、本当に邪魔な感じというのがすっかり消えてしまって、アニメで見るとめっちゃ可愛いので「いや別によくない?」という寛容さが頭をもたげてくる。特にヤシロは小説で読んでいると基本的に話が通じないし何がしたいのかよくわからない意味不明キャラだったのだが、アニメだと美少女が二人いるところにヤシロが参加すると三人になって画面が華やいで嬉しいくらいの全く逆の感想になってしまう。

もっと言えば、安達がしまむらへ一歩踏み出していくという最大の主題もイマイチその脆さというか切迫している雰囲気が伝わらず(切迫している安達もそれはそれで可愛いため)、何となく予定調和じみている、ビジュアル的にはまあそうなるよねという安心感のあるものにも見える。
更に加えて、しまむらの超受け身体質も本来は(つまり小説では)かなり長短あるものだったはずだ。態度の曖昧さ故に誰からの好意も宙吊りにして放置してしまい、それが他人を傷付ける割にはそれにすら鈍感という邪悪さを持ち合わせているのがしまむらのパーソナリティだ。しかしアニメでは受け身体質によって引き寄せられる美少女がやはりビジュアル的に可愛いというただそれだけの理由によって、「しまむらのハーレム」という美少女動物園的な文脈が生成され、それはただちに「まあ別にいいんじゃない」という許容に至る。

結局のところ、「女の子が可愛いだけで価値がある」という本来であればアニメの強みである部分が、「鬱陶しくあるべき女の子がそう思えない」という反転した弱みとして出てしまっていたようにも思う。
正直なところ、個人的な好みで言えば青春恋愛小説よりも激浅百合萌えアニメを好む俺はアニメ版の方が面白かったと言わざるを得ないのだが、コンテンツとしての性質を異にしていたことは書き留めておきたい。

補足373:これはメディアによって異なる時間性と人称の問題でもある。小説は時間的な断片を切り出すよりも連続した流れを描くことに長けているので「邪魔をしてくる」という行為にフィーチャーしやすいのだが、萌えアニメでは一時停止して切り出した断片ですら「描かれている女の子の静止画が可愛い」という大きな価値を持ってしまう。また、小説は一人称とか三人称とか諸説ありつつも概ね語り手となるキャラクターは決まっており、安達からの見解や推測を混ぜ込んで書くことが容易い。一方、アニメでは視点を示すカメラはだいたいいつもキャラの外部に浮いており、誰かに同一化することはそう多くない。『安達としまむら』は比較的モノローグを多用するアニメではあったが、それでもアバンやED直前といった重要な勘所以外ではなかなか安達の内なる声は聞こえてこない。

 

おちこぼれフルーツタルト

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話とやり取りが絶望的に面白くなく、ガチで美少女のキャラクターと作画だけで保っていたという意味で正しく萌えアニメだった。
ギャグの作り方が基本的にキャラの属性弄りしかないため、毎話状況が変わる割にはずーっと同じやり取りをしている。更にそのやり取りをするために各人に話題を順繰りにパスして回していく大喜利方式がめちゃめちゃ原始的で、萌え4コマ黎明期のアニメを見ているようだった(『らきすた』とかこんな感じだった気がする)。明らかに設定と噛み合っていない友達いないネタをマジで適当に擦るのもやめろ。

とはいえ、俺は固定化された属性弄りの中でヘモの「浅いヤンレズキャラ」とイノ&ニナの「ロリコンキャラ」が割と好き、リリさんの「25歳コスプレイヤーキャラ」が最強に好きだったため、そのへんを消化するノルマが毎話数秒だけ出てきたときだけ大いに盛り上がって楽しんでいた。一秒も面白くない萌えアニメも珍しくない中で、毎回数秒だけ面白いところがあるのは明確な強みだという説もある。

 

ご注文はうさぎですか?三期

f:id:saize_lw:20210124160047j:plainごちうさ、二期までは結構好きだったような記憶があるのだが、こんなに面白くなかっただろうか?
三期では「将来」というテーマが明確に前景化してキャラクターたちが折に触れて自身やコミュニティの行く末を考えるようになり、その副産物として職場や関係をシャッフルするような試みが随所に見られた。とはいえその過程も結論もギャグドリブンではなく成長ドリブンで営まれる女児アニメ的なものに過ぎないためあまりにも収まりが良く、予定調和のやり取りには全く思うところがなかった。
ただ、属性・コンプレックス弄りを一生擦り続けていた『おちフル』の惨状を見て思うことには、ごちうさがシャロの貧乏ネタとかリゼの拳銃ネタをそこまで活用せずに話を回そうという気概には(既にキャラクターが完成していることを前提とした強者の振る舞いであるにせよ)優れた姿勢を感じないこともない。