LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

19/2/22 メガミラクルフォースをやれ

・お題箱46

76.メガミラクルフォースやってないんですか?

インストールしましたが、チュートリアル以降触ってないです。
でもこのゲームかなり熱いんでやった方がいいですよ。俺はやらないけど、やった方がいいと思います。

そもそもメガミラクルフォースって「メガミ」+「フォース」で、「メガミ」はネプテューヌの「守護女神」・「フォース」は「スペクトラルフォース」から来ています。
いまや浅めの萌えゲーサードになったアイディアファクトリー&コンパイルハートですが、2010年のネプテューヌで萌え路線に舵を切る以前はハードファンタジーであるスペクトラルフォースシリーズを作っていました。それら2つをタイトルに持つメガミラクルフォースは、2010年を境として分かれる前期アイディアファクトリーと後期コンパイルハートを統合する立ち位置にいると言えます。一見すると近年の華やかなタイトルを押し出したお祭りゲームですが、見る人が見れば「歴史の総決算きたな」とわかるようになっているんですね。

まあ、スペクトラルフォース自体は評価に値するゲームではないです。が、設定だけは無駄に丁寧に練り込んだクソゲーなので、IPとしてのポテンシャルが非常に高いです。
実際、ネバーランド(スペクトラルフォースの舞台)由来の意匠って今でもよく使われていて、ちょっとしたアイテムとか技名にもその残滓が残っています。ひよこ虫なんか昔はマジでヤバくて地平線を埋め尽くして人間を食うBETAみたいな存在だったんですが、最近ではすっかり毒を抜かれてマスコットキャラクターポジションを確立しています。
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(↑昔のひよこ虫)
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(↑最近のひよこ虫)

女性主人公推しもスペクトラルフォース時代から概ね一貫しているコンセプトです。
スペクトラルフォースの主人公がヒロという女の子で、萌えゲー路線ではなかった当時から戦闘能力の高いティーンエイジャーというキャラクターが確立されていました。砂のエンブレイスのように乙女ゲーム路線とも融合しながら割りとコンスタントに女性主人公を出し続けていたのが現在まで続いています(でもフェアリーフェンサーとかデスリクは男性主人公だし最近ちょっと怪しいです)。
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ヒロテューヌとかいう意味不明のキャラが登場したのもそういう流れを汲んだもので、旧看板娘と新看板娘が融合したキャラクターが出てくるっていうのは本当に熱いです。
まあ、やらないんですけど。

77.電子ゲームでも、偶然性はシミュレーションに限らず多くのジャンルが備えている気がします。エンディングは必然ですがその過程でどんなプレイをするか、どういう行動選択をしてどういう乱数を引くか、というのは、ある程度開発者の意図が介在するとはいえ十分偶然的であるように思えるのですが。実質的にアドベンチャーと化しているようなアクションやRPGだとかはジャンルというより個々のケースの問題でしょうし。

意見ありがとうございます。
確かに、偶然性自体は多くのジャンルが備えています。シューティング要素があれば適当に打った弾が当たるかどうかは偶然的ですし(100%腕前に帰着するのは現実的ではありません)、もっと直接に乱数を用いることもできます。その場合、「あるルートに入るという事態は偶然的だ」という表現は可能です。

しかし、その場合でも「あるルートが存在していること」は偶然的ではありません。「進行の偶然性」と「存在の偶然性」を分けて考える必要があります。
ドライブの比喩で言えば、前者が走る道の偶然性、後者が目的地の偶然性ということになるでしょうか。僕が指摘しているのは、現実世界では目的地が無数にある上にどこに向かっているのかわからない一方で、アドベンチャーゲームではそもそも目的地が数個の建物しかないのが限界ということです。実際にどの道を通るかは現実世界でもアドベンチャーゲームでも偶然に決まりうるのですが、目的地の存在の仕方が異なっています。

元の記事を書いたときはこの辺はあまり意識していなかったのですが、質問を受け取って初めて認識しました。
これで回答になっているでしょうか。

78.ウテナとの関係のところ、おもしろかったです
当たり前ですが作品の時代背景も意識しないといけないですね
ところで作品と作者は切り離せても、年代と切り離された作品ってありえるでしょうか?

ありがとうございます。
それに関する僕の回答はYESでもありNOでもある(人による)みたいな感じで、二点書きます。

一つには、アニメ鑑賞なんて所詮は趣味なので好きに見ればいいと思います。
ウテナもピンドラも時代を反映した作品として一般化するのであれば時代背景とは不可分ですが、そういう関心がないために一回性の物語として細かい部分をよくわからないまま楽しんでいる人も多いはずです(数で言えばそっちの方が多いです)。僕自身は前者なので前者の人と話した方が楽しいですが、所詮は趣味なので後者の人々を啓蒙するような立場ではありません。逆に思想的には何の語りがいも無い作品であっても、作画オタク的には作画監督のスタイルが変化する重大な年代的意味を持つ作品だったりもするかもしれません。

二つには、興味を特定の領域(例えば作品思想的な領域)に絞ったとしても、作品分析なんて割とどうとでも言えます。
例えばある時代にリアルで資本主義思想がめちゃめちゃ強かったとして、そのタイミングで資本主義を礼賛する作品が出れば「まさに時代を反映した作品」ということになりますが、かといって同じタイミングで社会主義を礼賛する作品が出てもそれはそれで「強まる資本主義的な風潮に疑問を投げかける作品」とか何とか言えてしまうわけじゃないですか。
これを「どんな作品でも同時代性からは逃れられない」と見るか「どんな作品でも同時代的な文脈にこじつけられる」と見るか(=同時代性は作品の本質か、それとも批評の本質か?)は人によって意見の分かれるところだと思いますが、いずれにしたって批評なんてこじつけ上等ですよ。何のテーマもなさそうな激浅日常系作品だって「エヴァンゲリオンで物語が破綻して以来のデータベースの産物なので物語を紡がない作品形態」とか適当に位置付けを与えることができてしまいますし、あの救いようがない内容のバーチャルさんを僕が芸術学的な観点から年代的にも重要な作品だと擁護してみせたように、大抵のものは言おうと思えばどうとでも言えます。

というわけで、総合して見る人(言う人)によると思います。

79.プロジェクトレベルの話を元記事に対して追加していますが、論旨との繋がりがわかりませんでした
(これによって結論がやや変わっていますが恣意的に感じる)
あえて追加した理由があれば教えて欲しいです

おお、なんか複数の記事に渡ってめっちゃちゃんと読んでる質問ありがとうございます。
プロジェクトレベルの話を追加したのと結論がやや変わったのと恣意的に感じるのはまさに仰る通りで、理由は三つあります。

一つには、「物語-表現-プロジェクト-コンセプト」という四段階評価モデルは、別に僕が考えたものではなく「エンドレスエイトの驚愕」で提唱されたものだからです。評価内容よりも評価基準の方が先にあったわけですね。
レポート作成の流れとしては、「1月上旬にバーチャルさんの感想を書く」→「1月中旬に評価モデルが使えることに気付く」→「1月下旬に評価モデルを用いたレポートを書く」という感じでした。既存の理論を使用する際の体裁の問題として、足りない部分にはとりあえず相当する内容を充填する必要がありました。

二つには、プロジェクトとしてのVtuberに言及したかったからです。
当初の段階ではVtuberの特徴って「物語からの独立性」「自己立案性」の二つしか挙げていなかったんですが、生配信とかSNSで得られる「リアルタイム性」もそれらと同じかそれ以上に重要な性質であることは明らかです。あまりうまくまとまらないとしても、とりあえず言及しておくことは有益だろうと思いました。

三つには、まあ妥当な評価だと思っているからです。
「論旨との繋がりがわからない」と言われてしまうのは、プロジェクトレベルでは「アニメではリアルタイム性を表現できないと確認したという意味でバーチャルさんは異議のある作品」とかいうふにゃふにゃした評価しかしていないからですよね。他の結論と比べて消極的すぎるしそれ別に評価できてないだろっていう。
とはいえ、失敗にも「本当は成功できたけど力不足で失敗したもの」と「そもそも成功する可能性がなくて失敗したもの」の二種類あって、一般に後者を指摘するのは普遍的な限界を提示できるため有益です。今回は「アニメは双方向通信できないし実際ダメだった」という話なので、メディアの限界としてはある程度一般的な話です。そういう意味で、(無理やり捻り出したのではなく)限界の指摘としてはまあ妥当な評価だと思ったので書きました。