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19/2/7 アドベンチャーゲームを周回するな

アドベンチャーゲームを周回するな

先月、高校の同窓会に行った。男子校なのでときめく話も特になく、男同士で趣味やマルクス主義などについてとりとめなく話していたのだが、いま物理学で博士課程のやつとゲームの話になり、だいたい以下のような会話をした。
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博士「PS4デトロイト、無限に分岐があって今のゲームはすごい」

俺「凄いけどやるのしんどくない? スキップ機能は充実してんの?」

博士「1個だけエンディング見てやめたから知らん」

俺「全部やれや」

博士「最初に直感で進んだルートだけやれば良いし~初見で選ばないような選択肢を選ぶのはやりたくなくて~」

このブチ切れた意見を聞いて、俺は目から鱗が落ちる思いだった(やはり博士に行くようなやつはどこかが外れている)。何故かと言えば、俺が年明け前から考えていたアドベンチャーゲームの原理的な限界を克服するものだったからだ。

俺の問題意識は11月のこのツイートに書いた。

かなり入り組んだ話を140字に押し込んだせいで怪文書になっているので、まずはこのツイートを解読しなければならない。以下、自分で自分の文章を分解して翻訳と解説を書く。

>ゲームが発展させてきたマルチバース観が
アドベンチャーゲームが発展させてきたマルチエンディングという発想が

マルチバース」とは多元宇宙のこと。アドベンチャーゲームのマルチエンディングでそれぞれ異なる展開を辿る複数のルートが違う歴史を持つ複数の宇宙と対応しているイメージだが、「マルチバース」という単語はもう二度と登場しないので忘れてもいい。要するにこれからアドベンチャーゲームとマルチエンディングの話をしますということ。

>最小単位の物語の構成する様相世界を
→物語の本質である可能性を表現するような世界を

「最小単位の物語」とは「物語の最低限」、要するに「物語の本質」のこと。
そして、ここで言う物語の本質とは「物語上で本当は起こらなかったが有り得たシーンを想像させること」である。例えば、シンデレラで「王子が靴の合う娘を探すがなかなか見つからない」というシーンを読んでハラハラしている読者が頭の中で想像しているのは、「靴が合う娘は見つからずにシンデレラは王子と結婚できない」というシーンである。このバッドエンドが想像可能だからこそ読者はそれを心配してドキドキできるし、バッドエンドを回避したハッピーエンドがカタルシスをもたらすのだ。このように可能性を表現するための別世界を「様相世界」と呼んでいるが、この単語自体は再登場しないので忘れてよい。

>一見すると拡張していながら
→一見すると拡張していながら

アドベンチャーゲームの「ルート」が上に書いたような「物語上で本当は起こらなかったが有り得たシーン」を表現したものであることは明らかだろう。もしシンデレラがPCゲームになれば、間違いなく「シンデレラが王子と結婚できない」というバッドエンドがある。古典的な物語では読者の頭の中にしかない「有り得た世界」を実体化させたものがルートであるとも言える。この意味で、アドベンチャーゲームは物語の拡張形態である

>その実決定的な限界を招き入れてしまった要因が隣接世界を確定させてしまうために偶有性を破棄した点にあるならば
→「あったかもしれないし無かったかもしれない」という偶然性を「別の世界で確実に起きた」という必然性に変えてしまうことが決定的な弱点ならば

ここがこのツイートの本体。

まず、「あったかもしれないし無かったかもしれない」という概念は、物語の本質であるだけではなく日常的なイベントを物語化する際にも一役買っている。
例えば、俺は今日スーパーで目に入ったチーズサラミを適当に買った。しかし、雨が止まなければスーパーには行かなかったかもしれないし、もう少し気分がダルければ加工肉コーナーを見ないで帰ったかもしれないし、俺の前にいた主婦がチーズサラミを買い占めていたかもしれない。いずれの場合もチーズサラミを買わなかったにも関わらず、実際には「よりにもよって」チーズサラミを買ったというのは衝撃的だ。「あったかもなかったかもしれない」という性質を偶然性と呼ぶことにすると、イベントが偶然性を持つ(偶然的である)ということはそのイベントを劇的にする。もっと陳腐な言葉で言えば、チーズサラミを買ったのは、買わなかったこともできたという背景を踏まえれば「運命」だった(偶然的でないこと=そもそも一通りしか有り得ないことは運命ではない。チーズサラミをレンジに入れて温まったことを運命とは表現できない)。
このように、「よりにもよって」という現実の衝撃は、実際に発生したイベントの「偶然有った」感と、実際には発生しなかったイベントの「偶然無かった」感の裏表で成立している

さて、ゲームで実際に起きていること(今進んでいるルート)は「あったかもなかったかもしれない」偶然なのだろうか? 否である。
何でもいいが、例えば星のカービィ64で考えよう。クリスタルを全て集めたハッピーエンドではカービィが星を救うムービーが流れるが、クリスタルを全て集めずにクリアすると黒幕は未だ健在であり星を救えていないムービーが流れる(結構こわい)。この場合、「カービィが星を救った」というイベントは「あったかもなかったかもしれない」偶然的なイベントだろうか。違う。何故なら、「カービィが星を救った」が実装されているのと同時に「カービィが星を救えなかった」が実装されており、いずれも別々の世界で確実に起きたことだからだ。「あったかもなかったかもしれないが実際にあったこと」ではなく、「複数の実際にあったことの一つ」なのである。よって、偶然的な出来事ではなく、必然的な出来事の一つと言わざるを得ない。無限の可能性のうちから「よりにもよって」一つが実現したのではない。たかだか列挙されている可能性の中から順当に一つが表示された程度のことでしかない。

つまり、アドベンチャーゲームは可能性を表現できているが、偶然性を表現できていない
この微妙な言葉の違いが決定的なので慎重にいこう。アドベンチャーゲームは「可能性=有り得たこと」をマルチエンディングでうまく表現することができる。しかし、各ルートからは「偶然性=あったかもなかったかもしれない感じ」は失われる。色々な可能性が列挙されているが、しかしきちんと列挙してしまったが故に、もはやそれぞれがあったりなかったりすることはできないのだ。
この意味は重大だ。「よりにもよって」の感覚=運命を担保していたのは偶然性の方であったことを思い出そう。出来事があったりなかったりするからこそ、我々はよりにもよってその中の一つが選ばれたことを劇的に感じられる。しかし、確実にあることのリストのうちの一つが表示されているだけの状態は劇的ではない。

補足168:「今起きている出来事が仮に有限なリストからの選出だったとしても、その選択自体は偶然的で有り得るのではないか」という反論は可能だが、これに対しては確率を用いて再反論できる。現実や小説であれば「有り得たこと」の項目は無限個存在し、その中の一つが選ばれる確率は無限小であるために劇的である。しかし、ゲームであれば「有り得たこと」の項目は有限個なので確率もそこそこの定数となる。ルートが5つなら20%、現実に比べ無限倍の値だ。しかもこの確率は複数のルートを進めていくごとに100%という必然に漸近していく。

補足169:「アドベンチャーゲームでもどのルートにも実装されていない可能性に思いを巡らすことで無限の有り得たことと偶然性を確保できる」という反論も可能である。この意見自体は有効だが、アドベンチャーゲームの新規性と試みを完全に無視したものであり議論として端的にナンセンスだ。

まとめると、アドベンチャーゲームは物語からその本質である可能性概念を輸入することで成立したのだが、しかし実際のところ本当に重要だった偶然性が実装上の都合によって破棄されてしまい、「運命」を表現できないのがアドベンチャーゲームの原理的な限界である

>ガチャシステムがそれを現実世界に差し戻してみせることにもかなりの合理性がある
→ガチャシステムが現実世界を利用してランダム性を表現することは、偶然性喪失の対策として評価できる

「作者が本当に言いたいこと」はさっきの部分までなので、ここからのガチャ云々はオマケくらいに読んでもらえればいいのだが、以上の事情を踏まえるとガチャシステムには一定の評価を与えられるという話。

ガチャはまさに「あったかもなかったかもしれない」という偶然性を表現できるシステムだ。本来であればゲームは実装されていないことは体験できないし、実装したことは全て体験させないといけないのだが、ガチャでは運と課金額によって「ユーザーごとの体験可能領域」をランダムに設定できてしまう。例えば「SSRベルファストが艦隊に加わる」というイベントは、運が悪ければ「SSRベルファストが艦隊に加わらない」という可能性もあるという意味で偶然的なものだ。無限にガチャが引けるのであれば偶然性のないイベントなのだが、現実的には課金額によって人生を通じて手に入らない可能性も十分に考えられる。
なお、「ガチャはアドベンチャーゲームではないだろ」という反論に対しては、ソシャゲのメインストーリーをノベルゲームとみなした上で、キャラクターを所持している場合のみ解放されるキャラクターストーリーを分岐と想定してほしい。それは偶然的なイベントによってのみ解放される、偶然性を持ったルートとみなせる。

とはいえ、ガチャそのものが革新的な試みというわけではないことに注意してほしい。ここまでの話を踏まえたとしても、ガチャの仕掛けはサイコロ博打の仕掛けと全く同じ程度のものだ。「ガチャシステムの新規性」という方向に話を進めるのは間違いで、「たかがサイコロの丁半が今更なぜウケているのか」という方向に進まなければならない。

理由の一つには、それでもやはり「電子ゲーム」という限定的な領域から見れば偶然性を表現できるのは新しかったからだ。サイコロは物理ゲームであって電子ゲームではない。
もう少し一般的に言えば、これはシミュレーションとフィクションの違いである。シミュレーションでは初期条件だけ設定されればそれ以降の発展については予測できないため偶然的であるのに対し、フィクションであれば過程全てを作りこむことになるため偶然的でない。物理ゲームはシミュレーションであるのに対して、電子ゲームはフィクションである。ただし、電子ゲームの中でもシミュレーションの性格を持つカードゲームやパーティーゲームには偶然性がある(遊戯王タッグフォースで絶体絶命のシーンから死者蘇生をトップデッキすることは偶然的である)。よって、厳密に言えば、「フィクションにおける偶然性」というスコープでガチャシステムを評価するのが正しい。

もう一つには、もっと広い視野から見て、現代の生活から偶然性が失われている傾向にあるからだ。いつでもどこでもスマホが使える今、あったりなかったりするイベントはほとんどなくなった。ちょっとした不運はテクノロジーの力で軌道修正できてしまう。
例えば、シュガーラッシュオンラインを見る予定だった映画館が急に休みになった。映画館に着いてから休館を知り、仕方なく今日は代わりに買い物をして休日を過ごすことにする。こういう世界観では「シュガーラッシュオンラインを見る」というイベントは運に左右されてあったりなかったりする偶然的なものだ。しかし、いまどきスマホを持っていればTwitterなりSafariなりで映画館の休館情報をチェックできる。行く予定だった映画館が休みになったので近場にある別の映画館を検索し、そちらでシュガーラッシュオンラインを見ればよい。スマホが使えるなら「シュガーラッシュオンラインを見る」というイベントは不運に左右されにくく(全く左右されないとは言わないが)、そうそうあったりなかったりはしない。
同じような例はいくらでも思い浮かぶ。大量生産された食品は味にブレがあったりなかったりしない。スーパーに堅あげポテトが無ければ通販で頼めばよいので堅あげポテトが食べられたり食べられなかったりしない。最近のスマホのカメラは手振れ補正が凄いので写真が手振れしたりしなかったりしない……等々。
そう思うと、スマホを使っているのにも関わらず純粋な運だけで全てが決まり一切の軌道修正が効かないガチャというシステムがかなり異常な性質を持っていることがわかってくる。テクノロジーの渦中にありながら、生活を安定させること(≒偶然性を減らすこと)に一切貢献しないどころか真逆を行くガチャは逆張りとして存在感を発揮できる。もともと偶然性は人生を劇的にするスパイスだったと捉えれば、こうした跳ね返りが起こることも不思議ではない。

以上、元のツイートの翻訳版は以下。

アドベンチャーゲームが発展させてきたマルチエンディングという発想が物語の本質である可能性を表現するような世界を一見すると拡張していながら「あったかもしれないし無かったかもしれない」という偶然性を「別の世界で確実に起きた」という必然性に変えてしまうことが決定的な弱点ならばガチャシステムが現実世界を利用してランダム性を表現することは、偶然性喪失の対策として評価できる」(182字)

さっきも書いたけどガチャ云々はオマケみたいなもので、その前のアドベンチャーゲームの原理的な限界についてが問題意識なのだった。

ここまで踏まえて、ルートを周回しないプレイであれば目下の問題は全て解決することがわかる。もともと他のルートで何が起こるのか知らず、かつ、1周しかしない場合、「他に何があるのか」が全くわからないので、自分が辿るルートに対しても「あったりなかったりする」偶然性を維持しうるからだ。「しうる」という歯切れの悪い言い方なのは現実的に実装されているルートの感覚が無意識に予測できてしまうオタク体質に対してはその限りではないからだが、大筋では正しかろう。
なお、「それなら最初から小説でいいのでは?」という意見に対しては、ゲーム特有のインタラクションの存在によって反論できる。1回しかプレイしないことは選択肢が存在しないことを意味しない。どの道を選んでも一つの物語を提示できる魅力は何の問題もなく主張できる。