LWのサイゼリヤ

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22/2/11 お題箱回94:親ガチャ、SonnyBoy、マーセナリーズなど

お題箱回94

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379.「親ガチャ」について偉そうに語ってる精神科医の話をいくつか聞いてしまったのでぜひLWさんに解説していただきたいです!

380.ありがとうございます!>お題箱>親ガチャ
僕が見たのは下記の二つです。他にもひろゆき氏や東大卒の方、武井壮氏、茂木健一郎氏…いろんな人が語ってて煩いです、叩っ斬ってください!
・『メンタルドクターsidow「親ガチャハズレ」←どう思う?』 https://youtu.be/CV3y8fR6hTk
・『精神科医が心の病気を解説するch「親ガチャ」について、精神科医目線で解説します』 https://youtu.be/IT2s0X7WVas

ざっと各界のコメントを調べて動画も軽く見ました。

解説したり叩き斬ったりすることを期待されている手前申し訳ないですが、そういう話にはあまりならないですね。僕は「親ガチャ」という言葉を高く評価していることを何度かツイートしていますから、たぶんそこから「親ガチャ」という言葉に否定的な風潮に異を唱えるような展開が望まれたのだと思いますが、そもそも世間で語られている論点と僕の論点は全く違います。「親ガチャ」という言葉の背景に想定する文脈が異なり、同じ言葉を使って完全に別の話をしているので、僕が彼らを否定することも彼らが僕を否定することもないはずです。

いま過去のツイートを見ると、去年9月頃には親ガチャという言葉がきっと社会を良い方向に導くだろうと期待していたのですが、

10月頃には僕が使う言葉の意味と市井で使われている言葉の意味が全く異なることに気付き始め、

11月頃には親ガチャという言葉が僕の期待通りには全く理解されていないことに幻滅している流れが伺えます。

具体的に論点がどう異なるのかについては今から書きますが、以下のフォロワーのツイートは概ね僕と同じ立場です。

非常に大雑把に言えば、僕やワタシ・チャンは「反出生主義」とか「親ガチャ」は「人間が存在する以前(もしくはせいぜい存在する瀬戸際)」の段階における様相や権力や倫理に関する議論だと思っているのですが、世間的には「人間が既に存在している」段階の生き方に関する議論が行われているというレイヤーの違いがあります。

実際、ひろゆき精神科医が「親ガチャ」という単語を使って行っているのは、既に存在してしまっている人間の幸福度の議論です。「親ガチャに外れた」という記述は「(運悪く)環境に恵まれていない」と概ね等価に解釈され、それを受けた議論は「環境に恵まれていないというのは本当だろうか?」とか「環境に恵まれていないというのは言い訳ではないだろうか?」というような社会構造とか精神の持ちようの話になっていきます。

補足410:精神科医はまさに現に存在している人生の幸福度を上げるのが仕事なのでこの関心の下で親ガチャという単語を捉えて分析するのは非常に正しいですが、それ以外の人は自分の尺度で他人の人生をジャッジするコミュニケーション破綻者です。

その一方で、僕が「親ガチャ」という単語から汲み取っているのは、まだ存在していないか生まれるかもしれない人間の存在様態に関する話です。

まず出産という行為を何かしら偶然的なもの、運命的なもの、運否天賦のものと見做す場合、直感的には「子ガチャ」の方が一般的なイメージに近いと思います。親がセックスをして作った子供を分娩する際、子供という予期せぬ性質を含む偶然の塊に出会って運命的なものを感じるという、親から子供に対する方向の偶然性として出産の出会いはイメージされるはずです。
しかし同じことは子供から親に対しても言えて、親が子供を選べないのと同じくらい、子供は親を選べないのは端的に事実です。親が子供を「たまたま変なやつが生まれてきたなあ」と思っているとき、子供も親を「たまたま変なやつから生まれてきたなあ」と思えるわけで、その意味では運命の方向はお互いに作用するフェアなものと捉えることもできます。

ただし、よくよく考えてみると、親から子供への偶然性に対して、子供から親への偶然性の方がより根源的です。
というのも、親が子供に対して感じる偶然は「たまたま怒りっぽい性格をしている」とか「たまたま可愛い外見をしている」というような子供の「性質」のみですが、子供が親に対して感じられる偶然は「性質」に加えて「自分が生まれた」ということ自体の偶然性、すなわち「存在」させられることの偶然性を含むからです。相当にスピリチュアルな解釈をしない限り、非存在の段階で自分が存在するかどうかを選択した子供はいないはずで、気付いたら何故かたまたま存在してしまっていたというのが子供の存在の発生です。よって、親から子供への運命の在り方は精々「性質」しかないのに対して、子供から親への運命の在り方には「性質」と「存在」の二つがあることになります。
これはそのままそれぞれのアンコントローラブル領域と対応します。親は子供の性質を選択できませんが、子供を存在させるかどうかは選択できます。それに比べて、子供は親の性質を選択できないことに加えて、自分が存在するかどうかも選択できません。つまり「親は子供を存在させるかどうかを選択できるが、子供は親に存在させられるかどうかを選択できない」という非対称性が出産に伴う運命の格差としてあるわけです。
これこそが「子ガチャ」と「親ガチャ」の違いです。僕が親ガチャの方がより重要であるというのは、そちらだけが「存在の有無」という根源的な決定項をガチャのランダム排出の中に含んでいるからです。

つまり、一般的な感覚からすると時間的に先行して存在している親の方がガチャを「引く側」であって、遅れて生まれる子供の方が「引かれる側」であると考えてしまいそうなものですが、発生のロジックをよくよく考えてみると、実は出産に際してよりラディカルな選択をガチャに委ねているのは子供の方であり、その意味でガチャで引かれているユニットと解釈すべきなのはむしろ親の側です。
この「出産における運命主体の逆転」というモチーフ及びそのように出産を捉え直す倫理的な契機を僕は「親ガチャ」という言葉に読み込んでいたのですが、そんな話をしているのは僕とワタシ・チャンくらいしかいなくて、ほとんどの人は全然違う意味で言葉を使っていたというよくある話でした。

 

381.Sonny boy批評してほしいです

申し訳ないですが、全話見てかなり面白くなかったので気力があまりありません(とか言いつつけっこう批評っぽいことを書いてしまった気もします)。

中盤まではけっこう良かったです。当初は漂流もののセオリー通りに元の世界に帰ろうとしていたのに、「自分が戻るべきオリジナルがある」というナイーブな前提が破壊され、「漂流していない自分」に戻ることはできず、どこまでも「漂流している自分」としてやっていかなければならないというのが中盤までの話ですよね。この『漂流教室』的なお約束を逆手に取ったねじ曲がった実存と本質の提示の仕方にはかなり感心しました。

ただし良かったのはそこまでです。後半の話を最大限好意的に見れば、「人生とはオリジナルに復帰できるような収まりの良い物語である」という夢は中盤のどんでん返しで破壊されたため、後半戦では全体をまとめ上げる物語的な文脈は存在せず、それぞれがまとまりなく個々に傷付いたり戦ったりしながら自分を生きていくしかないという見方は可能です。つまり面白くないこと自体をコンセプチュアルに評価するというアクロバティックは不可能ではありませんが、「エンドレスエイト」が試みとしては面白いけどアニメとしては面白くないものを8話も流されるのが普通にきつかったのと同じで、Sonny boyも試みが面白いだけの面白くない話を6話くらい見させられたことに疲弊しました。

ワンダーエッグプライオリティ』もそうだったのですが、風呂敷を広げるだけ広げて収拾しないアニメかなりキツくなってきました。加齢ですかね?

 

382.倫理学の講義を受けたんですが、Lwのサイゼリヤよりも「ここは今から倫理です」の方でしたね 伝統倫理学、異端の人間に寄り添わない……

そうですね。これたぶんメタ倫理学の話ですよね?(規範倫理学は整合性の話だし応用倫理学は実践の話で「寄り添わない」という感想はあまり出てこないので)

僕も評判の良い佐藤岳詩『メタ倫理学入門』とかをぼちぼち読んだんですが、メタ倫理学って信仰告白バトル以上の議論がないかなり終わってる分野だなという印象しかありませんでした。サイゼミでもたまに倫理学回やろうとするたびに「この本終わってた報告」みたいのが蓄積するばかりで、取っ掛かりが掴めていない状態です。
特に道徳実在論周りについて信仰以上のまともな議論がされているメタ倫理学の入門書があったら教えてもらいたいです。

 

383.ノートの作り方についての記事が読みたいです。

今までの人生、独学ではノートを作ってきませんでした。(記憶しないといけないようなことは裏紙とかに雑に書いたりして覚えてました)
頭の良い人はどういう目的でどんなものを作っているんですか?

まず大前提として、ノートを作らなくて困ったことが特にないなら作らなくていいと思います。寒くない人は暖房を買わなくてもよいのと同じで、ノートは目的があっての手段なので、ノート抜きでも裏紙とかで覚えて何とかなっているならそれで良いと思います。僕もノートが手元にないときはその辺の裏紙でどうにかすることも多いです。

とはいえ目的自体が発見されることもあると思うので書くと、ノートを作る目的は主に頭の整理と記録の二つです。

まず頭の整理というのは、今目の前にあるロジックを理解するためということです。
難解な本を読んでいると、単純に論理構造がよくわからなくなったり、局所的な主張と全体の文脈との関係が掴めなくなってきたりすることがあります。そこで適当に図やキーワードを書いたりして長い議論を適宜チャンク化して整理します。簡単な例だと、一章ごとに何についての話だったかを簡単にメモしておいて、後から見直して章ごとの繋がりを再確認するとかをやることが多いです。読んでいる最中はどうしても情報を段落単位で処理してしまい、章単位での繋がりを把握するのが難しくなるので、一旦外付けメモリに吐き出して再解釈するタイミングを作るということです。これは付箋紙とかでも代用できます(要点が書いてあるところに付箋紙を貼っておいて、あとから付箋紙の部分だけ再読する)。

次に記録というのは、数ヶ月後に自分で見直すための情報保存です。
これは単に本から得た情報はどこかに書き残しておかないと忘れてしまって何も得ていないのと同じになるので外部保存しておくというだけの話です。例えば僕の消費コンテンツ記事ってだいたいコンテンツを消費してから3ヶ月くらい遅れて書くので、もう本は図書館に返却して手元にないし、アニメも録画を消してしまって見れないみたいな状態のことが多いです。そういうとき数ヶ月前に書いたノートの記録を見て感想を再構成していて、ノートに記録さえしておけば数ヶ月後でもかなり高い精度で消費直後の脳の状態を復元できます。

ちなみに個人的にノートを作る上で一番罠だと思っているのは「内容を一つも漏らさないようにノートに書き込んでしまうこと」で、これは意識してやらないようにした方がいいと思っています。
ありがちなのが本を読んでいてけっこうしょうもない反論とか再反論も落とすのが勿体なくて一応ちゃんとノートに書いてしまうことで、これはそのうち「中身を正しく複製する」ことが目的になって整理でも記録でもなくなることが多いです。「本当に知りたい内容に照らして重要ではないこと」とか「別に興味が無くて覚える価値もないようなこと」とか「いちいちノートに書かなくてもすぐにでも思い出せそうなこと」は書かなくてよいです。合目的的にいきましょう。

 

384.最近のHSは複数のモードを作ってテーマパーク化しようとしてますが、その方針に賛成しますか?
俺はBGレベルのクオリティのものが増えるのなら賛成してたけど、デュエルとマーセナリーがしょぼすぎてこの方針のアンチになってます

僕も全く同じ理由でアンチ気味です。バトルグラウンドはハイクオリティで面白いですが、マーセナリーズレベルのコンテンツを増やすつもりならメモリの無駄なのでやめてほしいです。

ちなみに僕はけっこうマジなマーセナリーズガチアンチです。
マーセナリーズはただ面白くないだけならまだしも、ハースストーンらしい斬新でめちゃくちゃなシステムが何もない「8年くらい前のかなりつまらない方のコマンドバトル」という感じで、賛否が分かれるところまで達していないただの虚無なのが本当にショックでした。
僕はハースストーンってバランス調整は粗削りでもとにかく独創的で他の誰も真似できないような試みをするところを高く評価していました。だからゲンバクの禁止とかは笑って許してたし、むしろハチャメチャなカードを作ったことに対して評価を上げるくらいだったのですが、マーセナリーズは何のオリジナリティもないクソの贋作みたいなハースストーンの汚点です。

 

385.こんにちは。いつも楽しくブログ拝見しています。

GPS機能をご存じでなかった件、"発達"仕草が高すぎて笑ってしまいました(中略)あと、友人と合流するのが困難な場合、Zenlyという位置情報共有アプリを使うと便利かもしれません。簡単に言うと、フレンドの位置情報と自分の位置情報を共有して可視化できるアプリです。現代のJKはこれで待ち合わせするらしいです』
みたいなコメントに反応されていましたね。

私は、技術の進歩に合わせて人間への要求水準があがっていく現代の状況には断固として異を唱えたいので、LWさんを擁護するためにこのコメントを送りたいと思います。
スマホについてる機能だから使えて当たり前」はまあそうやなと同意しますが「スマホについてる機能だからそれを使って行動を最適化するのはマナーに近い」には全く同意できません。しかし、親切なアドバイスのつもりで「人間の習慣を機械の性能にアタッチさせる方法」を教えてくれる人は多いものですね。私も職場で「スマホのバッテリーとか安く売ってるから10時間勤務のときでも安心だね」とか「マナーカメラというアプリがあるから撮影時は音が出ないほうがマナーがいいよね」とか言ってくる人と日々戦っています。スマホの充電が切れるほどの連続勤務は改善すべきですし、撮影時に音が出ないのはマナー違反ですから! 無際限に人間への要求が上がっていくのは「改善」ではない!

そういえばLWさんも『GPSがあるおかげで修正が効いて耐えてはいます』とのことですから「技術」を取り入れて「改善」していく予定なのですかね? さては敵か。あなたも敵だったのか。さようなら。

ありがとうございます。この回ですね。ただ、あまり文章に書かれていないことを読み取る傾向にあるかもしれません。

saize-lw.hatenablog.com

スマホについてる機能だからそれを使って行動を最適化するのはマナーに近い」ということについては僕も全く同意しません。友人との集合など迅速に辿り着きたいときには必要に応じて使うというだけで、比較的どうでもいいときは使っていません。

それで他人に対して多少の迷惑が発生する可能性があったとしても、それは僕個人の責任でテイクするリスクであってそれ以上でも以下でもなく、マナーがどうとかいう大義の問題ではありません。「マナーカメラというアプリがあるから撮影時は音が出ないほうがマナーがいいよね」と言われても「そうですね! 僕は面倒なので使わないですがマナーフェチ向けだと思います」とか言って終わりだと思います。

 

386.「もうどうでもゲリオン」の記事のコメント欄にあるあいうえおという人物のコメントが不快です。
このあいうえおという人物のコメントは文体が不快ですし、内容も優秀ではないと思います。
あいうえお氏のコメントを削除して頂けませんか?

削除はしません。

僕も人間なので限度を超えた悪意が含まれるコメントは削除する可能性がありますが、今までのところその理由で削除したことはないですし、あいうえお氏のコメントも悪意のボーダーラインに掠りもしていないです。特別に優秀な意見だとは思いませんが普通に有り得る感想の範疇だと思います(ちなみにいちいち騒いでないだけでTwitterなどでもっとボロクソ言われていることもたまにあります)。

今ではネットは内輪コミュニティが乱立する空間になりましたが、僕は匿名でバーリトゥードの殴り合いをしていた時代からのユーザーなので、昨今のネット上での対話が過剰に潔癖になっていることにはかなり否定的な方です。
特にツイートがバズったときに当然飛んでくる否定的意見に対して必死になって自己弁護や罵倒を繰り返すタイプの人間のことは知り合いだったら切るレベルでかなり下に見ています。これは多様性の尊重とかそんなリベラルっぽい話では無くて、ふつうに人間は一枚岩ではないというのは当たり前のことです。

 

387.https://twitter.com/EnJoeToh/status/1452932797971107842

文脈がよくわからないですが、普通にコラボしたときの思い出とか、幼少期に魔法学院に入学した頃の記憶とかを思い出してほしいですね。

 

388.萌えイラストをRTした後の空リプは「eeyan」「あるあるわね」「これ私」などを使っていますが、何らかの法則に則って使い分けているのですか?

明確に使い分けています。というか僕的にはこれはランダム出力される鳴き声などではなく、普通に日本語として異なる意味の言葉を発しているつもりでした。

素朴に絵として高く評価して「良い」という気持ちが生じた場合は「eeyan」「いいですね」などと書きます。シチュエーション的なイラストで「(ある理想化された状況において)発生頻度が高い」と思った場合は「あるあるだな」「あるあるわね」などとツイートします。「願望としてこのイラストのキャラが自分であってほしい」という願いが生じた場合は「これわたし」(願望)とツイートします。