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19/2/17 輪るピングドラムの感想

輪るピングドラム

20160427015143
今更見たけど、めちゃめちゃ面白かった。
このアニメって結局オウム真理教が破綻した1995年以降のポストオウム世代の子供たちがどう生きるか(=生存戦略)という話で、社会学的な背景は京大新聞の記事がよく書いている→。その記事はスマートにまとまっているし全面的に同意するのでとりあえず読んでもらって、あと残り俺が気になったポイントについて書こうと思う。

補足170:地下鉄サリン事件の日=1995/3/20に主要登場人物たちが誕生していること、その日に起きた東京の地下鉄テロを扱っていることなど、オウム真理教との関係は可能な限り(倫理的に許される限り)明確に描写されている。が、「ピングドラム 考察」とかでググって出てくる熱心なファンでも、オウムに対しては「地下鉄サリン事件がモチーフらしい」以上の関心を持たない者が多い。作中の整合性以外への興味を示さないオタク層と、逆に作中の話よりも外部への接続を論じたがるサブカル層の意識断絶を示すサンプルとして面白い。
tudj
ピングドラム考察wikiみたいなやつより→wikiまで作ってもここは詳細不明で済ませていいのか?)

・コストとベネフィット

このアニメの全ての始まりは親世代から続く家族制度の機能不全である
登場人物は軒並み家庭崩壊の過去を持つ。ユリは美しい限り、タブキはピアノが上手い限り、ナツメはすり潰されない限りにおいてしか保護者から愛されない。保護者からの愛は無条件の承認ではなく条件付きの報酬であり、条件を満たせずに見捨てられた子供は「透明な存在」という末路を辿る。こうした家族制度の崩壊がとりわけ深刻なのは、国家や社会による人生の意味づけが不可能になった時代では家族が個人のアイデンティティの最後の砦だからだ(逆に、国家や社会からの天下り的な意義が担保されなくなったことで家族制度が危うくなったという側面もある)。

さて、壊れた家族制度の下で子供たちが取れる戦略は大きく分けて2つある

1.従来の家族(制度)の否定:崩壊した家庭を否定して脱出する。
2.新たな家族の選択:崩壊していない家庭を発見・構築する。

1が「ピングフォース・サネトシ・黒ウサギ」に、2が「運命日記・モモカ・ペンギン帽子」に対応する。ただし、この2つは裏表の関係にあって切り離せないことが重要だ。何故なら、「2.新たな家族の選択」を行うためには必ず生来の家族を否定しなければならないからだ(同時に2つの家族に属することはできない)。このことは作中で徹底して描写されている。例えば、カンバが高倉家の子供になるためにはナツメとの兄妹関係を破棄しなければならなかったし、ユリもモモカからの承認を得るために父親を葬る必要があった。一般に「2.新たな家族の選択」というベネフィットを得るためには「1.従来の家族制度の否定」というコストを支払わなければならない

補足171:このコスト-ベネフィット構造は今だと例えばTwitter上で頻繁に取沙汰される夫婦別姓問題と同じだ。
ネット上では賛成派の「夫婦別姓は自由に選択可能であるべきだ(家族の問題を外野がゴチャゴチャ言うな)」という自己決定論が主流だが、「夫婦は同姓でなければならない」という論理にも一定の理がある。そもそも「特定の姓を共有する」という行為は、連綿と続いてきたその姓の「家系の物語」に参入するということだ。家系は姓が継承される限り過去から未来へと永続する。これによって得られる「個人が死んでも家系は続く」という安心感が家族制度の本質の一つであり、それは保守的な世代にとっては自らのアイデンティティを永遠に保障する契約として機能していた。ところが、若い世代が「姓を継がなくてもいい」ということになってしまうと、家系の物語はそこで完全に途切れてしまう。その物語を利用してきた世代から見れば唐突で一方的なサポート終了にほかならず、到底受け入れられるものではない。物語という観点から見れば、夫婦別姓はその夫婦だけではなく今まで姓の共有によって担保されてきた家系全ての問題なのだ。個人が得る「別姓を選択する」というベネフィットは家系が負う「従来の家族制度の否定」というコストと裏表である。
まあ、俺自身は家系の物語に大した意義を見出さない世代だし、家系の物語という論理を認めるとしてもそれを紡ぐ際に消去される女性の家系を無視している男性本意な物語であるという攻撃を受けるべきだとは思う。しかし、だからといってコスト-ベネフィット構造そのものを認識しなくてもよいということにはならない。(Twitterでよく見る光景だが)反対勢力が支払わされるコストを考慮せず自己決定論のベネフィットだけを振りかざすのは、論点がズレていて不毛だ。


さて、ピングフォースとオウム真理教の微妙な違いについても整理しておきたい。
ピングフォースの思想については(恐らくオウムを突っ込んで描写できないという倫理的な都合で)断片的に語られるに留まるが、「世界を破壊する」「世界を浄化する」というフレーズが使われるあたり「従来の家族制度の否定」による本能的な原初状態への回帰を目的としていたと見て良いだろう。
オウム真理教の教義も家族関係を否定していたことは良く知られている。坂本弁護士一家を殺害した際に家族をバラバラの場所に埋めたことが世間の大きな怒りを買ったことは周知の通りだ。一度解体された関係は父である麻原の下に再編されていくのだが、ここで言う「父」とは精神分析的な意味に留まり、少なくともピングドラム劇中で描かれるようないわゆる家族の形を取らない。とはいえ、何らかの共同体を組織していた(信者にとって家族に代わる救いを提供できた)オウム真理教と破壊のみを目指すピングフォースには微妙な違いがある。あまりピングフォースの思想がきちんと描写されないだけに最終回付近ではこの辺で少し混乱するが、恐らくこれはコミュニティのスケールの話題と接続するという話を後で書く。

・リンゴという例外

物語中のコスト-ベネフィット関係を整理しておこう。

まず高倉家においては、ヒマリの病気は(主にショウマが語るシンボリックな次元では)両親が起こした地下鉄テロへの罰=家族を否定する活動のコストだ。実際、このコストは病気の治療費に形を変えてカンバが支払うことになり、最終的にはピングフォースの活動=家族制度の否定へと戻ってきた。また、病気というコストに対応して得たのが高倉家=新たな家族というベネフィットであることは言うまでもない。最終回ではコストの支払いは家族間で共有できることが示され、高倉兄弟が自腹を切ることでヒマリは救済される(センスのないアニメなら「コストを無効にする」という結末に向かいそうなものだが、「コストの分割支払い」という回答に留まるのが誠実でよろしい)。

次にモモカにおいては、運命日記によって「運命を乗り換える」ベネフィットに対応して「身体的犠牲」というコストを支払っていた。モモカと直接に関係した幼少期のユリとタブキも、「親との関係破棄」というコストを支払って「モモカとの関係」というベネフィットを手に入れている。この二つは作中で最もわかりやすいコスト-ベネフィット描写である。
しかし、16年前の事件からの流れは少し入り組んでくる。大局的なレベルでは「運命日記の存在」というベネフィットが「サネトシ・ピングフォースの存在」というコストと裏表であり、16年前にモモカとサネトシが出会った際には対消滅せざるをえない(モモカとサネトシが対峙するシーンが一番好き)。これによってユリとタブキが得ていた「モモカとの関係」というベネフィットはコストに反転する。「親との関係」を葬って手に入れたはずの「モモカとの関係」は、モモカの消滅に伴って今度は葬られるべき関係になる(死者とは家族になれない)。そして、次に得るべき新しい関係は彼ら自身の「結婚関係」である。彼らのコスト-ベネフィット構造は二重になっている

1.幼少期 コスト:親との関係 - ベネフィット:モモカとの関係
2.成年期 コスト:モモカとの関係 - ベネフィット:結婚関係

しかし、彼らは2番目のコストの支払いをうまく完了できない。ユリはモモカの面影を求めてリンゴと交わろうとするし、タブキもモモカを失ったコストを自分ではなくカンバに支払わせようとする(それでも最終回では彼らはきちんとモモカとの関係を清算し、2番目の契約を完了して終わる)。

最後にリンゴにおいては、一見するとタブキとの恋人関係がベネフィット、家庭崩壊がコストであるように見えるが、このコスト-ベネフィット構造は仮初のものに過ぎないことが中盤で明かされる。
実はタブキとの恋愛はリンゴではなくモモカの望みであり(リンゴにとってタブキとの恋愛はベネフィットではなく)、リンゴの真の目的はモモカへの同一化により家族を元に戻すことだった。新たな家族の選択ではなく崩壊した家庭の再生。これは他のキャラクター全てが古い家族を葬って新しい家族を手に入れようとする様子とは対照的だ。
更に、リンゴだけは唯一崩壊した旧家庭との関係修復に成功している。再婚した父の家に遊びに行くメールを打つシーンが挿入され、良好な関係を築いていることが描写される。これは最初に彼女が執着していた家族団欒の復活ではないにせよ、メールを打つ表情は穏やかであり、他のキャラクターが家族への恨み節しか述べない様子とはやはり真逆のものだ。
つまり、リンゴだけは例外的な振る舞いをしており、家族関係のコストを支払わないしベネフィットも得ない。何も得ない代わりに何も失わずに済ませることができた唯一の存在というわけだ。ヒマリを救うために運命日記を行使するときも別にヒマリの家族になりたいわけではなく、ただ友達を救いたいだけだった。リンゴの例外的な立ち位置を鑑みれば、ショウマがコストを肩代わりしたのはむしろ妥当だ。リンゴは家族制度を巡る争いに参入するモチベーションが既に無いので、コストを支払うべきではないしベネフィットを受け取るべきでもない(エピローグではヒマリに付き合わされる形でリンゴも一定のベネフィットを得ているが、それはそれとして元の家族ともそれなりに仲良くやっているのだろう)。
しかしだからといってリンゴの幸福が当初の問題のソリューションであり得るかというと、否である。家族制度が機能不全に陥っていることはそもそもの前提なのだから、家族制度を再生できるという展開はちゃぶ台返しでしかない。この点、リンゴの(卑怯な)問題解決をメール画面だけで静かに示し、家族を巡るストーリーから退場させてヒマリの友達というポジションに落とした(代わりにユリやタブキにストーリーを回させた)ことは誠実だ。

少女革命ウテナとの関係

輪るピングドラム少女革命ウテナから思想的に何が変わって何が変わっていないのか?

まず変わっていないのは、いずれも超越性を否定するストーリーだということ。
少女革命においては、最終話と劇場版でウテナがディオス=超越性の追求を放棄して学園から脱出することで決着した。ピングドラムにおいてもかつては人間のアイデンティティを担保してくれていた家族制度=超越性が崩壊している段階からスタートして、アドホックな代替物を探す物語が展開する。どちらも超越性の獲得に伴うコスト(アンシーを貫く無数の剣、運命日記の代償etc)が大きな問題となっていることも共通している。

しかし大きく変わったのは、超越性の有効範囲である。
少女革命でも家族の問題はよく描かれたが、ピングドラムとは異なりその解決は家族コミュニティの内部では行われない。ではどうやって解決するのかというと、御存知の通りウテナとの決闘によってである。ウテナとの決闘に勝利して世界を革命することによって、個人的な悩みもクリアされる。個人の問題とはすなわち世界の問題だったのだ。少女革命において学園全域という無数の生徒たちを含む巨大なコミュニティに1つのディオスが君臨していたことは、近代的な世界観では人生の問題は社会にかかる大きな物語に回収されることに対応している。
その一方で、大きな物語が終焉したポストモダン、特に1995年以降のポストオウム世代では少女革命式の解決手段は取れない。ディオスは既に死んでいるのだ。個人の問題は個人レベルで解決しなければならない。リンゴのような例外的なキャラクターが存在できることからも明らかなように、ピングドラムでは社会レベルの大規模コミュニティ全体における家族制度の是非が問われるのではなく、家族レベルの小規模コミュニティにおける是非の集合として問題が描かれている。先に述べたようなオウム真理教とピングフォースの差異の理由も恐らくこのあたりにある。君臨タイプの超越性だった麻原は微視的な家族問題においては機能しないとみなされたのだろう。

さて、少女革命では大規模コミュニティの超越性にかかるコスト問題(学園を支配するディオスの存在は剣を受ける薔薇の花嫁と裏表であること)に対して、ウテナとアンシーの間の相互承認がソリューションとして提示されていた。これを超越性の小規模なコミュニティへの分散戦略とみなせば、系を社会から家族へと縮退させることを示している。その一方で、ピングドラムでは家族関係の機能不全を問題として提示し、そのソリューションとしてはコストを共有した新たな家族関係の選択が示された。
つまり、少女革命のラストではソリューションだったはずの家族戦略が14年の間に機能不全を起こしてピングドラムがスタートした。この意味で、ピングドラムは少女革命の流れを継いだ思想的な続編と言える。