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19/7/23 天気の子の感想 腐臭を放つキメラ

・天気の子の感想

20190720225236
面白くはなかった。
従来の新海誠作品とは一線を画した導入でスタートし、中盤までは手垢の付いたセカイ系を乗り越えていこうとする意志を感じたが、結局のところセカイ系と恋愛賛歌のキメラが腐臭を放つ結果で終わったのが残念でならない。

まずはこれまでの新海誠作品について確認しておこう。

補足178:具体的には『ほしのこえ(2002)』『雲の向こう,約束の場所 (2004)』 『秒速五センチメートル (2007)』『言の葉の庭 (2013)』『君の名は (2016)』の五作品について。過去記事→も参照(特に当該記事に添付してある論文の第二節を読むことを推奨)。

新海誠作品の特徴として、極めて強い空間依存性が挙げられる。いずれも恋愛をテーマとした映画であるが、男女の遭遇が作品ごとに明確に指定された特殊な非日常的空間でしか起こらない。男女の交流が深まる様子はほとんど描写されず(最初から運命的な結びつきがあることを前提としている)、代わりに特定の場所でめぐり合うこと自体が目的になるという独特の構造を一貫して持っている。

補足179:「特殊な非日常的な空間」の具体例は以下の通り。
ほしのこえ(2002)』:遠い宇宙
『雲の向こう,約束の場所 (2004)』:塔
『秒速五センチメートル (2007)』:岩舟駅種子島
言の葉の庭 (2013)』:雨天の新宿御苑
『君の名は (2016)』:糸守村


また、いわゆるセカイ系としての要素を構成する超自然的・SF的なイベントは、こうした非日常空間においてのみ発動する。

補足180:なお、セカイ系には様々な定義がありうるが、この記事では「個人の内面と世界の本質が中間項を欠いて短絡すること」を指す。例えば『君の名は』においては、主にミツハの個人的な願いが何故か社会活動や物理法則といった中間項を欠いて時空間的ファクターに直接アクセスすることがその要素である(その起源や変遷については補足178に付した過去記事を参照のこと。今回は詳しくは触れない)。

すなわち、新海誠作品を場の論理によって捉えた場合、日常とは断絶された空間においてのみ、「1.男女の出会い」及び「2.セカイ系的な超常現象の発動」という二つのイベントが発生する。

以上を踏まえたとき、『天気の子』における主人公にとっての「非日常空間」はどこだろうか。答えは「東京」だ。「ホダカとヒナの遭遇(男女の出会い)」及び「晴れ女の能力の発動(セカイ系的な超常現象の発動)」が発生するのはいずれも東京に他ならない。
このように考えると、『天気の子』は物語の導入時点からこれまでの作品と大きな違いがあることがわかる。今までの作品では物語のベースに存在するのはあくまでも日常的な空間であり、非日常な空間とは物語が動く点やクライマックスで顕現する特殊な非連続場であった。しかし、『天気の子』では物語がスタートした時点で主人公は既に東京=非日常空間にいる。主人公にとっての日常空間は故郷の島であり、そこからは既に不可逆的な脱出に成功しているのだ。『天気の子』の物語は非日常空間において全編が展開する。

これにより起きる最大の影響は、セカイ系においては欠落していたはずの中間項としての社会が復活することだ。
『天気の子』におけるセカイ系的な要素とは「ヒロインの祈り」という個人的な行為が社会活動や物理法則といった中間項を欠いて「天気」という自然現象に直接アクセスすることを指している。今までの新海誠作品であれば、こうした奇跡に類する現象はメインの男女二人しかいない非日常空間で発生する極めて私的なものだった(例えば、『君の名は』でミツハとタキクンが初めて出会う山頂の世界には彼らしかいない)。しかし、『天気の子』においては奇跡が発動する空間は様々な人々が所属する社会である。よって、晴れ女の能力は無数の人々に多大な影響をもたらし、お金稼ぎや社会効用といった現実的な用途を提供する。更には主人公とヒロインの交流も弟を始めとする多くの人々に認可されており、「男女の出会い」も「超常現象」も私的ではなく公的なものとして描かれているのが今までの作品と比べて特異である。
これはセカイ系において典型である「私と世界の関係だけに興味があり、残りは全てnone of my business」という引きこもり的態度とは対照的であり、むしろ積極的に社会活動と干渉していくという点で一線を画している。この意味では、前半を見る限り『天気の子』はセカイ系と呼ぶのがふさわしくないとすら言える。前半の時点では「なるほど、いい加減セカイ系に引きこもることをやめて社会と向き合おうとしているのだな」と俺は感心して見ていたくらいだ(この期待は裏切られることになるが)。

では、中間項を取り戻したセカイ系は「世直しもの」あたりに変質してめでたしめでたしかと思いきや、そうは問屋が卸さない。主人公は発砲と家出によって、ヒロインは児童相談所案件によって警察に追われる身となり、中盤からは逃走劇がスタートする。

補足181:この社会からの排斥を象徴的なレベルで正当化すべきか否かは微妙なところだ。すなわち、これは超越的な能力の使用に伴い必然的に発生したコストなのか、それとも物語を盛り上げるためのアドホックなプロットなのか? 見ている間は前者だと思っていたが、見終わった後は後者と言わざるを得ないというのが正直なところだ。
最大限好意的に見た場合、ヒロインが社会から排斥されるのは超越的な力の行使は無条件で社会と調和することが有り得ない(何故ならそうした力の在り方は近代と共に死んだから)という『少女革命ウテナ』で見られたような問題意識を引き継いでいるからと擁護できないわけではない。ただ、そう言うには能力の行使そのものに排斥される理由が伴っている必要がある(例えば、「天気を晴れにしたことが雨であってほしかった人の不評を買ってしまい、晴れ女業そのものが否定された」など)。しかし、実際に社会から排斥された直接の理由は「ヒロインが年齢的に幼かったから」「発砲したから」「家族に無断で家出したから」であり、ヒロインがもう少し年上なら、主人公の腕っぷしがもう少し強ければ、主人公の家庭に理解があれば避けられた程度のものに過ぎない。もう少し抽象度を上げれば「二人が出会うために必要だった」「非日常空間へ渡航するためのコストだった」等の言い方が有り得るが、いずれにせよ、これらは「超越的な力の行使」よりは「男女の出会い」のために伴ったコストであり、「単なる恋愛要素を盛り上げるための演出」と言われても否定できないように思う。


ここに来て、社会の役割は完全に反転する。
それまでは主人公たちに金銭と承認を与えるポジティブな存在だったものが、一転して主人公たちの敵として描かれるようになる。象徴的なのはスガサンやリーゼント警官の反応だ。彼らは晴れ女の力を信じようとせず、舌打ちや極めて常識的な説得で主人公たちに応対する。前半では皆に信じられて(or信じるフリをされて)感謝されていた晴れ女の能力はいまや精神鑑定の対象でしかない。
主人公とヒロインにとって彼ら自身以外のあらゆるものが忌避すべき対象となり、一度は補完されたはずの中間項が再び欠落し始める。更には辿り着いたホテルではヒロインと世界の直結関係(肌がなんか変な色になってるやつ)が改めて私的に提示される。すなわち、セカイ系の復活だ。

前半ではセカイ系を葬送する作品かと思って見ていたが、実態はむしろ逆だ。
前半で社会活動を描写していたのは、後半でギャップによって私と世界の直結をことさらに強調するための演出に過ぎなかった。最もわかりやすく言えば、世界を晴れにすることは前半ではたくさんの人を幸福にする社会奉仕活動として描かれていたのだが、実際には、クライマックスであえて人々を不幸にするという選択を描写することで二人の盲目的引きこもり恋愛を描くための踏み台に過ぎなかったということだ。
非日常空間の舞台化=中間項の挿入と思われた試みは、実際には一度は挿入した中間項を劇的に取り除くことでむしろ短絡を強調するものであったことが明らかになった。あとはセカイ系と恋愛賛歌のキメラが腐臭を撒き散らしながら闊歩するのを見守ることしかできない。

セカイ系の側からすれば私と世界を短絡するためにあえて社会を放棄する身振りが「世界を敵に回しても君を守る」という使い古された恋愛賛歌を招来することを確認し、恋愛賛歌の側からすれば恋愛とは個人的な営みに過剰すぎる意味を読み込むセカイ系的なものであったことを思い出す、利害が一致した幸福な結婚ではあったかもしれない。しかし、何度目の再婚かわからないそれをあえて祝福する理由は俺にはない。序盤ではセカイ系の乗り越えを期待させる内容だっただけに、あまりにもチープな挙式に失望の涙を流すくらいが精々だ。

新海誠にしては珍しく明確に社会(主人公とヒロイン以外の人々)を否定するラストシーンについて云々する感想を多く見たが、セカイ系的短絡と中間項の挿入が二者択一であること=ヒロインと社会のどちらかしか選べないことは社会から排斥された時点で既に示唆されており、まさか後者を選ぶ映画ではないだろうから前者が選択されることは予定調和に過ぎない。つまり、社会を否定したことではなく、社会に言及したことが本質的なエポックである。予定調和を予定調和としてきちんと貫徹したこと、「雨から晴れへ」という誰にでもわかりやすい映像的なカタルシス(PVでは完全にそういう映画のフリをしてたよね)を捨ててまでテーマにこだわった誠実さは僅かな評価に値する。
更に踏み込んで言えば、ラストシーンを懐胎したのはきちんと遡ればやはり「非日常空間を全編の舞台に設定した」時点だろう。一応復習するならば、非日常空間が舞台であったために超常能力が社会との接点を持ち、それ故に接点を切り捨てたラストシーンが可能になったのだから。新海誠作品の系譜を踏まえてこの映画の達成を明文化するならば、それを刻んでおくのが妥当なように思う。

なお、全体としてはセカイ系の再生産に留まった『天気の子』ではあるが、ヒロインの母性からの無制限な承認を意図的に回避する節があったことは特筆に値する。
最も象徴的なのが「年上かと思われたヒロインが実は年下だった(主人公が一番年上だった)」ことが発覚するシーンであり、このシーンを契機として力関係が逆転し、主人公はヒロインを入手するために自ら傷つきながら奔走することになる(男らしさ!)。また、最終的に合流したヒロインはもはや能力を行使しないという点もヒロインから万能性を剥ぎ取ることに相当する。
これがラストシーンで穏やかに日常空間へと後退していった『君の名は』と異なるのは、主人公があくまでも東京という非日常空間に留まり続け、積極的な選択の結果として埋没を引き受けていることだ。だから東京を変えてしまったことに悩んだりする余地が出てくる。とはいえ、これはセカイ系の乗り越えというよりは恋愛賛歌サイドからの要請という節もあるのだが……