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18/9/2 ゴジラシリーズと新海誠作品の宗教理論分析

・宗教学レポート

宗教学レポート(pdf)
「宗教理論を用いて映画を分析せよ」みたいな課題で書いたやつ。今回は必要な事前知識がやや多いので、この記事を全部読んでからレポートを開いた方がいい。
これ、wikipediaに載っているような宗教学の権威に「非常に優れたレポート」という評価を貰って嬉しかった。東大の教授にセカイ系の話とかして大丈夫なのか不安だったんだけど、結構いけたね。

分析した映画は「ゴジラシリーズ」と「新海誠作品」の二つ。最初ゴジラで書いたら字数が足りなかったから新海誠についても書くことにしただけで、二つの内容は概ね独立している。宗教学とはいえ基本はこのブログに書いてるような特撮とアニメの話だからそんなに難しくないと思う。

補足150:ゴジラは「得体の知れなさ」を使って怪獣の絶対性を担保し、新海誠作品は「出会えなさ」を使って恋愛の絶対性を担保するという、いずれも否定形のモチーフを反転させる否定神学的なギミックが用いられていることを共通点として挙げることもできる。その接点で論を結びつける予定もあったけど、それをやろうとするとどうしても本論に皺寄せが行くので今回は諦めた。

ゴジラとヌミノース体験

この話はサイゼリヤ講義後の温野菜でゆわかしきさんと喋ったことがベースになっている。
スタートとしては「ウルトラマンの怪獣とゴジラの怪獣ってなんか違うよね」っていう話で、バルタン星人はスペシウム光線でサクッと倒せるけど、ゴジラはあんまちゃんと倒せないんだよね。海に帰っていったり、凍結止まりだったり、次の個体が出現したりと、せいぜい引き分けで終わることが多くて人類が完全勝利することはない。まあ、1990年代くらいのゴジラは娯楽映画化が進んで強さが相対化された側面もあったみたいだけど、少なくとも2010年以降の第四期シリーズでは人間では倒すことができない、人間の把握を超えた神的な存在にして不可知の怪物という位置付けを与えられているといって間違いない(俺はシリーズ全部はちゃんと見てないからはっきり言えないけど、「最初の1954年版でもゴジラはちゃんとは倒せなかった」ということは特撮に詳しいゆわかしきさんに教えてもらった)。
そういう「よくわからんしあんま倒せない」みたいな規定不可能なタイプの怪獣像はミストやクローバーフィールドのように洋画にもいくつか発展形のような事例があって、それらは宗教的な「ヌミノース体験」を誘発するからウケてるんじゃないか?ということを俺は考えた。

じゃあそのヌミノース体験って何?ということはレポートの中では説明していないから、それについて補足する。
これはルードルフ・オットーという学者が宗教の本質として考えた体験のことで、wikipediaによると

・宗教体験により原始的な感情が沸き立つものである
・概念の把握が不可能で説明し難い
・畏怖と魅惑という相反する感情を伴い、身体の内面から特殊な感情が沸き起こるものである
・絶対他者の存在を感じさせ、人間が本来備えるプリミティブな感覚により直感するものである

というものらしいが、はっきり言ってこれを読んでもほとんどわからない。特に二番目の説明がヤバくて、「概念の把握が不可能なものを理論の中核に据えるなよ」というのは誰でも言うと思う。俺もそう思う。
しかし、まず時代背景としてこのヌミノース体験説は「宗教を科学の前段階として合理的に捉える」という潮流に対するカウンターとして提唱されたことを認識しておきたい。「そもそも宗教ってそんなに合理的じゃないしもっと主観的で不合理なものでしょう」という発想から来ているものだ。実際、俺らが宗教にハマっている人のことを横から見たりパンフレットを読んだりしても彼らのことはそんなに理解できないし、そういう意味では「宗教は言葉で説明できない特別な体験をした人にしかわからない!!」という開き直りもそれなりに説得力がある感じもする。
俺も無宗教だからヌミノース体験のことはよくわからないけど、寺とか神社でクソデカ大仏を見て「おおおお!」と圧倒される感覚あたりが多分それに近いんだと思う。その強化版みたいな体験をした人が信者として宗教に入っていったりするんだろう……というのが宗教の本質としてのヌミノース体験であるといえば、ちょっとは感覚がわかってくる。

さて、注目すべきは上の四項目の説明がゴジラ的な怪獣像の説明としてそのまま転用できることだ。
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原始的な衝動、把握し難さ、畏怖と魅惑、絶対的な他者。「これはゴジラの説明です」と言っても多分通用する。特にシンゴジラであの悲しげなBGMを背景に内閣が壊滅したシーンを見たときの体験はヌミノース体験にぴったり当てはまるのではないだろうか。本来の宗教理論としてはよくわからないのにゴジラ理論と言われればすぐにわかるのが面白い。まあ、この感覚がわからない人もいるだろうし、通じる人には通じる的な説明でしかないのだが、そのあたりもヌミノース体験と似ているか。

じゃあゴジラが宗教的なヌミノース体験を喚起することを理論的に証明しようというのがレポートの論旨になる。
ここから先はレポートを読んで貰えればいいのだが、宮台真司の評論と統合失調症を橋渡しにして構造主義的な精神分析理論を用いた説明を行っている。その具体的な内容はややテクニカルなので、理解できなくてもあまり問題ない(説明に必要な労力の割にそこまで面白くないので読み飛ばしてもいい)。

新海誠作品と世界の柱

取り上げた新海誠監督作品は『ほしのこえ(2002)』『雲の向こう,約束の場所(2004)』『秒速五センチメートル(2007)』『言の葉の庭(2013)』『君の名は(2016)』の五つ。例外的な内容の『星を追う子ども(2011)』を除いた新海誠の主要な全作品についてのレポートだけど、別に全部見てなくても問題なく読めるはず。

補足151:俺は全部見たけど、どれもそんな面白くないしオススメはしない。似たような内容なので一本見てつまらなかったらもう見ない方がいい。

こっちの方が簡単な内容だと思うが、宗教学用語の「世界の柱」についてだけ補足しておく。
これはミルチャ・エリアーデという学者が考えたもので、「世界軸」とか呼ばれることもある。大雑把に言うと、世界のどこを見ても大抵の宗教施設には「塔」があるよねということだ。
教会の屋根?には大抵なんか尖った塔みたいのが付いているし(ケルン大聖堂とか)、日本でも神社仏閣には五重の塔やそれに似たものが無限にある。逆に、エッフェル塔とか東京タワーみたいな塔は、本来宗教的な施設ではないにも関わらず何となく神聖なイメージを帯びて街や国の象徴になったりもする。天地を貫く塔という形象はそれだけで世界の軸や柱になる普遍的な宗教モチーフなのだ。エリアーデは「空間の均質性における裂け目」「領域間の移行」「世界軸の周囲に<世界>が広がる」とか色々なことを言っているけど、どれも塔の性質として何となく理解できる。
サブカルチャーでも塔を利用する事例は枚挙に暇が無く、特にゲームではラストダンジョンや重要施設が塔であることは非常に多い。遠くからでも見えるからアイコンとして優れているとか、階層を設置できて中身を作りやすいとか制作上の理由も色々あるだろうけど、やっぱり塔があるとそれを中心にして世界が回るものなのだ。マインクラフトでも街一つにつき塔一つを作っておくとランドマークになってかっこいいぞ。

新海誠作品にも塔のモチーフは散見される。
ほしのこえ』では大地から宇宙に向けて放たれる携帯電波は世界軸の役割を果たしているし、『雲の向こう~』ではわかりやすくデカい塔が建っていた。じゃあ新海誠がよく利用する宗教モチーフというだけで終わりなのかと思いきや、『秒速~』以降では塔の意匠は失われる(ただ、それでも『君の名は』のキービジュアルでは天地を貫く垂直な閃光が世界軸の役割を果たしていたりする。これはレポートを書いたあとに気付いたけど、個人化した世界軸の象徴的な事例として論の中に組み込めばよかった)。
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ではこの変化は何故起きた?ということを説明するため、新海誠作品に一貫する場所への病的な執着と、1980年代以降くらいのアニメ史におけるポストモダン論(特にセカイ系の展開について)を足がかりにして通時的な分析を行ったのがレポートの内容になる。一応このままだと作品評論になってしまうから最後に取って付けたように社会への言及をしているけど、ほとんどアニメ批評だね。
あとはレポートを読めばわかると思う。わからない箇所があったらTwitterかお題箱で聞いてください。