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19/2/2 ワンピースの感想 思想とバトルルールの変遷

・ワンピースの感想

ワンピース、相当面白い。最初はエースが死ぬくらいまで読むかと思って読み始めたんだけど、面白いのでそのまま最新の90巻まで読んでしまった。

俺にしては珍しいことに国民的漫画を高く評価するという順張り中の順張りなのだが、俺から見れば何故この漫画が一般に支持を得ているかよくわからない。この漫画、どう見ても王道ではなく、思想的にかなりピーキーな邪道である。俺が順張りに転向したのではなく、ワンピースが逆張り漫画というのが率直な感想だ。

ワンピースが自由を最重視して称揚していることは誰の目にも明らかだと思うが、それを徹底した結果、反体制・反道徳・生命軽視・相対主義etcも明確に肯定したかなりリベラルな漫画である。
まず、「麦わら一行が独裁政治に支配された国に着く→ルフィが独裁者をしばく」というのは多用されるストーリーラインの一つだが、これを「勧善懲悪」と表現するのは完全な誤りと言わざるを得ない。独裁者は本来自由であるはずの大衆を抑圧している悪だから倒されるだけで、それに代わって特定の善が啓蒙されることはない(「懲悪」はあるが「勧善」は無い)。これはルフィの「ヒーロー嫌い」を見れば明白である。
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人気が出てからもこういうことをきちんと言わせるのがワンピースのすごく偉いところなのだが、ルフィが利益を共有できる範囲は極めて狭く、不特定多数への貢献に対しては明確な拒絶を示している。顔の見えない連中がどうなろうが知ったことではないのだ。実際、麦わらの一行は騒動のあとはすぐに国から脱出するため、解放された権利が次にどういう体制を組織するかを監督する立場にない。
これは重要なポイントだ。悪の打倒と同時に何らかの道徳的な善性が勝利して普及するのであれば「勧善懲悪」だが、ワンピースでは大衆を抑圧する悪を排除したらあとは完全に関心の対象外になるのだ(ルフィは大衆を救わない)。麦わらの一行の仕事は啓蒙運動ではなく自由解放運動である。これが些細な言葉の使い方の違いではないのは、後者を徹底する場合は前者とは明確に対立するからだ。「抑圧からの解放」を強く掲げる立場から見れば、啓蒙者が勧善懲悪と言いながら不特定多数に一定の価値観を押し付けることもまた、強権の介入行使という意味で独裁者と大差がない。よって、クロコダイルのような独裁者との戦いも「独裁政治vs民主政治」というように制度を選択する戦いではなく、単なる「抑圧vs解放」という図式で見なければならない。

このように自由が徹底されているのは、自己決定について議論の余地がある点に対して一貫して明確な立場を取っている誠実さからも伺える。
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これは仲間が助けに来たにも関わらず「死にたい」と漏らすニコロビンにルフィが返答するシーンだが、仲間であろうが自殺する権利を特に否定しない(この前のシーンでルフィは鼻をほじってニコロビンの話を聞いており、他人の決定への関心自体がない)。
この描写には自己決定権の裁量という問題が横たわっている。自由を考えるにあたって、「現実問題として自由な行動をどこまで権利として認めるか」という問題は当然出てくる。「他人に暴力を振るうことも自由だ」という意見に対しては「暴力を振るわれた他人の自由を抑圧するので良くない」という、ある程度は一貫性のある反論が示せる。しかし、「自殺することも自由だ」という意見はその論理では止められない(自殺は他人の自由には特に干渉しないので)。
よって、本当に自己決定権を認めるならば自殺権も保障すべきということになるが、一方で社会の混乱を防ぐため「自殺はいけない」という価値観が強固に定着していることは周知の事実である。いわば「自己決定権」と「社会道徳」のどちらを取るかという問題に対して、少年誌であるにも関わらず即座に前者を選択できるワンピースはそれなりにラディカルだ。

また、有名なインペルダウン編の副署長の演説は更に深刻な状況を扱っている。
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最初に注意しておくと、副署長のこの発言は海軍としては割と珍しい。ワンピースでは海軍は体制を象徴して海賊を抑圧する組織であるかのように描かれることが多いので、このシーンで「そういえば海軍って治安維持組織だったっけ……」と思い出した人も多いのでは。
さて、ルフィがなりゆきで解放しようとしているクロコダイルはかつて実際に独裁を敷いた張本人である。明確に他人の権利を抑圧する人間であり、それを副署長が止めようとするのは自己決定権の擁立という視点から見ても正論だろう。このシーンに限っては、大局的に見ればルフィと副署長の利害は食い違っていないとすら言える(ルフィだって過去にクロコダイルを倒したのだから)。
しかし副署長に対するルフィの返答が噛み合わないのは、ルフィが物事を大局的に見ないからだ。ルフィは過去や未来の権利を考慮せず、現在の権利しか考えない。ルフィだって監獄から出たクロコダイルがまたアラバスタ編のようなことを起こせばまた同じように戦って倒すだろうが、少なくともそれは今ではない。それだけの理由で、現在の自分の自己決定を優先できるのだ。
こうした時間的な局在もまた権利の考え方としては過激である。というか、社会制度としては間違いなく成立しない。こんなことを認めてしまえば、「殺人犯が実際に罪を犯したのは過去の話で、現在とは関係がないので、現在の権利を重視すればただちに釈放すべきである」という論法が成り立ち、社会は崩壊する。しかし、ルフィは海賊なのでアナーキストでも特に問題はない。社会制度レベルで思考する責任のある人間ではないので、やはりこれも強く自由を称揚する立場としては筋が通っていると言わざるを得ない。うーん、反道徳。

補足165:もっと大雑把に言えば、ルフィと副署長の利害の対立は、よくある自己決定の利益と社会の利益の食い違いでもある。これを描かずに「自己決定した結果、なんか社会においても有益なポジションを確保できました」という流れで自由を称揚する作品はよくあるが、それを「欺瞞」とは言わないまでも「都合の良いお話ですね」と言わざるを得ない。
ディズニーで言えばズートピアがそんな都合の良い話だった一方、アナ雪はきちんとこの食い違いを認識していた。俺も実際に見るまで勘違いしていたのだが、「実はレリゴーが歌われたのはラストシーンではない」ということは重大な意味を持つ。エルサはレリゴーした時点では生来の氷雪能力のために社会から追放されており、「コミュニティを抜けたのでありのままでいることができる」というのがあのミュージカルの真意である。すなわち、少なくともレリゴー時点でエルサは自由であるためのコストをきちんと支払っており、「ありのまま」を称揚する資格がある(にも関わらず、コストを切り離してレリゴーを歌う人はあまりにも多い)。


また、こうしたリベラルな思想は能力バトルとの親和性が高い。
ある体制が一強で成立している場合、人間の価値はその体制が持つ価値観に基づいた特定の基準によって測定されるのだが、そういう体制の抑圧から大衆を解放すれば、一義的な測定基準は緩和されて色々な能力が再発見される。無論この話は男性体制の解体に伴う女性の再発見(フェミニズム)、資本家体制の解体に伴う労働者の再発見(カルチュラルスタディーズ)、西洋体制の解体に伴う東洋の再発見etcを念頭に置いているのだが、このブログでそんな話をするのもアレなので、漫画の話をしたい。

これについては「将太の寿司2」が格好の教材になる(2019年3月末まで無料なので読んだ方がいい→)。
将太の寿司2」では「1」(「2」以前の全部、全国大会編まで)までの思想が180度転換されている。舞台が海外に移り、トーナメントが廃止され、審査員ではなく実際の客にウケる寿司を求めて試行錯誤するストーリーが展開される。「1」では「自由な発想だ」とか何とか言いつつも、結局のところ「日本寿司業界」という伝統的な一強体制が価値観を支配しており、その意向に沿えるかどうかで寿司職人の能力が問われていた。ところが、海外展開を基本とする「2」では権威組織が完全にオワコン化する。「2」で強力な寿司職人とは、様々な文化的背景を持った客にその場その場で適合できる職人である。伝統に固執する職人はどんどん脱落していき、目の前の客の文化に合わせて(「1」で見られたウケ狙いの小細工ではなく)新しい寿司を創造する職人が勝利するのだ。

まあ寿司に限ったことでもなく、そのようなことがグローバリゼーションと生存戦略の一般論としてあるわけだが、我々の興味である能力バトルの話に戻ろう。
将太の寿司の思想変化は、「修行バトル」から「能力バトル」へのバトルルール変化とも言える。「修行バトル」では強さを決める基準が一通りしかなく、努力してその基準の上でどれだけ自分を高めるかが勝敗を決定する。寿司業界が決めた一本のゲージが全員に割り当てられており、その数値が人によって100とか150とかまちまちな中で、最高の値を持っているという理由で将太は優勝したわけだ。一方、「能力バトル」では強さを決める基準は複数になり、相性や適応力によって勝敗が決定される。「1」で流通していたゲージは実は「日本の味覚」というローカルなゲージに過ぎなかったことが発覚し、「アメリカの味覚」「フランスの味覚」など様々な基準の能力を客に合わせて選択していくことが有効だ。「将太の寿司2」で勝利したのは、客ごとに異なる味覚基準に合わせた寿司を握れる女職人だった。

さて、これが元々グローバリゼーションに伴うリベラルな多文化主義から来ていたことを思い出そう。
「これが日本の寿司だからこれ以外認めない」という抑圧的な一強体制のものでは「修行バトル」しか起こらないのだが、「既存の日本の寿司以外の味覚も認めよう」という自由と寛容の精神によって「能力バトル」が起こってくる。味覚の自由を認める世界観が、評価の多元性と能力バトルを導くとも言える。
この構図はワンピースでも同じだ。各人が自由に個性を発揮するためには、一つの尺度で強さを測る修行バトル方式よりも相性によって勝ったり負けたりもする能力バトル方式の方が望ましい。ルフィはエネルに圧勝するがスモーカーに手も足も出ず、エネルとスモーカーが戦えば(恐らく)エネルが勝つという三すくみの構図が複数の価値のあり方を支持している。

もっとも、こうした能力バトル傾向はワンピースに始まったことでもない。というか「修行バトル」がウケたのはドラゴンボールとか男塾みたいな時代の話で、(JOJOはあまりにも先見の明がありすぎたが)NARUTOBLEACHもヒロアカも個々人に固有の能力と相性があるという意味では概ね広義の能力バトルに含めてしまっていいかもしれない。
1つの作品内で修行バトルから能力バトルに転換した例としては、幽遊白書が挙げられる。戸愚呂弟までは単純な暴力性能が勝負を決めていたのだが、仙水編に入るあたりで突然「能力」設定が導入された。これにより評価基準は多様化し、戦闘能力は皆無の海藤が最強の妖狐である蔵馬を追い詰めることも可能になる。能力バトルの世界観ならば、暴力がダメでも国語力で勝負できるというわけだ。更にこの世界観が引き継がれて強化されたのがハンターハンターの念能力であることは言うまでもない。

補足166:ジャンプ漫画で能力バトルをトリッキーに扱った作品としてはシャーマンキングめだかボックスが挙げられる。
シャーマンキングでは一貫して巫力・霊力という数値化可能な基準が勝敗を決めており(数値化して比較できる時点で多様化とは遠い)、オーバーソウルも固有の能力をあまり持っていないなど一見すると典型的な修行バトル的なバトル漫画だった。しかし、中盤頃から「そもそも戦わない」という選択肢が注目され始める。敵意を持たないことで攻撃を無効にできることが明らかになったほか、ラスボス(ハオ)とも決着せずに終了する。能力を導入することなく一元的な戦闘能力の評価体制を否定したという意味で印象深い作品である。
めだかボックスでは、一通り能力バトルを楽しんだのち、「無限に最強のスキルを持つ」という安心院さんが登場する。これが能力バトルへのアンチテーゼであることは言うまでもない。色々な相性と個性があるから能力バトルが成り立つのであって、量的にも質的にも常に上位互換のキャラクターが現れたらシステムが崩壊する。しかし、最終的に安心院さんは「スキルではなくスタイルを使う敵は戦う土俵が違うから無理」というよくわからん理由で瞬殺されてしまう。これは「無数のスキル群」という多様性もまた一つの体制に過ぎないことを指摘したものだ。今までは「大嘘憑き(オールフィクション)」と「完全(ジ・エンド)」というスキル同士の対比だったものを、より上位の「スキル」と「スタイル」の対比に移したという意味で能力バトルがメタ能力バトルに変化した。とはいえ、その試みはバトル漫画としては大して面白くなかったというのが正直な感想である(後期めだかボックスは他にも人文思想的な発想を設定や展開に転用するという試みを色々行っているが、無駄に衒学的になっただけで漫画としては……)。


ワンピースにおいて能力以外にも多様な評価基準の下で個性を認め合う仲間関係にあったことを示すエピソードを一つ挙げるなら、ウソップ脱退シーンだろう。
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読めていない人たちの間では「ルフィが実はずっとウソップを下に見てた」などという浅薄な読解が流通しているが、それは大変な誤読、センター国語0点と言わざるを得ない。
「戦闘で勝てるわけがない」というのは「戦闘以外では勝っている」の裏返しである。ルフィは暴力性能は高いが手仕事や射的はウソップの方が得意で、そういう役割分担をしてきているのによりにもよって暴力で勝てるわけねェだろ(かといって戦士に憧れるウソップには射的で勝負する選択肢は無いという悲しさ)という、評価の多様性を下敷きにした嘆きである。

さて、ここまでワンピースにおける自由称揚と価値の多元性の帰結としての能力バトルについて書いてきたのだが、そろそろ例の設定についても話さざるをえない。
すなわち、「覇気」である。

以上の経緯を踏まえれば、覇気の導入が持つ意味は重大だ。
覇気は全員が同じ基準で持つ比較可能な数値であり、覇気が凄ければ凄いほどほど強いという単線的なバトルルールを提示する。覇気さえあれば能力を無視できるというルールもあるため、相性も否定される。悪魔の実のバトルルールではルフィとエネルとスモーカーは(たぶん)三すくみだったのが、覇気のバトルルールでは覇気が強い順に勝者が決まっていく。
つまり、覇気設定導入が示すのは、能力バトルから修行バトルへの逆行である。先にも述べた通り、今の少年漫画は基本的には修行バトルから能力バトルへの移行を終えた段階であり、「修行→能力」という変更はいくつかあれど、ここまで明確な「能力→修行」という変更は他に類を見ない。幽遊白書が「能力」を導入して行ったことと真逆の試みをワンピースは「覇気」で行っている。

実は、マリンフォード頂上決戦のあたりで、覇気の導入以外にもワンピースの思想にはいくつか動揺が起きている。このため、だいたい60巻くらいを境にいわゆる前期ワンピース・後期ワンピースが分かれてくる。

補足167:念のために書くけど、前期・後期とか言っているのは俺だけなので「いわゆる」は嘘です。

副署長の演説周りで書いたように、インペルダウンでの大脱走はリベラルの暴走による保守体制の破壊として位置付けられる。この流れは最終的にドフラミンゴが正義の相対性を叫ぶまでに至り、前期ワンピースの自由称揚の到達点と考えて良い。しかし、この頃から不可解な点はいくつかあった。

そもそも「エースの救出」という目的が普通に意味不明である。
エースは自分自身の意志で自爆したのだから、身内の白ひげはともかくルフィが助けに行く理由はない。自己決定により行動した人間の尻を拭うことは、その人が自分一人では満足に自分の行動の責任を取れないことを意味するわけで、自由の称揚という視点から見て決して望ましくない。ルフィもよくニコロビンやサンジを助けたりしているものの、それは人質等によって仲間にとって不本意な選択をさせられていることを察知していたからだ。人質を取っているやつの抑圧から解放するという意味で一貫性があり、普通に突撃していって普通に自爆したエースとは全く事情が異なる。
実際、(何巻か忘れたが)最初にエースの逮捕を知った時点でルフィは「俺には俺の、エースにはエースの冒険があるんだから横やり入れたら俺が怒られちまうよ」とかたしかそんなような、非常に真っ当な見解を述べていたはずだ。ここからエース救出に転向するまでにルフィはエースと接触しておらず、突然救出派に転向したことを正当化できない(作品的には過去回想で正当化しうるが、時系列的な合理性が取れない)。

また、能力バトルが明確に否定された初めてのバトルはエースvs赤犬だ。
「マグマグはメラメラの上位」というよくわからん理由でエースは瞬殺されたが、(恐らく設定的には覇気で倒したにも関わらず)赤犬から「上位種」という概念が出たことは注目に値する。「上下関係がある」ということは何か上とか下とかを決めるような一つの尺度が存在するということだ。これは「何でも相性次第」という能力バトルの世界観ではなく、「とにかく数値次第」という修行バトルの世界観である。

前期ワンピースではこの二つの意味でエースに思想上の歪みが集中しており、「修行の2年」を境にこれが覇気設定を得て噴出した。
全員が戦闘要員になったこともこの一つである。ウソップ脱退シーンで書いたようにワンピースでは戦闘要員と非戦闘要員が明確に区別されていたのだが、修行以降は全員が(大きく差があるとはいえ、雑魚なら蹴散らせる程度に)戦えるようになる。これも評価基準が戦闘能力に単一化されつつあることを示す証左だろう。

最後に、ルフィvsカタクリ戦はあらゆる意味で後期ワンピースの修行バトル路線を象徴するものだ。
そもそも、戦闘の動機からして、ルフィから勝負を申し込むことはカタクリ戦が初めてだ。それまでの戦闘は全て「邪魔されたから」という理由で始まる火の粉を払う戦いであり、見た目に反して意外にも非戦闘的なのが麦わら一行の特徴だった。あれだけ大衆を苦しめたドフラミンゴとの戦いですら、ルフィはヒーローであることを否定しつつ、あくまでも自分たちの邪魔をさせない限りでドフラミンゴと戦うという意志を表明している。
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ところが、カタクリ戦ではルフィが本来不必要な戦いを自己研鑽のために要望するという意外な行動に出る。言うまでもなくこれは「修行」であり、相性ゲーではなく努力ゲーなので経験値の需要が高いというのは修行バトルの特徴でもある。
また、「ゴムゴムvsモチモチ」という同型能力の勝負であることも注目に値する。ミラーマッチでは相性差は発生せず、純粋な戦闘性能=覇気が勝負の鍵を握らざるを得ない。「どのように能力を使うか」ではなく、「どれだけ能力を鍛えてきているか」が問われるのだ。実際、カタクリはルフィの技を一見しただけで再現できてしまい、ルフィに能力的な独自性は一切存在しないことが示される。「モチに対するゴムの優位性」というような個性に注目する視点は存在しない。結局、勝負はルフィが見聞色の覇気を鍛えることによる未来視の獲得で決着する。これは元々はカタクリが持っていた能力であり、同じ能力をどれだけ高い精度で得るかというやはり単線的な評価が勝敗を分けた。
全体として相性全振りの能力バトルマッチングだった前期ワンピースの「ルフィゴムゴムvsエネルゴロゴロ」とは全てが真逆であり、現時点で後期ワンピースを象徴する戦いとして位置付けられる。