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18/11/8 Vtuberの話題10選

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自分で書きながらこの文章なんか見覚えあるな~と思ってたんだけど、これ大学のシラバスだな。

・1.Vtuberセクシャリティについて

現在Vtuberジェンダーに関する議論は(過剰に)盛んであるが、セクシャリティに関する議論は十分ではない。社会的構築物としての性を表すジェンダーとは異なり、セクシャリティとは本能としての性、平たく言えばオナニーの可否の問題である(バーチャルセックスは物理的にできないので考えなくてよい)。
もともと、オタクとセクシャリティについての議論は30年ほど前に活発に行われていた。
宮崎勤の女児監禁を受けた「女児のキャラクターに欲情するオタクは性犯罪者である」というマスコミ側のパッシングに対し、「幼いアニメキャラクターに欲情するオタクが必ずしも現実でペドフィリアというわけではなく、リアルとフィクションのセクシャリティは無関係である」というオタク側からの自己擁護に切実な需要があったからだ。基本的には現在でもこの論は有効で、「あるアニメキャラクターでオナニーをしたからといってそれがそのキャラクターと同じステータスを持つ現実の女性に対して性欲を持つことを意味しない」という認識は一般的と言ってよいと思う(眉をひそめる人は少なくないにしても、ただちに性犯罪者と同一視されることはあまりないだろう。もっとも、市井の人々はそもそも「アニメキャラクターでオナニーができる」という発想自体を持たないという方が実情に近いような気はするが)。
しかし、そうやって30年前に政治的に葬ったはずの現実と虚構におけるセクシャリティの結合がVtuberの登場によって蘇ってきている。Vtuberはフィクションのキャラクターでありながら現実の女性の介入が大きいために分離が自明ではないのだ。Vtuberの声はもちろん、手足の身振りやリアクション形式は現実の女性そのものと言わざるを得ない。もしVtuberの女性的な手振りや反応に萌えてオナニーをするのであれば、それをフィクショナルなセクシャリティに基づくオナニーであると強弁するのは難しい。

・2.Vtuberと虚構存在論について

存在論とは文字通り存在についての論であり、物理的存在を超えた存在一般について議論する形而上学の分野のひとつである。
まず、虚構キャラクターとしてのVtuberの存在を捉えるのに物理学が役に立たないことは明らかだ。厳密に物理的に捉えられるVtuberとは「何らかの傾向を持つコンピュータメモリ上の電子配列」以上のものではないからだ。これが存在の語り口として不適切な以上、物理領域を逸脱した存在として存在論のテーブル上で語らなければならない。
実際、既に存在論において虚構キャラクターについての議論はよく行われている。しかし、伝統的な存在論では虚構キャラクターは物語テクスト中の存在(何らかの言語によって記述される存在)として捉えられている節がある。現代的なメディア、とりわけVtuberのようにTwitterや動画を介して散発的に出現するキャラクター形態についての議論は十分でない(現代的な虚構存在論を御存知の方がいたら教えてください)。「帰依する物語を完全に放棄している」「我々と交流可能である」といった、シャーロックホームズとは全く異なる性質を持つVtuberが既存の虚構キャラクター存在論をどのように改訂していくのか。
参考過去記事

・3.Vtuberと言語行為論について

大雑把に言って、言語行為論とは「行為執行文」と呼ばれるタイプの文章を扱う論である。
行為執行文とは、発話と行為が不可分なタイプの文章を指す。例えば、「そこに座ってください」という発話は、実際に「そこに座らせる」という行為を誘発する限りにおいて意味を持つ。逆に言えば、「そこに座ってください」と言ったにも関わらず誰もそこに座らなかった場合、その発話は不適切だったということになるだろう。このことからわかるように、行為執行文は「適切/不適切」という軸で評価される。これは「真/偽」を評価基準とする自然科学的な事実確認文とは全く異なるルールで働く文章であることに注意しよう。
行為執行文という文脈で虚構物語を捉えた場合、「ごっこ遊び」と考えられることがよく知られている(諸説ある)。語り手が物語を語ることによって聞き手が「虚構を本物であるかのように信じる素振りをする(ごっこ遊び)」という行為を誘発する。実際にオタク文化で発話のみによって紡がれる物語はドラマCDか催眠音声くらいしかないが、「虚構をとりあえず信じる素振りを誘発する」という点においては、アニメや漫画についてもこの構図は有効であるとしよう。
しかし、同様にVtuberを行為執行文という文脈で捉えようとしたとき、状況は大きく変わってくる。まず、古典的な物語像とは異なるのは、どこまでが素振りであるかが極めて不明瞭だということにある。聞き手=消費者がVtuberにリプライを送ることはごっこ遊びではなく何らかの人間性との真正な交流を含意するし、語り手すなわち中の人にとってもそれは同様である。
Vtuberという行為は何を執行しているのか、それは伝統的な物語行為とどこがどう異なるのか?

・4.Vtuberポストモダンのキャラクター像について

サブカル圏における学術的なオタク議論の嚆矢として東浩紀が『動物化するポストモダン』を上梓してからもう15年も経つ。ポストモダン状況を巡るデータベース論の中で提出された現代キャラクター像、すなわち「物語から自律して駆動するキャラクター」は今でも勢力を増し続けている。
素直に捉えれば背後の物語を一切持たないVtuberは自律キャラクター像の極みであり、特に記憶喪失によりバックグラウンドを喪失しているミライアカリなどはその典型と言えるだろう。しかし、にじさんじが登場したあたりからはむしろ豊富な設定群を備えたVtuberが次々に登場し、既存のVtuberも交流企画によって人間関係を形作っていくようになる。昨今のVtuberキャラクターは物語からエスケープするというよりは、どちらかといえば物語にバインドされる方向に進んでいるように見える。
もちろんこれは非常に粗雑な見方であり、現実的には商業的な要請というところが一番大きいのだろう。しかし、その帰結として導かれるであろう背後にあるキャラクター像の変化を探る必要がある。

・5.Vtuberと可能世界について

虚構キャラクターと世界の関係は複雑に変化してきた。
最も古典的にはあるキャラクターはある特定の物語世界に拘束されているものだったが(スターウォーズ世界におけるルークのように)、異なる物語世界の間を移動できるキャラクターが今では普通に存在しているし(神バハ世界とグラブル世界を跨ぐヴァンピィちゃんのように)、最近では最初からそうした世界観を前提とした作品が作られたりもしている(シュガーラッシュオンラインのように)。
Vtuberもまた、基本的には世界間を浮遊する現代的なキャラクターと考えてよい。しかし、爆発的に数が増えた今、そのスタイルはあまりにも多様である。基本的には一つの別世界に存在していながらたまに現実世界に出向してくるキャラもいれば、そもそも定住世界を持たないキャラもいる。キズナアイは電脳別世界に在住しているのか、それともあの空間は現実世界における一つのサイバースペースなのだろうか?
そもそもの問題として、彼らは現実世界に所属していると言えるのか、言えるor言えないとしてその主張の合理性はどのように確保できるだろうか。Vtuberから見た世界認識という観点で言えることはないか。
参考過去記事

・6.Vtuber脱構築について

非常に大雑把に言って、脱構築とは二項対立を無化する思考法である。
最も古典的な議論としては、絵vs枠が挙げられる。絵と枠を比べたとき、一般的には絵の方が本質的であると考えられている。枠はただ単に絵のふちに付ける飾りに過ぎず、鑑賞対象として芸術的なのは絵の方だ。しかし、本当に枠がオマケの飾りなのだとしたらそんなものは取ってしまってよいはずなのに、実際はどんな絵にも100%枠が付いているという事実がある。枠が囲った範囲が作品であるという暗黙のルールがあるため、枠が無ければ絵は確定しないからだ。となると、むしろ絵を絵として定めている本質は枠の方なのかもしれない。どちらが本質的かという判断は互いに乗り越え・乗り越えられる関係にあり、二項対立の様相は確定しない。
同じことがリアルvsバーチャルについても言えるだろう。一般的には、リアルはバーチャルに勝ると考えられている。レディプレイヤーワンでも、(あれだけバーチャルな内容をやっておきながら)「リアルこそがリアル」という信条によってリアルへの帰還が正当化された。しかし、バーチャルが本当にオマケならオアシスが作られる必要はなかったわけで、絵vs枠と同じように何らかの形で対立がひっくり返される契機はどこかにあるに違いない。この対立を考えるにあたり、リアルに所属する我々に対して、(疑似的にではあるが)バーチャルの側から存在を主張するVtuberのパフォーマンスが手掛かりになる可能性は高い。
参考過去記事

・7.Vtuberと社会の生成論について

VRChatを代表とするアバター交流技術は次々に整備が進み、いまや多少の情熱があれば自分のアバターを携えて萌えキャラとして他の萌えキャラと相互交流できるようになった。
そうしたVR空間は今のところは夢のパラダイスと考えられているが、そのパラダイス性はどこに由来しているのだろうか。単なる真新しさや社会としての未成熟さではなく、バーチャルがバーチャルであること自体に何らかの本質的な喜びが含まれているのだろうか?
個人的に危惧しているのは、今ある楽しさがただ単にコミュニティの未発達さに支えられているケースである。生活空間が移住してくるに伴ってVR空間は現実世界の劣化コピーとなり、あの息苦しさと退屈さが息を吹き返すことを恐れている。もしそうであるならば、次々に整備を進めるよりもネオテニー性に目を向けて保護すべきポイントがどこであるかを明確にしなければならない。
参考過去記事

・8.Vtuberと宗教について

オタク文化と宗教を結びつける場合、オタク組織を宗教組織とみなすやり方が古典的である。例えば、オタクが集まる熱狂的なライブにおいて、アイドルや初音ミクが教祖、ドルオタやミクオタが狂信者であるという具合だ。
しかし、Vtuber文化ではこの図式は大きく変わってくる。視聴者もまたアバターを纏ってVtuberに並び立つ位置に到達できるからだ。特定のVtuber一人を特権視する必要はなくなり、むしろ愛着ある自分のアバターの方が大切に感じることさえあるだろう。となると、有象無象が太陽を見上げているという古典的なオタク組織の宗教解釈も変更されざるをえない。同時発生する信者のアセンションと教祖のディセンションから帰結する均質化によって、ミカエルだった初音ミクアザゼルとしてのキズナアイになる。
別の言葉で言えば、今行われている想像力の改訂は超越的主体(特定の主体の超越性)の陥落である。非常に乱暴に言って、オタク文化と宗教において最も重要な要素はキャラクターという形態で想像されることが多いのだが(八百万の神々を見よ)、前者においてそれが失墜するのなら、後者はどのような変化をするのだろうか。

・9.Vtuberと百合

近年オタク文化の中で一気に市民権を得た感のある女性同士の同性愛ではあるが、百合文化のルーツは数多くある。「花物語」から続く戦前少女小説の系譜、レズビアニズムからの系譜、日常系から発展した系譜など。
現在のオタク文化で幅を利かせている百合文化は、個人的には、女性BL文化から引き継いだ消極的なルッキズムの発展形だと考えている。というのは、まず第一にキャラクターというノードに先立って関係というエッジが生成し、便宜的にノードを補完する段階で消費者が最も気持ちの良いフィギュアを代入した結果、美男子が好きな女性はBLを生み出すし、美少女が好きなオタクは百合を生み出す。これはきららアニメの「難民」という言葉に象徴されるキャラクターの可換性とも接続が良い(同じような関係が構築されるなら具体的はキャラクターのステータスは問わないし入れ替え可能であるということ)。
そう考えたとき、この百合の生成模様はバーチャルアバターの生成模様とほとんど一致することに気付く。各人が個人的に最も気持ちの良いアバターを作り出し、なんとなくの文脈に押し込むという経験はカスタムキャストで弄った人ならピンとくるはずだ。この類似は、Vtuberが百合営業をする合理性を示しうる。
参考過去記事

・10.Vtuber精神分析について

のらきゃっとの誤認識は(偶然にも)フロイトラカン精神分析理論に極めてよく合致しており、彼女の人間的魅力は無意識の原理を使って説明することが可能である。
この切り口で直接語ることができるキャラクターは現状ではのらきゃっとしか思いつかないが、他にも精神分析理論を適用して説明できるキャラクターはいないだろうか。また、その結果見出されるであろう人格はどう取り扱うべきか。
参考過去記事