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24/1/7 16bitセンセーションの第10話だけ見ろ!!

2023年秋の怪作、16bitセンセーションの第10話があまりにも良かった! けど第12話以降がダメすぎた!

なんとか生産性のある方向に無理やり褒められないか考えてたけど無理だったので、せめて第10話が良かった話だけ書いて俺の16bitセンセーションを終わります。

中盤に着てたこの服マジで好き

この記事の要約(ChatGPT)

このテキストは、アニメ「16bitセンセーション」の第10話に特に焦点を当てています。

作者は第10話を非常に高く評価しており、特にアメリカ風に変化した「セイバー」というキャラクターや、オタク文化がグローバルに展開されたパラレルワールドの秋葉原の描写を称賛しています。

しかし、第12話以降の展開には失望し、特に生成AIの扱いやキャラクターの動機付けが不満足だと述べています。作者は、第10話が示したオタク文化の成功と変化を肯定的に捉えつつ、物語の終わり方については、より深い解決が必要だったと感じています。

 

アベンジャーズのセイバー

話数で内容を覚えてない人向けに書いておくと、第10話はコノハが過去編でラストワルツを作り終わって現代の秋葉原に帰還した回。もっと言うとアバンでアメリカナイズされた架空のFate続編(Gears of Order)のセイバーが登場した回で、このセイバーに第10話の良さがだいたい全部詰まっている。

アメコミセイバー

アメコミ風の絵柄になって萌えなくなったセイバーという衝撃的な始まり。てっきり「色々あって日本のオタク文化は壊滅してしまった」という『魔法少女マジカルデストロイヤーズ』的なオタクディストピアみたいな話が始まるのかと思いきや、話はそう単純ではないことがすぐにわかってくる。

補足485:未だに『Fate/stay night』のセイバーを「セイバー」と呼んでいるのはお婆ちゃんがゲーム機を全部「ファミコン」と呼んでいるのと同じという説もある。

実態はむしろ逆だ。コノハがあまりにもクオリティの高いオーパーツ的なエロゲー『ラストワルツ』を制作してしまった結果、オタク文化が世界的に認められすぎてグローバル展開した結果であるらしい。この「オタク文化が黎明期から海外進出してしまった世界線の秋葉原」の描写が第10話最大の見どころで、ここを見るためだけに第10話を見てもいい。

もともと第1話から許諾を取ってメーカーやゲームの実名を出しているのは視聴者サービスに過ぎなかったが、パラレルワールドの描写という段になってその強みが前面に出てくる。「TYPE-MOONは海外進出したがアリスソフトは日本に残った」などという異常な解像度で未来の趨勢が語られ、秋葉原ではなく渋谷や池袋にオタクショップが移転していたり駅内のじゃんがらはまだ残っていたりと、細かいところでいかにも有り得そうなパラレルワールドの雰囲気が漏れてくる。

補足486:個人的には「シュタゲやYU-NOが生まれなかったため世界線という用語が通じない」という描写が一番熱かった。恐らく歴史のズレによってノベルゲームに特有のゼロ年代的なルート概念が発達しなかったということなのだろうが、パラレルワールド(≒世界線)という概念自体は海外古典SFなどにも存在しゲーム文化とは別の源流を持つため、マモルもパラレルワールドそのものは当たり前に理解している。パラレルワールドギミックは近年のアメコミ映画などでもよく利用されるところではあり、ノベルゲーム文化が黎明期からアメコミ文化に合流していた場合はルート文脈ではなくMCU的なクロスオーバー文脈あたりから逆輸入されているのかどうか、無駄に想像が膨らむところだ。

補足487:武内絵のセイバーは当初はオリジナリティのある唯一無二のアイコンとして機能していたが、FGOリリースあたりから「アルトリア顔」という一つのありふれた類型としてオタク界に定着した(pixiv百科辞典:アルトリア顔→)。元々は特徴的だった図像が過剰な普及によってコモディティ化した事例だと考えるならば、第10話でグローバル展開によってありふれたアメコミ顔になったセイバーの姿はアルトリア顔への風刺として捉えられないこともない。

 

別に悪くもないリアルな秋葉原

そして最大のポイントとして、セイバーがバタ臭くなった世界も「別に悪くはない」ということがある。

それはむしろ日本のオタクコンテンツが世界に展開している成功の証左であり、作中の一般オタクたちもその火付け役になったラストワルツを誇りに思っている。イラストレーターはTIME誌の表紙を飾るほどのポジションになり、オタク文化は十分に隆盛している。

腕組みメイ子さん

補足488:サブカル周りの許諾は取ってもTIME誌の許諾は取っていないので実雑誌名が出せずにここだけパロディになっているのは面白い。逆だろ。

美少女の絵柄が変質したことについてマモルが「15年くらい前にそんな論争もあった。でももう決着はついた。時代の流れってやつだよ」ときっちりフォローしているのも良い。いまやスレイヤーズのあらいずみるい先生もおにまいみたいな感じに絵柄をアップデートしているし(→)、15年もあれば絵柄の流行りが激しく変化することにも納得できる。

また、第10話で描かれた秋葉原はパラレルワールドという設定に反して実は現実の秋葉原にかなりリンクしているようにも感じる。今や秋葉原を一歩歩けば目に入るのは中韓資本のソシャゲ広告ばかりだし、ビジュアルアーツ(Key)が中国のテンセントに買収されたことは記憶に新しい。オタク文化の海外資本侵食は今まさに起きている、というか起き始めてからもうだいぶ経っている。

補足489:ただ現実の秋葉原で跋扈しているのは中韓資本だが、16bitセンセーションの秋葉原では欧米資本が覇権を握っているようだ。ビジュアル上のインパクトが強いアメコミ絵柄を使えるようにそうしたのかもしれないし、もしくは作中でラストワルツが発売された時点では中韓の国力は大したものではなかったことを踏まえて時代的に欧米の方に合流するのが妥当だという歴史考察があったのかもしれない。

秋葉原の原神ストリート(GoogleMap→

game.watch.impress.co.jp

そしてインバウンド需要も上がり続ける中、現在進行形で神田川沿いの区画を再開発する計画が持ち上がってもいる。今は地権者の反対も根強いが、そう遠くないうちに汚い店舗街はクリーンな親水空間へと再編され、それこそ第10話で描かれたような小綺麗な秋葉原へとまた一歩近付くのだろう。

www.kenbiya.com

リアルの秋葉原が第10話の秋葉原へと近付いていく現在を踏まえるならば、そういう秋葉原が一概に悪いわけでもない、という実感もオタク文化の現在とリンクしたアクチュアリティを持ってくる。

TwitterやMisskeyを開けば皆が笑顔でブルーアーカイブや原神やアークナイツをプレイしているし、いまどき中韓ソシャゲの広告が秋葉原を席巻していることを嫌うオタクは15年前の嫌韓空気を持ち越してきた時代遅れの保守派オタクジジイとして相手にもされないだろう。いつかテンセントが中国テイストに味付けされた『ヘブンバーンズレッド』の続編を、つまり崩壊した廃墟で暗い表情をした背の高い女がやたらゴツい銃を持っているキービジュアルの続編を制作したとしてもそれはそれで概ね歓迎されるだろう、そしてそれこそが『Fate/Gears of Order』でもあるのだ。

結局、第1話の秋葉原も第10話の秋葉原もそれなりにリアルな秋葉原の現在なのだ。第1話ではエロゲーの衰退を主題にして業界の苦境が描かれていた一方、第10話ではオタク文化のグローバル化を主題にして海外資本流入と秋葉原のクリーン化という視点から描かれていたにすぎない。マモルが「世界は大して変わっちゃいない。ほんの少し見た目が変わっただけだ」と漏らす通り、ラストワルツによって全く世界が変わってしまったわけではない。「エロゲー文化の衰退」だけに注目したときのネガティブ面が第1話、もう少し大きな視点で「エロゲー以外のオタク文化の隆盛」を見たときのポジティブ面が第10話というだけだ。

ちなみに第1話ではコノハがソシャゲの隆盛に対して文句を言うシーンがあったが、その割には第10話では普通にFGOプレイヤーだったことが判明している。彼女もエロゲーのパイを奪っていったソシャゲを一面的に嫌っているわけではなく、もっとアンビバレントな愛憎があるのかもしれない。

実は第1話で出てた広告

 

それでも暴れる老害たち

第10話の秋葉原がそんなに悪くないリアルな近未来だとすればコノハがやるべきことはもう残っていないのではないか。いや、むしろだからこそコノハというキャラクターの異常性がようやく活きてくるのである。

コノハが古き良きエロゲーを愛するオタクであることは第1話から明示され、自分が好きなゲームを作ることに異常な執着を持っている。一旦はラストワルツで成功してクリエイターとして認められてもなお不満タラタラなコノハによって明らかになることは、彼女はオタク文化の成功には全く関心がなく、望まない方向へのアップデートを許さない上に自分のみならず世界に対しても停滞を要求する真の老害であるということだ。

思えば、この周りの見えなさは第1話の頃から一貫していた。企画書を制作する割にはプランナーではなくイラストレーターとして勤務していたり、熱意がありそうな割には自主制作には踏み出さずに会社の制作資本に乗ろうとしたりと「口だけのワナビ」っぽい若干イライラする挙動をしていたが、第10話に来るとそれも納得がいくようになる。コノハは即売会の片隅で自費出版して満足するタイプの人間ではなく、正規の商業ルートで全国の小売に並べないと意味がないと考えるタイプの人間なのだ(その気持ちはけっこうわかる)。欲望が自分自身で完結しておらず、世界にも自分が望むようにあってほしいという要求。現実にいればやや厄介なタイプの創作者だが、しかしタイムリープするオタクキャラの造形としては世界を変える意志を持っているのはむしろ全く正しい。

そしてマモルも全く同じタイプのオタクである。マモルは異常な98フェチであり、性能としては劣るアーキテクチャが淘汰されることで世界のテクノロジーが改善されていくことを全く良しとせず、自らの不合理な執着によって低スペックな98に固執し続ける。ウィンドウズを敵視する彼の異常性はオタク文化が世界に認められる状態でさえ不服とするコノハのそれと同型だ。まともなクリエイターであるアルコールソフトの面々とは異なり、この二人だけが世界の善と敵対できる異常なパーソナリティを持っており、それ故に結託して悪くないはずの未来を自分好みに変革する権利を持っている。

異常者二人

かといってそれなりに隆盛している現代を無に帰してしまうわけにもいかず、マモルが語る「今の2023年の中にお前の知ってる2023年の流れを作り出す」という目的意識も非常に正しい。二重タイムリープで過去の自分と対決する中で、まともな世界では満足できなかった老害として過去の自分とどう折り合いをつけていくのか。

これで「海外資本に押されてエロゲーが衰退した現代において古き良きエロゲー文化を再興する」という大きな流れが現実ともリンクし、コノハとマモルのカップリングポジションも確立されて全てが繋がった。更には最終編におあつらえ向きの美味しいジレンマも一つ積み残されており(後述)、それを処理する綺麗な終わりが見えている。これは名作確定!

 

シリーズ構成の人途中で死んだ?

と思ったのだが、第12話でここまでの流れを全て放棄して完全に別のしょうもない話になってしまった。シリーズ構成の人が第11話を書き終わった直後に急死してインターンの学生が続きを引き継いだとしか考えられない。第12話ではコノハが一転してパラレルワールドの秋葉原を明確な悪と見做すことになるが、その理由が「クリエイターが水槽に沈められてるビジュアルがエグかったから」というのはお粗末という言葉を与えることすら惜しい。

なるべく素直に汲み取れば「実は未来のオタク文化は生成AIによって破綻したもので真のクリエイティビティは死んでいた」みたいな話なのだろうが、そもそも生成AIは第11話で便宜的に導入されたギミックに過ぎず、「コノハのエロゲーへの執着によって世界はどう変わるのか」という本来のテーマとは全く関係がない(生成AIの勃興とエロゲーの衰退はたまたま同じ時代に生起しただけの独立したイベントであり、どちらか片方しか起こらなかった世界を想像するのは容易い)。もっと早くから生成AIをテーマに絡めていたならともかく、第11話でコノハの補佐として初登場した生成AIの扱いはむしろ極めて妥当だったことも不満に拍車をかける。「生成AIには熱がない」という批判は「だから有能なディレクションが必要になるよね」という提案とセットだったはずだ。

あとは胡乱なアクションパートが続き、最終的にアルコールソフトの仲間たちが協力してくる理由もわからない。旧アルコールソフトの人たちはちゃんとした評価を受けてるから世界を変えるインセンティブがないっていうのは第10話で確認したよね?

補足490:あとラスボスは謎の外人社長じゃなくて闇落ち冬夜ちゃんでよくない!?

そんな死産に終わった第12話以降で本当に処理してほしかった論点として、「結局コノハにクリエイターとしての才能はあったのか否か」という話がある。

コノハはどうしても自分しか作れない作品を胸に秘めているというよりは「既存の〇〇みたいな作品を作りたい」タイプのクリエイターである。〇〇が無い時代にタイムリープして記憶にある〇〇をそのまま出せば有能クリエイターとして評価されてしまうという、単なる「立ち回りの上手いパクリ魔」であって別に彼女自身が高いクリエイティビティを備えていたわけではないのでは?という疑惑がある(タイパラ理論)。

創作物に相互参照があること自体は当然だし、その疑惑を以てコノハを悪のキャラだと糾弾したいわけでは全くないが、「クリエイターとしてのコノハの能力」という要素は作品の根幹に関わってくるので最後のゲーム制作あたりで何らかのエクスキューズかアンサーが欲しかった気持ちは強い。一応第12話でコノハ自身が自虐的に自己言及するシーンも僅かにあるが、そうは言っても画力は本物だし周囲を巻き込む制作進行能力もあったわけで、そこまで見越した明確な回答は与えられなかった。

ただやや好意的に見れば、謎の宇宙人(?)であるエコー氏がコノハの大ファンだという救済が描かれたのは一つの納得できる答えではあってなかなか良かったとは思う。

偽カヲルくん

と言うのも、「クリエイターにクリエイティビティがあるのかどうか」を気にするのはクリエイター側の事情に過ぎず、結局それを心から楽しむユーザーがいるならばもうそれでいいじゃないかという問いのズラし方は生成AIへのアンサーとしても機能する生産的なもので有り得るからだ。もともとコノハも「ユーザーとしての好き」を原動力にして創作するタイプであることに一貫性があるし、16bitセンセーション自体がクリエイターの話なのでネームドキャラが軒並みクリエイターサイドだった中で、最後にファンサイドのキャラクターが登場するのはなかなか上手い描写ではある。だからこそ意味不明な追いかけっこをしている尺でエコー氏がコノハのゲームに救われた経緯の過去エピとかをやってほしかったなあ~と思ってしまうが……

補足491:往年のノベルゲーム終盤のドタバタ感をなぞったという擁護も有り得ないわけではないが、俺にはそれで得たものがそれで失ったものを上回るとはとても思えない。

 

 

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