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18/12/2 『GODZILLA 星を喰う者』の感想 資本システムの限界点としてのゴジラ

・資本システムの限界点としてのゴジラ

アニゴジ3作目『GODZILLA 星を喰う者』を見た。
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かなり面白かった(以下ネタバレ含)。

今年映画館で見た映画では一番面白かったかもしれない。
結局、この映画はゴジラの超越性を資本主義的な無限前進システムの限界点として位置づけた作品であり、三部作はそれぞれ

1.怪獣惑星:限界点としてのゴジラの定義
2.決戦機動増殖都市:システム内部からの限界点への対抗
3.星を喰う者:システム外部からの限界点への対抗

を描いている。
三部作を通じて最も優れていた点を強いて一つ挙げるならば既存のゴジラ観を大胆に拡張して新たな解釈を提出したことであるが、一作ごとの到達目標が明確なこと、ハルオやギドラといった関連要素の位置づけが巧みなこと、論点が一貫していたことなど全体的な構造も十分に優れており高い評価に値する。

まずは今作におけるゴジラの定義から始めよう。
そもそも資本制生産社会において常に利潤が追求される理由の一つは、資本が数値化可能な具体的な値として与えられることにある。これによって生産活動に伴う目的は常に数字によって可視化されるが、あらゆる数字はより大きな値を持つことができるため、常により良い目的が自明に存在することになる。
つまり、資本システムにおける目標は、ある一つが達成されたとしてもただちに数字を大きくした上位目標に更新されてしまう。例えば、「100万円を稼ぐ」という目標を達したサラリーマンには、ただちに「200万円を稼ぐ」という新たな目標が自動的に課せられるだろう(「100万円を稼ぐ」という目標が「100万円の借金を返済する」というような他の目的に紐付けられている場合はその限りではないが、逆に言えばそうした個人的な目的でも無い限りは利潤追求は止まらない)。数学的に数値には上限の定数が存在しないため、目標は次々に上書き更新されていき、高みを目指す運動が無限に続くことになる。ゴールは常に既に更新を内包した暫定的なものであるから、この運動は永久に終わらない。

さて、もともと、1954年版に見られる最も古典的なゴジラ像は「技術の行きすぎを咎める自然からの使者」である。アニゴジではこのゴジラ観を発展させ、「ゴジラは人間活動の進歩の到達点」「むしろ人間の方がゴジラの礎だったのかもしれない」という読み替えを行っている(明確に言及されたのは二作目後半以降だが、一作目の戦いからこれが示唆されていたことは後述する)。従来設定の拡張ではあるが、真逆の意味を付与しているのだ。
すなわち、人類vs自然という構図において、1954年版ではゴジラは技術発展に対する対立項として後者側に定義されていたのだが、アニゴジ三部作ではむしろ前者の側、どちらかといえばゴジラも技術発展の成果に属するものとして解釈されている。この意味において、先述した資本システムにおける限界点、すなわち本来は存在しない無限前進運動の最終到達点=限界点としてアニゴジにおけるゴジラが定義される。

これを怪獣としてのゴジラ像という視点から言い換えることもできる。
もともと、子供向けアニメのようにスパッと後腐れなく死んでくれる悪者の怪獣とは異なり、ゴジラはなかなか綺麗に倒せない怪獣である。次の個体が出現したり、凍結で引き分けたり、海に帰っていったり、何かと規定しがたい存在としての超越性を含んできた。アニゴジでは明確な値を与えることができない無限遠の具現化としてゴジラを位置づけることで、設定上の規定不能な超越性を転用したとも言える。

補足160:資本の原理が導く無限の発展が、本当にいつかゴジラ的な頭打ちにあうのかどうかは定かではない。
まず大前提として、一般に資本主義の限界と言ったときに持ち出される分配問題や不安定性による自壊は今回は問題ではないことに注意したい。登場する人間が市場を構成していないため、市場の失敗や限界を持ち出すのは適切ではない。
よって、「限界点」と言ったときにゴジラが表象するのは、そうした社会学・経済学的リミットではなくて、数学・物理学的なリミットである。現実的に考えて無限の発展などというものは有り得ない、いつかどこかで頭打ちになるだろうという問題意識だ。これに対する回答は目標を無限に更新し続ける資本システムからただちに導出されるものではない(別の公理や設定を必要とする)ように思われるのだが、いずれにせよ、アニゴジにおいては無限の発展は不可能だという結論の下でゴジラが登場したと考えればいいだろう。


一作目『怪獣惑星』はまさに「無限遠に存在する限界点」というゴジラの定義を確認した作品であった。
「一生懸命ゴジラを倒したと思ったらもっと大きなゴジラが出現」という構図は、目標が随時更新される資本の原理そのものである。「それ以上超えられないもの」としての限界点は、静的には無限遠の存在ではあるが、動的には再出現として表現されるわけだ。このあたりの不可能性は、数学における無限の定義を引くと理解しやすい。解析的な無限の定義を日本語訳すると、「比較対象にどんな数を取ってきても、それより大きくできる」というものだ。100を取ってきたら101になるし、1000を取ってきたら1001になるのが無限という概念なのだ。巨大ゴジラの出現で示されているのは、ハルオがどれだけ頑張ったところで、ゴジラは必ずそれを超えるという無限性である。

また、主人公であるハルオの位置づけもここで確認しておきたい。
ハルオは常に人類の擁護者であり、主人公らしく「人間の可能性を諦めない」という性質を持っている。通常ならば道徳的に結構なキャラクターなのだが、資本の原理から見ると、真に永遠なる向上を信じる資本システムの擁護者に他ならない。ハルオの人間としての誇りは目標を随時更新し続けることを諦めない意欲であり、それ故に限界点に立ちふさがるゴジラボトルネックとして打倒すべき対象になるわけだ。
そして、基本的にハルオは最初から詰んでいる。ハルオの目標はゴジラ=限界点を超えることなのだが、限界点は定義上超えられないが故に限界なのだ。一作目ではこのことを確認し、二作目以降ではそれでもなお限界を超えようとして挫折する過程が示されていく。

実際、二作目『決戦機動増殖都市』は、システムの限界点を内側から超えることの不可能性の確認として位置づけられる。
『決戦機動増殖都市』では、ビルサルド主導の下でナノメタルを用いた資本の超高速無限発展が行われ、限界点としてのゴジラに肉薄する。限界点を超えられないこと自体をテーマにした一作目とは異なり、二作目では限界点を超えうるとしたときに支払わなければならない代償が描かれる。
その代償とは、進歩の停止である。なぜなら、限界点を突破するということは、もはやそれ以上前進できないことを意味するからだ(それが「限界」の定義である)。そしてそれは進歩主義者にして人間主義者のハルオにとっては到底飲むわけにはいかない取引であり、ゴジラの打倒を放棄してまで進歩可能性を死守する。この直近の現実よりも未来の可能性を優先するというハルオの行動指針は一貫しており、三作目の決断でも決定的な役割を担うことになる。

システム内部からは限界点たるゴジラを倒せないことを踏まえ、三作目『星を喰う者』ではシステム外部からの破壊という解決策が提示される。
ギドラが別次元からの完全なる異物として出現しなければならなかった理由は、資本の原理が持つ暴力的な一体化運動に見ることができる。資本の原理による数量化は、ほとんどあらゆる対象をそのシステムの制御下に飲み込んでいく。最も卑近な例でいえば、我々は日常で目にする物体やサービスほぼ全てに自分が適正と思う値段を付けることができるだろう。作中でも、人間たちは現地に残るナノメタルに発展の礎としての価値をただちに見出していた。一度発見された資本は無限前進運動としての生産活動の中に放り込まれ、資本システムがその領土を貪欲に拡大することに貢献させられる。
よって、この渦から逃れ、その外部に立つことが出来るとすれば、それは文字通りの異次元からの侵略者でならなければならないのだ。実際、ギドラの登場演出は本当に素晴らしかった。あの短い混乱シーンとセリフ中心の演出でよく「完全に別次元から来た時空間概念までも破壊する理外の存在」というギドラを描き切ったと思う。畳みかけるような「タイムスタンプがめちゃくちゃ」「ランタイムエラー」「時間的な整合性が取れない」からの「40秒前に破壊されている」「じゃあ今話していたのは?」、そして極めつけの「私はもう死んでる?」だけでも見る価値がある。

ここで、二体の怪獣に性質の全く異なる超越性が与えられていることに注目したい。
確認すると、ゴジラは資本システムにおいて無限遠の限界点にいるために具体的な規定(=定数値の付与)が不可能という超越性を与えられていたのであった。その一方、ギドラは完全に資本システムの外部に存在するために把握不可能と言う超越性を持っている。つまり、ゴジラはシステム内部の限界点として、ギドラはシステム外部からの来訪者として、対置可能な超越性を保持している。ゴジラの新解釈が大きな称賛に値することは冒頭で述べた通りだが、ギドラに対しても宇宙怪獣の設定を利用してシステムを鏡面とした立ち位置を与えたことも一つの功績である。

さて、ギドラによるゴジラの打倒はハルオの妨害によって阻止される。
ここで感心したのは、「ゴジラは倒せるか否か」という論点をすみやかに放棄して「ゴジラは倒すべきか否か」という問題に移行したことだ。実際、ギドラはゴジラなどワンパンで倒すことができる。ゴジラは資本システムの帰結として存在しているのだから、システムの外部からの攻撃には抵抗力を持たず最初から勝負にならない。しかし、だからといってギドラがゴジラを倒してしまっては困る。なぜならば、システム外部からの攻撃によってゴジラが倒されることは、システムそのものの崩壊を意味するからだ。
ここで明らかになるのは、実は資本システムの存在を自らの存在証明にしているという点においてゴジラとハルオの利害は一致しているということだ。二作目でも三作目でもハルオがゴジラを救ったことは偶然ではない。限界点であるゴジラの存在は正常な無限前進システムの動作の帰結であるため、システム上での活動を擁立すべき人間性と認識しているハルオはゴジラを倒せないどころか守らされる。ビルサルドのガルグを殺害したときと同様、ハルオがメトフィエスの目を潰すという判断は、実際にはシステムはもう稼働しないことを知りながら、それでもシステムの稼働可能性だけを残すという選択である。旧システム上では詰んでいることを知っていながら、それでも新システムに乗り換えることはできないという病的な執着の発露なのだ。ハルオが事態の詰みっぷりを十分に認識していたことは、エクシフが進歩に見る悲観性を共有していた(放棄しなかった)ことからも伺える。
最終的に、ハルオとゴジラの関係はハルオの玉砕で決着する。これが誠実で好ましいのは、ご都合主義が起きない極めて自然な流れだからだ(最初から詰んでいたのが詰んだまま終わっただけ)。三部作をかけてゴジラは倒せないことを確認してきたのである。システム内部からは倒せなかった、システム外部からも倒せなかった。システムの稼働可能性を残したとはいえ、実際問題として稼働しないことを知っているハルオにはもう玉砕以外の道はない。

補足161:俺が映画を見ながら危惧していたのは、「進歩ってやっぱりいいものだし頑張れば人間はゴジラを超えていける気がする」的な内容をハルオが言い出すことである。つまり、一作目で確認したはずのゴジラの打倒不可能性をハルオが忘却し、適当な人間賛歌で事態を収拾することだ。主題を人間賛歌に挿げ替えるというのは駄作の常套手段であり(何らかの意志を持つ人間が登場している限り使えてしまう上に道徳的に適正だから)、状況が詰みまくっているだけにそこに逃げるのではないかと少し怯えていたのだが、特にそんなこともなくハルオは不可能性を維持したまま最後の玉砕に向かうことになる。

ちなみに、資本システムの擁立者であるハルオには絶対にゴジラを倒せないのだが、そもそもそのシステムを採用しなければゴジラとの衝突自体が起こらないという消極的な解決法に対応するのがフツワの民である。
エンドロール後の儀式のシーンにおいて、フツワの子供たちが恐怖を込めた縄を火にくべたことに注目したい。このシーンのポイントは、フツワの民は眼前の脅威に対してテクノロジーを発展させるという方法では対抗しないということだ。ハルオのような進歩主義者ならば、恐怖を克服して乗り越えることが人間の尊厳だと考えるだろう。しかし、あの儀式では縄を燃やせばそれで解決である。技術は前に進まない。そもそも前進しないので、遥か遠い限界点であるゴジラとの衝突など起こるはずもない。
つまり、ゴジラと衝突しないためには二つの方策がある。一つは、資本システムの初期段階に回帰すること。もう一つは、環状時間を採用して資本システム自体から降りること。ハルオがバルチャーとユウコの死体を処分したことで取り残されたクルーたちの戦略が前者、フツワの民の戦略が後者となる。

補足162:歴史的には、発展という概念を支える線形に増加する時間軸自体が中世~近代以来の産物だ。それ以前に存在した進行しない時間軸としては、例えば農村で流れる円環状の時間を挙げることができる。一年周期で収穫を繰り返す農村では、春夏秋冬が終わればまた最初の春に戻る。春夏秋冬の次に来る春は、一年後の春ではなく一年前の春なのである。一年経てば何もかも元通り、発展ではなく現状維持が責務となる。

まとめると、アニゴジ三部作は既存のゴジラ観を拡張して新たな論点を描くことに成功しており、ゴジラ映画としても非ゴジラ映画としても優れている。

以上。