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23/8/29 「入間人間の手口がだいぶわかってきた」って何やねん

入間人間の手口がだいぶわかってきた」って何やねん

何気なくツイートしたこれが妙な伸び方をして創作畑のフォロワーがけっこう増えたので、ここでわかったことについて責任を持ってちゃんと書こうと思う。

というのも、普段は1万RTくらいバズっても実はフォロワー数はあまり増えないのだが、今回はRT数に対するフォロワー数の伸びが異常だった。よって恐らくいま勤勉な創作クラスタというペルソナが俺に付与されていることを考慮し、一時的にそのように振る舞うということだ。

ただ、これはロジックがメインの話なのでどうしても前置きが長くなってしまう。しばらくは入間人間ではなくその副読本について書くことにする。

 

何故小説では回りくどい言い回しをすべきなのか?

小説について、昔からわからなかったことが一つある。それは「なぜ小説の地の文では曖昧で主観的で回りくどい言い回しをすべきなのか」ということだ。これは裏を返せば「なぜ明晰で客観的な言い回しではいけないのか」ということでもあるし、具体的に言えば「なぜ比喩や倒置などの技巧を用いるべきなのか」ということでもある。

俺は理系の出身なので、客観的に書くメリットはいくらでも思い付く。わかりやすい、誤解の余地がない、情報伝達効率が良い。一方、曖昧に書くことのメリットはもっとふわふわ語られる。味わい深い、活き活きとしている、印象深い。つまりそれはどういうことですか? 明白なメリットを脇に置いてまで小説に限っては印象を優先すべき合理性はどこにあるのか、そしてどのような原理でそのような効果が発生するのか。

しかしいったん留保しておけば、そんな俺でさえ物理的に発生した事象を客観的に書き連ねただけの手順めいた小説を読んでも「面白くないな」「下手な文だな」と感じることは全く否定できない。「立ち上がった、ボールをキャッチした、投げ返した」と書くよりは、「何気なく腰を上げた途端、八月の強烈な日差しがフルスイングで視界を打ってよろめいた、それでも培った勘を頼りに手を伸ばした、何とか指先に触れたボールを猫の頭を撫でるように握った……」という感じにでも書いてくれた方が、読んでいて気持ちいい。だから正確に言えば、回りくどい方が面白いことまでは認めるが、その理由がわからない。

通り一遍の表面的な理由なら色々と思い付かないこともない。同じ表現だと飽きるから、適切な比喩は読解をショートカットするから、視覚に訴えることができるから、などなど。しかしどれもその場しのぎで天下りな印象が拭えない。そういう説明はただその一文を飾り立てることが最終目標になっていて、何故そうすべきかという疑問には答えていないからだ。そうではなくて、もっと小説が持つ本質的な特徴から演繹的に導出できる理由はないものか。

ちなみに、俺が普段読むライトノベルではこういう持って回った表現の上手さが傑出しているのは入間人間秋山瑞人あたり(ただ俺は新人作品を好んで読む傾向があるので、ベテラン作家には他にも同水準の人が多くいると思う)。最近芥川賞を受賞した『ハンチバック』もこのタイプで、マクロなプロットは別に面白くないがミクロな表現が上手くて面白かった(つまり表現が適切に回りくどかった)。

 

完全回答本、発見

そして先日、この疑問に完全な回答を提供している書籍を発見した。

よくある創作入門系の書籍だが、対象ジャンルが格の低い娯楽小説であることは都合がよい。具体的には、銃弾が行き交うサスペンス、女性政治家が脅迫される政治劇、子供が妖精の国に挑む冒険小説などが書籍内で例としてよく登場する。ライトノベルしか読まない俺も、小説には含蓄ある人生論や障碍者の当事者性よりはただ飽きずに楽しめることを求める派閥である。

補足471:この手の創作入門系書籍の内容は、作者の専門ジャンルに強く依存する割にはそれが明示されない傾向にある。例えば以前手に取った本では「登場人物には出身地や家柄や出身校まできちんと設定しなさい」と書いてあったが、それはたぶん硬派な純文学寄りの小説を書くときのコツであって、異世界転生ものにはあまり必要ないと思う。

ただし注意点として、この書籍の「物語のひねり方」というタイトルはあまり芯を食っていない。物語のひねり方自体は割とどこにでも書いてある程度の話しかなく、帯に書いてあるもので八割方の説明が済んでしまっている(気になる人は、帯の右下あたりにTRDと縦に書いてあるところを拡大して読むことをお勧めする)。

この本の真の強みは、物語のひねり方に至るまでの前提として、読者を飽きさせないプロットの根本的な思想が演繹的に説明されている点にある。「物語のひねり方」はあくまでも象徴的な応用の一つとして提示されているに過ぎない。よって、この記事では物語のひねり方ではなく、それ以外の部分から学んだ事柄について書く。

補足472:Amazonレビューも賛否両論に割れているが、たぶん捻り方だけを期待して読んだ層は低評価になり、全体のロジックをキャッチできた層は評価が高いみたいな構図だと思う。

補足473:訳の過程でタイトルのニュアンスが変わったのかと思ったが、原著タイトルも“Mastering Plot Twists”でほぼ同義だった。

 

回りくどい表現をすべき理由

まず結論。

Q:何故小説においては回りくどい描写を用いるべきなのか?

A:回りくどい描写によって語り手の主観的な認識の歪みを示すことが、プロットにおける対立を描くことに貢献するから。

もう少し丁寧にテーゼを並べていくと以下。個別的なポイント紹介ではなく、演繹可能な形でロジックを立てているのがこの本の素晴らしいところなのだ。

 

1. 小説には絶対に対立が必要である

これがロジックの出発点となる。

ここで言う対立とは、心理的・精神的・物理的な対立をそれぞれ含む複層的なものだ。つまりただズギャンズギャンと戦うだけではなく、それに勝利したり解消したりすることが各登場人物の信条や立場において何か重要な意味を持つような対立のこと。

これは普通に納得できる大前提だ。もし不幸にも作中で対立が起こらない本当に面白くない小説を一冊でも読んだことがあれば、それを読み終わったときの「この話って結局何の意味があったんだ?」という面白さ以前の空虚感を思い出せば十分だ。幸いにもその経験がなければ、今すぐ適当な小説投稿サイトに飛んで、自分の運が悪いことを祈りながら何か一つ素人小説を開いてみよう。

 

2. 対立は主観的な認識の歪みに起因する

ではそのような登場人物間の対立がどこから生まれてくるのかと言えば、登場人物ごとに持っている認識の歪みに起因する。より正確に言えば、「同じ事象を観測したとしても、人によってその認識は異なる」ということが重大なキーになっている。

哲学的にはカントとかユクスキュルを引いてくるべきところかもしれないが、そこまで衒学的にならなくても理解は難しくない。よくある話で、水が半分入ったコップを見て悲観的になる人と楽観的になる人がいる。そしてこの認識の歪みが水不足についての対立を招くということだ。

確かに、そもそも全く異なるイベントに対して異なる認識を持っていた二人が衝突したところで、あまり対立という感じはしない(孫悟空江戸川コナンは戦えない)。そうではなく、同じイベントに対する認識が異なるからこそ興味深い対立が生まれてくるわけだ(怪盗キッド江戸川コナンは戦える)。人や集団によって異なる認識の歪みを持っているところに対立の大前提がある。

 

3. 主観的な認識の歪みは語りによって提示される

ではそのような主観的な認識の歪みがどのように提示されるのかと言えば、語りによってである。さっき書いたように、水が半分入ったコップを見て楽観的な人と悲観的な人ではその状況の語り方も変わってくるだろう。楽観的な人はコップを潤沢な泉に喩え、悲観的な人はコップを枯れかけた地球資源に喩えるかもしれない。

そしてここにこそ、物理的に正確な客観的な記述ではなく、曖昧で主観的で回りくどい言い回しを行う合理性が発生する。小説をドライブしているのが対立であることを踏まえるならば、それを生む主観的な認識の歪みは常に語られるべきだ。つまり、対立を示唆するためには結局は比喩や評価を含んだ主観的で曖昧な地の文が必要になってくるのである。

 

再掲する。

Q:何故回りくどい表現を用いるべきなのか?

A:描写によって語り手の主観的な認識の歪みを示すことが、プロットにおける対立を描くことに貢献するから。

逆に辿ってみると、「曖昧で主観的で回りくどい表現を用いる→単なる物理的な事象に留まらない語り手の認識の歪みが提示される→認識の歪みに起因する対立プロットが書ける」というロジックの流れがある。この説明が極めて優れている理由は主に二つある。

一つは、プロットレベルの合理性と描写レベルの合理性を接続できることだ。この説明では「プロット上での対立を描きたい」という要請から、認識の歪みというガジェットを経由して「主観的で回りくどい語り」の必要性を導出した。そうすべき理由がトップダウンで提示されており、望ましいプロットからは自動的に望ましい描写が要請されることがすっきりとわかる。

その一方、冒頭で踏み台として挙げた「味わい深い」「活き活きとしている」「印象深い」というような説明は、ただ描写の巧拙を定義できるだけだ。プロットには全く踏み込んでいない。個別的なコツが並んだ程度の説得力しかないし、個々の文章はやたら印象深いが全体で見ればクソみたいな小説もあるだろう。

もう一つは、この説明は根本的な理由から演繹されているために様々な理解に応用できることだ。例を挙げると、小説において陳腐な表現が忌避される理由も同じロジックで説明できる(理系的な観点からすると一般にコンセンサスが得られた表現の方が伝達効率が良いはずだが、小説においてはそうではないのだ)。

例えば「燃えるような赤い瞳」という表現はかなり陳腐に感じられるが、これが好ましくないのは紋切型の表現すぎて認識の歪みを伝えられず、対立の構成に貢献しないからである。逆に望ましい例として、保守的な語り手が「未開人が掲げる松明のように燃える赤い瞳」という比喩を使い、リベラルな語り手は「闇深き海を照らす灯台のように燃える赤い瞳」という比喩を使ったらどうか。恐らくこの赤い瞳の持ち主は、保守層からは野蛮で礼儀知らずの恐ろしい男として忌避され、リベラル層からは蒙昧な世を明るく照らす新奇なる男として歓迎されているに違いない。この男を巡る認識はそれぞれに歪んでおり、ここに思想的な対立の予感が生じる。赤い瞳を一つ描写するだけで一つの話を生む対立を呼び込むことができるのだ!

他の表現技法についても全てこのロジックで説明できる。「比喩」の効果は? 語り手によって事象の喩え方が異なることを示し認識の歪みを提示すること。「擬人化」の効果は? 語り手によって事象の捉え方が異なることを示し認識の歪みを提示すること。「倒置法」の効果は? 語り手によって事象を捉える部分的なウェイトが異なることを示し認識の歪みを提示すること。他も全て同様。

補足474:形式的には、これらは国語の標準教育において「表現の工夫」として皆が教わるものだ。学習指導要領においては、比喩や擬人法などの技法は小五~小六にかけて示唆され、中一で技法に名前が付く。しかし教科書会社に出向いて各社の教科書を調べてみたところ、これらの技法を用いる動機については「印象的に伝わる」「生き生きと伝わる」「効果的」程度しか書かれていなかった。

ただ実際のところ、地の文が示す主観的な認識が必ずしも全て対立にはっきり繋がっている必要はないだろう。しかし対立の根底には認識のドクサがあることを考慮するならば、依然として可能な限り語り手の認識を提示しておくことが望ましい。

 

ようやく入間人間の手口に戻る

上記のロジックを踏まえて入間人間の文章を読んでみると、可能な限り主観的な認識に引き付けて事象を描写するという目的があって、そのために手を変え品を変え様々な技法が用いられていることがわかる。以下、冒頭のツイートでも用いた『私の初恋相手がキスしてた』の文章を例にするが、これはたまたまその辺にあって200円くらいで買ったから書き込むのに胸が痛まなかったというだけで大した理由はない。

 

まず冒頭の一文は以下の通り。

蹴っ飛ばされたことを理解するよりも、お腹が痛いことの方が大事だった。

同じ事象をアマチュアが適当に書くとこうなるだろうというのを比較として書いてみる。

蹴っ飛ばされてお腹がとても痛かった。

プロの文章では動詞が「理解する」という主観的な知見、及び「大事だった」という主観的な価値観を示すものであることに注意されたい。いずれも「蹴られた」「腹が痛い」という一次的な事象のラッパーとして語り手の認識を二次的に提示している。これによって、語り手は外的に攻撃を受けたことよりも自分の身体可愛さのウェイトの方が重いという認識を持っていることが示唆される。

 

次の文章。

人の身体がそんなに滑らかに床を移動できるんだって、身をもって知る。

マチュアバージョン。

自分の身体が床を滑らかに滑っていく。

プロの文章ではやはり「身をもって知る」という知見に関する主観的な文末で処理されており、これによって語り手が持っている知識の偏りが窺える。つまり、語り手は恐らく今まで本格的な殴打を受けるような経験が希薄で暴力に慣れておらず、その経験に基づいた認識を持っていることがわかる。

補足475:投稿時はこの辺に「身を持って」「伺える」の誤字があったので修正した。普段は誤字修正くらいでわざわざ注釈しないのだが、今回は「故意ではないか?」というブクマの指摘によって気付いたので記録を残しておく(→)。普通に全てがミスですいません。

 

もう少しあとの部分も抜き出してみる。

途中で、なにかを唾みたいに吐き捨てられた。痛くて、聞き取りづらかった。お前がいなければ、って言われた気がした。

マチュアバージョン。

途中で「お前がいなければ」と唾のように吐き捨てられたが、痛くて聞き取りづらかった。

プロの文章では、よく読むと相手が本当に「お前がいなければ」と言ったかどうかは定かではないことに注目したい。暴行によって語り手が弱っているため、聴覚がしっかり機能していないのだ。これも地の文を主観に引き付けているために、聴覚という認識が歪んで発現していることを示している。神の視点から本当にあったことを記載するよりも、あくまでも語り手の状態と相対的に何が起こったかを示すことが重要だ。

 

例示はこのくらいに留めるが、ほとんど全ての文章について同様の工夫が無数にある。その手口は多岐に渡っており、例えば主観的な思考として「評価」「心象」「知識」など、主観的な感じ方として「比喩」「対比」「象徴」など、主観的な反応として「具体的な身体動作」「五感(の誤作動)」「経過」などを文章に組み込むことで、事象の描写を語り手の主観に近付け、必ずしも客観的ではない歪んだ認識として記述することができる

しかしいずれにしてもパターンそのものはリストアップできる程度のものしかなく、いずれも主観的な認識を示すという同じ目標に向かっているとすれば、(若干エモいニュアンスで)いわゆる文体と呼ばれているものについてもセンスではなく技術として「正体見たり」と言えるようになりそうだ。

ちなみに本来であれば例示したような認識が後々どのような対立に繋がっていくのかも説明すべきだが、この小説は2022年1月10日初版と割と新しく、ネタバレをするのは気が引けるので今はやらない。気になった人は自分で読んでください。

 

【以下、8/30追記】

入間人間の手口はほんとうにわかってきたのか?

レスポンス記事が出現したのでアンサーを追記します。

akosmismus.hatenadiary.com

ただ、この記事の指摘は普通に全部正しいと思います。僕の書き方が雑だったところ(特に盛ったところ)に正しく拡張的な訂正が入っており、反論したいところは特にありません。よってただ頷くだけですが、一応各論点についてアンサーを書いておきます。

 

対立のない小説も存在する。

LW さんは「小説が持つ本質的な特徴から演繹的に導出できる理由」を求めているので、クリーランド本を論拠に用いたせいで、説明できる範囲が狭まってしまっています。

これは僕が「小説」という無駄にデカい主語を使ってしまったのが全て悪いです。本当は僕はライトノベルのような単純娯楽小説について説明することしか関心がないためにクリーランド本の射程で十分だと考えただけです。他の小説ジャンルにも流用できるかは別途に検討の余地があります。

 

主観的でない地の文もある。

異質物語世界的で非焦点的な、あるいは外的焦点化された語りについては主観が存在しないので、したがってその認識の歪みも存在しません。にもかかわらずこうした語りが回りくどい表現を用いることは多々あります。

同上です。少なくともライトノベルは完全な一人称か、誰かの内面にかなり寄った三人称であることが多いので、今の関心においてはこれで十分だったというだけです。

 

主観性そのものは対立の表現に直接寄与してはいない

実作のなかでこのように同一の事物を別々の登場人物がそれぞれに表現することはほとんどありません。

「赤い瞳」の例ではわかりやすさのためにはっきりと各陣営の認識を描写しましたが、必ずしも両方を描写しなくても(片方の主観を描写するだけでも)、対立を描くには十分に有効だと思います。少なくとも片方の人物が極端に保守的であることを比喩を用いてはっきり提示しておくだけで、プロット上で敵対関係にあるリベラルな人物との対立は際立つだろうということです。

 

主観的な認識の差異が対立を生む(対立が主観的な認識の差異を生むこともあると思いますが)というのはよいとしても、対立に直接かかわらない場所で視点人物の主観的な認識が対立構造とは無関係に示されることの意義を、登場人物の主観性を強調することで対立構造を描くことの説得力を増しているというように解釈しなければいけない積極的な理由はないと思います。

僕も積極的な理由はないと思います。「そのように解釈することも可能である」というくらいが妥協点でしょう。

 

殴打されて死亡した被害者の頭部をほおずきに例えたとしたら、それは回りくどくて曖昧で主観的な表現でしょうが、これは主人公や視点人物が関与しているなんらの対立を表現するものでもありません。

これは異議があり、このケースでも間接的には対立を表現すると思います。「地の文が示す主観的な認識が必ずしも全て対立にはっきり繋がっている必要はないだろう」という僕の文章は「間接的にはうっすら繋がっているだろう」というニュアンスでもあり、僕は曖昧な表現が間接的に何らかの対立を暗示していると解釈できる射程はかなり広いと思っています。

例えば、ほおずきが割れる生々しいイメージで頭部を捉える比喩は、生鮮果実によって死体を活き活きとショッキングに捉える認識を示唆します(死体を見慣れていない一般通行人の認識に入り込んだ描写あたりでしょうか)。これによってこの殺人事件が日常を破壊する衝撃的な事件であるという認識が提示され、事件を解決する味方サイドである探偵への期待感を高め、最終的には探偵と犯人の対立構造を描くことに繋がります。逆に殺しに慣れ切った軍人であれば見慣れた死体をいちいちフルーティーな比喩を用いて認識するとは考えにくく(もっと無機的な壊れたロボットにでも喩えるでしょうか)、これも十分認識に紐づいた比喩であると思います。

 

"入間人間の" 手口はわかっていない。

しかし、LW さんが後半で挙げている入間人間の技法はどれも入間人間に特徴的なものではありません。

100%仰る通りです。正確に書くならば「入間人間のようなベテラン作家によく見られる手口」とでもすべきだったのですが、大元のツイートで適当に「入間人間の手口」と書いてしまったのでこの表現をそのまま使っただけです。ちなみに僕は入間人間を五冊くらいしか読んでいません。

 

ではお前はどのように考えているのか?

小説家が即物的でない表現をする理由、原因は、おそらく複数の関連のない美的な要請のゆるやかな複合です。そのうちの主要な部分として、主観的な認識の歪みを表現するため、というのはもちろんあるでしょう。 しかし、その他にも、
・詩的な驚きを与えるため
・登場人物の持つ情報の制約によるため
・解釈の余地を残すため
といった要因、動機が考えられるでしょう。

総じていいたいことは、主観的な表現は対立を表現するためだけにあるわけではないということに尽きます。

100%同意です。これは記事のわかりやすさを優先して本来すべき留保を切って単純化して書いた僕が悪いです。

(ほおずきの例には異論があったように)僕は間接的なものも含めれば主観的で曖昧な表現が対立構造を描くことに貢献しているケースはかなり多いと考えているにせよ、そもそも論理的に言って、「曖昧な表現が対立構造を描くのに有効であると示すこと」と、「曖昧な表現が対立構造を描くためだけに存在すると示すこと」は全く別の作業です。

正直に言えば「とりあえず曖昧な表現はぜんぶ対立構造の描写に貢献しているというスタンスで当面はやっていこう」と僕自身は内心思っていますが、それは僕が勝手な信条を保持しているだけの話で、外向きに示すことには成功していません。