LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

19/11/14 Re:ゼロから始める異世界生活の感想 ループ者の倫理性について

Re:ゼロから始める異世界生活

7838
今更全話見ましたがかなり面白かったです。
もう完全に逆張りなんですけど、僕はラムが好きですね。なんか無駄に好意を向けてくる女性キャラが苦手で、ラムくらいドライな子がいいです。

異世界転生もの(厳密には異世界召喚らしいけど)というよりはループものとして興味深かったです。
最初は『シュタインズゲート(シュタゲ)』や『All You Need Is Kill(AYNIK)』の焼き直しじゃんと思っていたんですが、第2クールあたりから扱われている論点がシュタゲよりも進んでいることがわかってきます。ただ、全体的に問題提起は非常に優れるのですが、回答にはやや不満が残るという印象です。

・ループ者の倫理

シュタゲの頃から(というよりはループもの全般に対して)結構言われていたこととして、「タイムリープできる岡部はハッピーエンドに辿り着けて良かったかもしれないけど、バッドエンドの世界に残された人たちはどうなるの?」という話があります。
御存知のようにシュタゲは岡部が世界をSERNから救うため(あとまゆりを救うため)、何度も何度もタイムリープして成功する世界線を目指す話なんですが、その際に失敗した世界線にいる人々は端的に放棄されるだけです。岡部が失敗した世界線はSERNの暴走を止められない世界なので、残された人々が不幸な未来に収束することは確定しています。岡部は失敗した世界線の人々に対しては、一方的に人生の決定権を持ちながら、かつそれを不幸な方向に推し進めるという意味で加害者でもあります。一つの世界を救うために無数の世界を踏み台にして犠牲にしているわけです。
「岡部が動かない世界線はいずれSERNに支配されているのだから、岡部が失敗したところで大局的には変わっていないのでは?(結果が変わらない以上、失敗の責任は問えないのでは?)」という見解もあります。しかし、もし仮に我々が「失敗した世界線」にいた場合、失敗した岡部に「どうせ結果は同じだから」と言われたところで納得はいかないでしょう。岡部が行動する前の時点では救われる可能性があった以上、それをしくじったことに対して不満を持つのは自然なことのように思います。
本質的には、これは「一個人の裁量で他人の生死と世界の命運を左右できる立場にいる」こと自体の暴力性です。これは世界一つを相対化して考えられてしまうループ者の性質に起因する加害性であり、望むと望まないとに関わらず、強制的に岡部に全ての運命を託させられることへの不服さです。そういう意味では岡部は人類の支配者としてSERNと全く同じ立ち位置におり、成功した世界線ですら暴力的で危うい存在です。

補足221:一応シュタゲの場合は「リーディングシュタイナーを持つ岡部がいる世界線だけが本当の世界である(から、失敗した世界線の人々は不幸にならない)」という設定はありますが、これは上に書いたような「いたたまれなさ」を回避するためだけに付け足されたアドホックなものという印象は否めません。岡部がいない世界に対して言及する設定はこの一つしかなく、何とでも言える部分だからです。

補足222:僕はあまり詳しくないですが、エロゲー業界では似たような話に「Kanon問題」とかいう名前が付いているらしいですね。不幸なヒロインが二人いて、ルートによって彼女らのどちらを救うかが二者択一である場合に、ヒロインAを救ったルートではヒロインBが救われないし、逆もまた然りであって、ヒロインA・Bを同時に救済することはできないのがすごく悲しいみたいな話らしいです。岡部がルートを進むたびに救われない人々を生み出してしまう問題と類似しています。

ここで問われているものはひとまず「非ループ者に対する、ループ者の倫理性」と言えるでしょう。ループ者は様々な意味で(存在論的にも、能力的にも、情報量的にも)非ループ者よりも圧倒的な優位な立ち位置におり、世界一つを相対視するため、それがループできない他人の何らかの権利に対する何らかの暴力性として作用しうるのではないかということです。

以上の問題意識を踏まえたとき、まずリゼロが凄く優れていると思ったのは、ループ者であるスバルが「人海戦術」を取らないし取れないというところです。
というのは、スバルのループ回数って他のループものと比べてかなり少なく、精々5回程度しかありません。スバルはループを活かした無数のトライアンドエラーによって、数の暴力で状況を打開するということをやらないんですよね。これと対照的なのは岡部やケイジで、彼らは数百・数千単位でループを繰り返し、あらゆる可能性を検討する「しらみ潰し戦略」や、何度も巻き戻ることで生じる無限の時間を鍛錬に費やす「精神と時の部屋戦略」を使います。
そういう「賢いループの利用法」ってループもの独特の問題攻略法であって、一つの見どころでもあったのですが、スバルはその手の戦略を基本的に考えません。「今の周回」でケリを付けようとするのがスバルの基本姿勢であり、毎ループをクリアするつもりで全力でプレイしています。前の周回を利用することはあっても、次の周回を見越していることはありません。スバルにとってのループはポジティブなスキルではなくネガティブな呪いであり、「使わないに越したことはない」という大前提があります。

スバルが人海戦術を取らない(取れない)理由は二つあります。
一つはスバルにとってループ自体が大きな苦痛だからです。スバルは自らの死がループの条件になる「死に戻り」ですが、スバルにとって死は本当に耐えがたい苦痛であり、可能な限り死を避けようとします。「激動の一週間」編の第4ループでのみスバルは自殺しますが、それでもスバルにとって死の苦痛が許容できるようになったわけではなく、それ以降は自殺していませんし、死の間際にはいつも「死にたくない」と口にしています。
もう一つは、スバルにとって他人が死ぬことが大きな苦痛だからです。スバルって口の軽さに反して非常にセンシティブな性格をしており、失敗したループにおいてエミリアやレムが死んだ場合、毎回発狂するくらい大きなショックをきちんと受けます。ここで言う「きちんと」というのは、「まるでループすれば生き返ることを知らないかのように」という意味です。テレビの前から見ている僕からすると「レム死んだけどループすれば生き返るし別に良くね?」という気もしますが、スバルはそうは考えません。これってベタに見ると「スバルは人の死をきちんと悲しめる少年だ」ということですが、メタに見れば「ループできるからといって死の重みが変わるわけではない」という問題意識が読み込めます。

いずれにせよポイントになるのは、「スバルは失敗による苦痛を非ループ者と共有している」ということです。
スバルが失敗した世界でレムやエミリアが死んだ場合、スバルだけが無傷で次の周回でやり直すという抜け駆けが許されていないのです。第17話でパックがスバルの罪を糾弾したように、スバルにはループ者として非ループ者の人生を背負っているという責任があり、失敗した場合には非ループ者と同じ苦痛を受けることを以てその贖いをしなければなりません。それは自らの死の苦痛だったり、他人の死への嘆きだったりするわけです。この苦痛の共有によって、ループ者だからといって非ループ者を軽んじることは許されない、まさに自分のこととして失敗しないように全身全霊で対処しなければならないという倫理性が前景化してきます。
よって、岡部とスバルが「詰んだ」ときにそれぞれ漏らした「諦める」という言葉の意味も全く違います。岡部の言う「諦める」は「複数回のトライアンドエラーを諦める」という意味ですが、スバルの言う「諦める」は「まさにこの周回におけるトライを諦める」という意味です。無数のループを俯瞰する超越的な視点を基本とする岡部はループシステムそのものに対して言及する一方、一回一回のループに固執する内在的な視点を基本とするスバルは一つのループに対して言及するという違いがあります。

ただ、スバルが非ループ者と苦痛を共有しているからといって、本質的な非対称性は依然として損なわれない、むしろ強化されているのがリゼロの問題設定の優れるところです。すなわち、「他人に死に戻りを口外できない」という厳しい制約がそれに該当します。
この制約は「非ループ者にとっては今いる世界が成功するのかしないのかが全てであり、他の世界のことなど知ったことではない」という前提条件を補強しています。ループ者は「この世界ではプランAを試して、次の世界ではプランBを試そうかな」などと考えるかもしれませんが、そんな対照実験の実験台にされる非ループ者はたまったものではありません。非ループ者にとっては「この世界でベストを尽くしてもらう」以外のループ者への期待は有り得ず、この意味において、「ループ者と共犯関係になる」ことは有り得ないのです。この絶対的な断絶を、ループそのものについての説得の余地を遮断することで表現したのが「死に戻りを口外できない」設定であると言えるでしょう。

総じて、

・ループ者に苦痛を共有させることで世界を踏み台にすることを封じる
・ループの口外を禁止することで非ループ者への説得の余地を封じる

という極めて禁欲的な前提条件がリゼロの問題設定であり、今まで見過ごされてきたループ者の倫理性を問うアニメという立ち位置を与えることができます。

さて、問題提起は済んだので、これらがどのように展開・解決されていったかを確認していきます。具体的には、

1.失敗した世界における死者をどう弔うのか?
2.信頼の非対称性をどう解消するのか?
3.信仰に陥らずにニヒリズムは回避できるか?

という3点について見ていきます。

・1.失敗した世界における死者をどう弔うのか?

既に述べたように、リゼロにおいては失敗した世界における死者のウェイトが相対的に重いです。スバルは「死に戻り」によって死者と苦痛を共有するし、一回一回死の重みを噛み締めて嘆かずにはいられません。
もう少し大きく問題を取れば、これは「死体なき死者をどう弔うのか」という問題と同型です。火災でも遭難でも何でもいいですが、死亡事故が起きた際に被害者の死が明らかであるにも関わらず遺体を求めて線路や海中を捜索するという営みはよく行われるものです。それは死体の確認によって死者を弔うためであり、逆に言えば死体なき死者を弔うことは困難です。スバルが失敗した世界に残してきた死者も「死体なき死者」であり、万が一非ループ者を死なせてしまった場合は彼らを忘れずにきちんと弔うことがループ者の喪についての倫理として求められています。

この問題が前景化したのは白鯨戦においてです。
白鯨討伐軍はヴィルヘルムを筆頭に近親者を白鯨に殺された者たちによって構成されており、白鯨を殺さなければ彼らは犠牲者をきちんと葬送できません。
特に「消滅の霧」という、一見すると不可解な設定が、このモチーフに対して決定的に重要な役割を担っています。消滅の霧で殺された人間は存在そのものを完全に消去されて誰の記憶にも残らない、これこそが「死体なき死者」の生成です。死体とは死後に辛うじて残る死者の唯一の直接的アイデンティティであり、それに加えて記憶までも抹消する消滅の霧は死者を限りない忘却へと追いやります。
すなわち、白鯨(消滅の霧)の暴力性はループ者の暴力性とイコールです。どちらもいたはずの人間を死なせるだけではなく、死んだことすらも忘れてしまって、きちんと死なせない、弔わない、葬送しないという無責任さが共通します。スバルが白鯨と戦うことは、ループ者が積み残してきた葬送の問題と戦うことでもありました。

ただ、消滅の霧という設定がかなり優れていた一方、この論点は結局あまりきちんと扱われなかった印象があります。
白鯨討伐後の葬送シーンはヴィルヘルムと彼の回想がほとんど全てを占めるんですが、彼は元々妻を忘れないんですよ。大変な愛妻家ですし、妻は「消滅の霧」にやられたわけではないからです。消滅の霧で死んだ人々をどう葬るのかという部分が全く描かれなかったので少し拍子抜けしてしまいました。
しかし、戦闘中に「誰がやられた?」「わからない。ただ、五人減った」みたいな内容のやり取りをするシーンがあって、これってそれまでの描写とは明らかに矛盾しているんですよね。前の周回でレムが消滅の霧を受けたシーンでは、過去まで巻き戻して存在を消去されているので、白鯨討伐中に消滅の霧にやられた人も徴用前から元々いなかったことになっているはずで、人数だけわかるというのは単純に設定が一貫していません。「消滅の霧」が謎設定として叩かれるのもわかるところはあります。
ただ、レムのように存在していたことすら忘れてしまった場合はどうやっても弔えないので、せめて「誰か」を葬る契機を作るためにあえて描写を矛盾させたのではないかと思います。だから好意的に見れば、誰がいたのかはわからなくても、誰かの死をきちんと悼むことはできるという回答を描写の矛盾に見出すことはできます。

・2.信頼の非対称性をどう解消するのか?

既に述べたように、スバルは死に戻りについて口外できません。
これによって信頼に関する非対称性が生じます。例えば、前の周回で白鯨を目視しているスバルにとっては白鯨の出現は必然的ですが、ループしていないクルシュにとってはそれは可能性でしかありません。スバルとそれ以外では未来に何が起きるかについて知っている情報が全く異なるので、スバルは自分の言うことを信じてもらえずに苦しむことになります。つまり、スバルが極めて独断的な行動を取ってエミリアたちから見限られるのって、別にスバルの性格の問題とか状況の問題ではなくて、ループ者が持つ非対称性から必然的に導かれる問題であるということです。
もう少し踏み込むと、「非ループ者はループ者の発言を信じないし信じるべきではない」と言えるかもしれません。今この世界でしか生きていない非ループ者にとって、様々な世界を戦略的に利用できるループ者の判断を信じてしまうと、自分の世界が実験台や踏み台にされる恐れがあるからです。この非対称性については色々な解釈ができて、「可能的な生を生きる者」と「必然的な生を生きる者」の間にある実存的な差異でもあり得るし、「加害者」と「被害者」の間にある支配関係の差異かもしれませんが、とりあえずは信頼関係として考えましょう。「ループするか否か」が異なるという理由だけで絶対に分かり合えない地点があって、それが中盤のスバルと他者の分かり合えなさに象徴されるということです。

補足223:この辺の話題は、そもそも現実にはあり得ない「ループもの」を何の表象として考えるかとイコールです。

これが解決されたのは明らかにあの有名な第18話です。
レムからの無限の愛が無限の信用を実現し、「ループ(死に戻り)について口外できないスバルの発言を全て盲目的に信じる」というレムの献身によって信頼関係が取り戻されました。はっきり言ってこれは僕は非常に有り得ない寄りで、リゼロというアニメのポテンシャルを第18話が潰したとすら思っています。
もう少し具体的に言えば、全てのコストを美少女の献身に押し付けるというセカイ系的ソリューションを再演しているので回答として全く新しくないというのが一点、レムの献身はループとは全く関係ないところから生まれてきておりループものに関する話題の中で構造的な立ち位置が見い出せないというのがもう一点です。強いて言えば、レムの献身はスバルがループ者として倫理的に頑張った結果として勝ち取ったものなので、辛い問題に対処した見返りがあったという解釈はできますが、それはプロットレベルのものでしかありません。

非対称性の解消ってかなり重要なポイントだと思ったので相当注意して見ていたんですが、レムの他に状況を解決した要因は、

ミーティアを用いた説得=超自然性の利用
・クルシュの風見の加護=人間力のある他者
・アナスタシアとの結託=人脈と利害

あたりで、やはり「これだ」というものが見当たりませんでした。強いて言えば、ループ者と非ループ者の間にも色々な要因でアドホックで泥臭い信頼関係は回復しうるという程度の教訓は得られるかもしれません。

3.信仰に陥らずにニヒリズムは回避できるか?

ループ者であるスバルがエミリアに異常な執着を見せる理由って直接的には「異世界に放り出されて寄る辺ないスバルに目的を与えたから」なんですが、この寄る辺なさは明らかにループ者のそれとパラレルです。異世界召喚者として、そしてループ者としてそもそも何をすればいいのかわからなかったスバルが何かをするためのエミリアという存在は、スバルが各ループをきちんと生きるための鎹でもあります。
というのは、ループ者にとって世界は無数にあるので、一つ一つの世界の現実性が価値を持たない、何をしても変わらないというニヒリズムの回避が大きな課題になります。ここで言う「何をしても変わらない」というのは、岡部みたいな「どの世界でも回避できない事象がある」という手詰まりの絶望ではなく、「世界が無数にあるとき、それぞれにおける成功とか失敗に何か意味があるのか」という虚無感の絶望です。
スバルが誰かの死を「ループすれば生き返るから」と冷笑的に見るのではなく、きちんと悲しんで苦しむことができるのはそれだけ他人に対して興味を持っているからです。メタ的には因果が逆になっていて、他人に興味を持っているからきちんと悲しめるのではなくて、きちんと悲しむためには他人に興味を持つ必要があったということです。その興味ある他者の象徴がエミリアであり、複数の世界に複数存在するにも関わらず、どこにいても意義深く人生に意味を与えるもの=信仰対象としてエミリアを措定しなければスバルはニヒリズムに陥ってしまうことを、ループ者の普遍的な問題として見出せます。

この論点からスバルと対比されていたのはペテルギウスです。
ペテルギウスの存在の在り方ってスバルとかなり似ていて、主人公と裏表タイプのラスボスと言ってもよいと思います。ペテルギウスは死んでも他人の身体に転移できる、つまり縮小した死に戻りで、スバルと同じように複数回の生を生きる存在者です。だからペテルギウスにとって可換なものでしかない彼自身の命の価値は非常に軽いです(ループ者としては岡部やケイジと同じ)。
ペテルギウスは疑似的なループ者であるためにスバルと同じ弱点を抱えていて、ニヒリズムを回避して現在の世界を生きるための拠り所を必要とします。つまり、スバルがエミリアに執着する理由と、ペテルギウスがサテラに執着する理由は全く同じで、彼らは複数の世界を生きられるが故に、逆説的にその生を意味づける信仰対象を必要とする様子が共通して描かれていました。ペテルギウスがスバルに転移できるのも非常に納得のいく話です。

ただ、これに関しても最終話で提出された回答はあまり納得のいくものではなかったように思います。
潜在的に無限の世界を生きられるスバルが信仰対象としてエミリアに要求する愛の重さと、たかだか一回の世界しか生きていないが故に普通の恋愛感情しかないエミリアの愛の重さの不釣り合いがずっとネックになっていたと思うんですが、最終話でエミリアが告白を受け入れる理由って何だったんでしょうか。


以上、全体的に問題提起には優れているのに回答に不満が残るというのは冒頭でも述べた通りですが、かなり面白いアニメだったと思います。これから二期もやるらしいので非常に楽しみにしています。