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19/11/11 アズールレーン第6話のリベラルなお風呂回

アズールレーン第6話

アズールレーンアニメ面白いですね。
僕はアプリ版からのファンで(一番好きなキャラはシェフィールドです)、毎週本当に楽しく視聴しているのですが、第6話のお風呂回が結構良かったのでそれについて書きます。

率直に言って、アズールレーン萌えアニメだし僕は男性なので、第6話がお風呂回と知ったときから女性キャラクターの裸体が魅力的に描かれるサービスシーンを楽しみにしていました。
まず一般的に言って、良い悪いはひとまず別として、萌えアニメのお風呂回は男性目線で女性の裸体を性的な消費対象に断片化する試みであることはまあ間違いないでしょう。グラビアと同じで男性を楽しませるための表現ですから、裸体を客体として「見られる」側に位置付ける必要があって、裸体の主導権を握る視線は女性の外側にあります。
しかし、実際のアズールレーン第6話お風呂パートでは「女性自身にとっての身体性」というテーマが導入されており、逆に女性キャラクターの側が主体的に身体を「見せる」という構図が描かれていたように思います。その際の裸体の主導権と、裸体を見る視線は彼女たちの側にありました。
つまり、お風呂回にリベラルな文脈を乗せることで裸体に対する視線の位置を反転させようとする試みがなされていて、「萌えアニメでそういうことするんだ」ってちょっと驚きました。

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第6話で描かれたお風呂はクイーン・エリザベスの計らいで準備されたテルマエ式の大浴場で、たくさんのキャラクターが同時に入浴する公共的な空間です。その中でキャラクターたちがお互いに身体を見せ合うことを通じて性と身体の多様性を知り、一面的な規範性から解放される描写がいくつか行われており、それが最もわかりやすいのはユニコーンが身体コンプレックスを克服する過程です。

ユニコーンは自分の背が小さい割に胸が大きいことがコンプレックスで、一度はジャベリンに胸の大きさを指摘されて泣いてしまいますが、ラフィーに「皆違うのは当たり前」「変な人なんていない」と諭されたり、他の女性キャラクターの色々な身体を見ることによって、身体の在り方は多様であることを知り、自分の身体に自信が持てるようになります。

補足219:念のために言っておきますが、エロゲーでよくある「巨乳がコンプレックスのキャラがセックスを通じて巨乳に自信を持つ」、つまり、セックスシーンで男性の主人公に「君の巨乳は魅力的だ」みたいなことを言われて嬉しくなるというストーリーと、今回のユニコーンのストーリーは全くの別物です。男性に承認されることで巨乳に自信を持つのは、男性主体の性的欲望の規範性に組み込まれて従属しただけです。彼女の身体は客体としての消費価値を高めたに過ぎず、主体的に自分の身体を認識する地平からはむしろ後退します。

このストリップショーがお風呂シーンのクライマックスになっています。
これはユニコーン目線の描写で、様々なキャラクターが自信に満ちた表情でユニコーンに向けて堂々とポージングを行うことで、裸体を「見られる」ものから「見せる」ものに転換し、ユニコーンに自分の身体を恥ずかしがる必要はないというメッセージを伝えるものになっています。ムキムキの筋肉をアピールするネバダが特にいいですね。

このストリップショーも含めて第6話のお風呂シーンでは胸や陰部を隠す「謎の光」が異常なまでに多用されたんですが、それにも相応の理由があることがわかります。
彼女たちが堂々として全く身体を隠さない以上、アニメとしては放送コードの都合でモザイクのような不自然な謎の光を使わざるを得なくなってしまうんですね。例えば上のストリップショーで最後に出てくるハムマンはフラフラ歩いている途中でユニコーンに見られていることに気付くんですが、だからといって別に胸や陰部を隠すことはなく、そのまま歩き続けます。自分の身体に自信があって「見せる」立場にいるキャラクターは見られても萎縮しないので、いちいち身体を隠す必要もありません。それがユニコーンは自分の身体にコンプレックスがあるために手やタオルで隠してしまう様子と対比されているわけです。
もう一歩踏み込むと、逆に他のアニメで行われるもっと「自然な修正」、つまり謎の光を使わずとも女性が羞恥心から自分の身体を隠したり、泡や葉っぱが身体の上に重なるような描写って、実は裸体の主体性を抑圧する表現でもあり得るわけで、そういう告発を謎の光の多用という「不自然な修正」に読み込むこともできます。
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他にも、何故か第6話では食堂から脱衣所まで色々なキャラクターが延々と下着の話をしていたところや、その流れでシェフィールドがクリーブランドに陰部を見せつけるところも、ユニコーンと同じテーマが読み取れます。
シェフィールドがパンツを履いていないだけではなく陰部を赤城やクリーブランドに見せることに抵抗がないのも、やはりネバダユニコーンに筋肉を見せつけるのと同じで、身体や性に対する抑圧から解放されているからだと解釈できます。それにショックを受けるクリーブランドもまたユニコーンと同様で、下着の選定や着用の有無についての自由な在り方を啓蒙されるわけですね。

なお、お風呂回に持ち込まれたリベラルな観点は、アニメ全体で問われている主題とも完全にリンクしています。
アズールレーンアニメをエンタープライズが主人公の物語として見たとき、このアニメは自らを戦争の道具と自己規定しているエンタープライズが他の実存を見つけていく話です。エンタープライズが囚われているのは性的なステレオタイプではないにせよ、既存の不利な規範性に自分を当てはめてしまい、自縄自縛に苦しい思いをしているのはユニコーンと同じです。自らの本質を戦争機械として規定してしまうエンタープライズは、自らの身体を奇形として規定してしまうユニコーンと全く同じで、彼女たちにとっては外部からの視線によって措定されたステレオタイプを打ち破って、主体的な自由を見つけることが自分に自信を持って活き活きと生きていくことに繋がります。
エンタープライズユニコーンを並べたとき、被造物の実存と本質を巡る問題(エンタープライズ)がフェミニズムの問題(ユニコーン)と同型であることが理解できます。これは以前『トイ・ストーリー』シリーズの感想という形で詳しく書いたのですが→、キャラクターのような被造物は最初から用途が定められた状態で生まれてくる存在者なので、常に設定に抑圧されていて本当に自由には生きていくことができないという問題意識があります。
アズールレーンアニメではメイド服が人間らしく生きることの象徴として扱われており、しばしば敵陣営から「ふざけた格好」と蔑まれるのは、「自らの意志で主従関係を演じることが逆説的に人間らしい選択の可能性を示しているからだ」ということが明らかになりました。つまり、メイド服を着ることは人間になることとイコールなので、6話でエンタープライズが「メイド体験してみようかな」みたいなことを言ったのは被造物としての設定を打ち破って実存を掴もうとしたこととイコールです(これがユニコーンが身体コンプレックスから解放されたこととパラレルであるのは言うまでもありません)。

更にジェンダーに注目した場合、ストーリーの都合で男性(指揮官)がオミットされている点も注目に値します。これはやや微妙なラインですが、男性が不在であることで女性キャラクターたちが見られるための行為から解放されているという主張はギリギリ有効であると思います。
例えば6話で赤城が加賀とかんざしを買うシーンって、アプリ版ならキャラ的に間違いなく「きっと指揮官様も気に入るわ」みたいなことを言うはずなんですよね。しかし、アニメ版には指揮官が存在しないので、純粋に「似合うから」という理由でかんざしを買うことになります。キャラクターの行為が男性(指揮官)に見せるための客体的なものではなくて、彼女ら自身が生きるための主体的なものとして再解釈する契機が与えられており、これもまた外部からの規範性の打破という意味では、やはりエンタープライズユニコーンのテーマと同列に了解できます。

以上まとめると、アズールレーンアニメには「被造物としての実存について(エンタープライズ)」「男性にまなざされる行為について(赤城)」「普通さに抑圧される身体について(ユニコーン)」のように様々なレイヤーでリベラルなテーマが組み込まれており、それが第6話では既存の「萌えアニメのお風呂回像」を転倒させていたのが面白かったという話でした。

しかし、最後にどうしても言っておかなければならないこととして、以上の解釈を認めてもなお、アズールレーン第6話のお風呂シーンが「政治的に正しい描写だった」と全面的に擁護することはできません。話はそんなに単純ではないのです。
というのは、ここまでに述べたストーリーは基本的に作中世界のレイヤーでエポケーした場合にのみ成り立つ話であって、現実世界においてこのアニメは男性向けの萌えアニメであるという点がどうやっても動かないからです。それが公正さを擁護する上で決定的にまずいのは、最悪の場合、リベラルな解釈が「女性キャラクターが主体的に振る舞っている様子を描いているからセーフだ」という免罪符として機能し、実際には彼女たちを性的に消費して楽しんでいるのを正当化することに繋がりかねないからです。
だからこの文章がアズールレーンアニメの政治的公正さを擁立する主張だと解釈されることには問題があって(僕の真意からはズレていて)、リベラルな文脈に注目することでお風呂回の描き方を拡張するように解釈できるのは面白いよねという程度のものでしかありません。

補足220:僕の考えでは、ここまで述べてきたような「見せる」と「見られる」の二項対立は、「見せる」が極まれば「見られる」に転じるし、「見られる」が極まれば「見せる」に転じるという、陰陽魚の太極図に象徴される東洋思想的な論理性なので、どちらかをはっきり主張するというスタンス自体がナンセンスです(「見せる」と「見られる」が明確に区別できるという西洋思想的な論理性ではない)。
それに加えて政治的公正さを真面目に擁護するのが非常に厳しいと言わざるを得ない理由は更に二つあって、一つは僕が男性であることです。常識的に考えて、女性の主体性を男性が語ることって普通に不可能なので、全ての文章は「~という解釈ができるかもしれない」という括弧付きにならざるをえません。もう一つは、アズールレーンアニメが萌えアニメである以上、常に女性が可愛く描かれていることです。性的に興奮する人が一人でもいる限り、どんな正当化をしたところで性的消費を正当化するための免罪符を与えてしまうという危険が常に伴います。とりわけ、今回題材になっていたユニコーンロリ巨乳とか、シェフィールドのノーパンという設定が、(「足が短い」とか「背が低い」に比べて)リアリティに欠ける煽情的なものであったことは、明らかにその危険性に貢献します。これをクリアするためにはアニメ版『悪の華』で用いられたロトスコープ技法のように誰がどう見ても萌えないキャラを使うしかありませんが、そういうアニメは最初から公正さを擁立しようとしていると処理されることに抵抗が無いので、転倒的な価値を持つ試みとして解釈することはできないでしょう。娯楽作品のジレンマです。