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19/11/6 異世界転生アニメに入門してオーバーロードを見た

異世界転生入門

そろそろ異世界転生アニメをちゃんと見ることにしました。
しかし問題は、異世界転生にはジャンルを代表する作品が見当たらないことです。セカイ系の代表作はエヴァ、絶望魔法少女の代表作はまどマギっていうのは誰もが同意すると思うんですが、そういう「This is 異世界転生」的な作品がイマイチ無いっぽいんですよね。
迂闊に「異世界転生の代表作って何だろう」みたいなことを古めのオタクに聞くと、「異世界転生的な作品は20世紀からあるし、『犬夜叉』や『ゼロ魔』だって広義のそれで~」みたいな老人トークを食らうんですけど、今ブームになってる異世界転生ってそういう感じではなくないですか? 俺は「いまどきの中高生は誰でも知ってる」「最近すごい人気がある」みたいに商業的に俗な意味で今流行ってる「現代異世界転生」を見たいだけで、正統な系譜について調査したいわけではありません。

現代異世界転生に詳しいゲッタ~とも話したんですが、異世界転生の定義って実は結構難しいらしいですね。字義通りに「異世界に転生する作品」と定義しても、「それには当てはまらないけど異世界転生っぽい作品」が結構あるので、大した意味がない感じがします。例えば、『Reゼロ』や『オーバーロード』は、異世界に行く際に死んでいるわけではないので、厳密には「転生」ではありません。また、内容に注目しようとしても、一般に思われているほどチート無双をするわけではなく、むしろ戦いを遠ざけたスローライフを送る作品群も形成されているなど、異世界での活動は作品によって多様です。
強いてふんわりと定義するなら、今求めている「現代異世界転生」とは

現代社会出身の主人公(大抵は日本)
・何らかの異世界を舞台にする(大抵は中世ヨーロッパ風)
・2015年以降くらいに売れた作品

という感じでしょうか。まあ、定義に拘泥するのも不毛なので、これにこだわるつもりもないですが。

とりあえずTwitterで精鋭フォロワーたちの意見も募ってそれっぽいアニメを精査した結果、

・『このすば』
・『オーバーロード
・『Reゼロ』
・『幼女戦記
・『SAO』
・『GATE』

あたりを見れば良いのではということになりました。
最初の4つは『異世界かるてっと』なる異世界系総本山スピンオフアニメを構成するほか、二期や劇場版を持つなどコンテンツとしても明らかに成功しています。『SAO』は技術系XRなのであまり異世界転生らしくはないですが、一応別世界ものではあるので人気を鑑みて入れました。『GATE』は現代異世界転生に詳しいゲッタ~が何故かやたら推してくるので見ることにしました。

これらを同時並行でちょいちょい見ていってるんですが、全体的な印象として、異世界転生というジャンルは根本的にメタジャンルなのだなと感じます。
というのは、「自分が漫画アニメゲームの世界に行く」というオタクなら誰でも一度は考えるような妄想が異世界転生のベースにある想像力であり、その意味で主人公と我々の姿が重なるということです。同じことは世界の関係についても言えて、ほとんどの作品に登場する「転生前の世界(主に現代日本)」と「転生後の世界(主に中世ヨーロッパ)」という二つの世界の関係は、我々にとっての「現実世界」と「作品世界」の関係とパラレルです。

これによって説明できる物事って色々あって、例えば異世界転生アニメがメタネタ・パロディを好む傾向はその一つです。
異世界転生アニメにメタネタ・パロディが多い理由は、今まで「小説投稿サイトなどSNSに近い形式で素人が書く作品が多いので、安易なパロディの使用は馴れ合いとして需要があるから」ではないかと推測していたのですが、それとは別の理由として、単純に我々の世界を下敷きにするメタジャンルである以上、それに言及する身振りとの親和性が高いというのが一つ言えると思います(あるいは因果関係が逆で、馴れ合いとしての需要を吸収できるのがメタジャンルとしての異世界転生なのかもしれません)。
また、異世界転生アニメって「いわゆる異世界転生というやつでして……」とか「どうせチート無双が好きなんでしょ」みたいなメタ発言を平然と行うのですが、そこで引用されている具体的な作品名が判然としないという違和感もこれで説明がつきます。例えば、『慎重勇者』の女神が「どうせ日本人はチート無双が好きなんでしょ」とか言ったとき、そこで言及されている対象は『賢者の孫』とか『オーバーロード』みたいな明確な一つの作品ではなくて、恐らく異世界転生ジャンル(の一部)に対する共通認識なんですよね。異世界転生においては、特定の作品というよりは「あるあるネタ」みたいなものを扱いたがる感じがなんだか特徴的だなあと思って見ていました。
これって、異世界転生におけるメタネタが従来のように作者と視聴者の間で取り交わされるものではなくて、主人公と視聴者の間で共有されているものと考えると腑に落ちます。作者の個人的な趣味領域の開示ではなく、掲示板やSNSのようなオタク的公共空間の再現が目的にあるため、各論よりもジャンル論が優先されるということなのではなかろうかと思います。

また、異世界転生は我々の世界に言及するメタジャンルであるということを念頭に置くと、作中での主人公の言動や行為が作中世界と現実世界での二重の意味を伴うものとして理解できるようになります。もっと正確に言うと、メタジャンルであるが故にアニメ内容がベタとメタの二重の解釈を許容するのが異世界転生アニメの面白いところだなと思います。
例えば『Reゼロ』でスバルがエミリアの精霊術を初めて見たときに「これがいわゆる魔法ってやつかあ~」みたいな反応をするやつって、彼が本当にしみじみ驚いているのだとベタに考えることもできますが、メタに見れば我々がファンタジーアニメの一話を見ながら発する「これがいわゆる魔法ってやつかあ~」と同じ発言でもありますよね。
この例ではほとんどメタネタのような形で二重性が陽に提示されていますが、もっと暗黙なものに対しても可能で、例えば主題の射程をメタ言及として再設定することについてオーバーロードの感想という形でやろうと思います。

オーバーロードの感想

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面白かったです。
9話までは最強の主人公モモンガと、同じくらい強い配下たちが異世界でチート無双するというだけの話であんま面白くないな~と思っていたのですが、10話から風向きが変わってきます。

10話でシャルティアが離反して明らかになるのは、実はモモンガはそこまで絶対的に強いわけではないということです。確かにモモンガは異世界の人たちにはまず負けないのですが、モモンガたちプレイヤー自身が作った配下に対してはそうもいきません。むしろ、直接戦闘能力では完全にシャルティアに劣ることが判明します。
これによって、「絶対的に強いから無双できるし仲間にも慕われる」というチート無双的・マッチョハーレム的な構図は瓦解します。他の守護者たちもモモンガがそこまで強くないことはわかっていて、「勝率は3割程度しかない」とか「助けなければ危ない」みたいなことを冷静に言いますが、だからといってモモンガに失望することはありません。つまり、NPCたちがモモンガを崇拝する理由は「モモンガが個体として優れるから」ではないことがわかります。
NPCたちがモモンガを崇拝する本当の理由は「モモンガたちプレイヤーがNPCたちを創造したから」です。本当に重要なのはモモンガとNPCが創造主と被造物の関係にあることなんですね。第2話あたりでモモンガが「期待される主にふさわしい立ち振る舞いをしなければ失望されてしまう」みたいなことをちょっとだけ悩むんですが、それは彼の誤解です。NPCはモモンガを『エンジェル伝説』的な勘違いで持ち上げているわけではなくて、モモンガが創造主であるという揺るがない事実によって崇拝しているわけです。

冒頭に書いた通り、異世界転生がメタジャンルであるためにベタ・メタという二重の読みをできることを鑑みると、モモンガとNPCの関係はただちに我々に対して帰ってきます。つまり、オーバーロードにおけるNPCは我々が創造するキャラクター全般の表象であり、NPCに対峙するモモンガはキャラクターに対峙する我々の表象でもあります。モモンガとNPCの関係は、我々とキャラクターの関係、あるいは創造主と被造物の神学的な関係とパラレルです。

補足217:実際のところ、メタジャンルであろうがなかろうがメタ的な読みは勝手にやるんですが、異世界転生の場合はそれが無理筋な読みにならない、スムーズに行えるのがありがたいという程度が正確なところです。
オーバーロードにおいて、「ユグドラシル」という架空のオンラインゲームがこの作品特有のアドホックなゲームではなく、一般的なオンラインゲームの典型であることは明らかです。ユグドラシルについての基本的な設定の説明がほぼ省略されているのがその証拠であり、ユグドラシルの設定はオンラインゲーム一般の普遍的な設定として置換可能です。それ故、オーバーロードの主題である「ユグドラシル内のキャラクリエイト行為」も、「我々のキャラクター創造一般」にスムーズに議論を移行できます。


以上を踏まえたとき、NPCたち=キャラクター一般=被造物が自らを被造物であると完全に認識しているのが面白いところです。
10話のシャルティアの発言が印象的で、アウラとの仲が悪い理由を聞かれたときに「本気で仲が悪いわけじゃない、そういう設定をされたから適当にからかっているだけ」と返答します。アルベドも自身の愛がモモンガの設定しただけのものということを大して気にしていません。彼女らは自分自身の性格によって行動しているわけではなくて、設定された性格で動いているということに対して極めて自覚的です。『グランベルム』等とは異なり、NPCたちは自分が作られた存在であることがわかっていても特に衝撃を受けることはなく、むしろそれをアイデンティティとして「至高の御方」たちへの忠誠心を高めます。SFにありがちな「作られたロボットが自我に目覚めて人間を目指す」的な展開を最初から遮断し、キャラクターと人間の垣根をむしろ強調していることにこのアニメの面白さがあります。

補足218:よくある「今まで自分は人間だと思っていたのに、本当は作られたロボットだとわかってショックを受ける」みたいな話、そこまで自明な感情の動きではないだろと思います。宗教的な世界観では(ロボットではないにせよ)神に創られたことは当たり前の事実として受け入れられているわけで、被造物であることがただちに主体性を失わせる衝撃であるような自己自認の在り方って、カント的な近代以降の世界観に限定されるような気がします。

そうしたアイデンティティを持つNPCたちの存在という前提の下、クライマックスのシャルティア戦で問われたのは、モモンガ=我々オタク=創造主が彼らに対してどのように振る舞うべきかです。
これに関しては、最終話のサブタイトル「PVN (Player vs Non player character)」が非常に秀逸です。NPCはPlayerではないからPVP (Player vs Player)では有り得ないんだけど、かといって一般的に対CPUを指すPVE(Player vs Environment)でもなくて、独立したCharacterであることは認めている(しかし、それはPlayerではない)という対立が非常に表されています。この最終話サブタイトルがオーバーロード一期を象徴していると言ってもよいくらいです。
既に述べた通り、戦闘能力ではモモンガはシャルティアには勝てませんが、モモンガがシャルティアを倒した理由は大きく分けて二つあります。一つは、モモンガはシャルティアを創造したペペロンチーノと仲が良かったのでシャルティアのステータスについてよく知っていたこと、もう一つはモモンガはかつてのプレイヤー仲間たちが使っていた武器を使えることです。この二つはどちらも創造主と被造物の格差を表すものです。プレイヤーはプレイヤーであるという理由だけで情報量的にも戦力的にもNPCを圧倒できるという、関係の非対称性がラストバトルの決め手になりました。
だから、シャルティア戦で提示されたことは、「モモンガとシャルティア」=「創造主と被造物」=「我々とキャラクター」にはどうやっても埋められない溝があるということです。溝を架橋して歩み寄るのではなく、むしろ絶対的な溝を固持して君臨することがモモンガの勝因でした。
この結論はモモンガにとっては孤独を深めるものでもあります。モモンガは折に触れてかつての仲間たちとの思い出に浸っているんですが、NPCたちとの関係が非対称で絶対的な格差を含むものであることは、NPCはプレイヤーの代替物になり得ないことを意味します。最終戦でモモンガがかつての仲間たちの装備を付けたことって非常に悲しくて、モモンガは本当はいつか戻ってきた仲間たちに使ってほしくてレア武器を手放さずに持っていたのに、それを使わざるを得ない状況に追い込まれた上にNPCには使わせたくないから自分自身で使わざるをえないという。
「自作キャラクターを使った自慰活動が実を結ぶことは無い」という結論を読み込めばいわゆる「リアルに帰れ」寄りのアニメではありますが、最終話でNPCたちに僅かにプレイヤーの幻影を見たことはそれに対立する可能性を示唆しています。まだまだ続編も劇場版もありますから、プレイヤーとNPCの関係がどのように推移していくのかを楽しみにしつつ二期以降も見ていきたいと思います。