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19/7/17 八月のシンデレラナイン総括 テロスなき青春の輝き

八月のシンデレラナイン総括

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終始何も起きない野球アニメだったけど、面白かった。実は「何も起きない」というのがポイントで、達成目標の欠落に耐えられる青春ものは貴重だ。

ほぼ全てのスポーツ・アイドル系アニメは主人公に達成すべき目標を与えずにはいられない。例えば穂乃果は廃校を阻止するため、咲は姉と再会するため、綾乃は母に応えるために戦う。そういうキャラクターの原始的なモチベーションがあって初めて物語が動き出し、話の収拾も付けられるようになる(原則として目標の達成という形で)。
しかし、ハチナイには全編を通じて遂行すべき明確な目標を持つキャラが特にいない。主人公の有原には「大好きな野球を野球が好きな仲間といっぱい楽しめるチームを作ろう(4話台詞)」というガバガバな動機しかなく、これはチームを結成した時点でだいたい達成されてしまっている。野球部の癖に試合をやる理由すら曖昧なので、試合前にはいちいち「試合をやりませんか?」「大会に出てみませんか?」とチームメイトにお伺いを立てるシーンが挿入される(「試合をする」という目標が共有されておらず、「やらない」という選択肢もあるため)。試合後も負けて悔しがったり勝って喜んだりするだけだ。勝利or敗北というイベントに対応する物語全体の中での意味が定義されていないため、小学生並みの感想しか発生しない。終盤の方で出ていた大会も二回戦で敗退したことがエピローグで示されるが、「残念だったけどまあまあ健闘した」という適当な感想で終わる。大会編にすら「何回戦まで勝ち進みたい」とか「因縁の誰々には勝ちたい」とかいうモチベーションが特に存在しないからだ。

「目標の欠落」という青春部活アニメとしては致命的にも思える欠陥を埋め合わせていたのが、「現在形の享楽」である。これが一貫してきちんと描かれていたからこのアニメは面白かった。
例えば、1話は有原と河北が野崎と宇喜多を野球部に勧誘する話だった。最初は乗り気ではなかった二人が入部を決めた理由は本当に野球が楽しかったからだ。何らかの目的に共感したりコミュニティに加担するのではなく、有原が楽しさを伝えるのに成功したことで生まれた純粋な享楽がそこにある。それは有原がそれなりに努力した結果でもあり、よく見ると有原は宇喜多が活躍できるようにボールを打ち上げてからはしばらくゆっくり走ったりしている(正確に言うと、宇喜多がボールを投げたのを見てから初めてちゃんと走り始めている)。この「とりあえず楽しい」という部分を最重視する緩い価値観は東雲の加入や河北の決別失敗でも描かれ、遂には最終話まで貫徹された。

俺自身は「楽しむことが一番大事」というスポーツ道徳にありがちな価値観の支持者ではないし(どちらかというと鼻につく方だ)、その啓蒙が達成されたからという理由でハチナイを評価するわけではない。が、それが徹底されているのをアニメで見るのは意外と気持ちが良かった。現在進行形のイベントへの没入を描くに際しては、外部に設定された目的は不純物に過ぎないという側面がある。目的が無いおかげで見ていて余計な煩雑さを感じないというか、鬱陶しさが無い。
実は、この戦略はガルパンがやろうとしていたことに近い。ガルパンでも盤外事情が積極的にオミットされており、試合中に「○○との約束を守るために勝たなくちゃ」「○○を証明してみせる」みたいなことをモノローグでグダグダ言い始めるキャラがおらず、記録映画的に淡々と作戦と砲弾だけが応酬するようになっている(過去記事も参照→)。それは恐らく戦闘に意識を集中させるための方策なのだが、とはいえ、ガルパンは(便宜上のものとはいえ)「廃校の危機」という設定を作らずにはいられなかった。この達成目標は最終章では「桃ちゃんの留年の危機」というコメディ的設定に後退していることからもそれを意図的に排除しようとする姿勢が見て取れるが、それでも何かを措定しなければならないという強迫観念は取り除けていない。この意味において、ハチナイはガルパンが捨てるべくして捨てきれなかったものを完全に捨て去ってしまった上位版と言っても過言ではない。

さて、こうしたハチナイの特徴はゲームからアニメへというメディア移行の過程で偶然生じたものだ。つまり、元々のゲームではキャラクターたちは普通に目的意識を持って野球をしていたのだが、アニメ化に際してそれらを放棄せざるをえなかったという背景がある。このあたりの事情は以下の動画シリーズに詳しいので暇な人は見てほしい(現在Part5まである)。


要約すると、

・アニメでは男性主人公をオミットしたため、主人公にまつわるバックグラウンドを持つキャラクターの達成目標が失われた
・「女子の甲子園」は野球界隈ではタブーワードでありアニメでは取り上げることができないため、甲子園志向(=強い競技志向)を持つキャラクターの達成目標が失われた

という2つの偶然が重なった結果、作品全体から達成目標が失われて何となく野球を楽しむだけのアニメに変質したというのが真相である。例えば、有原は本来は「主人公と共に甲子園を目指す」という強い目的意識を持つキャラクターだったのだが、アニメでは主人公がオミットされた上に甲子園を扱うこともできないため、やむを得ず「野球好き」という部分だけを残したアニメ版有原を誕生させざるを得なかった。
とはいえ、最終的にどんなアニメが作られたのかに比べればその過程は全く重要ではないので、これは裏話程度でしかない。依然として、ハチナイは達成目標を放棄する代わりに現在形の享楽を描くことを徹底した青春アニメとして評価できる。




あとむみぃが部費を盗んだかもしれないSS書いたのでよろしく~→