LWのサイゼリヤ

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19/6/27 さらざんまいの感想

・さらざんまいの感想

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面白かったが、やや消化不良。
ピングドラムからの流れからして「つながりのコスト」について議論する作品を期待していたのだが、終盤で「そもそもつながるか否か」という段階にまで問題が後退してしまい、当初のコスト論が放置されてしまった。

「つながり」は常にコストと裏表であるという話から始めよう。
これは「漏洩します」のシークエンスで最も明らかだ。「漏洩」は敵を倒したあとに身も心もつながる「さらざんまい」に伴って必ず発生し、登場人物の秘密が繋がった全員に開示される。それは常に「知られてはいけない秘密を知られてしまった」という苦痛を伴うものだ。つながることは決して無料のベネフィットではなく、接近に伴う暴露のコストも支払わなければならないのである。

こうした「つながりのコスト」は漏洩シーンによって最も象徴的に提示される一方で、各登場人物がそれぞれ抱えている問題でもある。
まずカズキにおいては、つながりとはハルカを主とする新たな家族関係の構築を指す。この際、カズキはハルカに怪我をさせた負い目を償わなければならず、女装や猫の盗難からサッカーの断念に至るまで様々なコストを支払うことになる。しかし、これは最終的にはハルカの愛によって解消される。ハルカを含む家族はカズキの女装が発覚したところで大して気にはせず、今まで通りに家族関係を継続しようとするのだ。さらざんまいにおける愛は欲望のコスト面だけを無効化する作用を持つ。
次にトオイにおいては、つながりとは兄か友人との関係の二者択一である。どちらを選ぶにせよ、この二つは両立できないため、選ばなかった方を棄却しなければならないというコストが伴う。最終的にはトオイは精神世界において兄を銃で撃つことによって否定し、友人を選択した。カズキとは異なり、愛が介在しなかったためにコストは無効化されたわけではなく、きちんと清算されていることに注意。
最後にエンタにおいては、つながりとはカズキとの恋愛関係を指す。当初は同性愛の受け入れられ難さがコストであるような描写がなされていたが、中盤からは嫉妬心が代わりに描かれるようになる。そして、最終的にエンタのコストは解消されていない。レオに撃たれて死にかけたことで喧嘩は有耶無耶になっており、ラストシーンまで見ても決着はついていない。

こうして見ると、三人が同様に抱え込んでいた問題は三者三葉の異なる終着を見たことがわかる。
カズキにおいては、ハルカの持つ愛によってコストが解消した。トオイにおいては、コストをきちんと支払い清算した。エンタにおいては、コストは残存しており解決していない。

その一方、警官二人が持つ問題はメイン三人が抱えていた問題とはレイヤーが異なっている。
レオとマブの問題はそもそもつながっていないことにある。サイボーグ(?)化したマブとレオの心はすれ違うばかりで、お互いにきちんと相手を見ることができず、仲良く踊っている割には全く心を通わせていない。最終的にはカパゾンビと化したマブの討伐を経てつながることに成功するが、そこでのコストは爆発という象徴的かつ天下りな形でしか提示されない。彼らの主題が「つながっていない状態からつながる状態へ」という状態の移行にあることは明らかだ。
つまり、レオとマブの問題は「つながることができるか」、カズキとトオイとエンタの問題は「つながることで発生するコストに対処できるか」なのだ。後者の問題は前者を乗り越えたところにしか発生しない。この意味で、アニメ前半で扱っていた内容に比べ、警官たちの事情が前景化してくる終盤にかけての展開は、問題系が一歩後退したと言わざるを得ない。

では、何故とりわけこのアニメには三人の問題、すなわち「つながることで発生するコストに対処できるか」というテーマが求められていたのだろうか。
それはピングドラムからの流れを汲むことで明らかになる。ついでにウテナも込みで、ウテナピングドラム→さらざんまいにかけて各作品で提示された問題とソリューションを確認しておこう。

1.ウテナ
問題:大きな物語の機能不全
ソリューション:小さな物語への縮退=家族制度の発見

2.ピングドラム
問題:家族制度の機能不全
ソリューション:損失をも共有する家族像=密接につながる共犯関係

3.さらざんまい
問題:つながりに伴うコストの発生
ソリューション:?

まず、ピングドラムで扱われた問題はウテナにおいてソリューションだったはずの家族制度が機能不全を起こしたことに端を発している。つまりウテナでの回答を「本当か?」と改めて問い直し、議論を前進させていたのだ。であれば、さらざんまいにも同様の期待がかけられるのはやむをえない。すなわち、ピングドラムにおいてソリューションだったはずの家族像が改めて問題として問い直されることが。

ピングドラムについて復習しておこう。
ピングドラムでは、問題の象徴的な噴出点である「ヒマリの病気」をどうやって治療するのかが最終的な論点であった。これに対して、主人公二人が運命日記を用いてヒマリの代わりにコストの支払いを肩代わりすることで問題を解決した。この際に描かれている「損失をも共有する家族像」はさらざんまいにおける「つながり」と同型のものとみなせる。何でも共有できる関係、隠し事なしの関係だ。
しかし、実際のところ、こうした密接な関係には暴露のコストが裏表で存在しているとしたらどうだろう。ピングドラムからの八年間でSNSが普及した今、今度は「共有」というソリューションの裏面を問い直すべきではないのか。この問題意識は漏洩シーンに象徴され、さらざんまいにはこの意味での議論の前進が期待されていた。

既に述べた通り、この主題はアニメ後半にかけてやや後退してしまったのだが、こうした視点から改めてメイン三人の展開を見直してみよう。改めて書くと、カズキとトオイとエンタの結末はそれぞれ異なり、画一的なソリューションは提示されていない。
この中で、最もソリューションに近いものを提示したのはカズキだろう。ハルカはカズキの女装を気にしない、「愛があれば漏洩しても大丈夫」というのが彼の辿り着いた結末である。この観点はピングドラムには存在しなかったもので、ある程度は新規性のあるソリューションとして受け入れることができる。
次に、トオイは「コストをきちんと支払う」という結末に辿り着いた。これはピングドラムで言うとタブキとユリが至った結論であり、既出の現状維持的な回答と言える。
最後に、エンタは問題が継続している。これは単に尺的に消化できなかったのではなく、「この問題は常に解決できるものではない」という意図性を持って提示されたものだと感じる。最終話の未来を描くシークエンスでサッカーをしながらなお様々ないさかいが発生していたことがその根拠だ。「つながりたい『けど』」という逆接に象徴されるコストは未来においても完全に消えることはなく、常に残り続ける。そうした不可能性を示しておいたというところに、エンタの問題が解決しなかったことにも一定の意味を見て取ることができる。
以上、カズキとトオイとエンタはそれぞれ、愛(一応のソリューション)、清算(既出回答)、残存(未解決)という三者に対応していることがわかる。

愛が完璧なソリューションとして全面的に肯定されているわけではないことには注意が必要だ。
三人のうち一人しか愛による救済を受けていないのもそうだし、愛と対になる欲望は否定されたわけではない(それどころか称揚されている)。最終回でもレオとマブによる「欲望を手放すな」というメッセージは依然として有効であり、問題が単純な愛と欲望の二者択一ではないことを表している。愛とは部分的な回答では有り得るが、画一的なソリューションではないのだ。
結末を振り分けて回答を明示しなかったことは中途半端な解決に留まったという批判を誘発しうるが、個人的には誠実な妥協であったと肯定的に評価したいと思っている。ハルカというキャラクターは極めてアニメ的というか、あまりにも都合が良く、「こういう人がいたらいいよね」という架空の存在であるという印象を受ける。ハルカ的な葛藤のないものがダストシュートのように問題を回収していくよりは、問題をはっきりと提示して畳まないことに評価を与えたい。解決方法は人それぞれなのだ。