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22/10/3 リコリス・リコイル大反省会 申し訳ないけどちさたきは浅い

リコリコ大反省会

リコリコを全話見た。久しぶりにちゃんとリアルタイムで1クールアニメを見て、お題箱にもぼちぼちリコリコ絡みの投稿が来ている。

全体的にはライトな美少女アニメとして概ね飽きずに楽しく見られて面白かった。この手のアニメは「5話くらいまではキャラ紹介回とかコメディ回をやってるからかなり面白いが、7話あたりから最終話に向かう準備作業でつまらない地味パートが増えて失速する」という経過を辿ることが多く、そのあたり概ね耐えていたのが偉い。

 

千束を生み出した功績はでかい(あとクルミたそ萌え)

特に美少女主人公・千束の造形はかなりよく出来ていたと思う。

飄々としてるけど実はかなりリアリスト」みたいな美形キャラは時代問わずいつでも人気だが、その描き方が上手かった。

千束も一見パッパラパーに見えてシリアスなシーンでは自分の意見をはっきり述べたり相手によっては強い当たりも見せたりするキャラだが、発言内容に関わらず軽薄な言動のトーンが一貫しているのが良かった。言い換えると、「シリアスなシーンでは喋り方も真面目なトーンになってキリっとする」という安直な描き方に逃げていないのがとても良かった。

千束が持つ独特な空気感は、台詞の単語選びに加えて喋り方の音声に因るところがかなり大きい。音の伸ばし方や間の取り方によって彼女のおちゃらけたイメージが構成されていて、シリアスorネガティブ寄りの発言をするシーンでも概ねその調子が維持されている。千束が砕けた空気を保ち続けることのポジション上での整合性は、最終的には真島との比較の中で「大きな世界を無視して意識的にマイペースな日常を送ろうとしているから」と明示され、キャラとしても筋が通る。

総じて口調の強度が千束をワンランク上の戦闘美少女主人公にしており、最初は「安直な百合キャラだな~」と思っていたが、回を重ねるごとに表面的な軽薄さが却って根本的な行動原理のブレなさを担保していることがわかってきて腑に落ちる思いだった。こういう描かれ方のキャラは昼行灯のおっさんキャラにはたまにいるが、美少女キャラではなかなか新鮮な気がする(頑張って思い出せば他にもいたかもしれないけど)。

あとこっちは特に理由のない100%趣味だが、アバウトに情報関係のことを全部やってくれる便利キャラであるところのクルミはめっちゃ萌えだった。

一線を超えて賢いロリキャラがかなり性癖なので、クルミが画面に映ったら概ね満足できるのが萌えアニメの強み(他に何があろうと好みの萌えキャラが出ることで一定の満足度が保証される萌えキャラ最低保証)。最後まで年齢不詳だったが、俺は別にクルミが10代でも30代でもいい。

 

私はちさたきアンチです

そういう千束の魅力が最も引き出されるのは真島と絡んだときだ。

千束のマイペース思想とはっきり対立するポジションに配置されているキャラは明らかにバランス思想の真島なので、千束が持ち前の軽いトーンと振る舞いを携えて他人と衝突することでワンランク上の美少女主人公としての片鱗を見せるシーンは、だいたい全部真島との会話シーンになってしまうのである。

それがはっきり示されたのが八話のセーフハウス襲撃シーンで、そこで後半戦に向けて一旦ポジショニングがリセットされた。八話まではいかにも真島がラスボスっぽい悪者オーラを出していたが、少なくとも千束にとっては真島を倒せば一件落着というような単純な話ではないし別に不倶戴天の仇でもないことが初めて提示され、最終的に千束が取るべきポジションに向かって微妙な対立関係がドライブし始める。

翻って、俺はたきなというキャラとちさたきというカップリングの運用には大きな不満がある。

リコリコファンの99%を敵に回すことを承知で言えば、俺は「ちさたき」アンチであり、代わりに「ちさまじ」のヘテロカップリングを推さざるを得ない。俺は基本的にはクソ浅い百合萌え豚なので、これは百作品に一度あるかないかの珍しい裏切りである。

とはいえお題箱にも「たきな微妙じゃね?」みたいな投稿は複数来ており、俺もそう思う。

470.リコリスリコイル、たきなが中盤でリコリコ(というか千束)に居場所を見つけるシーンをやったせいで関係性的な盛り上がりも消化しきっちゃった感があったんですけどどうですか

471.リコリスリコイルについてです。個人的には概ね満足といって差し支えない出来でしたが、ただ一点たきなが千束のバディとして役者不足ではなかったかという点が自分としては気になりました。
たきなから千束へは太い矢印が向いているのに対して千束からたきなへはそうではないですし、本編でのたきなの物語が占める割合も千束のそれと比べると明らかに小さいです。
ツイートでも少々触れていましたがその辺りについてより詳しくお聞きしたいです。(それとよくリコリコはガバガバという感想を見かけるのでそれについても何かあればお聞きしたいです。)

完全に同意するので改めて付け加えることもあまりないが、たきなが当初に持っていた「DAに復帰する」という目的意識は4話くらいで喫茶リコリコに居場所を見つけたことで概ね消滅してしまい、それ以降は漠然と千束の味方をすることに終始する。SNSやpixivを盛り上げる以上にプロット上で果たす役割が薄かった。

補足426:第十一話のタワー戦で千束と真島が戦ってるところに割り込んでくるたきなは完全に横から割って入ってくる厄介オタクだったので、最終回できちんと二人の戦いを仕切り直してたきなが救出以上に介入することを避けつつ千束のテーマを処理したのは感心した。わざわざそこまでやるならやっぱりたきな要らなくない?

最終話を踏まえて強いて言えば、「千束が愛する日常の象徴がたきな」という読みが最も穏当ではある。が、それも喫茶リコリコの客とかと並置される程度のものでしかないし最悪たきながいなくても成立する。少なくとも真島との関係よりはストーリー上の重要度が低い。

これはバディ百合を推しておきながらストーリー上で明確な役割を与えることができなかったというキャラ運用の問題だ。この内容で百合アニメをやるなら真島を美少女にして本命を敵対百合カップリングにすべきだったし、逆に何故かそうしなかったのは千束-たきなのラインにフルコミットしようという判断だろうが、それならそれでもっと上手くやってほしかった。

先にも触れたように千束のキャラクターとしてのテーマと最終話での選択は明らかに真島との関係の中で浮かび上がるように構築されているし、更に言えば、ガバガバ脚本をポジティブに解釈する上でキーになるのもやはり千束-たきなではなく千束-真島のラインだということを今から書く。

どう考えても素直にちさまじ派になっておいた方が、つまりリコリコは千束とたきなの物語ではなく千束と真島の物語だと理解した方が得られるものが多かったので、断腸の思いで今回は百合好きの皆さんを裏切ることになった。申し訳ないけど、ちさたきは浅い。

 

さすがに脚本ガバガバすぎでしょ~

無限に言われている「リコリコはお話としてあまりにも適当すぎる」という件については、誰の目から見てもあまりにも明らかすぎて異論がある人もいないと思うので、今更「ガバガバだったか否か」を検証する語りにはあまり意味がない(結論:ガバガバだった)。ガバガバということはもう前提として、「特に注目するガバガバさを挙げるならどこか」「脚本がガバガバという事実をどう解釈するか」というような話をした方がまだましだ。

百歩譲って街中では女子高生の制服が迷彩になったとして、そのまま廃墟とかビルでも活動してたら逆に浮くだろ」とか「物資の補給とか設備の維持でDAと関わっている人はいくらでもいるはずで、存在を完全に隠蔽できるわけないだろ」とか設定レベルのことを突っ込み始めるとキリがないが、個人的に一番気になったのはミクロな行動のロジックがあまりにも稚拙なことだった。なんか台詞なり設定なりガジェットなりをひと手間加えれば違和感のない進行にできそうなところを、何故かその手間を惜しんで無茶で不自然な流れにしてしまう。

一番ヤバかったのは6話と12話だが、「1話冒頭の感じから想定されるハードさに対して実際のストーリーは随分とゆるゆるだな」ということは2話あたりからもう既に感じていた。

「護衛対象をスーツケースに詰めた上に護衛チームにはそれを伝えない」という作戦があまりにも意味不明すぎて何らかの伏線かと思っていたのだが、結局設定レベルでは回収されないまま終わってしまった。ウォールナットの機密が詰まったスーツケースならそれ自体が狙われるだろうし、千束はいかにも「人命最優先、最悪スーツケースは失ってもいいから着ぐるみを死守する」という判断をしそうなものだ。そもそもクルミをスーツケースに入れておく必要は別になくない?

 

ガバガバ脚本を救いたい

ただいくらお話が雑だったからと言って、全てが破綻していたとは全然思わない。

色々と適当なところはありつつも肝要なところは概ねきっちり作られており、5ミリくらいだけ瞼を開けて薄目で見ればかなりの良アニメだと思う。マクロな世界設定もミクロな行動判断もおかしいが、その中間くらいの粒度で見れば概ね筋が通っている。具体的に言えば、「細かい不整合を無視した個々の単発のお話」や「細かい判断ミスを無視したキャラそれぞれの行動原理」は満足のいくレベルで描写されていたと思う。

例えば「真島のバランス思想」は「マクロには、そもそも現状で隠蔽が成立している理由が謎なので真島が何を頑張れば目的が達成されるのかよくわからない」「ミクロには、銃を街にバラ撒けば混乱した市民が撃ち始めるという作戦の前提が意味不明」という大小の難点は諸々あるものの、「権力のバランスを取るためには隠蔽されているものを開示する必要がある」という彼の考え方は理解可能な形で提示されており、そこを起点にして色々と頑張っている彼のキャラストーリー自体は問題なく成立している。

むしろこの「大小の整合が取れていないが、話そのものが意味不明なわけではないし、好意的に見ればやりたいことは問題なく理解できる」という絶妙な粗さが良い効果を生んでいたと強弁することはそこまで難しくない。

補足427:恐らくガバガバ脚本を認めた上でリコリコを評価する最大勢力は「リコリコは脚本がガバガバなのが玉に瑕だけど百合要素とか他の部分は面白かったから総合的には良アニメだった」という相殺説だが、それは最後の手段に取っておきたい。というのも、その立場は脚本がガバガバだったこと自体は完全なマイナスだと認めてしまっている点が生産的ではないからだ。せっかく少なくない時間を費やして13週も見たので、もうちょっとポジティブにガバガバ脚本を擁護する道を探しておいてもいい。

まず消極的にガバガバ脚本を容認する動機として、「脚本がガバガバな方が最も素朴な意味で見ていて面白い」というのが一つある。

例えば6話では「ボスの名前を本名で呼んで囃して楽しんでる無能モブの声から敵ボスの名前が判明する」という、チンピラたちのコンプラ不備によって真島に捜査の手が伸びる謎の流れが披露されたが、もうちょっとまともなアニメならたぶん真島の名前に繋がる情報的なアクセス経路とそれを開くパスワード的なガジェットを用意しておいて、千束がボコられつつもそれを奪取していたみたいな流れになるかもしれない。

ただ、そこだけカッチリしたところで「なんか子供向けの攻殻機動隊みたいな回だったな」とか言われるのが精々だろうし、「ガバガバで草」の「草」は生まれない。どうせどっちでも大局的に見て「千束と真島が接触しつつ真島の情報を得る」というログラインは達成できる。小説とかでそれをやられると真面目に読むのがバカらしくなってそのまま捨てる可能性が高いが、どうせ萌えアニメだしリアリティを犠牲にすることで「度を越したバカが敵陣営のモブにいたことをクルミがドヤ顔で報告してくる」というシークエンスを制作できるのであれば、そのリターンは十分に見合っている(ドヤ顔のクルミは萌えなので)。

 

ガバガバ脚本を救う

そして、ちさまじ派の我々にはこのアニメのテーマに照らしてガバガバ脚本を正統かつ積極的に擁護する道も残されている。というのも、最終話で千束が真島に「世界がどうとか知らんわ~」とはっきり言っているからだ。知らんものがガバガバになることは当然である。

別に冗談で言っているわけではなく、先にもちょっと書いた通りこの台詞は千束のキャラのコアだ。延々描いてきた真島との対比の中で最終的に提示されるこのアニメの結論は「世界がどうとか知らんわ~」だと言ってしまって問題ない。

真島が要求する、権力的な整合性を保ってバランスの取れた世界を千束は明確に拒絶した。そしてそれも反体制でも親体制でもなく、「そもそもその主語の大きい議論に私はコミットしません」という形でいわばドロップしたところに千束の白眉がある。千束がDAを離れて喫茶リコリコで勝手に不殺を貫いていた精神もここに収束する。つまり世界がどうとかいうレベルの話に巻き込まれないために、殺人は避けて揉め事を身近な水準で収拾したいということだ。

よって千束が意識的に留まろうとする活動領域は半径数キロメートルの卑近な日常であり、世界全体の解像度は非常に低い。この千束のスタンスは「マクロにもミクロにもガバガバだが中くらいの粒度ではギリギリ筋が通る」というガバガバ脚本の温度感とパラレルであり得る。つまり、マクロな世界状況の整合性など千束が知ったことではないし、逆にミクロな日常も誰も管理していない適当な暮らしなので、「きちんとした脚本による完全に整合した納得のいく物語」はどちらにも馴染まない。せいぜい中程度の、好意的に見て話がわかる程度の整合性さえあればそれで十分に千束の世界は回る。

それを踏まえれば、マクロに見て世界設定があまりにも適当だったことへの一つの具体的な解釈として、例えば体制の描写自体を避ける効果があったという評価を与えることができる。体制絡みで一番笑えるシーンは第12話の「リコリスを殲滅するために旧劇みたいにリリベルとかいう特殊部隊を投入したかと思いきやクルミ渾身のバカみたいな工作によって何故か納得して帰っていくシーン」だが、これによって悪の権力体制の描写が積極的に退けられているということだ。無能ムーブをしたリリベルトップみたいなおっさんがもしきっちり物を考えて判断をする明晰な軍人だったなら、そいつが指先一つでリコリスを皆殺しにする体制的な黒幕に見えるだろうし、そうなれば千束のドロップという選択は「明確に存在するはずの悪の権力主体を倒さない、消極的に親体制的な態度」に見えてしまうだろう。その困難を避けて千束の拒絶が本当に単なるドロップであることを示すためには、ガバガバ脚本によってリリベルのおっさんをまともに取り合う必要もなさそうなレベルの無能として描くことが有効であり得る。そもそも悪の体制が本当にあったのかどうかの水準をぼやかしてしまえば、世界がどう回っているのかよくわからなくなる代わりに大きな主語というノイズも入らなくなるということだ。

そしてミクロに見て、命のやり取りをしている割にはいちいち作戦がクソ適当だったことにも一定の正当化が可能になってくる。そもそも千束のスタンスは大義ある真面目な殺し合いに臨むものではなく、活動したところで体制に与したことにならないレベルで事態を収拾する試みだった。あまり真面目に隙のない作戦を立てているとそれはそれで日常を逸脱した一つの体制的な振る舞いになってしまうわけで、おふざけレベルの作戦を扱うことで権力的なスケールの見え方を縮小する効果が見込めるだろう。

ただ、この筋でガバガバ脚本が正当化を見るのは、やはり千束-真島のラインで千束を主人公として解釈したときだ。千束-たきなのラインで百合アニメとしてリコリコを見るときではない。

結論として、俺は「脚本ガバガバだけど百合アニメとしては良かった」というちさたきを軸にして主張される相殺説を積極的に棄却し、「脚本がガバガバなこともギリギリ理解できる良い美少女主人公アニメだった」というちさまじによって擁立される擁護説を採用する。

補足428:俺は「リアリティラインがガバガバであること」と「リコリスシステムに子供を搾取する欺瞞的構造があること」を結び付ける論にはあまり意義を感じない。具体的に言えば、以下のような筋に乗るつもりはない。

anond.hatelabo.jp

つまり、年配のオタクが子供向けサブカルチャーであるところのアニメへのカウンター言論としてやたら好む、「搾取される子供」というテーマでリコリコを読むことには概ね反対の立場を取る。その見方に問題があるのは、千束を含むリコリスたちが明確に「被害者」として定位される点だ。俺は千束のドロップは左派的な反体制の立場ですらないことに加えて、ガバガバ脚本はそういう加害-被害関係自体をぼやかして失効させることによって正当化されるという立場を取ったので、その被害者の存在からスタートする旨味が俺にはない。「ぼやかされているものを剔抉するのが批評の本懐である」というお叱りの声が聞こえてきそうだが、それはやりたい人がやればよく、俺はやらない。