LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

19/8/6 遊戯王GXは過小評価されてる

・お題箱50

87.LWさんの遊城十代観が知りたい

遊城十代は好きですし、遊城十代の成長を描いた遊戯王GXも好きですよ。
いい機会なので、なぜ僕が遊戯王GXを極めて高く評価しているのかについて書こうと思います。

遊戯王GX全180話のうち、最も重要な回は佐藤先生と戦う第3期114話です。
spd-c6c45af42285b28e9c6e1e7765d51cf4
この回では以下の問答が行われます。

佐藤先生「君はこんな質問を聞いたことはないか? ゴミが落ちているのに気付いて拾わない者と、気付かずに拾わない者。さて、どっちが悪い?」

十代「そんなの気付いて拾わない奴に決まってるだろ」

佐藤先生「違うね。落ちたゴミに気づいていればいつかは拾うかもしれない。だが気付かない者には永久にゴミを拾う可能性は無い。十代くん、君こそ落ちたゴミに気づかない愚かな人間だ

十代「俺の人格、全否定かよ」

佐藤先生「君の私への仕打ちは残酷だよ。単位をとるだけの最低出席数。出席してもいつも居眠り。試験は赤点ギリギリ」

十代「そりゃ悪いと思うけどさ、何もそんなに……」

佐藤先生「重要なことさ。何故なら君の態度に感化された生徒達は、次々にやる気を失っていった」

(略)

佐藤先生「君が凡庸なデュエリストなら何も問題はないさ。だが君は三幻魔を倒した英雄だ。破滅の光から世界を救ったのも君なんだろう? この学園の生徒達は誰もが君にあこがれている。君こそがこの学園の模範となるべきだった」

十代「俺がお手本なんて冗談だろ? 俺は自分の好きなようにやるだけさ

佐藤先生「大いなる力には大いなる責任が伴う。だが君はそれに気付きもせず、無気力と自堕落さを振りまいた。君に毒されなければ、もっと多くの生徒が、その才能を伸ばせたかもしれない」

十代「そんな……」

佐藤先生「十代くん、君はもはやミカン箱の中の腐ったミカンと同じだ。だから私が取り除く」

「大いなる力には大いなる責任が伴う」というセリフが『スパイダーマン』からの引用であることは有名ですね。
スパイダーマン』においては主人公ピーターの叔父が死に際に遺す言葉です。ピーターはスパイダーマンとしての超人的な能力を習得しているにも関わらず個人的な気まぐれから強盗犯を見逃してしまい、その強盗犯は逃げた先で叔父を殺害してしまいます。このエピソードから得られる教訓は「能力があるにも関わらずそれを行使しないことは消極的な犯罪に等しい」ということです。「力がある以上は否応なくヒーローをやらなければならない」という強烈な義務感がこのオリジンによってピーター=スパイダーマンに刷り込まれることになります。

補足182:J・ジョナ・ジェイムソンはスパイダーマンのやることなすことにいちいちケチを付けて糾弾しますが、それによって「活動すればするだけ責められて傷つくとしても、報われないとしてもヒーローをやらなければならない」というスパイダーマンの強迫観念が浮き上がってくるわけですね。

補足183:ただ、アメコミにはありがちなことですが、コンテンツとしてのスパイダーマンは無数の類似エピソードの集合体であり、ユニークなオリジンは特定できません。恐らく最も有名なエピソードであるサム・ライミ版三部作のうち、1と2では義務としてのヒーロー像が追求されているためにスパイダーマンはあまり報われないヒーローなのですが、3では都合よく大団円を迎えて葛藤が消去されています(それ故に3は駄作です)。また、リブート版である『アメイジングスパイダーマン』ではこの主題はサム・ライミ版ほどは前景化していないものの同様に扱われています。

また、「大いなる力をどう使うのか」という問いは『スパイダーマン』以外でもわりとメジャーなもので、特に主人公に拡張身体として強大な力を提供するロボットアニメにこのテーマは顕著です。
例えば『エヴァンゲリオン』では突然エヴァンゲリオンを与えられた碇シンジが戦うか否か延々と葛藤します。シンジの場合は父親に認められたい承認欲求が大きいのですが、使徒を倒して皆を守るというスパイダーマンのような責任感も決して無いわけではなく、でも戦うことへの不安とか恐怖とかがロボットに乗る=大いなる力を行使する上で乗り越えるべき課題になっています(まあ、乗り越えないんですが)。
ガンダム』でも突然ガンダム機体を与えられたアムロカミーユがきちんと戦わないとブライトとかクワトロにどつかれてしまうわけで、「今は戦争なんだ」とか「僕に何かを言える権利を持つ人なんていやしませんよ」とか口先ではゴチャゴチャ言いながらも頑張ってパイロットとして活躍することを引き受けるというのが大いなる責任の履行に該当するわけですね。

しかし、遊戯王GXにおいて発された「大いなる力には大いなる責任が伴う」というセリフは、以上の『スパイダーマン』『エヴァ』『ガンダム』等とは異なる文脈で理解しなければなりません。
何故なら、第3期114話の時点で遊城十代は既に自身の能力を発揮して世界を二回も救っており(第1期のセブンスターズ編と第2期の光の結社編)、その意味では自分の力に伴う責任をしっかりと果たしているはずだからです。佐藤先生もその功績は認めており、十代のことを「英雄」と表現しています。
十代が抱える問題は大いなる力を発揮した後の段階にこそあります。佐藤先生曰く、英雄としての十代が無自覚に周囲を感化して悪影響を及ぼすことが責任の放棄に該当します。つまり、十代が果たすべき責任は「周囲の生徒から憧れられている」という事後的な事態に対するものであるわけです。
スパイダーマン』と比べると、責任が発生するタイミングが異なることがわかりますね。スパイダーマンの場合は今まさに大いなる力を行使する段階における責任が問われているのに対し、十代の場合は大いなる力を行使したあとの責任が問われています。十代はスパイダーマン的文脈ではきちんと責任を果たしているヒーローなのに、それにも関わらず更に次の責任が追及されているという意味で、十代の問題系はスパイダーマンの問題系の一歩先にいると言えるでしょう。それだけではなく、表面的にはきちんと責務を果たしているはずのいわゆる英雄やヒーロー全般に対する問題提起として理解できます。

「十代が周囲を感化してしまう」というコミュニティ単位での問題意識は、元々は第2期の光の結社編から引き継いだものです。
光の結社編では、万丈目や天上院が敵組織である光の結社に洗脳されて構成員として取り込まれていました。敵が敵組織として完結していた第1期のセブン・スターズ編とは異なり、第2期では敵・味方の境界が崩れて「誰がデュエルアカデミア生徒集団の主導権を握るのか」という動員ゲーム状況が描かれていたわけですね。
「生徒の奪い合い」という観点から見ると、斎王に支配されていたデュエルアカデミアの生徒たちを十代が解放したのではなく、実はデュエルアカデミア生徒の支配権が十代に移譲されただけとも考えられます。「英雄として憧れられる」という形で無自覚のうちに生徒を掌握するポジションに立ってしまった十代の立ち位置は斎王とそう変わるものではありません。つまり、コミュニティレベルで見れば第2期で描かれた問題は実は全く解決しておらず、第114話でそれが改めて問われたという見方が可能です。

では、十代は生来のサボり癖のために周囲を「間違った方向」に感化してしまうのが問題であって、彼が品行方正な模範生徒として「正しい方向」に集団を導いていけば良いのかと言うと、話はそう簡単ではありません。実際、遊戯王GXは明らかに十代の成長物語であるにも関わらず、十代が他の生徒を導く品行方正な英雄になったことは最終回に至るまで一度もありませんでした。
結論を先取りして言えば、集団を導く方向性について問われているのではなく、たとえ英雄としてであれ、そもそも集団を無自覚に動員してしまっていること自体が問題だからです。
この問題意識が読み取れるエピソードは二つあります。

一つは第135話における仲間たちの離脱です。
十代は第3期中盤で異世界に残ったヨハンを救出するために一人空回り気味に奔走し、その過程で仲間を省みなくなったことによって仲間たちから見限られてしまいます。
ここでのポイントは、「十代の行動にはそれほど問題がなかった」という点です。十代はヨハンを救うために一生懸命だっただけであり、他の友人たちに対しては良くも悪くもあまり干渉していません。十代が仲間に対して八つ当たりをしたりカードを奪ったりしたことは特にないですし、いわんや佐藤先生が言うように「無気力さと自堕落さを振りまいた」ことなど全くないでしょう。どちらかといえば、勝手に付いてきた連中が勝手に十代を見限ったように感じます。仲間たちの疑心暗鬼は邪心教典によってかなり無理やり作られているような印象も受けますが、そうしなければ十代は悪くないのに仲間たちが離脱していくという過程が描けなかったのかもしれません。
つまり、第135話は十代が道徳的違反を犯していないにも関わらず、何故か仲間たちが離脱していく過程です。無自覚な動員は悪い方向に集団を感化するから良くないのではなく、勝手な幻滅によって瓦解していくような寄る辺なきものであるということです。

もう一つは、覇王十代の活動です。
まず最初に注目したいのは、覇王十代の目的が空虚であることです。覇王十代は「異世界を力で支配する」という行動原理の下で動いているらしいのですが、これはブロンが突然言い出したことであり、何故十代が異世界を力で支配しなければならないのかは冷静に考えるとよくわかりません。元々の十代の目的はヨハンを救うことですし、覇王化直前にブチ切れて叫んでいたのも「ブロンをぶっ殺す」ということで、例えば「ブロンへの憎しみからモンスターを根絶やしにする」あたりの方が闇堕ちの行動としては妥当なような気がします。しかし、実態はむしろ逆で、モンスターたちの先導者として、ある意味ではモンスターの仲間という立ち位置に落ち着いています。覇王化した十代が一見すると筋の通らない行動を取るのは何故なのか?
これは覇王十代とは十代の課題が極まった存在だからです。十代の抱える問題が「英雄としてデュエルアカデミアの生徒を無自覚に動員してしまう無責任さ」であることは何度も指摘した通りであり、覇王十代も全く同じ問題を改めて提示します。焦点は一貫して動員にあり、使役する具体的な対象がデュエルアカデミア生徒からモンスター軍に移っただけです。つまり、覇王十代が抱える問題は「英雄としてモンスター軍を意味もなく動員してしまう無責任さ」です。十代にとって異世界の支配などどうでもいいことであるというのが実はポイントになっていて、「目的が伴っていない」という点で十代と覇王十代の行動は同じくらい無責任です。
よって、ここでも「異世界を支配する」という方向性の良し悪しは問題ではありません(実際、「異世界を支配するなんて悪いことだ」というセリフを発するキャラはいません)。覇王十代が心の闇の人格なのは、元々十代の課題であった、目的もないのに集団を動員してしまう無責任さを抽出した存在だからです。

以上のような問題に対する回答は第3期ラスボスのユベル戦において示されます。というより、元々ユベルというキャラクターがここまでの問題意識を清算する合目的的なキャラクターであったと言う方が正確です。
ユベル遊戯王GXの中でも最も個人的な行動原理を持つキャラクターです。いわゆるヤンデレであり、十代のことだけを延々と喋っていて他のことは一切眼中にありません。よって、十代がユベルと向き合うためには否応なく彼女と個人的な関係を結ばざるを得ません。その極致が「前世からの主従関係」という本当に突然挿入された謎設定で、十代とユベルの結びつきを最も強く提示したものとして理解できます。
十代とユベルの間にある濃密な関係が十代の問題点を反転させたものであることは明らかです。英雄視されることでデュエルアカデミアの生徒たちに影響を及ぼしてしまうという「一般大衆への無自覚さ」が十代の無責任さだったとすれば、これを反転させた責任履行とはすなわち「一個人への自覚」に他なりません。十代が自らの問題を解決して前に進むためには、ユベルの暴走を第1期や第2期のように世界の危機として公的に処理してはいけないのです。何故なら、そうやって世界を防衛することは十代の更なる英雄視を招くだけだからです。そうではなくて、どこまでも自分一人の問題として私的にユベルという脅威に相対することが集団を動員せずに「責任を持って」事態を収拾する唯一の手段です。

改めて整理すると、十代の抱える問題とは、たとえ英雄としてであれ、集団を無自覚に動員してしまう無責任さにあるのでした。佐藤先生との問答を聞いた時点では「十代は良い方向に生徒を導く規範になっていくのかな」と思ってしまいそうなものですが、問題の本質は方向性ではないということは確認した通りです。英雄として目的もなく集団に影響してしまうこと自体が無責任なのです。
この意味は重大です。何故なら、一般的には主人公が世界を救うなりして周囲から英雄として称賛を浴びる段階を理想的なハッピーエンドとみなす作品が圧倒的多数だからです。例を挙げるまでもなく、そんな最終回を迎える作品を一つや二つは思いつくはずです。ところが、遊戯王GXは第2期までを通じてそうした「ハッピーエンド」を構築した上で第3期でそれを自ら否定し、無自覚的動員を先導者の無責任さの表れとして告発しています。この告発は覇王十代絡みのエピソードを通じて再確認され、ラスボスのユベル戦で「徹底して事態を私的に引き受ける」という新たなヒーロー像を提示しました。

以上、遊戯王GXは問題提起から回答の提示まで一貫して優れており、極めて高い評価に値するということで終わります。